コマツ の歴史

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創業 1921年
母体 竹内鉱業
創業地 石川県小松市
創業
1921年5月、竹内鉱業から小松鉄工所が分離独立し、石川県小松町で株式会社小松製作所が設立された。母体は、高知県宿毛市生まれの竹内明太郎氏が遊泉寺銅山向けの鉱山機械を作るため1917年に開いた工場で、初代所長には国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている。出発時の商売は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼の二つで、翌1922年に小松電気製鋼所を譲り受け、鋳鋼の内製から機械の組立までを社内でまかなえるようにした。1931年には農林省の要請で農用トラクターを国産化し、得意の鋳鋼を多用できる製品として主軸に据える。ただし戦後、そのトラクターは占領軍のガソリン供給停止で製作できなくなり、1947年の発注白紙撤回で総生産額の6割以上を一度に失った。
決断
手元に育った蓄積の上でしか主力を替えられなかった。1947年に完成したD50から毎年のように新型ブルドーザーを投入していたため、朝鮮特需の砲弾が細ると見た1956年に大阪工場の生産を砲弾からブルドーザーへ切り替えることができた。売上高の72%を占めた砲弾を手放しても、代わりの主力はすでに育っていた。1968年には油圧ショベルへ10年遅れで参入し、自主開発の頓挫を米ビサイラス・エリー社との提携で補って総合建設機械メーカーへ進む。対して1993年に決めたシリコンウエハーへの集中投資は蓄積のない領域への進出で、コマツ電子金属への1300億円超の設備投資が半導体不況と重なり、1999年3月期に連結決算の導入以来初の赤字を招いた。
現況
現在の稼ぎは国内の建設現場ではなく、海外の鉱山と工事現場にある。2025年3月期の売上高4兆1,044億円は、建設機械・車両が3兆7,875億円で92%、産業機械他が2,207億円、リテールファイナンスが962億円という構成で、建設機械・車両事業の日本以外の売上高比率は91%に達する。ここまでの道筋は二つで、一つは2001年に始めた固定費を一度に削減するダントツ経営、もう一つは米ジョイ・グローバルを約3,000億円で買収して超大型の露天掘りと坑内掘りという空白を埋めたことである。固定費の圧縮と鉱山機械のフルライン化が重なり、2024年度の営業利益率16.0%・ROE14.2%まで収益性を押し上げた。
競合
競争は製品の優劣より、顧客へ届く販売網の広さで決まってきた。1961年に世界最大手のキャタピラーが新三菱重工との合弁で日本へ上陸したとき、小松製作所は販売網と生産力では劣らず、唯一の弱点が品質だと見て品質の一点へ全社を集中させた。1963年のD50Aでクレームは従来の5分の1に減り、国内シェア60〜65%を守り抜いた。油圧ショベルでも10年遅れの後発が1976年に国内首位へ立ったが、効いたのは製品の性能ではなく、ブルドーザーと顧客層が重なる650カ所の直販網だった。現在鉱山機械の周辺で同じ需要を取りにきた日立建機に対しても、151カ国208拠点の販売・サービス代理店とKomtrax登録81万台という到達の量が、稼働データと部品需要をコマツ側へ寄せている。

設立ストーリー 竹内鉱業からの独立と、トラクター国産化がもたらした「第二の敗戦」 (1921年〜)

鉱山機械と電気鋳鋼で出発した機械メーカー

コマツの源流は、土佐出身の実業家・竹内明太郎氏が率いた竹内鉱業[1]にさかのぼる。竹内氏は佐賀県唐津の芳谷炭坑や石川県の遊泉寺銅山を経営し、鉱山機械の自製と修理のために1917年、遊泉寺銅山に近い石川県小松町へ小松鉄工所を開設[2]した。初代所長には、国産自動車の先駆である快進社の橋本増治郎氏を迎えている[3]。第一次大戦後の不況で親会社の竹内鉱業が事業を縮小すると、小松鉄工所を分離独立させる方針がとられ[4]、1921年5月13日、資本金100万円[5]で株式会社小松製作所が設立された。出発時の事業は鉱山機械・採掘機械にとどまらず電気製鋼による電気鋳鋼にも及び[6]、機械と鉄鋼の二領域をあわせ持つ構成をとった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼

