砲弾生産への依存を断ち、ブルドーザーを主力とする建設機械への業態転換

売上高の72%を占めた砲弾を手放し、小松製作所はどのように建設機械メーカーへ生まれ変わったか

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時期 1956年5月
意思決定者 河合良成 社長
論点 収益構造の転換と主力事業の選択
概要
1956年、朝鮮特需の砲弾生産が細ると見た小松製作所が、大阪工場の生産を軍需の砲弾から建設機械へ切り替え、ブルドーザーを主力とする収益構造へ移した経営判断。河合良成社長の主導による。
背景
朝鮮動乱の砲弾特需は一時、小松製作所の売上高の72%を占めたが、米軍の発注ひとつで浮き沈みする不安定な収益であった。一方で、戦時から戦後にかけて蓄えたブルドーザー開発の技術が、転換の土台として育っていた。
内容
1956年、正式に払い下げを受けた大阪工場を民需へ転換し、鋳鋼・重機械とブルドーザーの生産へ切り替えた。あわせて全国都道府県への直販網整備と量産投資を進め、砲弾から建設機械への入れ替えを図った。
含意
需要が消えてから代わりを探すのでなく、事前の技術蓄積があったからこそ即座に量産へ移れた。1950年の時点でブルドーザーは総生産額の53%を占めており、砲弾を手放しても建設機械という主力が既に育っていた。
筆者の見解

需要が消える前に、次の柱を仕込む

この判断の要は、巨額の需要のただ中で、その需要が消えたあとを見据えていた点にある。砲弾特需は会社を救う太い収入であったが、小松製作所はそれに全てを賭けず、傍らでブルドーザーの一貫生産を整えていった。特需が細ったときに慌てて代わりを探したのではなく、平時から次の柱を育てていたからこそ、大阪工場の転換は滞りなく運んだとみることができる。目の前の好況に会社の未来を預けなかった抑制が、この業態転換を静かに支えていた。

ひとつの需要が永く続く保証はない。目の前の特需が太いほど、それが引いたときに残る空白も深くなる。小松製作所が砲弾から建設機械へ滑らかに移れたのは、需要の絶頂で次の事業を仕込んでいたからで、現在のコマツが建設機械メーカーとして世界で戦う姿は、この時期の選択に遡る。稼ぎ頭が細る前に、次の柱をどう用意しておくか——市況の波に業績を委ねる産業を抱える企業にとって、この問いは今なお古びていないとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

砲弾特需への傾斜と、その不安定さ

朝鮮動乱がもたらした軍需は、小松製作所の収益を一気に押し上げた。同社は1952年の入札で米軍向けの砲弾を大量に受注し、1952年から1955年までの4年間の受注額は約160億円、全国の砲弾受注の約4割に達した。この特需で砲弾は一時、売上高の72%を占めるまでに膨らんだ。戦後の資金繰りに苦しんだ会社にとって、砲弾は当面の資金を賄う有力な収入であり、旧大阪陸軍造兵廠枚方製造所の払い下げを受けて大阪工場を新設し、ここを砲弾生産の拠点とした[1][2]

もっとも、砲弾は外部の軍需に全面的に依存する収益であり、恒久的な事業とは考えられていなかった。経営陣は当初から、砲弾特需を当面の資金源と割り切っていた。実際、1953年7月に朝鮮戦争が休戦すると、砲弾の発注は自衛隊向けの備蓄需要へと性格を変え、米軍という一つの発注元の都合で浮き沈みする危うさが際立っていった。大阪工場の操業は砲弾生産に始まったものの、その一本の作業は1955年の民需転換をもって終わりを迎えた[3][4]

戦時のトロ車技術から続いたブルドーザー開発

砲弾に傾く一方で、小松製作所には建設機械へ進む素地が戦前から備わっていた。同社は1931年に農用トラクターの国産化に着手し、太平洋戦争の前から戦中にかけては、陸海軍の求めに応じてさまざまな牽引車や土工用車両を研究し製作した。1942年には粟津工場で、G40ガソリンエンジンを積んだトラクターに排土板を付けたブルドーザーを製作し、海軍施設部へ納入している。この軍需生産は難題の連続であったが、そこで積んだ経験が、戦後のブルドーザー開発を支える技術の基礎となった[5][6]

