「脱建機」多角化とコマツ電子金属への巨額投資、初の連結赤字
建設機械のシクリカルな変動を嫌った多角化は、なぜシリコンウエハーで裏目に出たか
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- 概要
- 1993年、コマツが建設機械のシクリカルな業績変動を嫌い、片田哲也社長のもとで「脱建機」を掲げてシリコンウエハーなど非建機分野への多角化投資に踏み切った経営判断。子会社コマツ電子金属への巨額投資が半導体不況と重なり、1999年3月期に連結決算の導入以来初の赤字(当期純損失123億円)を招いた。
- 背景
- 国内建機トップとして1980年代までに成長したコマツは、米キャタピラーに追いついた後、建機市場の頭打ちと円高不況に直面して売上高の伸びが止まっていた。景気に左右されにくい新たな収益の柱を求め、非建機比率の引き上げを掲げた。
- 内容
- 片田哲也社長は売上高の半分を建設機械以外で占める方針を掲げ、1995年就任の安崎暁社長がエレクトロニクスへの集中投資を決断した。コマツ電子金属は信越半導体ら専業に海外展開で後れており、米国と台湾に工場を同時新設して世界上位への逆転を狙った。
- 含意
- 半導体不況と国内建機の内需不振が重なり、多角化部門の赤字を本業の利益で吸収しきれず初の連結赤字に転落した。経営指標を効率重視へ改める事業再構築が始まり、本業への回帰は2001年就任の坂根正弘社長の構造改革を待つことになる。
成長を追うより、強みをどの事業で活かすか
この判断の中心にあったのは、景気に激しく揺れる建設機械という事業から逃れようとした動機であった。シクリカルな変動を嫌い、成長市場のエレクトロニクスに新たな柱を求めた発想は、それ自体としては筋が通っていた。難しさは、逃げ込んだ先が、信越半導体のような専業がシェアと技術で先行するシリコンウエハーだった点にある。専業が磨いてきた素材技術に建機メーカーが後発から追いつくには、市況の追い風が続くことが欠かせなかった。追い風が止まったとき、規模を追った投資は重荷へと転じたとみることができる。
コマツがこの失敗から学んだのは、規模や成長そのものよりも、自社の強みをどの事業で活かすかという問いであったとみられる。建機のシクリカルな変動は、多角化で薄めるのではなく、本業の建設機械で独自の付加価値を生むことでこそ乗り越えられる——のちの本業回帰は、その答えを示していた。専業に対して後発が資本の力だけで挑むことの難しさは、シリコンウエハーに限らず今日の日本企業にも通じる問いとして残る。多角化の失敗という経験が、次の世代の集中戦略を用意したという逆説が、この判断の後味にはうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
建設機械という成熟市場と、成長の頭打ち
コマツは1921年の創業以来、ブルドーザーや油圧ショベルを主力とする国内首位の建設機械メーカーとして育ってきた。世界最大手の米キャタピラーを追って規模を広げ、1982年度には単独の経常利益で過去最高を記録した。しかし、いざキャタピラーに追いついてみると、建機市場そのものが成熟し、シェアを伸ばしても大きな成長を描きにくくなっていた。国内建機のトップという地位が、かえって次の成長先を見えにくくしていた[1]。
成長の鈍化に、景気変動の波が重なった。建設機械は公共投資や設備投資に需要が左右されやすく、1990年代前半の平成不況と急激な円高がコマツの業績を直撃した。単独決算では1993年3月期まで2年連続の二桁減収減益となり、営業利益は96億円まで沈んだ。連結でも米合弁コマツドレッサーの赤字が響き、当期純利益は30億円へ落ち込んでいた。景気に左右されにくい収益の柱をどこに持つかが、経営の課題として重くのしかかっていた[2]。
「脱建機」の方針と、規律を欠いた多角化の記憶
建機の変動を嫌ったコマツは、非建機分野の拡大へ向かった。1989年に社長へ就いた片田哲也社長は、売上高の半分を建設機械以外の多角化部門で占める「脱建機」の方針を明確に掲げた。連結ベースの非建機比率は1988年度の30%台から1992年度には36.9%へ上がり、エレクトロニクスやプラスチックに力を入れて1997年度には45%へ高める計画を立てた。企業風土の改革なくして多角化は進まないと、片田社長は考えていた[3][4]。
もっとも、コマツの多角化には規律を欠いた前史があった。高度成長期には、本業の建設機械と関わりの薄いプロパンガス用ボンベの生産にまで手を広げ、儲かりそうなら何にでも進出する事業拡大を重ねていた。のちに坂根正弘専務は、当時の多角化を「グループ全体としての戦略は無きに等しかった」と振り返っている。1990年代の脱建機は、この無秩序な広がりを整理しつつ、成長の見込める分野へ資源を集めなおす試みでもあった[5]。
