タダノは創業の日を1919年8月29日と定めている。この日、高松に生まれた多田野益雄氏が、溶接業を興すために北海道の旭川へ渡った[1]。当時の先端技術だった溶接の火花に魅せられ、技術を身につけたうえで北海道で事業を興したと同社は記す。数年後に拠点を室蘭へ移すが、1923年の関東大震災を機に高松へ帰り、溶接業のかたわら一時は銅鉱山を持っていたこともあったという[2]。1945年7月の高松空襲は市街地の8割を焼いた[3]。法人としての株式会社多田野鉄工所が高松市藤塚町に資本金50万円で設立されたのは、その3年後の1948年8月である。初代社長は益雄氏、従業員4人、工場は24坪だった[4]。
もっとも、始まりの日付は一つではない。日経ビジネス1997年8月25日号に載った談話で、二代目の多田野弘氏は『昭和21年、高松市内の焼け跡にバラックを建て、父と弟の3人で機械の修理を始めた。これが当社の創業です』[引用元]と語っている[5]。談話の父が初代社長の益雄氏で、弘氏はその長男である。1919年は創業者が個人として技術を手にした日、1946年は父子3人が焼け跡で仕事を再開した日、1948年は法人の登記日を指す。どれを創業と呼ぶかは、この会社が自らの出発点をどこに置くかという選択であって、事実の食い違いではない。旭川へ渡った溶接工と、焼け跡の修理屋と、資本金50万円の株式会社は、同じ家が続けた一つの仕事の別々の断面である。
創業者が事業を起こすときに語ったとされる言葉が、いまも統合報告書の巻頭や裏表紙に載る。人の役に立つ仕事を選ぶこと、力を合わせること、そして他人がやっていない仕事を選ぶこと。この三つが、1961年に制定した社是『創造・奉仕・協力』[6]の元になったと同社は説明する[7]。企業は社会や人との調和の中で生かされている、という考え方がその根底にあったという。以後この三語は経営理念として掲げ続けられ、2018年以降の統合報告書は事業ピラミッドの頂点に置いて事業の目的そのものだと明記する。制定は油圧クレーンが売れ始めて社員が急に増えた時期で、理念の言語化は事業の成功より遅れた。
鉄工所は当初、修理と受託加工で食いつないだ。転機の一つは1950年の鉄道保線機械で、これを開発して日本国有鉄道へ納めている[8]。もう一つは運送会社からの注文だった。荷物の上げ下ろしに使うクレーンを中古トラックの荷台に付けてほしいという依頼で、これを引き受けたところ、その運送会社が全国の営業所で採用したため『作る先から売れた』[9]と多田野弘氏は振り返る。荷役の機械化という需要が、四国の小さな鉄工所に先に届いていた。一社の依頼から始まった仕事が全国の営業所へ広がれば、扱う台数の桁が変わる。修理屋が自社製品を持つ会社へ変わる入口は、自社の企画ではなく客の困りごとの側にあった。
1954年に油圧式産業機械の開発へ着手し、翌1955年9月、油圧式トラッククレーンOC-2型を世に出した。吊り上げ能力2トン[10]、日本で最初の油圧式トラッククレーンである。同社は開発のきっかけを、建設機械雑誌の情報をヒントにオリジナルの機械を作ったことだと記す。日本初という一点で全国から注文が殺到し[11]、鉄工所の主力製品はここでクレーンに変わった。1959年には本社工場を高松市新田町へ移している[12]。この土地には現在も本社と生産の中心が置かれ、以後の海外展開も四国から動かさないまま進んだ。
油圧という選択が効いた理由は、クレーンそのものの新しさではない。ワイヤとウインチで動く機械式のクレーンはすでにあった。油圧は少ない操作で正確に力を伝えられるため、小型の車両に載せても扱える。クレーンの使い勝手は吊り上げ荷重だけでは決まらない。どこまで腕を伸ばせるか、どれだけ狭い場所へ入れるか、誰が動かせるか。油圧はこの三つを同時に良くする方向へ働いたと考えられる。トラックに載る大きさで、専門の運転手でなくても動かせる機械が現れたことが、建設現場と運送現場の双方に売れた理由であろう。輸出も早い。1960年にはOC-5A型4台をインドネシアへ送り、初の海外出荷を記録している[13]。
売れる一方で、作る側は追いつかなかった。納期の遅れと不良品が目立ち、社員が100人、200人と増えた創業10年ほどの時期に経営が行き詰まる[14]。機械は売れているのに社内が回らない。需要の不足ではなく、組織の作りが原因だった。多田野弘氏は後年、行き詰まりの理由を市況にも技術にも求めていない。海軍で鍛えられた率先垂範のやり方は社員が少ないうちは通じたが、規模が大きくなると通じなくなった[15]。
