コマツ:砲弾特需によるブルドーザー量産とマルA対策
1949年〜特需に頼って越えたドッジ不況と、砲弾が残した資本
1949年、超均衡財政を求めるドッジ・ラインが敷かれると、小松製作所の受注は一夜で消えた。河合良成社長は粟津工場で鋳鋼の電気炉の前に立っていたとき本社からの電報を受け取り、鉄道の注文は全部取り消しになる、炉の湯は鋼塊にしておくほかないと工場長から告げられている。鋳鋼の最大の注文主は国鉄で、主に貨車の台枠を作っていた。会社はかねて懸案だった小松工場の粟津工場への統合を急ぎ、生産能率の向上と経費の節減を図った。それでも足りず、受注可能額に見合う人員の枠を設けて超過分を配置転換する方針をとる。1949年12月には粟津工場で火災が起き、機械組立工場が全焼して設備機械244台と仕掛中のブルドーザー19台を失っている。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [1]昭和24年 ドッジ・ラインによる不況が当社の出鼻をくじいた
- [4]昭和24年 小松工場を粟津工場へ統合し生産能率の向上と経費の節減を図る
- [5]受注可能額に見合った人員の枠を設け過剰人員は配置転換する措置を講じた
- [6]昭和24年12月29日 粟津工場の火災で機械組立工場が全焼し設備機械244台と完成・仕掛中のブルドーザ19台を焼失
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- [2]河合良成 粟津工場で電報を受け取り工場長から鉄道の注文が全部取り消しになると告げられた
- [3]河合良成 鋳鋼の最大の注文主は国鉄で主に貨車のシャーシを製作していた
工場の統合で生じた過剰人員は、従業員約2500名の28%に達した。整理を避ける手として小松製作所が選んだのは、米軍が神奈川県淵野辺の旧陸軍相模造兵廠で日本側に行わせていた重機械の修理、すなわちPD作業の入札であった。河合社長は世間が出血受注と騒ぐほどの価格で応札し、1949年8月に相模作業所を設けて600名を配置転換した。収益はもとより多くを見込めなかったが、修理の対象がブルドーザーやスクレーパー、パワーショベルなど当時の日本では珍しい機械であったため、技術を習得する機会になり、地方の会社であった小松製作所が中央へ出る足がかりにもなった。ドッジ整理に苦しんだ小松製作所の事業は、1950年に降ってわいた朝鮮動乱でにわかに活況を呈した。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [7]三工場の粟津統合により従業員約2500名の28%が過剰人員となった
- [8]米軍は極東地域で破損した重機械類を旧陸軍相模造兵廠内で日本側に修理させる計画を持っていた
- [9]昭和24年8月 出血受注と騒がれた入札を経て相模作業所を創設し600名を配置転換
- [10]PD作業では当時の日本では珍しい機械類に接し技術習得の機会となった
- [11]相模作業所は中央進出の足がかりとなる利点があった
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- [12]河合良成 一時はドッジ整理に苦しんだが昭和25年の朝鮮動乱で事業はにわかに活況を呈した
1950年6月に始まった朝鮮動乱は、ドッジ不況下の産業界に特別需要をもたらした。1953年7月の休戦後はむしろ兵器特需が主軸となり、小松製作所は既存の工場に余力がないことから、1952年に池貝自動車製造と中越電化工業の合併、および旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを一気に具体化した。払い下げを受けた敷地には同年10月、大阪工場が発足する。1952年から1955年までの4年間の砲弾受注額は4478万ドル余、日本円で約160億円に上り、全砲弾受注のおよそ4割を占めた。1955年上期には総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円と、73%を占めている。砲弾は利こそ薄かったが毎月6〜7億円の現金収入をもたらし、確実な見返りがあることで銀行の信用も高まった。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [13]昭和25年6月の朝鮮動乱による国連軍の特別需要でドッジ不況下の産業界が活気づいた
- [14]昭和27年 重車両修理や砲弾の受注に既存工場の余力がなく池貝自動車製造の合併と旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを具体化
- [16]昭和27〜30年の4年間の当社砲弾受注額は4478万ドル余(約160億円)で全砲弾受注の約4割
- [17]昭和30年上期は総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円で73%
- [18]砲弾生産は毎月6〜7億円の現金収入があり利は薄くても資金的に有利で銀行の信用も高まった
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [15]1952年10月 大阪工場を新設
参考文献[1]-[18]
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [1]昭和24年 ドッジ・ラインによる不況が当社の出鼻をくじいた
