資本自由化に備えたマルA対策——品質一点集中でキャタピラーに対抗
世界最大のキャタピラーの上陸を前に、河合良成社長はなぜ弱点の品質だけに全社を賭けたか
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- 概要
- 1961年、世界最大のキャタピラーが新三菱重工との合弁で日本上陸を進めるなか、小松製作所が唯一の弱点だったブルドーザーの品質へ経営資源を集中し、全社的な品質管理でキャタピラー製品に並ぶ水準をめざしたマルA対策。専務取締役の河合良一を責任者に、河合良成社長のもとで全社を挙げて進めた品質防衛の判断である。
- 背景
- 1960年の貿易為替自由化で機械類の輸入自由化が進み、資本自由化も日程にのぼった。世界のブルドーザー市場の5割超を占めるキャタピラーが新三菱重工と合弁で上陸を図る一方、小松製作所は販売網と生産力では劣らず、信頼性・耐久性の品質だけがキャタピラー製品に及ばなかった。
- 内容
- 1961年8月にマルA対策本部を設け、ユーザー批判会で182項目、クレーム解析と稼働調査で1657カ所の問題点を洗い出し、全部品の約8割を改良した。統計的品質管理にとどまらない総合的品質管理を全社へ導入し、自主開発の方針を曲げて米カミンズ社のエンジンも搭載。保証期間を300時間から600時間へ延ばした。
- 含意
- 正面から総合力を競うのでなく、相手に最も近づける論点を品質の一点に絞った戦略設計が特徴である。外圧を守りでなく鍛え直しの機会に転じたこの対策は、のちの油圧ショベル参入や輸出主導の成長を支える品質の土台にもなった。
論点を絞るという戦略設計
この判断の核心は、巨大な競争相手を前にして、勝負の論点を一つに絞り込んだところにある。世界最大のキャタピラーが上陸しても、小松製作所は販売網と生産力では引けを取らず、劣っていたのは品質の信頼性と耐久性だけであった。経営はそこを冷静に見極め、限られた資本と人を品質の一点へ集めた。ユーザー批判会や稼働調査で弱点を主観でなく数え上げ、統計と全社的な管理で潰し、必要とあれば自前主義を捨ててカミンズのエンジンまで迎え入れる——正面から総合力を競うのでなく、相手に一番近づける論点を選び抜いた設計が、この対策を支えていたとみることができる。
外圧を守りではなく、鍛え直しの機会として使った点も見過ごせない。資本自由化という制度の変化は、本来なら国内メーカーを守る壁が崩れる脅威であったが、小松製作所はこれを品質文化を全社へ根づかせる圧力へ転じ、のちの油圧ショベルや輸出主導の成長へつなげていった。もっとも、論点を絞る戦略が常に効くとは限らず、弱点が一つに見えていたこと、そして販売網という守るべき優位を先に持っていたことが前提にあった。限られた資本で巨大企業と向き合うとき、どこに資源を集めれば勝負になるのか——マルA対策は、その問いに一つの答えを示した事例として、いまも読み解く価値があるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
資本自由化とキャタピラーの日本上陸
1960年、日本政府は貿易と為替の自由化を早急に拡大する方針を打ち出し、機械類の輸入自由化が進んだ。小松製作所に関わりの深い建設機械や農業機械、プレスも輸入制限の撤廃が相次ぎ、ブルドーザーは1964年1月までに全機種の輸入が自由化された。これと並行して資本の自由化も日程にのぼり、日本経済の開放と国際化が急速に進んでいった。公共土木や民間建設投資の伸びを映して成長産業の先端を走っていた建設機械の分野には、他業種からの新規参入や外国技術の導入が相次いだ[1]。
世界最大のブルドーザーメーカーである米キャタピラー・トラクタ社は、1961年春に日本への資本進出に動き始め、翌1962年6月、新三菱重工業との合弁でブルドーザー製造会社を設立すると発表した。ブルドーザーの売上高で世界の5割以上を占める巨大企業の上陸に、建設機械業界は衝撃を受けた。小松製作所はただちに通産省へ反対の意向を伝え、日立製作所や三菱日本重工業も同調したが、三菱重工三社の合併が進むと同調各社は戦線から抜けていった。小松製作所は認可反対の運動で時間をかせぎ、その間に品質を鍛え直す構えを固めた。合弁会社キャタピラー三菱の設立認可は反対運動で1963年6月まで延び、製品第一号の発売は1965年4月にずれ込んだ[2]。
唯一の弱点だった品質
キャタピラー社の製品に対抗するうえで、販売力と生産力に当面の不安はなかった。小松製作所はすでに全国120カ所の販売拠点による直販の仕組みを築き、各工場の設備増強で生産力も広げ、ブルドーザーのシェアは飛び抜けて大きかった。懸念があったのは肝心の品質、なかでも信頼性と耐久性であった。キャタピラー社のブルドーザーが5000時間までオーバーホールを要さないのに対し、小松製作所の製品は3000時間が限度といわれ、過酷な作業では故障も多発した。巨大企業に唯一劣っていたのが、この品質の一点であった[3]。
