河合良成
コマツ・元取締役会長
社長就任 1947年
生年月日 —
学歴 東京帝国大学政治学科
出自 —
社長就任までの出自
出自
1886年、富山県に生まれた。1911年7月に東京帝国大学政治学科を卒業し、同年農商務省の官吏となった。1920年8月に東京帝国大学講師、1931年1月に日華生命保険の専務取締役、1942年に東京市助役を務め、1945年に農林次官、1946年には貴族院議員と厚生大臣を歴任している。機械の現場ではなく行政と保険会社の資金畑を歩いた経歴で、小松製作所とは農林官僚として農耕トラクターの製作を勧めた縁があった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1947年7月、占領軍のガソリン供給停止命令を受けて農林省がトラクターの発注内示を全面的に取り消し、総生産額の6割以上を占めた主力が消えた。争議は「東の東宝、西の小松」と並称される百日闘争へ発展する。河合良成氏は農林官僚として製作を勧めた経緯から道義的な責任を感じ、中村税会長の懇請を受けて復興金融金庫の融資3000万円の見通しを立て、争議を収拾した。重工業の経験が無いことを理由に固辞したが、復金からの要請もあって引き受け、1947年12月23日の臨時株主総会で社長に就任した。
在任中の主な施策
施策
就任後は約700名の人員整理を断行し、1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場した。同じ1949年から米軍向け砲弾の生産を本格化させ、1952年10月には旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げで大阪工場を新設する。砲弾は売上高の72%を占めるまで膨らんだが、朝鮮戦争の休戦で特需が細ると、1956年5月に大阪工場の生産をブルドーザーへ全面転換した。1961年8月には資本自由化とキャタピラー社の上陸に備えてマルA対策本部を開設し、1964年7月に河合良一氏へ社長を譲り、会長へ就任した。
在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1947〜1964年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
変化-
参考文献 3件
- 日本企業要覧 1963年版
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(小松製作所, 1971年)
- 経済春秋社『企業の歴史 : 明治百年』「コマツ」(経済春秋社, 1968年)