油圧ショベルへの後発参入と小松ビサイラス——直販網で挑んだ総合建機化

技術で先行できない後発は、どのように先発を逆転しようとしたか——製品か、販売網か

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時期 1968年5月
意思決定者 河合良一 社長
論点 総合建機化と油圧ショベル参入
概要
1968年、コマツ(当時・小松製作所)が油圧ショベルへ本格参入した経営判断。自主開発の頓挫を受け、世界一流の米ビサイラス・エリー社と提携して小松ビサイラスを設立し、ブルドーザーで築いた全国650カ所の直販網を武器に、約10年遅れの後発から国内首位をめざした。河合良一社長のもとで総合建設機械メーカーへ歩を進める判断であった。
背景
ブルドーザーで国内首位を固めたものの、一機種に偏った事業構成が長期的な課題であった。パワーショベルはブルドーザーに次ぐ有力機種で需要の急増が予測されたが、1959年に完成した自主開発機SP04は油圧機器の不備で本格生産に届かなかった。
内容
米ビサイラス・エリー社・三井物産との3社出資で小松ビサイラスを設立し(1963年6月認可)、大阪工場で生産に着手。1968年に「15-H」で本格参入した。技術の後発を、ブルドーザーと顧客層が重なる巨大直販網でおぎなう戦略をとった。
含意
参入直後は国内生産シェア14%(1974年)と苦戦したが、1976年に首位を獲得し、1987年には32%へ達した。製品そのものの優劣ではなく、既存事業で築いた販売チャネルの規模が競争優位を決めた事例といえる。
筆者の見解

製品より販売網——後発が先発を逆転する構造

この決断の中心にあるのは、技術で先行できない後発が、既存事業で築いた販売の広さを競争優位へ転じた点である。油圧ショベルそのものは、自主開発でつまずき、世界一流メーカーの技術を借りて世に出した後発の製品であった。それでも国内で首位に立てたのは、ブルドーザーで顧客と拠点をあらかじめ押さえていたからであり、勝敗を分けたのは製品の優劣よりも、買い手へ届く経路の広さであったとみることができる。

同じ問いは、後発で新しい市場へ入る企業がいまも向き合うものといえる。優れた製品を用意できるかだけでなく、それを届ける経路と顧客の関係を、すでにどれだけ抱えているか——コマツの油圧ショベルは、この二つが競争の帰趨を左右しうることを示している。もっとも、既存の販売網がそのまま効いたのは、ブルドーザーと油圧ショベルで買い手が重なっていたためであり、経路の転用がどこまで通じるかは、旧来の顧客と新事業の距離しだいで変わってくるとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ブルドーザーに偏った事業構成と油圧ショベルの台頭

1960年代のコマツは、ブルドーザーで国内首位を固めていた。もっとも、生産の繁忙もあってモータグレーダなど他機種の多くは関係会社への完品外注に回り、事業はブルドーザーへ偏っていた。長期の経営を考えれば一機種への依存には難があり、コマツは総合建設機械メーカーへの基盤を強めようと、新機種の開発に構えを保っていた。土木投資の増大や工期短縮の要求を背景に建設機械は「造れば売れる」時期に入っており、なかでもパワーショベルは、ブルドーザーに次ぐ有力機種として需要の急増が予測されていた[1][2]

パワーショベルの製作そのものは大正期に始まり、戦後は外国との技術提携によるものが多かった。そうしたなかでコマツは自主開発を建て前とし、1959年に大阪工場でSP04油圧式パワーショベルを完成させた。しかし、この機は油圧機器関係の不備から本格生産には届かなかった。ブルドーザーで示した設計と生産の力を、油圧という異なる技術の領域でそのまま再現することは難しく、自力での先行はここで行き詰まっていた[3]

決断

世界一流メーカーとの提携という選択

技術で先行できないなら、世界一流メーカーと組んで開発を急ぐ——コマツが選んだのはこの道であった。自主開発を建て前としてきたそれまでの方針からの転換でもあった。相手には、パワーショベルで世界有数の実績を持つ米ビサイラス・エリー社を求めた。提携は競合メーカーの反対で一時難航したものの、1963年6月に認可され、コマツ・ビサイラス・エリー社・三井物産の3社出資で小松ビサイラス株式会社が設立された。生産は、砲弾から民需へ転じていた大阪工場で始まった[4]

提携は、ブルドーザーに偏った体制から総合建設機械メーカーへ移るための布石でもあった。1964年4月には22/BCM試作一号機が完成し、以降も試作を重ねていった。1964年7月に河合良成社長の後を継いだ河合良一社長のもとで、コマツはこの総合建機化を進めた。ビサイラス・エリー社との技術提携を土台にした「15-H」で油圧ショベルへ本格参入したのは1968年であり、業界平均より約10年遅れの後発であった[5][6]

既存の巨大直販網を武器にする戦略

もう一つの決断は、製品ではなく販売の網で勝つという設計にあった。コマツは1957年から全国の都道府県に支店・営業所網を設け、代理店に頼らない直販体制を築いていた。ブルドーザーの拡販のために張りめぐらせたこの拠点は、油圧ショベルの時代には国内650カ所へ達する。同じころのキャタピラー三菱は約200カ所、日立建機は約350カ所とされ、コマツの直販網はその2〜3倍の規模にあたった。この差が、後発の勝負を支える土台となった[7][8]

この網が効いたのは、ブルドーザーと油圧ショベルの買い手が重なっていたからであった。土木・建設の現場では両者が同じ顧客のもとで使われることが多く、ブルドーザーで築いた取引関係と拠点網が、そのまま油圧ショベルの拡販に働いた。技術で先行する日立製作所や、世界最大手を後ろ盾とするキャタピラー三菱に対し、コマツは製品の後発を、顧客への到達力の広さでおぎなおうとした。後発でありながら販売の面で優位に立てる見通しが、この顧客層の重なりのうえに描かれていた[9]

結果

後発から8年で国内首位へ

参入直後の戦いは楽ではなかった。「15-H」を投入したものの、油圧ショベルの国内生産シェアは1974年の時点でも14%にとどまり、先行各社との差は開いていた。流れが変わり始めたのは、1972年に投入した改良型「15HT-2」からであった。耐久性を高めたこの機が建設現場での引き合いを増やし、後発の不利をおぎなう足がかりとなった。ブルドーザーで鍛えた品質改良の経験が、油圧ショベルでも働いていた[10]

後発の逆転は、参入から8年で形になった。1976年、コマツは油圧ショベルの国内シェアで首位を獲得する。上昇はその後も続き、1987年には32%へ達した。同年の国内生産シェアはキャタピラー三菱が14%、日立建機が28%で、コマツは競合を引き離していた。ブルドーザーと油圧ショベルの双方で国内首位を占める建機メーカーは、当時コマツのほかになかった。14%にとどまっていたシェアがここまで積み上がった背景には、製品の改良に加えて、他社が容易には並べない拠点の数があった[11][12]

出典・参考
  • 小松製作所 小松製作所五十年の歩み : 略史(小松製作所, 1971)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • コマツ100年史(社内資料)
  • 小松製作所 有価証券報告書【沿革】
  • コマツ 会社年鑑(1968年版・単体業績)