最高首脳部は、従来の製品に手直しを重ねるのではなく、全く新しい製品を開発するという決意のもとで全従業員を鼓舞した。品質の差を短い期間で詰めるのは容易でなかったが、輸入自由化は避けがたく、キャタピラーの上陸が認められれば資本自由化も実質的に実現すると小松製作所は受け取った。この自由化に全社で立ち向かう対策が、マルA対策であった。マルAは社内のどんな重大事よりも優先する意味を込め、トランプのオールマイティのエースからとった名であり、主軸のブルドーザーを短い期間で世界一流の品質へ、さしあたってはキャタピラー製品に並ぶ水準へ引き上げるためのプロジェクトであった[4]。
決断
マルA対策本部と網羅的な弱点調査
マルA対策は1961年8月、専務取締役の河合良一を責任者とするマルA対策本部の設置で始まった。本部は専任の要員を1、2名にとどめ、各部門から人を集めるタスクフォースの方式をとり、各部門の立案を束ねて調整する推進役を担った。同年10月には別にマルA対策委員会を設け、全社の体制でこの対策を円滑に進めるための審議機関を置いた。判断を一部門に抱え込ませず、経営から製造、営業までを一本の目標へ束ねる仕掛けであった[5]。
対策本部はまず、キャタピラー社の製品を徹底して調べ上げた。あわせて自社のブルドーザーに対するユーザーの批判会を開くと、耐久性や整備性をめぐる問題点は182項目に達した。クレームの解析や現場での稼働調査まで重ねた結果、明らかになった問題点は1657カ所にのぼった。小松製作所はこれらを土台に、ブルドーザーの構造や材質、加工、熱処理まであらゆる分野へ対策を決め、キャタピラー製品に対抗できる品質の設計へ落とし込んでいった。弱点を主観でなく、網羅的に数え上げて潰した点にこの対策の徹底ぶりがうかがえる[6]。
総合的品質管理の導入とカミンズ提携
品質の底上げを確実にするため、小松製作所は品質管理の手法を全社へ導入した。抜き取り検査のような統計的品質管理にとどめず、経営から研究、設計、製造、営業まで各部門の活動を品質に結びつける総合的品質管理を敷き、どの部門で生じた欠陥も情報として関連部門へ送り返し、根から取り除くことをめざした。1961年9月には河合良一専務を委員長とする中央品質管理委員会を置き、翌月、河合良成社長が品質と性能の向上安定を経営全般の合理化へつなげる方針を示した。品質を検査の工程から、全社の経営課題へと引き上げた[7]。
品質への一点集中は、自前主義からの転換もともなった。トラクター以来、小松製作所は自社でエンジンを設計する道を歩んできたが、戦時中のトロ車に積んだ旧陸軍の統制型を改良した4DWエンジンは、土木作業の高度化が求める出力に応じきれなくなっていた。そこで第二次マルA対策として、米カミンズ社の高出力ディーゼルエンジンをブルドーザーへ搭載する方針を1961年11月に決めた。自主開発を建て前としてきた会社にとって外部エンジンの採用は小さくない決断であったが、勝負どころを品質と見定めた経営は自前主義にこだわらず、カミンズエンジンを川崎工場で国産化する道を選んだ[8]。
結果
スーパー車の登場と保証期間の倍増
対策の成果は、まず製品となって表れた。小松製作所は1963年3月にマルA量産試作車を仕上げ、同年9月には「スーパー」の名を冠したD50A111型などを市場へ送り出した。実験車から量産車までの対策項目は300を超え、全部品の約8割に改良が及んだ。締め付け用ボルトの材質や硬さ、ピッチにまで手を入れる細かさで、耐久性は目に見えて上がった。この成果を背に、小松製作所は従来300時間または3カ月であった保証期間を、600時間または6カ月へと倍に延ばした[9]。
エンジンの刷新は、次の一手として結実した。カミンズエンジンを積んだ第二次マルA車は「スーパーC車」と名づけられ、1964年7月からD80A18型が量産に入り、9月にはD60S13型が続いた。高出力のエンジンを得た新型はユーザーから高い評価を受け、川崎工場で国産化したカミンズエンジンには1年の保証期間が付された。品質の網羅的な洗い出しと、エンジンという心臓部の入れ替えが重なって、ブルドーザーはキャタピラー製品に対抗できる耐久性へと近づいていった[10]。
「打倒キャタピラー」の到達と次への展開
品質の防壁が固まると、経営の陣容も次の段階へ動いた。1964年7月、「打倒、キャタピラー」の願いが達せられたのを機に、河合良成社長が会長へ退き、マルA対策を率いた河合良一が新社長に就いた。小松製作所はこののち、キャタピラーに次ぐ世界第二位の総合建設機械メーカーとして、内容の充実と技術開発に努めていった。上陸してきた巨大企業に、販売網と生産力で先んじたうえ品質でも肩を並べたことで、国内市場での主導権は揺らがなかった[11]。
マルA対策は、一度きりの品質運動では終わらなかった。国内でキャタピラー製品に並んだ小松製作所は、次に世界市場を見据えたWA作戦(ワールド・エース)へと目標を上げ、輸出の拡大を掲げていった。全社を挙げた品質管理と固有技術の底上げという蓄積は、1968年の油圧ショベル参入や1970年代の輸出主導への転換を支える土台にもなった。外圧をきっかけに築いた品質の水準が、その後の海外展開を可能にする条件をかたちづくっていった[12]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 小松製作所 小松製作所五十年の歩み : 略史(小松製作所, 1971)
- 小松製作所 会社年鑑(単体業績・1961年12月期)