設立の翌1922年4月、小松製作所は竹内鉱業から小松電気製鋼所を譲り受け[7]、鋳鋼の内製から機械の組立までを自社でまかなえるように[8]した。だが関東大震災が親会社の竹内鉱業を行き詰まらせ[9]、第一次大戦後の不況も重なって経営は苦境に沈む。これを立て直したのが、1925年に社長として迎えられた中村税氏[10]であった。中村氏のもとで経営は危機を脱し、満州事変以降は鋳鋼とプレス機械の需要増に支えられて事業規模を広げた[11]。鋳鋼は月産で業界首位の生産量に達し、機械部門へ自家供給しながら高級鋳物を外販する構成[12]をとっている。

  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [1]竹内鉱業社長 竹内明太郎
    • [2]1917年 遊泉寺銅山近くの小松町へ小松鉄工所を開設
    • [3]初代所長 快進社の橋本増治郎
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [4]1921年5月 竹内鉱業より小松鉄工所を分離独立し石川県小松町に株式会社小松製作所を設立
    • [7]1922年4月 竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
    • [5]1921年5月13日 設立 資本金100万円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [6]出発時の事業は鉱山機械・採掘機械と電気鋳鋼
    • [8]製鋼から造機にいたる生産方式を確立
    • [9]関東大震災による親会社・竹内鉱業の行き詰まりと欧州大戦後の不況
    • [10]1925年 中村税を社長に迎えて経営危機を脱する
    • [11]満州事変以降 鋳鋼・プレス機械の需要増大で事業規模が拡大
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [12]鋳鋼は生産量業界第一位 自家使用が中心で外販は高級鋳物

トラクター国産化と、陸軍命令によるブルドーザー試作

鉱山機械と工作機械で足場を得た小松製作所は、他社の手がけない独自製品を探し、1931年に農林省の要請で農用トラクターの国産化へ乗り出した[13]。米国キャタピラー社製の小型トラクターを範として二トン履帯式トラクターを試作[14]し、これが国産第一号となる。翌1932年には改良型の小松G25型を完成させ、陸軍などへ納入した[15]。トラクターは得意の鋳鋼を多用できる製品[16]で、既存の製鋼設備をそのまま生かせる点が選択の決め手になっている。1938年5月には一貫生産を目的として小松市郊外に粟津工場を新設[17]し、満州開拓向けの量産を本格化させた[18]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1938年5月 粟津工場を新設

戦時に入ると、小松製作所は陸海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を手がけた[19]。ブルドーザーもそのひとつで、副社長の河合良一氏が1963年に語ったところでは[20]、米軍が飛行場の造成に使う機械を日本でも作れという陸軍の命令があり、写真を手がかりに3台の試作車を製作した[21]という。試作車はフィリピンとガダルカナルへ送られたが、ガダルカナルへは着かず、フィリピンへ届いた分も使う間がないまま占領されている[22]。1943年の試作は量産に届かないまま[23]終戦を迎えた。国内にブルドーザーの稼働台数がほぼ無い状態[24]から、戦後の生産は始まっている。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [13]1931年 農林省の要請で農用トラクター国産化に着手
    • [14]米国キャタピラー社製の小型トラクターを範とした二トン履帯式トラクターが国産第一号
    • [15]1932年 改良型の小松G25型を完成し陸軍へ納入
    • [16]得意の鋳鋼を多用できるトラクターが新たな主軸
    • [18]粟津工場で満州開拓向けの量産を本格化
    • [19]戦時に陸軍・海軍の要請で各種の牽引車や土工用車両を製作
    • [23]1943年 国産ブルドーザーを試作 量産には至らず
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1938年5月 粟津工場を新設
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [20]河合良一 1963年時点で小松製作所副社長
    • [21]陸軍の命令で写真をサンプルに3台の試作車を製作
    • [22]試作車はガダルカナルへ未着 フィリピン着分も使用前に占領
    • [24]終戦直後は国内のブルドーザー稼働台数がほぼ皆無