- [4]昭和24年 小松工場を粟津工場へ統合し生産能率の向上と経費の節減を図る
- [5]受注可能額に見合った人員の枠を設け過剰人員は配置転換する措置を講じた
- [6]昭和24年12月29日 粟津工場の火災で機械組立工場が全焼し設備機械244台と完成・仕掛中のブルドーザ19台を焼失
- [7]三工場の粟津統合により従業員約2500名の28%が過剰人員となった
- [8]米軍は極東地域で破損した重機械類を旧陸軍相模造兵廠内で日本側に修理させる計画を持っていた
- [9]昭和24年8月 出血受注と騒がれた入札を経て相模作業所を創設し600名を配置転換
- [10]PD作業では当時の日本では珍しい機械類に接し技術習得の機会となった
- [11]相模作業所は中央進出の足がかりとなる利点があった
- [13]昭和25年6月の朝鮮動乱による国連軍の特別需要でドッジ不況下の産業界が活気づいた
- [14]昭和27年 重車両修理や砲弾の受注に既存工場の余力がなく池貝自動車製造の合併と旧陸軍枚方造兵廠の払い下げを具体化
- [16]昭和27〜30年の4年間の当社砲弾受注額は4478万ドル余(約160億円)で全砲弾受注の約4割
- [17]昭和30年上期は総売上高61億5000万円のうち砲弾が45億1000万円で73%
- [18]砲弾生産は毎月6〜7億円の現金収入があり利は薄くても資金的に有利で銀行の信用も高まった
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- [2]河合良成 粟津工場で電報を受け取り工場長から鉄道の注文が全部取り消しになると告げられた
- [3]河合良成 鋳鋼の最大の注文主は国鉄で主に貨車のシャーシを製作していた
- [12]河合良成 一時はドッジ整理に苦しんだが昭和25年の朝鮮動乱で事業はにわかに活況を呈した
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- [15]1952年10月 大阪工場を新設
1956年〜砲弾からブルドーザーへの主力交代と、直販網の全国展開
小松製作所が砲弾から手を引いたのは、特需が細りきる前であった。河合良成氏は数度の渡米から米国がいつ砲弾の発注を止めるか分からないと見て、あらかじめ備えたうえで兵器部門を極端に縮小し、全力を産業機械へ向けた。1953年3月の朝鮮戦争の終結で特需は激減し、日平産業や津上製作所など主要な兵器製造会社は相次いで破綻・休業に追い込まれたが、小松製作所は全工場をブルドーザーを中心とする生産体制へ切り換え、増産へ向かった。1956年からは払い下げを受けた大阪工場も民需に転換し、鋳鋼と重機械類の製造を始めている。兵器で積んだ資本と工場が、そのまま建設機械の量産へ移し替えられた。
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- [19]河合良成 数回の渡米で砲弾注文の休止を予見し事前に準備して兵器部門を極端に縮小し全力を産業機械へ向けた
- [20]朝鮮事変の終結で特需は激減し日平産業・津上製作所など主な兵器製造会社は相次いで破綻休業
- [21]河合良成 あらゆる工場をブルドーザー中心の産業機械生産体制へ切り換え増産を図った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [22]払下げを受けた大阪工場では民需転換を実施し昭和31年より鋳鋼および重機械類の製造を開始
ブルドーザーの需要を作ったのは道路であった。国と地方公共団体、道路公団を合わせた道路投資額は1954年の610億円から1958年に1372億円、1961年には3156億円へ増え、1961年に着手された第三次道路整備計画は2兆3000億円という規模だった。1963年の時点で、小松製作所のブルドーザーの総販売量のうち道路関係へ向かうのは4分の1ほどにとどまり、残りは土地造成や河川、工場内の原料運搬、除雪に使われていた。一方、1953年に着工した佐久間ダムでは使用機械のほとんどが米国製で、国産の大型機は掘削現場で能率が劣り故障も多く、工期を左右しない工程へ回された。小松製作所は大型化を進め、1960年には国産最大のD250ブルドーザーを開発している。
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
- [23]わが国の道路投資額は昭和29年610億円 33年1372億円 36年3156億円
- [24]昭和36年着手の第三次道路整備計画は2兆3000億円の規模
- [25]ブルドーザーの総販売量のうち道路関係は4分の1程度 ほかは土地造成・河川・工場の原料運搬・森林・除雪用
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [26]佐久間ダムの使用機械はほとんどが米国製で国産機は掘削現場で能率が悪く故障が続出した
- [27]昭和35年 国産最大のD250ブルドーザを開発