答えを与えたのは、当時ようやく翻訳が出たドラッカーの『現代の経営』だった。企業の目的は利益であってはならない。利益は企業の存在価値を示す尺度にすぎない。この二つの命題に強い衝撃を受けたと弘氏は語る[16]。香川県の経営者協会に入ったのは30歳そこそこのころで[17]、明治生まれの経営者が並ぶ席で『高い賃金と高い利益を誇れるような企業にしたい』[引用元]と発言し、大笑いされた。労働者を低い賃金で働かせ、利益と税金をごまかすのが有能な経営者と見られた時代である。青二才の理想論とあしらわれた席で、弘氏は『いまに見ておれ』と心の中で誓ったという。
弘氏が手をつけたのは製品ではなく人事制度だった。現場を日給制から月給制へ改め、残業の割増分を固定給に含める約束で残業を廃し、タイムレコーダーと出勤簿をなくした。廃止前は平均2%が遅刻していたが、廃止後は遅刻が止まった[18]という。指示や命令ではなく自発的に働く社風を作りたかったからで、社員は信頼されていることが分かればそれにこたえる、というのが本人の説明である。1967年ごろには四国で初めて完全週休2日制を実施した[19]。1962年9月の大阪証券取引所市場第二部上場[20]は、この制度改革と同じ時期にあたる。
1962年に開発したカーゴクレーンTM-2H型が、トラックの荷台に載せる車両搭載型クレーンの原型となり、のちに第二の製品系列となった[21]。営業網も同じころ全国へ広がる。1958年の大阪を皮切りに、1964年名古屋、1966年仙台、1968年札幌と広島、1971年福岡、1978年関東、1979年北陸と営業所を置き[22]、いずれも現在の支店網の元になっている。クレーンは売った後の部品供給と修理が長く続く商品で、地方に人を置くこと自体が商品力の一部を成していた。1971年3月に東京証券取引所市場第二部へ上場し、翌1972年1月には東京・大阪の両市場第一部へ指定替えとなった[23]。
製品側の大きな一手は1970年のラフテレーンクレーンTR-150である。吊り上げ能力15トン、日本で最初のラフテレーンクレーンだった[24]。ラフテレーンは不整地や狭い場所で使う自走式クレーンで、一つの運転席から走行と操作の両方を行う。造成前の現場や工場の構内など、大型のトラッククレーンが入れない場所を市場にできた。日本の建設現場は狭く、道路の幅も一様ではない。海外製の大型機をそのまま持ち込めない条件が、この国に独自の機種を育てた面があるだろう。
1972年には過負荷防止装置AMLを日本で最初に開発している[25]。吊り荷の重さと作業半径から転倒の限界を計算し、危険な操作を止める装置で、以後この会社の商品説明では安全装置が性能と並ぶ位置を占め続ける。クレーンの事故は、機械が壊れることよりも能力を超えた使い方から起きる。使い方の限界を機械の側に組み込む発想は、吊り上げ荷重を競う軸とは別の場所にある。ただし装置を自社で開発したことは、事故が起きたときの責任もまた自社に返ることを意味した。同社が最大規模のリコールに直面するのは、この装置の系譜の上でのことである。
1971年8月に神奈川県愛川町へ厚木工場を建て、1980年4月には香川県志度町に志度工場を新設した[26]。生産は四国と関東の二極になり、1988年7月には千葉県佐倉市に佐倉工場を設けて厚木工場を閉鎖移転している[27]。厚木から佐倉への移し替えは、首都圏の需要に近い場所で作る方針を続けたことを示す。主力の生産は香川に置き、関東にも拠点を持つ二極の形は以後も維持された。1987年9月には東京都墨田区に自社ビルの東京事務所を構えた[28]。高松の鉄工所は、この20年で全国に生産と販売の拠点を持つ機械メーカーへ姿を変えた。
1983年1月に発売した高所作業車AT-136TE・AT-140TEが、三本目の製品系列となった[29]。電力会社の配電工事で使う活線作業車で、クレーンとは載せる物が違うだけで、車両に作業機を積み、伸ばし、支えるという技術は共通している。物を吊る機械と人を上げる機械では、求められる安全の質も変わる。吊るための機械から人を高い所へ運ぶ機械まで幅を広げたことで、建設投資の増減だけに業績が左右される度合いは下がったとみられる。1985年前後には四国特装やタダノ産業といった子会社を相次いで設け[30]、販売と製造の周辺を固めている。