決断
エレクトロニクスへの集中投資という決断
多角化の柱として頭角を現したのが、半導体用シリコンウエハーを手がける子会社コマツ電子金属であった。市場が成熟した建機と違い、エレクトロニクス関連には将来の成長が見込めた。1995年に社長へ就いた安崎暁社長は、半導体不況が本格化する前、この分野への集中投資に踏み切る理由を明快に語っている。「確かにリスクは大きいが、世界市場の成長性を見れば、建機よりエレクトロニクスが勝る」。建機への投資が一段落したことも、判断を後押ししていた[6]。
投資の相手先には弱みがあった。コマツ電子金属は、信越化学工業系の信越半導体や住友シチックス(現・住友金属工業)といった専業に比べ、海外展開で後れを取り、世界では中位のメーカーにとどまっていた。上位に食い込めなければ将来の発展は望みにくい——そう見たコマツ電子金属は、米国と台湾に工場を同時新設し、一気に世界上位へ躍り出る賭けに出た。「これが最後のチャンスという思いがあった」と、同社の池田邦雄社長はのちに述懐している[7][8]。
経営の「モノサシ」転換と、中核事業への絞り込み
集中投資と並行して、安崎暁社長は経営の測り方そのものを改めた。売上高や利益の額よりも、連結の株主資本利益率や総資産利益率といった効率の指標を重んじる方針へ転じた。きっかけは、欧米の経営者らを招いた国際経営顧問委員会が、コマツのグループ戦略の弱さと、欧米の常識からすれば驚くほど低い資産効率を指摘したことにあった。規模の拡大を追ってきた経営の見直しが、内部からではなく外部の目によって促された[9]。
新しい物差しのもと、コマツは事業を建設機械・鉱山機械、エレクトロニクス、エンジニアリングの三つの中核に絞り込み、外れる事業を手放していった。塩化ビニル管などを手がける子会社の小松化成を積水化学工業へ売り、電子部品のユニゾンを清算した。プラスチックでは射出成型機に参入したものの、製品サイクルが短く後発では他社の開発速度に追いつけず、中核に育てることを断念した。エレクトロニクスは残す中核と定め、そこへ資源を寄せる選別のなかで、シリコンウエハーへの賭けは続いた[10][11]。
結果
半導体不況と重なった、初の連結赤字
賭けは、半導体市況の反転で崩れた。1998年後半からシリコンウエハーの需要が急速に後退し、価格も下落するなかで、米国と台湾に工場を同時建設したコマツ電子金属の負担が一気に膨らんだ。同社の不振に、公共投資の削減で沈んだ国内建機の内需不振が重なり、多角化部門の赤字を本業の利益で吸収しきれなくなった。1999年3月期、コマツの連結決算は当期純損失123億円を計上し、連結決算を導入して以来初の赤字に転落した[12][13]。
皮肉なことに、専業に追いつくための海外投資こそが傷を深めた。シリコンウエハーは、競合の顔ぶれが示すとおり素材型の事業で、信越半導体のような専業がシェアと技術で先行していた。後発のコマツ電子金属が同じ土俵で規模を追った矢先に不況が訪れ、逃げ場を失った。株式市場の評価も厳しく、1999年には建機に集中する日立建機にコマツの株価が逆転される場面が生まれた。多角化の重みが、本業の値打ちまで覆い隠しかけていた[14][15]。
事業再構築と、本業への回帰
赤字を受け、コマツは立て直しを急いだ。コマツ電子金属は完成したばかりの米工場の稼働を止め、1999年にその株式を親会社のコマツへ譲渡して、日本と台湾に事業を絞った。本体でも取締役を減らして執行役員制を導入し、意思決定を速める組織へ改めた。シリコンウエハーについて、エレクトロニクス部門を担う坂根正弘副社長は、技術で差別化して生き残るか、他社と提携するか、あるいは撤退するかを見定める段階に入ったことを認めていた[16][17]。
それでも多角化への未練は残り、安崎暁社長は「成長のない利益はまやかしだ」と述べて多角化の旗を降ろさなかった。本業への回帰が定まるのは、2001年に社長へ就いた坂根正弘社長の構造改革を待つことになる。半導体事業も、2006年にコマツ電子金属の株式をSUMCOへ譲渡してようやく手放した。建機のシクリカルな変動を嫌って選んだ多角化は、結局、本業の建設機械で独自の付加価値を磨く道へコマツを引き戻した[18]。
- 日経ビジネス 1993年11月22日号「コマツ。非建機拡大へ脱モーレツ 休暇充実や“直訴”制度化」
- 日経ビジネス 1998年7月20日号「コマツ 経営の“モノサシ”変え、事業再構築を図る」
- 日経ビジネス 1999年8月16日号「コマツ 多角化戦略で失速 研究エレクトロニクスへの巨額投資失敗 国内建機も不振、初の連結赤字に」
- コマツ 有価証券報告書(1999年3月期・連結)