日本国有鉄道三河島事故後の労使一体による事故防止委員会の設置
安全は団体交渉の外に置けるか——監査報告が労働組合を名指しした事故のあとで
- 概要
- 1962年5月3日の三河島事故(死者160人・負傷者296人)を受け、日本国有鉄道が団体交渉とは別に労使一体で事故防止策を検討する委員会を5月23日に設置した経営判断。国鉄監査委員会の特別監査報告は、事故防止に必要な考査・訓練・審査が拒否闘争の結果として順次廃止あるいは簡略されてきたと指摘していた。
- 背景
- 東海道本線は1957年に東京・新橋間で片道210本が走り、国電区間は10両連結・2分10秒間隔の運転に達していた。営業軌道延長がほとんど伸びないまま輸送量だけが増え、要員削減を含む合理化計画をめぐる労使の闘争も続いていた。
- 内容
- 事故防止は労使関係以前の問題であるとして、団体交渉ではない検討の場を各組合に提案した。毎月1回の定例開催とし、意見の一致をみた事項はすみやかに実施するよう双方が努める取り決めであった。
- 含意
- 動労は4か月後の全国大会の決定で委員会から脱退し、以後の委員会は組合ごとに開かれた。設備の側ではATSの取りつけが1966年までに全区間で完成した一方、事故を機に強まった批判は東海道新幹線の予算要求にも及んだ。
誰も反対できない主題を、どこに置いたか
安全という主題には、労使のどちらからも正面から反対できない。国鉄が事故防止委員会を団体交渉の外に置いたのは、その一点でなら組合と同席できると見たためだとみられる。ただし監査報告が労働組合との関連を原因の一つに挙げた同じ時期、東京・新橋間には片道210本の列車が走り、国電区間は2分10秒間隔で運転されていた。訓練と考査を欠いた要員が、限界点に近いダイヤを担っていたことになる。責任の所在は、どちらか一方には置けない。
この場は4か月しか持たなかった。動労は9月の全国大会で、国労と同席して運転保安を議するのは不当だとして脱退を決め、当局と他組合の説得にも大会決定を理由に応じなかった。労使が一堂に会する場は失われ、以後の委員会は組合ごとに開かれた。安全を交渉の外に置くという設計そのものが、組合の側には交渉権の迂回と映ったのかもしれない。1968年に動労がATS闘争を新戦術に採ったとき、安全は再び争議の手段の側へ回っていた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
限界に近づいた一本の複線
東海道本線は営業キロ590kmの一本の複線でありながら、旅客輸送量の約25%、貨物輸送量の24%を担っていた。列車回数は1954年から1955年にかけて戦前の最高水準を超え、1957年には東京・新橋間で片道210本に達した。複線鉄道で片道200本を超える列車本数は限界点に近く、速度の面でも安全の確保の面でも障害が現われる水準であった。それでも本数は年々増える傾向にあった[1]。
輸送需要の伸びに対して、線路そのものはほとんど増えなかった。1955年から1964年にかけて国鉄の営業軌道延長の増加はわずか4%にとどまり、同じ期間に貨物の輸送力はトンキロで約40%増加した。差を埋めたのは電化とディーゼル化、電車や機関車の改良であり、国鉄は列車本数の増加とスピード化、牽引力の増強で需要の急増を受け止めた。基本施設の不足は先送りされたまま残った[2]。
超高密度ダイヤと、合理化をめぐる闘争
大都市の輸送も同じ事情にあった。1950年代を通じて関東と近畿の臨海部に人口が集まり、通勤の混雑は定員の三倍に近い路線を生んだ。国鉄は列車を増発して超高密度のダイヤを組み、国電区間では10両連結・2分10秒間隔という運転を実施した。日本産業史は当時の国鉄について、軽業師のようなダイヤを組み、世界に比をみない高能率で車両を回転させていると記している[3]。
輸送力の増強と並んで進んでいたのが合理化計画であった。国鉄は1957年に第1次5か年計画へ着手し、1961年度からは第2次5か年計画へ移った。車両の検修や施設の保安改善によって1965年度までに約3万人の要員を生み出し、配置転換と新規採用の手控えで全体を45万人以下に抑える計画であった。国労と動労は要員削減と労働強化にあくまで反対する方針を1961年の定期大会で決め、反復ストライキを含む闘争は翌1962年も活発に続いた[4]。
決断
三河島駅の二重衝突と、特別監査