建設機械を売る仕組みは、代理店ではなく自前の網で作られた。1957年から全国の都道府県に支店・営業所・出張所を置いて建設機械の直販体制を敷き、1958年4月には社長直属の営業本部を新設して、販売の企画とサービス活動の計画を一つの機構へ集めた。同年6月には熊本・岡山・長野・山形など27カ所へ出張所を新設している。1960年4月には部品ディーラーだった同和商事を小松サービス販売と改め、サービス機構の全部と専従者162名をそこへ移した。これを支える資金は増資でまかない、資本金は1957年10月の22億5000万円から1959年7月に35億円、1960年9月に60億円へ増え、公募分のプレミアムを含め2回の増資で42億500万円を調達した。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [28]昭和32年から全国都道府県に支店・営業所・出張所網を設置し建設機械の直販体制をつくる
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [29]昭和33年4月 社長直属の営業本部を新設し販売の企画・促進とサービス活動の計画を担当するスタッフ部門を置いた
- [30]昭和33年6月 熊本・岡山・長野・山形など全国27カ所に出張所を新設
- [31]昭和35年4月 部品機材販売ディーラーの同和商事を小松サービス販売と改称しサービス機構全部と専従者162名を移管
- [32]資本金は昭和32年10月22億5000万円 34年7月35億円 35年9月60億円 2回の増資で公募プレミアムを含め42億500万円を調達
参考文献[19]-[32]
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- [19]河合良成 数回の渡米で砲弾注文の休止を予見し事前に準備して兵器部門を極端に縮小し全力を産業機械へ向けた
- [20]朝鮮事変の終結で特需は激減し日平産業・津上製作所など主な兵器製造会社は相次いで破綻休業
- [21]河合良成 あらゆる工場をブルドーザー中心の産業機械生産体制へ切り換え増産を図った
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [22]払下げを受けた大阪工場では民需転換を実施し昭和31年より鋳鋼および重機械類の製造を開始
- [28]昭和32年から全国都道府県に支店・営業所・出張所網を設置し建設機械の直販体制をつくる
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)
- [23]わが国の道路投資額は昭和29年610億円 33年1372億円 36年3156億円
- [24]昭和36年着手の第三次道路整備計画は2兆3000億円の規模
- [25]ブルドーザーの総販売量のうち道路関係は4分の1程度 ほかは土地造成・河川・工場の原料運搬・森林・除雪用
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [26]佐久間ダムの使用機械はほとんどが米国製で国産機は掘削現場で能率が悪く故障が続出した
- [27]昭和35年 国産最大のD250ブルドーザを開発
- [29]昭和33年4月 社長直属の営業本部を新設し販売の企画・促進とサービス活動の計画を担当するスタッフ部門を置いた
- [30]昭和33年6月 熊本・岡山・長野・山形など全国27カ所に出張所を新設
- [31]昭和35年4月 部品機材販売ディーラーの同和商事を小松サービス販売と改称しサービス機構全部と専従者162名を移管
- [32]資本金は昭和32年10月22億5000万円 34年7月35億円 35年9月60億円 2回の増資で公募プレミアムを含め42億500万円を調達
1961年〜キャタピラー上陸に対したマルA対策と、デミング賞実施賞
1960年に政府が貿易為替の自由化を早急に拡大する方針を打ち出すと、建設機械の輸入制限も外れ、ブルドーザーは1964年1月までに全機種が自由化された。そこへ世界最大のブルドーザーメーカーであるキャタピラー・トラクタ社が1961年春から日本への資本進出に動き、1962年6月30日、新三菱重工業との合弁で国内にブルドーザー製造会社を設立すると発表する。同社のブルドーザー売上高は世界の50%以上を占めていた。小松製作所はただちに通商産業省へ反対を伝え、日立製作所や三菱日本重工業も同調したが、三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業は共同戦線から抜け、日立製作所も離れた。反対を続けて認可を1963年6月まで延ばし、その間に品質を改良するのが会社の意図であった。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [33]昭和35年の貿易為替自由化方針により建設機械の輸入制限が撤廃され ブルドーザは昭和39年1月までに全機種が輸入自由化
- [34]昭和36年春からキャタピラー・トラクタ社が日本への資本進出に動き 37年6月30日に新三菱重工業との合弁でブルドーザ製造会社の設立を発表
- [35]キャタピラー・トラクタ社のブルドーザ売上高は世界の50%以上
- [36]当社は通産省に反対を伝え日立製作所・三菱日本重工業も同調したが 三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業が脱落し日立製作所も抜けた
- [37]反対運動によりキャタピラー三菱の設立認可は昭和38年6月まで延引 その間にブルドーザの品質改良を進める意向だった