発注の白紙撤回と、河合良成氏による再建

終戦後、小松製作所は国土300万町歩の開拓という食糧増産政策[25]に応じ、ガソリン式トラクターの生産へ転じた。同じ製品には新潟鉄工所や久保鉄工所など5社ほどが参入している[26]。ところが占領軍が日本へのガソリン供給停止を命じたため[27]、ガソリントラクターは製作できなくなった。1947年、農林省はこれを受けてトラクターの発注を全面的に白紙撤回[28]した。トラクターと農具は当時の総生産額の6割以上を占めており、その打ち切りは社内で『第二の敗戦』と呼ばれた[29]。主力を一夜で失った工場では賃上げを求める大争議が起こり、『東の東宝、西の小松』[引用元]と並び称された百日闘争へ発展した[30]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [25]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展

この難局で社長に迎えられた河合良成氏は、農林官僚として小松製作所にトラクター生産を勧めた経緯があり[31]、発注撤回に道義的な責任を感じていた。河合氏は復興金融金庫から3000万円の融資を引き出して争議を収拾し[32]、1947年末に社長へ就任すると、約700名の人員整理を断行して[33]再建に着手した。1949年5月には東京と大阪の両証券取引所へ株式を上場し[34]、外部から資金を調達する道も開いた。1947年にはD50ブルドーザーを完成させており[35]、戦時の試作で残した設計が製品として世に出ている。ただし土建業者が持つブルドーザーは国産品か進駐軍の払下げ品に限られ[36]、市場そのものがまだ小さかった。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [25]戦後 国土300万町歩の開拓
    • [26]新潟鉄工所・久保鉄工所ら5社程度がガソリントラクターを製作
    • [27]占領軍の日本に対するガソリン供給停止命令でガソリントラクターの製作が不能に
    • [36]当時のブルドーザーは進駐軍が焼跡整理に使用 土建業者の保有は国産品か進駐軍払下げ品
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [28]1947年 農林省がトラクター発注を白紙撤回
    • [29]トラクターと農具が総生産額の6割以上 打ち切りは「第二の敗戦」
    • [30]大争議は「東の東宝、西の小松」と並称された百日闘争へ発展
    • [31]農林官僚出身の河合良成 トラクター生産を勧めた経緯から道義的責任
    • [32]復興金融金庫の融資3000万円で争議を収拾
    • [33]1947年末 河合良成が社長就任 約700名の人員整理
    • [35]1947年 D50ブルドーザーを完成
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [34]1949年5月 東京・大阪の両証券取引所に株式を上場

売上高の72%を占めた米軍向け砲弾特需

再建を急ぐ河合良成氏は朝鮮動乱を背景とする米軍向け砲弾の生産に活路を求め、1949年から砲弾生産を本格化させた[37]。占領軍が専用工場の保有を発注条件としたことから[38]、1952年10月には旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げを受けて大阪工場を新設[39]している。同年12月には池貝自動車製造を吸収合併して川崎工場とし、中越電化工業を吸収合併して氷見工場とした[40]。砲弾特需は巨額で、1952年から1955年までの4年間の受注額は4478万ドル余、日本円で約160億円に達し、全国の砲弾受注の約4割を占めた[41]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [37]1949年から米軍向け砲弾生産を本格化
    • [38]占領軍が専用工場の保有を発注条件とする
    • [41]砲弾特需の受注額 1952〜1955年の4年間で4478万ドル余 約160億円 全国の砲弾受注の約4割
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1952年10月 旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げで大阪工場を新設
    • [40]1952年12月 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場 中越電化工業を吸収合併し氷見工場

