1919年〜 溶接の火花を追った創業者と、日本初の油圧式トラッククレーンを生んだ高松の鉄工所
- 1919年高松出身の多田野益雄が溶接業を興すため北海道旭川へ渡る。タダノはこの日(8月29日)を創業の日と定めている
- 1948年高松市藤塚町に株式会社多田野鉄工所を資本金50万円で設立。初代社長は多田野益雄、従業員4人・24坪の工場で操業を始める
- 1950年鉄道保線機械を開発し日本国有鉄道へ納入
- 1955年日本初の油圧式トラッククレーンOC-2型(2トン吊り)を開発し生産を開始。クレーンメーカーへの転換点となる
- 1959年本社工場を高松市新田町に新設移転
- 1960年OC-5A型4台をインドネシアへ輸出し、初の海外出荷となる
- 1962年カーゴクレーンTM-2H型を開発。車両搭載型クレーンが第二の柱となる
タダノの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
創業の日が三つあり、どれも間違いではない
タダノは創業の日を1919年8月29日と定めている。この日、高松に生まれた多田野益雄氏が、溶接業を興すために北海道の旭川へ渡った。当時の先端技術だった溶接の火花に魅せられ、技術を身につけたうえで北海道で事業を興したと同社は記す。数年後に拠点を室蘭へ移すが、1923年の関東大震災を機に高松へ帰り、溶接業のかたわら一時は銅鉱山を持っていたこともあったという。1945年7月の高松空襲は市街地の8割を焼いた。法人としての株式会社多田野鉄工所が高松市藤塚町に資本金50万円で設立されたのは、その3年後の1948年8月である。初代社長は益雄氏、従業員4人、工場は24坪だった。 [1][2][3][4]
- 統合報告書2019(株式会社タダノ)
- [1]1919年8月29日、多田野益雄が溶接業を興すため高松から北海道旭川へ渡った。同社はこの日を創業の日と定めている
- [2]数年後に室蘭へ移るが1923年の関東大震災を機に帰郷。高松では溶接業に加え一時期は銅鉱山を保有していた
- [3]1945年7月の高松空襲で市街地の8割が焼失した
- 有価証券報告書
- [4]1948年8月、高松市藤塚町に株式会社多田野鉄工所を資本金50万円で設立。初代社長は多田野益雄、従業員4人・24坪の工場から始まった
もっとも、始まりの日付は一つではない。日経ビジネス1997年8月25日号に載った談話で、二代目の多田野弘氏は「昭和21年、高松市内の焼け跡にバラックを建て、父と弟の3人で機械の修理を始めた。これが当社の創業です」と語っている。談話の父が初代社長の益雄氏で、弘氏はその長男である。1919年は創業者が個人として技術を手にした日、1946年は父子3人が焼け跡で仕事を再開した日、1948年は法人の登記日を指す。どれを創業と呼ぶかは、この会社が自らの出発点をどこに置くかという選択であって、事実の食い違いではない。旭川へ渡った溶接工と、焼け跡の修理屋と、資本金50万円の株式会社は、同じ家が続けた一つの仕事の別々の断面である。 [5]
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [5]多田野弘は1946年に高松市内の焼け跡にバラックを建て、父・弟と3人で機械の修理を始めたことを「当社の創業」と述べている
創業者が事業を起こすときに語ったとされる言葉が、いまも統合報告書の巻頭や裏表紙に載る。人の役に立つ仕事を選ぶこと、力を合わせること、そして他人がやっていない仕事を選ぶこと。この三つが、1961年に制定した社是「創造・奉仕・協力」の元になったと同社は説明する。企業は社会や人との調和の中で生かされている、という考え方がその根底にあったという。以後この三語は経営理念として掲げ続けられ、2018年以降の統合報告書は事業ピラミッドの頂点に置いて事業の目的そのものだと明記する。制定は油圧クレーンが売れ始めて社員が急に増えた時期で、理念の言語化は事業の成功より遅れた。 [6][7]
- 統合報告書2019(株式会社タダノ)
- [6]1961年に社是「創造・奉仕・協力」を制定した
- 統合報告書2018(株式会社タダノ)
- [7]創業者の言葉を根拠に経営理念「創造・奉仕・協力」が生まれたと同社が説明している
- 統合報告書2019(株式会社タダノ)
- [1]1919年8月29日、多田野益雄が溶接業を興すため高松から北海道旭川へ渡った。同社はこの日を創業の日と定めている