全国120カ所の販売拠点で直販する体制はすでに整い、販売にも生産にも心配はなかった。問題は品質にあった。初回のオーバーホールまでキャタピラー社製が5000時間もつのに、小松製作所のブルドーザーは3000時間が限度と言われ、厳しい現場では故障が相次いだ。この弱点を埋める対策は、会社のどんな重大な用件にも先んじるという意味を込め、トランプで何にでも勝つ札であるエースになぞらえてマルAと名づけられた。1961年8月、専務取締役の河合良一氏を責任者とする対策本部が置かれ、専任は1〜2名にとどめて各部門から人を集めるタスクフォース方式が採られた。ユーザーの批判会で挙がった問題点は182項目、クレームの解析と稼働現地の調査を合わせると1657カ所に達した。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [38]当時すでに全国120カ所の販売拠点による直販システムを確立していた
- [39]キャタピラー社のブルドーザは5000時間までオーバホールを要さないのに対し当社は3000時間が限度といわれ過酷な作業下では故障が多発
- [40]マルAとは社内のいかなる重大事よりも優先することを意味しトランプのオールマイティのエースから取った
- [41]昭和36年8月 専務取締役河合良一を責任者とするマルA対策本部を設置 専任要員は1〜2名でタスクフォース方式を主体とした
- [42]ユーザー批判会で指摘された問題点は182項目 クレーム解析や稼働現地調査で1657カ所の問題点が判明
1961年11月に定めた品質目標は、第一回オーバーホールまでの実働時間5000時間、機能率90%と、キャタピラー社製に並ぶ水準であった。実現のため、当初はコストを度外視して品質を確保し、原価の引き下げは後から研究するという順序が採られ、材料と部品にはJIS規格を上回る特殊規格が設けられた。対策の前と比べてクレームは5分の1以下となり、5000時間という目標も足回り装置以外では到達した。それを支えたのは、統計による抜き取り検査の域を超え、設計から営業までをつなぐ総合的品質管理を全社で進めたことである。1964年10月には産業機械メーカーとして初めてデミング賞実施賞を受けたが、これに先立つ同年6月30日、社長を17年間務めた河合良成氏は会長となり、社長の座は河合良一氏へ移っていた。守りのために入れた品質管理は、こうして輸出に打って出る足場となった。
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [43]昭和36年11月 マルA対策の品質目標として第一回オーバホールまでの実働時間5000時間・機能率90%を設定
- [44]当初はコストを無視してまず品質を確保しそののちにコストダウンを研究するという非常手段をとった
- [45]JIS規格を上回る特殊規格を用い適合しない材料や部品は使用しないこととした
- [46]クレームはマルA対策実施前の5分の1以下となり 第一回オーバホールまでの5000時間は足回り装置を除いて達成
- [47]統計的品質管理にとどまらず経営・研究・設計・製造・営業の各部門を品質に結びつける総合的品質管理を導入
- [48]昭和39年10月15日 1964年度デミング賞実施賞の授賞通知 産業機械メーカーでの獲得は当社が初
- [49]昭和39年6月30日 17年間社長の職にあった河合良成が会長となり副社長河合良一が社長に昇格
参考文献[33]-[49]
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- [33]昭和35年の貿易為替自由化方針により建設機械の輸入制限が撤廃され ブルドーザは昭和39年1月までに全機種が輸入自由化
- [34]昭和36年春からキャタピラー・トラクタ社が日本への資本進出に動き 37年6月30日に新三菱重工業との合弁でブルドーザ製造会社の設立を発表
- [35]キャタピラー・トラクタ社のブルドーザ売上高は世界の50%以上
- [36]当社は通産省に反対を伝え日立製作所・三菱日本重工業も同調したが 三菱三重工の合併が具体化すると三菱日本重工業が脱落し日立製作所も抜けた
- [37]反対運動によりキャタピラー三菱の設立認可は昭和38年6月まで延引 その間にブルドーザの品質改良を進める意向だった
- [38]当時すでに全国120カ所の販売拠点による直販システムを確立していた
- [39]キャタピラー社のブルドーザは5000時間までオーバホールを要さないのに対し当社は3000時間が限度といわれ過酷な作業下では故障が多発
- [40]マルAとは社内のいかなる重大事よりも優先することを意味しトランプのオールマイティのエースから取った
- [41]昭和36年8月 専務取締役河合良一を責任者とするマルA対策本部を設置 専任要員は1〜2名でタスクフォース方式を主体とした
- [42]ユーザー批判会で指摘された問題点は182項目 クレーム解析や稼働現地調査で1657カ所の問題点が判明
- [43]昭和36年11月 マルA対策の品質目標として第一回オーバホールまでの実働時間5000時間・機能率90%を設定
- [44]当初はコストを無視してまず品質を確保しそののちにコストダウンを研究するという非常手段をとった
- [45]JIS規格を上回る特殊規格を用い適合しない材料や部品は使用しないこととした