1962年5月3日、常磐線三河島駅で貨物列車が脱線して下り本線を支障し、下り電車がこれに衝突して上り本線を支障した。そこへ上り電車が衝突して脱線し、2両が築堤下に転落した。死者160人・負傷者296人を出す事故であった。国鉄は部内に運転事故防止対策委員会を設け、事故防止の対策を立てることが求められた。当時の総裁は、東海道新幹線の建設を進めていた十河信二氏であった[5]。
国鉄監査委員会は三河島事故の特別監査を行なった。その報告書は、指導と訓練が十分に行なわれなかった理由の大きな原因の一つとして、労働組合との関連を考えざるを得ないと述べた。事故防止に必要な考査・訓練・審査・表彰・競技会が、数次にわたる拒否闘争の結果として順次廃止あるいは簡略されてきたことを指摘したうえで、労働組合としても事故防止に積極的に協力することが社会的義務であるとの自覚を持つことを強く要望した[6]。
団体交渉の外に置かれた委員会
国鉄は、事故防止は労使関係以前の問題であるとして、団体交渉とは別の場を各組合に提案した。労使が一体となって事故防止策を検討し実施する委員会をつくるというもので、5月23日に当局側と各組合の代表者との間で設置の意見が一致した。委員会は事故の重大性にかんがみて設けられ、毎月1回の定例開催とし、意見の一致をみた事項はすみやかに実施するよう双方が努める取り決めであった[7]。
事故の原因を組合の拒否闘争だけに求める見方は、当時から成り立ちにくかった。1962年の国鉄は営業軌道延長をほとんど伸ばせないまま輸送量の増加を受け止めており、都市部では2分10秒間隔の運転を組むところまで来ていた。日本産業史は三河島事故と翌年の鶴見事故について、これらも無理なダイヤ編成が遠因であったと考えられようと記している。監査報告が指した訓練と考査の不足も、この超過密ダイヤという条件の上に置かれていた[8]。
結果
動労の脱退と、運転保安の話合い
委員会は精力的に開かれ、当面の対策で成果をあげた。ところが動労は、1962年9月18日から開かれた第12回全国大会で運転保安対策をめぐる議論が紛糾し、国労その他と同席で運転保安を議するのは不当であるとして本部提案を否決した。大会は保安対策の諸要求を出して団体交渉で解決をはかる方針を決め、訓練の強化と個人テストを阻止する体制を強めることとあわせて、事故防止委員会からの脱退を決定した[9]。
当局と他組合は再三にわたって脱退を思い止まらせようとしたが、動労は大会決定であるという理由で応じなかった。以後の委員会は各組合ごとに開かれ、関係者が一堂に会する場は失われた。動労とは話し合いの末、12月13日から運転保安の話合いと呼ぶ意見交換に改めて再開した。安全を団体交渉の外に置く設計は長くは持たず、1968年の1人乗務をめぐる交渉では、動労がATSの警報が表示されるたびに停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採用した[10][11]。
ATSの全線整備と、批判が向かった先
設備の側では対策が進んだ。三河島事故を契機として列車自動停止装置(ATS)の取りつけ工事が全国いっせいに行なわれ、保安対策は全国鉄で統一された形をとって1966年までに全区間で完成した。踏切の整備と立体交差化、青函連絡船の取替えも保安対策の観点から計画が修正され強化された。それでも1963年11月には鶴見事故が起き、空前の惨事と呼ばれる事故が2年続いた[12]。
批判は東海道新幹線の予算にも及んだ。他の線区の改良をなおざりにして東海道線の改良を行なうのは利用者の利益を無視するという非難が強まり、この時期に工事費を増額すればかえって工事への反対を強めるという判断から、1962年度補正と1963年度の予算要求は総額2926億円のわくを動かさずに提出された。1965年から始まる第3次長期計画では大都市の通勤・通学輸送に本腰が入り、中央線三鷹-中野間の複々線化と、東北本線・上越線などの複線化が計画に載った[13][14]。
- 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
- 日本産業史 第2巻 情報・通信・サービス(日本経済新聞社、1994年)「交通・通信-需要に追いつかぬ施設」
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和37年度