- [2]数年後に室蘭へ移るが1923年の関東大震災を機に帰郷。高松では溶接業に加え一時期は銅鉱山を保有していた
- [3]1945年7月の高松空襲で市街地の8割が焼失した
- [6]1961年に社是「創造・奉仕・協力」を制定した
- 有価証券報告書
- [4]1948年8月、高松市藤塚町に株式会社多田野鉄工所を資本金50万円で設立。初代社長は多田野益雄、従業員4人・24坪の工場から始まった
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [5]多田野弘は1946年に高松市内の焼け跡にバラックを建て、父・弟と3人で機械の修理を始めたことを「当社の創業」と述べている
- 統合報告書2018(株式会社タダノ)
- [7]創業者の言葉を根拠に経営理念「創造・奉仕・協力」が生まれたと同社が説明している
建設機械雑誌をヒントに作ったOC-2型
鉄工所は当初、修理と受託加工で食いつないだ。転機の一つは1950年の鉄道保線機械で、これを開発して日本国有鉄道へ納めている。もう一つは運送会社からの注文だった。荷物の上げ下ろしに使うクレーンを中古トラックの荷台に付けてほしいという依頼で、これを引き受けたところ、その運送会社が全国の営業所で採用したため「作る先から売れた」と多田野弘氏は振り返る。荷役の機械化という需要が、四国の小さな鉄工所に先に届いていた。一社の依頼から始まった仕事が全国の営業所へ広がれば、扱う台数の桁が変わる。修理屋が自社製品を持つ会社へ変わる入口は、自社の企画ではなく客の困りごとの側にあった。 [8][9]
- 統合報告書2023(株式会社タダノ)
- [8]1950年に鉄道保線機械を開発し日本国有鉄道へ納入した
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [9]運送会社の依頼で中古トラックの荷台に荷物の上げ下ろし用クレーンを付けた車両を製作し、その運送会社が全国の営業所で採用したため「作る先から売れた」
1954年に油圧式産業機械の開発へ着手し、翌1955年9月、油圧式トラッククレーンOC-2型を世に出した。吊り上げ能力2トン、日本で最初の油圧式トラッククレーンである。同社は開発のきっかけを、建設機械雑誌の情報をヒントにオリジナルの機械を作ったことだと記す。日本初という一点で全国から注文が殺到し、鉄工所の主力製品はここでクレーンに変わった。1959年には本社工場を高松市新田町へ移している。この土地には現在も本社と生産の中心が置かれ、以後の海外展開も四国から動かさないまま進んだ。 [10][11][12]
- 有価証券報告書
- [10]1955年9月に油圧式トラッククレーンOC-2型(2トン吊り)を開発し生産を開始した
- [12]1959年6月に本社工場を高松市新田町へ新設移転した
- 統合報告書2023(株式会社タダノ)
- [11]建設機械雑誌の情報をヒントにオリジナルの油圧式トラッククレーンOC-2型を開発生産し、日本初の製品ということで全国から注文が殺到した
油圧という選択が効いた理由は、クレーンそのものの新しさではない。ワイヤとウインチで動く機械式のクレーンはすでにあった。油圧は少ない操作で正確に力を伝えられるため、小型の車両に載せても扱える。クレーンの使い勝手は吊り上げ荷重だけでは決まらない。どこまで腕を伸ばせるか、どれだけ狭い場所へ入れるか、誰が動かせるか。油圧はこの三つを同時に良くする方向へ働いたと考えられる。トラックに載る大きさで、専門の運転手でなくても動かせる機械が現れたことが、建設現場と運送現場の双方に売れた理由であろう。輸出も早い。1960年にはOC-5A型4台をインドネシアへ送り、初の海外出荷を記録している。 [13]
- 統合報告書2023(株式会社タダノ)
- [13]1960年にOC-5A型4台をインドネシアへ輸出し初の海外出荷となった
- 統合報告書2023(株式会社タダノ)
- [8]1950年に鉄道保線機械を開発し日本国有鉄道へ納入した
- [11]建設機械雑誌の情報をヒントにオリジナルの油圧式トラッククレーンOC-2型を開発生産し、日本初の製品ということで全国から注文が殺到した
- [13]1960年にOC-5A型4台をインドネシアへ輸出し初の海外出荷となった