- [46]クレームはマルA対策実施前の5分の1以下となり 第一回オーバホールまでの5000時間は足回り装置を除いて達成
- [47]統計的品質管理にとどまらず経営・研究・設計・製造・営業の各部門を品質に結びつける総合的品質管理を導入
- [48]昭和39年10月15日 1964年度デミング賞実施賞の授賞通知 産業機械メーカーでの獲得は当社が初
- [49]昭和39年6月30日 17年間社長の職にあった河合良成が会長となり副社長河合良一が社長に昇格
筆者考察
1955年上期、小松製作所の総売上高61億5000万円のうち45億1000万円は砲弾であった。売上の7割が兵器という会社を、この時点で建設機械メーカーと呼ぶのは無理がある。それでもこの4年間は、のちのブルドーザー量産にとって必要な時間だった。砲弾は利が薄い代わりに毎月6〜7億円の現金を確実に運び、その確実さが銀行の信用に変わり、信用が池貝自動車製造の合併と枚方造兵廠の払い下げ、すなわち京浜と大阪の生産拠点に変わったからである。河合良成氏が渡米のたびに発注の打ち切りを疑い、特需が細りきる前に兵器部門を畳んだのは、砲弾を事業としてではなく、資本を積むための手段として見ていたためだろう。
1962年にキャタピラー・トラクタ社が新三菱重工業と組んで日本へ入ると決まったとき、小松製作所に足りなかったのは販売力でも生産力でもなく、2000時間ぶんの耐久性であった。全国120カ所の直販網も、道路整備計画が生んだ需要も、オーバーホールまで3000時間しかもたない機械の上に載っていた。認可を1年遅らせた反対運動は、市場を守る行為であると同時に、時間を買う行為でもあった。買った時間で作られたのが、JISを上回る特殊規格と、設計から営業までを品質で結ぶ管理の仕組みである。1964年のデミング賞実施賞は品質の証明であると同時に、国内を守るために組んだ仕組みが、そのまま輸出に耐える体に変わったことの確認でもあった。
1949年〜1967年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年12月期 | 単体 | 4 | n/a | 0 | 0.3% | n/a |
| 1950年12月期 | 単体 | 7 | +66.2% | 0 | 3.7% | n/a |
| 1951年12月期 | 単体 | 14 | +101.5% | 1 | 8.6% | n/a |
| 1952年12月期 | 単体 | 19 | +34.5% | 1 | 9.6% | n/a |
| 1953年12月期 | 単体 | 38 | +98.5% | 2 | 7.6% | n/a |
| 1954年12月期 | 単体 | 85 | +120.9% | 4 | 5.8% | n/a |
| 1955年12月期 | 単体 | 113 | +32.2% | 5 | 4.8% | n/a |
| 1956年12月期 | 単体 | 81 | ▲28.0% | 5 | 6.7% | n/a |
| 1957年12月期 | 単体 | 111 | +36.4% | 8 | 7.5% | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | 124 | +11.7% | 10 | 8.4% | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 165 | +33.1% | 13 | 7.9% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 277 | +67.9% | 24 | 8.8% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 443 | +59.9% | 40 | 9.2% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 559 | +26.2% | 49 | 8.9% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 606 | +8.4% | 42 | 7.1% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 646 | +6.6% | 33 | 5.1% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 700 | +8.4% | 30 | 4.3% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 793 | +13.3% | 37 | 4.7% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 1,063 | +34.0% | 50 | 4.8% | n/a |
出所:小松製作所五十年の歩み:略史、会社年鑑
出典・参考
5件
- 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
- 小松製作所五十年の歩み : 略史(社史)
- 『歴史をつくる人々』1964年「防御から進撃へ」(小松製作所 河合良成)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1963年9月号(副社長・河合良一)