竹内明太郎
経歴1885〜1921年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1885年主要役職の状況(推定含む目安)1921年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 芳谷炭坑(のち竹内鉱業) | 1885 | 佐賀県唐津の芳谷炭坑の経営に参画 | ||
| 1908 | 創業 | ||||
| 1911 | 芳谷炭坑株式会社を竹内鉱業株式会社に改称 | ||||
| 1917 | 創業 | ||||
| コマツ(旧・小松製作所) | 1921 | 設立 相談役 |
社長就任までの出自
出自
土佐藩士で自由党の領袖であった竹内綱氏の長男に生まれ、のちに首相となる吉田茂氏は実弟にあたる。1885年から佐賀県唐津の芳谷炭坑の経営に携わり、英国人技師を招いて採炭の方式を改め、英国から鉱山機械を入れて設備を一新した。竹内鉱業の社長として小松鉄工所を興し、これを分離独立させた小松製作所の創立者である。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
竹内明太郎氏を機械工業へ向かわせたのは、炭坑と銅山の経営で得た経験である。1899年にパリの万国博覧会を見学したのを機に、約1年をかけて欧米の銅山業・機械工業・造船業を見て回り、日清・日露の両戦争の教訓もあわせて機械工業の重要性に着目した。1908年に芳谷炭坑の事業として唐津鉄工所を設け、1910年に炭坑の経営を三菱合資会社へ譲ると、売却金の一部を工作機械部門の拡充に充てた。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「一創立者竹内明太郎」
- [4]明治32年、フランスの世界博覧会見学を機に約1カ年欧米の銅山業・機械工業・造船業を視察。その結果や日清・日露両戦争の教訓、炭坑・鉱山経営の経験から機械工業の重要性に着目し、41年に芳谷炭坑唐津鉄工所を創設、43年に芳谷炭坑の経営を三菱合資会社に譲渡し、売却金の一部を鉄工所の工作機械部門の拡充に当てた
- [5]明治32年、フランスの世界博覧会見学を機に約1カ年欧米の銅山業・機械工業・造船業を視察。その結果や日清・日露両戦争の教訓、炭坑・鉱山経営の経験から機械工業の重要性に着目し、41年に芳谷炭坑唐津鉄工所を創設、43年に芳谷炭坑の経営を三菱合資会社に譲渡し、売却金の一部を鉄工所の工作機械部門の拡充に当てた
- [6]明治32年、フランスの世界博覧会見学を機に約1カ年欧米の銅山業・機械工業・造船業を視察。その結果や日清・日露両戦争の教訓、炭坑・鉱山経営の経験から機械工業の重要性に着目し、41年に芳谷炭坑唐津鉄工所を創設、43年に芳谷炭坑の経営を三菱合資会社に譲渡し、売却金の一部を鉄工所の工作機械部門の拡充に当てた
技術者の育成にも資金を投じた。1902年ごろから機械・電気・採鉱・冶金の技術者を欧米へ留学させ、工科大学の設立を準備していたが、教授難に悩む早稲田大学の求めに応じてその計画を同大学へ譲った。1909年の理工科の発足時には、留学させた人材を専任教授として送り、2年間の給与も負担した。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「一創立者竹内明太郎」
- [7]明治35年ごろから機械・電気・建築・採鉱・冶金の学者や技術者を欧米に留学させ、39年ごろ工科大学設立の準備に着手。教授難で行き悩んでいた早稲田大学の援助要請に応え、計画をそっくり寄贈。42年の理工科発足時に留学させた人材を専任教授として送り込み、2カ年その給与を負担した
- [8]明治35年ごろから機械・電気・建築・採鉱・冶金の学者や技術者を欧米に留学させ、39年ごろ工科大学設立の準備に着手。教授難で行き悩んでいた早稲田大学の援助要請に応え、計画をそっくり寄贈。42年の理工科発足時に留学させた人材を専任教授として送り込み、2カ年その給与を負担した
- [9]明治35年ごろから機械・電気・建築・採鉱・冶金の学者や技術者を欧米に留学させ、39年ごろ工科大学設立の準備に着手。教授難で行き悩んでいた早稲田大学の援助要請に応え、計画をそっくり寄贈。42年の理工科発足時に留学させた人材を専任教授として送り込み、2カ年その給与を負担した
1911年から翌年にかけての2度目の外遊を経て、唐津鉄工所を独り立ちさせ、別に新しい鉄工所を開設する方針を固めた。用地には遊泉寺銅山に近い石川県能美郡小松町を選び、農村に工業を興して地方の産業を育てる考えを構想に組み込んだ。1916年初めには銅山所長の岩井興助氏や快進社社長の橋本増治郎氏を米国へ送って設備や工作機械を調べさせ、橋本増治郎氏には快進社社長のまま初代所長を兼ねてもらった。1917年1月に操業した小松鉄工所は自家用の工作機械と竹内鉱業の鉱山機械をつくり、確かな製品ができるまで外へは売らない方針をとった。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「当社の前身、小松鉄工所を開設」
- [10]明治44年から大正元年にかけての二度目の外遊で機械工業の役割の認識を深め、唐津鉄工所を自立させる一方、小松鉄工所の開設を決めた。地方産業の発達に資する趣旨で農村地域に工業を興す考え方を織り込み、遊泉寺銅山に近い石川県能美郡小松町に用地を求めた