しかし砲弾は売上高の72%を占めるまでに膨らみ[42]、米軍の発注ひとつで浮き沈みする収益構造を抱え込んだ。一方でブルドーザーの生産も続いており、1952年から1953年頃には月産10台から15台、1955年頃には月産20台から30台の水準へ伸びている[43]。輸入はほとんどなく、土建業者が持つのは国産品か進駐軍の払下げ品に限られたため、国内の稼働台数は国内生産量からほぼ算定できた[44]。稼働台数が実質ゼロの地点から出発した市場だけに、ブルドーザーの生産増加率は他の機種を上回る高い水準を保っている[45]

  • 実業の世界52(10)(1955年7月)
    • [42]砲弾が売上高の72%を占める収益構造
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [43]昭和27〜28年頃 ブルドーザー月産10〜15台 昭和30年頃 月産20〜30台
    • [44]ブルドーザーの輸入はほとんど無く国内稼働台数は生産量から算定可能
    • [45]稼働台数ゼロからの出発でブルドーザーの生産増加率が大
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [37]1949年から米軍向け砲弾生産を本格化
    • [38]占領軍が専用工場の保有を発注条件とする
    • [41]砲弾特需の受注額 1952〜1955年の4年間で4478万ドル余 約160億円 全国の砲弾受注の約4割
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
    • [39]1952年10月 旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げで大阪工場を新設
    • [40]1952年12月 池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場 中越電化工業を吸収合併し氷見工場
  • 実業の世界52(10)(1955年7月)
    • [42]砲弾が売上高の72%を占める収益構造
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [43]昭和27〜28年頃 ブルドーザー月産10〜15台 昭和30年頃 月産20〜30台
    • [44]ブルドーザーの輸入はほとんど無く国内稼働台数は生産量から算定可能
    • [45]稼働台数ゼロからの出発でブルドーザーの生産増加率が大

砲弾を捨ててブルドーザーへ——1956年の業態転換

1953年に朝鮮戦争が休戦して砲弾特需が縮小すると[46]、小松製作所は1956年5月、正式に払い下げを受けた大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面的に切り替える方針を決めた[47]。1950年の時点でブルドーザーは総生産額の53%を占めており[48]、砲弾を手放しても主力となる製品が既に育っていた。1947年のD50完成から毎年のように新型を投入し、1954年には生産累計1000台を超えている[49]。年間の総売上高は1958年に124億円へ達し[50]、1959年12月期には売上高92億円・利益7億円強と当時の過去最高[51]を記録した。

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [46]1953年 朝鮮動乱の休戦で砲弾特需が縮小
    • [47]1956年5月 大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面転換
    • [48]1950年時点でブルドーザーが総生産額の53%
    • [49]1954年 ブルドーザー生産累計1000台を突破
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [50]1958年 年間総売上高124億円
  • コマツ100年史
    • [51]1959年12月期 売上高92億円・利益7億円強で当時の過去最高

転換を支えたのは道路整備の需要で、国と道路公団と地方公共団体をあわせた道路投資額は1954年の610億円から1958年に1372億円、1961年に3156億円、1962年に4149億円へ伸びた[52]。1961年に始まった第三次道路整備五箇年計画の規模は2兆3000億円に達し[53]、1963年の投資額は5200億円から5300億円と見込まれている[54]。ブルドーザーの販売はこの工事量に連動し、総販売量の4分の1程度が道路関係に向かった[55]。あわせて1957年から全国の都道府県に支店・営業所網を置き、代理店を介さず自社で建設機械を売る形[56]へ切り替えている。