終戦後、主力のトラクターを失った小松製作所は、戦時中のトロ車の技術を土台にブルドーザーの生産に活路を求めた。1948年にブルドーザー一号機を含む14台を製作したが、いずれも試作の域を出ず故障が相次いだため、生産を一度止めて根本から改良し、1949年から粟津工場でエンジンから車体までの一貫生産を始めた。建設省が1948年度に建設機械整備費を独立の予算として設けたことも追い風となり、1950年にはブルドーザーの生産が127台に達し、主力製品としての見通しが固まり始めた[7][8]

決断

大阪工場を砲弾から建設機械へ

1956年、小松製作所は砲弾特需に区切りをつけ、大阪工場を軍需から民需へ切り替えた。同年、正式に払い下げを受けた大阪工場で鋳鋼と重機械類の製造を始め、河合良成社長のもとで、ブルドーザーを中心とする建設機械へ会社の重点を移した。砲弾という一時の資金源が細っていくのを見越し、その拠点を丸ごと建設機械の生産へ振り向ける判断であった。軍需に頼った収益を、平時の国土開発に応える事業へと入れ替える転換の要が、この大阪工場の民需転換にあった[9][10]

転換を支えたのは、販売と生産の両面での備えであった。小松製作所は1957年から全国の都道府県に支店・営業所・出張所の網を設け、代理店に頼らない建設機械の直販体制を築いていった。全国に散らばる工事現場へ自前で届く販路は、のちに油圧ショベルへ商品を広げるときにも効く資産となる。生産の面でも増強を進め、1960年には六割増産の体制を整え、同年9月には資本金を60億円へ増やしている。砲弾で得た資金と時間を、建設機械を量産して全国へ売り切る仕組みづくりへと注いだところに、この転換の実質があった[11]

蓄積があったからこそ即応できた

この転換の速さは、河合良成社長が早くから描いていた方針に根ざしていた。もとは農林官僚としてトラクター生産を勧めた縁で招かれた河合は、1947年末に社長へ就くと、争議で傷んだ会社を前に、長期的には機械メーカーの道を進むべきだと見定めていた。当面は仕事になるものをつかむことが急務であり、需要のある鋳鋼品と、育ち始めていた機械とを並び立たせる方針を立てた。砲弾はその「当面の仕事」の一つであり、機械メーカーへ向かう本筋を捨てて軍需へ移ったわけではなかった[12]

見落とせないのは、需要が現れる前からブルドーザーを仕込んでいた点である。1948年の段階では、ブルドーザーの需要はさほど見込めなかった。それでも小松製作所は、国土の復興と開発という長い目に立ち、白紙に戻った農耕トラクターに代わる将来の柱として開発を続けた。この事前の蓄積があったからこそ、砲弾が細ったのちに慌てて次を探すのでなく、すでに一貫生産を整えたブルドーザーの量産へ、間を置かず移ることができた[13]

結果

ブルドーザーが会社の主軸になるまで

砲弾を手放しても揺らがなかったのは、建設機械が既に会社の主軸へ育っていたからであった。朝鮮特需に沸く前の1950年、ブルドーザーは小松製作所の機械生産額の89%を占め、総生産額でみても53%に達していた。砲弾がまだ本格化する前から、建設機械は会社の生産の過半を担う主力になっていた。砲弾特需はこの本流の傍らを流れた一時の太い支流であり、それが引いたあとに残ったのは、戦中戦後の10年をかけて育てた建設機械という確かな幹であった[14]

折よく建設機械の市場そのものが急速に広がった。道路整備やダム建設をはじめとする土木投資の増大を受けて、建設機械の全国生産額は1957年の186億円から1960年には468億円へと伸び、ブルドーザーはその半ばを超える代表機種の座を保った。工期の短縮や人件費の節約を迫られた現場が競って機械を求め、建設機械の業界は「造れば売れる」時代を迎えた。砲弾から建設機械へと主力を移した小松製作所の判断は、この市場の拡大に乗り、世界有数の建機メーカーへと向かう土台となった[15][16]

出典・参考