- [11]明治44年から大正元年にかけての二度目の外遊で機械工業の役割の認識を深め、唐津鉄工所を自立させる一方、小松鉄工所の開設を決めた。地方産業の発達に資する趣旨で農村地域に工業を興す考え方を織り込み、遊泉寺銅山に近い石川県能美郡小松町に用地を求めた
- [12]大正5年初めから技術者を欧米に派遣。遊泉寺銅山所長岩井興助は米国で設備機械と冶金製鋼業を、快進社社長橋本増治郎は工作機械を調査。初代所長は竹内の依頼で橋本が快進社社長のまま兼任。大正6年1月操業、自家用工作機械と竹内鉱業傘下の鉱山用機械を製作し、確実な製品ができるまで外部に販売しない建て前とした
- [13]大正5年初めから技術者を欧米に派遣。遊泉寺銅山所長岩井興助は米国で設備機械と冶金製鋼業を、快進社社長橋本増治郎は工作機械を調査。初代所長は竹内の依頼で橋本が快進社社長のまま兼任。大正6年1月操業、自家用工作機械と竹内鉱業傘下の鉱山用機械を製作し、確実な製品ができるまで外部に販売しない建て前とした
国産の機械が欧米に劣る大きな理由は鉄鋼素材の質にあるとみて、特殊鋼の国産化も企てた。1916年末に米国へ発注した電気炉は大戦で届かず、同じ型の炉を自ら製造し、1918年に輸入品が届くと2基で鋳鋼の生産を始めた。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「新設小松電気製鋼所で鋳鋼生産」
- [14]国産機械が欧米に劣るのは鉄鋼素材の材質が悪いことが大きな理由と悟り、特殊鋼の国産化を計画。大正5年末に米国へ電気炉を注文したが大戦で輸入不能となり、同型炉を自家製造。8年に輸入が実現し、2基の電気炉で鋳鋼の生産を開始(竹内鉱業小松電気製鋼所)
- [15]国産機械が欧米に劣るのは鉄鋼素材の材質が悪いことが大きな理由と悟り、特殊鋼の国産化を計画。大正5年末に米国へ電気炉を注文したが大戦で輸入不能となり、同型炉を自家製造。8年に輸入が実現し、2基の電気炉で鋳鋼の生産を開始(竹内鉱業小松電気製鋼所)
大戦後の反動不況で竹内鉱業と関連事業が縮小に追い込まれ、小松鉄工所を切り離す方針が決まった。1921年5月13日に資本金100万円の株式会社小松製作所が設立登記を終え、1万株のうち9000株を竹内鉱業が、200株を竹内明太郎氏が持った。社長には甥の白石多士良氏が就任し、竹内明太郎氏は相談役にとどまったが、社史は経営の実権が相談役の竹内明太郎氏にあったと記している。掲げた方針は、同業者の手がけない品を他社より良く安くつくり、輸入機械を国産に置き換え、最後は独自の製品を海外へ輸出することであった。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「大正一〇年五月、当社誕生」
- [16]大戦後の反動不況で竹内鉱業と関連企業が業況不振に陥り事業を縮小。小松鉄工所を分離独立させる方針をとり、大正10年4月30日創立総会、5月13日設立登記。資本金100万円(1万株)、株主は竹内鉱業9000株、竹内明太郎200株ほか
- [17]大戦後の反動不況で竹内鉱業と関連企業が業況不振に陥り事業を縮小。小松鉄工所を分離独立させる方針をとり、大正10年4月30日創立総会、5月13日設立登記。資本金100万円(1万株)、株主は竹内鉱業9000株、竹内明太郎200株ほか
- [18]役員は取締役社長白石多士良ほかで、竹内明太郎は相談役に就任。初代社長白石多士良は竹内明太郎の甥。経営の実権は竹内相談役が握っていた。基本理念は、他の同業者が製作することを欲しないものを製作する、他の同業者よりよいものを安く作る、輸入機械の国産化に努め究極の理想を国産機械の輸出に置く
- [19]役員は取締役社長白石多士良ほかで、竹内明太郎は相談役に就任。初代社長白石多士良は竹内明太郎の甥。経営の実権は竹内相談役が握っていた。基本理念は、他の同業者が製作することを欲しないものを製作する、他の同業者よりよいものを安く作る、輸入機械の国産化に努め究極の理想を国産機械の輸出に置く
1922年4月には小松電気製鋼所を吸収し、機械と素材の鋳鋼を一つの経営で扱う体制の芽ができた。しかし不況は長引き、大資本の後ろ盾を持たない竹内鉱業も経営が悪化したため、1925年10月に中村税氏を経営責任者として外から招いた。
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「大正一〇年五月、当社誕生」
- [20]創立翌年の大正11年4月、竹内鉱業小松電気製鋼所の電気炉などの設備資産を吸収し、鉄工所と電気製鋼所が一つの経営のもとに置かれ、鋳鋼機械一貫生産の体制が芽ばえた
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(1971)「経営責任者に中村税を招く」
- [21]親会社の竹内鉱業も大資本の背景を持たず経営状態が著しく悪化。苦境を切り抜けるため中村税を経営責任者として招き、大正14年10月15日の臨時株主総会で新役員を選任
参考文献1件
参考文献
- 『小松製作所五十年の歩み 略史』(小松製作所, 1971年)「一創立者竹内明太郎」「当社の前身、小松鉄工所を開設」「大正一〇年五月、当社誕生」
事実根拠:出所(コマツ)