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [52]道路投資額 1954年610億円 1958年1372億円 1961年3156億円 1962年4149億円
    • [53]1961年開始の第三次道路整備五箇年計画は2兆3000億円規模
    • [54]1963年の道路投資額見込み 5200〜5300億円
    • [55]ブルドーザー総販売量の4分の1程度が道路関係
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [46]1953年 朝鮮動乱の休戦で砲弾特需が縮小
    • [47]1956年5月 大阪工場の生産を軍需からブルドーザーへ全面転換
    • [48]1950年時点でブルドーザーが総生産額の53%
    • [49]1954年 ブルドーザー生産累計1000台を突破
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [50]1958年 年間総売上高124億円
    • [52]道路投資額 1954年610億円 1958年1372億円 1961年3156億円 1962年4149億円
    • [53]1961年開始の第三次道路整備五箇年計画は2兆3000億円規模
    • [54]1963年の道路投資額見込み 5200〜5300億円
    • [55]ブルドーザー総販売量の4分の1程度が道路関係
  • コマツ100年史
    • [51]1959年12月期 売上高92億円・利益7億円強で当時の過去最高
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
    • [56]1957年から全国都道府県に支店・営業所網を設け直販体制を構築

資本自由化とマルA対策——品質一点への集中

1960年に政府が貿易為替自由化計画大綱を決めると、機械類の輸入自由化が進み[57]、資本自由化も日程にのぼった。世界のブルドーザー市場の過半を占めるキャタピラー社が、新三菱重工との合弁で日本国内での生産を準備する[58]河合良成氏は通産省に抗議したものの[59]、国策の流れを止めることは難しいと判断し、対抗策を品質改善の一点に絞った。販売網と生産力では劣らず、信頼性と耐久性だけがキャタピラー製品に及ばない[60]という認識があったためである。小松製作所は1961年頃に社内へ自由化対策本部を設け、ブルドーザーの設計変更に着手した[61]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [57]1960年 政府が貿易為替自由化計画大綱を決定し機械類の輸入自由化が進行
    • [59]河合良成が通産省へ抗議のうえ対抗策を品質改善へ集中
    • [60]販売網・生産力では対等で品質のみがキャタピラー製品に劣後
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [58]キャタピラー社が新三菱重工との合弁で日本国内生産を準備
    • [61]自由化対策本部を設置し設計変更に着手

1961年8月にはマルA対策本部を置き、専務取締役の河合良一氏を責任者に据えて[62]いる。トランプのエースになぞらえた名称[63]で、社内のいかなる案件よりも優先する運動と位置づけた。ユーザー批判会で182項目、クレーム解析と稼働調査で1657カ所の問題点を洗い出し、部品4000点のうち約8割にあたる約3200点へ改良[64]を施している。統計的品質管理にとどまらない総合的品質管理を全社へ導入し、自主開発の方針を曲げて米カミンズ社のエンジン搭載にも踏み切った[65]。需要の多い3機種について各32台ずつ計96台の試作車を作り、6台を昼夜兼行の耐久試験に、90台を技術者付きで市場へ出して稼働状況を調べている[66]

  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [62]1961年8月 マルA対策本部を設置 責任者は専務取締役・河合良一
    • [63]運動名はトランプのエースに由来し社内の最優先事項と位置づけ
    • [64]ユーザー批判会182項目 クレーム解析・稼働調査1657カ所 部品4000点のうち約8割 約3200点を改良
    • [65]統計的品質管理でなく総合的品質管理を全社導入 米カミンズ社エンジンを搭載
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [66]需要の多い3機種で各32台計96台の試作車 6台を耐久試験 90台を技術者付きで販売し稼働調査