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [9]運送会社の依頼で中古トラックの荷台に荷物の上げ下ろし用クレーンを付けた車両を製作し、その運送会社が全国の営業所で採用したため「作る先から売れた」
- 有価証券報告書
- [10]1955年9月に油圧式トラッククレーンOC-2型(2トン吊り)を開発し生産を開始した
- [12]1959年6月に本社工場を高松市新田町へ新設移転した
ドラッカーを読んで人事を組み替えた二代目
売れる一方で、作る側は追いつかなかった。納期の遅れと不良品が目立ち、社員が100人、200人と増えた創業10年ほどの時期に経営が行き詰まる。機械は売れているのに社内が回らない。需要の不足ではなく、組織の作りが原因だった。多田野弘氏は後年、行き詰まりの理由を市況にも技術にも求めていない。海軍で鍛えられた率先垂範のやり方は社員が少ないうちは通じたが、規模が大きくなると通じなくなった。自分は「何のために経営するのか」という問いに答えを持たないまま、組織だけを大きくしていた、と述べている。 [14][15]
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [14]創業から10年近く、社員が100人・200人規模になった段階で経営が行き詰まった
- [15]多田野弘は海軍仕込みの率先垂範型リーダーシップが規模の拡大とともに通用しなくなったと述べている
答えを与えたのは、当時ようやく翻訳が出たドラッカーの『現代の経営』だった。企業の目的は利益であってはならない、利益は企業の存在価値を示す尺度にすぎない。この二つの命題に強い衝撃を受けたと弘氏は語る。香川県の経営者協会に入ったのは30歳そこそこのころで、明治生まれの経営者が並ぶ席で「高い賃金と高い利益を誇れるような企業にしたい」と発言し、大笑いされた。労働者を低い賃金で働かせ、利益と税金をごまかすのが有能な経営者と見られた時代である。青二才の理想論とあしらわれた席で、弘氏は「いまに見ておれ」と心の中で誓ったという。 [16][17]
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [16]ドラッカー『現代の経営』の「企業の目的は利益であってはならない」「利益はその企業の存在価値を示す尺度にすぎない」に衝撃を受けた
- [17]香川県の経営者協会に30歳そこそこで入会し、最年少だった
弘氏が手をつけたのは製品ではなく人事制度だった。現場を日給制から月給制へ改め、残業の割増分を固定給に含める約束で残業を廃し、タイムレコーダーと出勤簿をなくした。廃止前は平均2%が遅刻していたが、廃止後は遅刻が止まったという。指示や命令ではなく自発的に働く社風を作りたかったからで、社員は信頼されていることが分かればそれにこたえる、というのが本人の説明である。1967年ごろには四国で初めて完全週休2日制を実施した。1962年9月の大阪証券取引所市場第二部上場は、この制度改革と同じ時期にあたる。 [18][19][20]
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [18]タイムレコーダーと出勤簿の廃止前は平均2%が遅刻していたが、廃止後は遅刻が止まった
- [19]約30年前(1967年前後)に四国で初めて完全週休2日制を実施した
- 有価証券報告書
- [20]1962年9月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した
- 日経ビジネス 1997年8月25日号「有訓無訓 何のために経営するのか」
- [14]創業から10年近く、社員が100人・200人規模になった段階で経営が行き詰まった
- [15]多田野弘は海軍仕込みの率先垂範型リーダーシップが規模の拡大とともに通用しなくなったと述べている
- [16]ドラッカー『現代の経営』の「企業の目的は利益であってはならない」「利益はその企業の存在価値を示す尺度にすぎない」に衝撃を受けた
- [17]香川県の経営者協会に30歳そこそこで入会し、最年少だった
- [18]タイムレコーダーと出勤簿の廃止前は平均2%が遅刻していたが、廃止後は遅刻が止まった
- [19]約30年前(1967年前後)に四国で初めて完全週休2日制を実施した
- 有価証券報告書
- [20]1962年9月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した