1963年9月に第一次対策車を市販し[67]、品質改善の成果を反映したD50Aを『スーパー』シリーズとして発売すると、クレーム発生数は従来の5分の1へ減った[68]。保証期間も300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延ばしている[69]。この時点でブルドーザーの国内市場占拠率は約60%で業界第一位を保ち[70]、モーターグレーダー、フォークリフト、ショベルローダーでも首位を占めた[71]。総売上高に占める構成比は建設機械が62%から63%、産業車輛が17%程度、産業機械が7%である[72]。会社の規模も5年で様変わりし、1958年上期と1963年上期を比べると資本金は22億5000万円から150億円、総資産は142億円から826億円、売上は59億円から296億円へ拡大した[73]

  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [67]1963年9月 第一次対策車を発表し市販開始
    • [70]1963年時点のブルドーザー国内市場占拠率 約60%で業界第一位
    • [71]モーターグレーダー・フォークリフト・ショベルローダーでも第一位
    • [72]総売上高構成比 建設機械62〜63% 産業車輛17%程度 産業機械7%
    • [73]1958年上期→1963年上期 資本金22億5000万円→150億円 総資産142億円→826億円 売上59億円→296億円
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [68]D50Aをスーパーシリーズとして発売しクレーム発生数が従来の5分の1へ減少
    • [69]保証期間を300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延長
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
    • [57]1960年 政府が貿易為替自由化計画大綱を決定し機械類の輸入自由化が進行
    • [59]河合良成が通産省へ抗議のうえ対抗策を品質改善へ集中
    • [60]販売網・生産力では対等で品質のみがキャタピラー製品に劣後
    • [62]1961年8月 マルA対策本部を設置 責任者は専務取締役・河合良一
    • [63]運動名はトランプのエースに由来し社内の最優先事項と位置づけ
    • [64]ユーザー批判会182項目 クレーム解析・稼働調査1657カ所 部品4000点のうち約8割 約3200点を改良
    • [65]統計的品質管理でなく総合的品質管理を全社導入 米カミンズ社エンジンを搭載
    • [68]D50Aをスーパーシリーズとして発売しクレーム発生数が従来の5分の1へ減少
    • [69]保証期間を300時間・3カ月から600時間・6カ月へ延長
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
    • [58]キャタピラー社が新三菱重工との合弁で日本国内生産を準備
    • [61]自由化対策本部を設置し設計変更に着手
    • [66]需要の多い3機種で各32台計96台の試作車 6台を耐久試験 90台を技術者付きで販売し稼働調査
    • [67]1963年9月 第一次対策車を発表し市販開始
    • [70]1963年時点のブルドーザー国内市場占拠率 約60%で業界第一位
    • [71]モーターグレーダー・フォークリフト・ショベルローダーでも第一位
    • [72]総売上高構成比 建設機械62〜63% 産業車輛17%程度 産業機械7%
    • [73]1958年上期→1963年上期 資本金22億5000万円→150億円 総資産142億円→826億円 売上59億円→296億円

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コマツの沿革1921〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1921〜1948年竹内鉱業からの独立と、トラクター国産化がもたらした「第二の敗戦」小松製作所を設立
竹内鉱業より小松電気製鋼所を譲受
粟津工場を新設。トラクターを量産
国産ブルドーザーを試作★★
トラクター受注が白紙撤回。経営危機へ★★
河合良成河合良成氏が社長就任★★
1949〜1967年砲弾依存を断ち切った業態転換と、資本自由化に備えた品質防衛河合良成東京、大阪の両証券取引所に株式を上場
河合良成米軍向け軍需砲弾の生産を強化
河合良成大阪工場を新設
河合良成池貝自動車製造を吸収合併し川崎工場に 中越電化工業を吸収合併し氷見工場に
河合良成砲弾生産への依存を断ち、ブルドーザーを主力とする建設機械への業態転換

1956年、朝鮮特需の砲弾生産が細ると見た小松製作所が、大阪工場の生産を軍需の砲弾から建設機械へ切り替え、ブルドーザーを主力とする収益構造へ移した経営判断。河合良成社長の主導による。

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★★★
河合良成資本自由化に備えたマルA対策——品質一点集中でキャタピラーに対抗

1961年、世界最大のキャタピラーが新三菱重工との合弁で日本上陸を進めるなか、小松製作所が唯一の弱点だったブルドーザーの品質へ経営資源を集中し、全社的な品質管理でキャタピラー製品に並ぶ水準をめざしたマルA対策。専務取締役の河合良一氏を責任者に、河合良成社長のもとで全社を挙げて進めた品質防衛の判断である。

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★★★
河合良成小山工場を新設
1968〜1998年油圧ショベルの後発逆転と輸出主導への転換、そして脱建機への傾斜河合良一油圧ショベルへの後発参入と小松ビサイラス——直販網で挑んだ総合建機化

1968年、コマツ(当時・小松製作所)が油圧ショベルへ本格参入した経営判断。自主開発の頓挫を受け、世界一流の米ビサイラス・エリー社と提携して小松ビサイラスを設立し、ブルドーザーで築いた全国650カ所の直販網を武器に、約10年遅れの後発から国内首位をめざした。河合良一社長のもとで総合建設機械メーカーへ歩を進める判断であった。

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河合良一小松アメリカを設立。海外輸出に注力
能川昭二メカトロニクス、新素材開発等の先端的高度技術研究のための研究所を新設
田中正雄河合会長が能川社長を解任。経営が混乱へ
田中正雄ドレッサーと合弁設立
片田哲也「脱建機」多角化とコマツ電子金属への巨額投資、初の連結赤字

1993年、コマツが建設機械のシクリカルな業績変動を嫌い、片田哲也社長のもとで『脱建機』を掲げてシリコンウエハーなど非建機分野への多角化投資に踏み切った経営判断。子会社コマツ電子金属への巨額投資が半導体不況と重なり、1999年3月期に連結決算の導入以来初の赤字(当期純損失123億円)を招いた。

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片田哲也不採算事業から撤退
片田哲也産業機械に関する営業の一部を譲渡
安崎暁同年10月に鋳造事業の営業を譲渡
安崎暁Komtrax(機械稼働管理システム)を開発
1999〜2025年二度の赤字とダントツ経営、そして鉱山機械への拡張坂根正弘坂根正弘氏の「ダントツ経営」による経営構造改革とV字回復

2001年6月に社長へ就任した坂根正弘氏は、1990年代末の初の連結赤字に続き、就任直後に一段と深い赤字へ沈んだコマツの経営構造改革に踏み切った。固定費の削減と不採算の整理を『一度限りの大手術』として断行する一方、競合が数年追いつけない『ダントツ商品』と、機械稼働管理システムKOMTRAXの標準搭載による『見える化』を収益の柱に据えた。2000年代を通じてこの型が固まり、赤字からの反転と収益性の向上につながった判断である。

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坂根正弘ダントツ経営で構造改革に着手★★
坂根正弘コマツ電子金属の株式の過半をSUMCOに譲渡★★
坂根正弘農林機器事業をハスクバーナ・ジャパンに譲渡
野路國夫日平トヤマの株式の過半を取得
野路國夫大型プレス機械の製品開発、販売・サービス事業を吸収分割によりコマツ産機に承継
野路國夫コマツユーティリティを吸収合併
大橋徹二コマツディーゼルを吸収合併
大橋徹二米ジョイ・グローバル買収による鉱山機械のフルライン化

2016年7月21日、コマツはコマツアメリカ㈱を通じて米ジョイ・グローバルを1株28.3ドル・総額約28.9億ドル(約3,000億円)で買収すると発表し、2017年4月に手続きを完了した経営判断。大橋徹二社長のもとで、鉱山機械のフルライン化を狙った買収であった。

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大橋徹二コマツ特機を吸収合併
小川啓之コマツキャブテックを吸収合併
出典・参考
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
  • 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
  • コマツ100年史
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「小松製作所」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
  • 日経ビジネス 1999年8月16日号
  • 実業の世界52(10)(1955年7月)

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