海外への出方は慎重だった。1973年8月にオランダへタダノ・インターナショナル(ヨーロッパ)B.V.を設立したのが初の海外子会社で[31]、1984年に北京事務所を開いている[32]。輸出そのものは1960年のインドネシア向けから続いていたが、生産を海外に持つことはこの時期にはまだしていない。売る先を広げ、部品と修理の面倒を見る体制を先に置いた。1990年代に入るまで、海外は売る場所であって作る場所ではなかった。生産を海外に持つのは1990年のドイツが最初で、その一手は既存メーカーの買収という形を取った。
1989年7月、商号を株式会社多田野鉄工所から株式会社タダノへ改めた。同じ年度に連結売上高が初めて1,000億円を超えている[33]。1948年の資本金50万円・従業員4人から40年での到達である。創業者の姓をそのまま片仮名にした社名は、国内の鉄工所から海外で通じる商標への切り替えを示す。鉄工所という語を外したのは、売る相手が国内の建設会社だけではなくなる直前だった。前後して四国機工とニューエラーを子会社に加え、1990年10月には国際機械商事も傘下に入れた[34]。改称の翌年に始まるドイツでの買収を思えば、社名の変更はその準備でもあったとみられる。
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|---|---|---|---|---|
| 1919〜1962年溶接の火花を追った創業者と、日本初の油圧式トラッククレーンを生んだ高松の鉄工所 | 多田野益雄氏が北海道旭川で溶接業を創業 | ★ | ||
| 多田野鉄工所を設立 | ★ | |||
| 多田野益雄氏が初代社長に就任 | ★ | |||
| 鉄道保線機械を開発し日本国有鉄道へ納入 | ★ | |||
| 本社工場を新設移転 | ★ | |||
| 日本初の油圧式トラッククレーンOC-2型を開発 | ★★ | |||
| OC-2型の生産を開始 | ★ | |||
| 本社工場を新設移転 | ★ | |||
| OC-5A型4台をインドネシアへ初輸出 | ★ | |||
| 社是「創造・奉仕・協力」を制定 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| カーゴクレーンTM-2H型を開発 | ★ | |||
| 1963〜1989年ラフテレーンと高所作業車で製品を三本に増やし、社名をタダノに改めるまで | 札幌営業所、広島営業所を開設 | ★ | ||
| 日本初のラフテレーンクレーンTR-150を開発 | ★★ | |||
| 厚木工場を新設(1988年7月に閉鎖移転) | ★ | |||
| 日本初の過負荷防止装置(AML)を開発 | ★ | |||
| 初の海外子会社タダノ・インターナショナル(ヨーロッパ)B.V.を設立 | ★ | |||
| 子会社タダノ・エンタープライズを設立(2009年10月にタダノテクノ東日本へ吸収合併) | ★ | |||
| 志度工場を新設 | ★ | |||
| 高所作業車AT-136TE・AT-140TEを発売 | ★ | |||
| 佐倉工場を新設 | ★ | |||
| 厚木工場を閉鎖 | ★ | |||
| 商号をタダノに商号変更。同年度に連結売上高が初めて1,000億円を超える | ★ | |||
| 1990〜2008年ドイツのファウンを買い、上場来初の赤字を出し、リコールで安全を問い直す | ファウンGmbHを設立 | ★ | ||
| ファウンAGのクレーン・車両部門を買収 | ★★ | |||
| 当時日本最大となる550トン吊りオールテレーンクレーンAR-5500Mを開発 | ★ | |||
| 1998年度に上場来初の当期損失を計上 | ★★ | |||
| 選択定年制の拡充で119人が退職 | ★ | |||
| 車両搭載型クレーンの販売子会社13社を解散 | ★ | |||
| 多田野宏一 | 死亡事故を受けたラフテレーンクレーン15,278台のリコール届出とCSR憲章の制定 2004年8月に岡山県の国道でタダノ製ラフテレーンクレーンが起こした死亡事故を受け、同年12月に8型式16機種15,278台のリコールを届け出た経営判断。対象は1983年から1998年に製造された機体で、同社として最大規模のリコールであった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 多田野宏一 | 8型式16機種15,278台のリコールを届出 | ★★ | ||
| 多田野宏一 | 多度津工場を新設 | ★ | ||
| 多田野宏一 | 事業領域のLE(移動機能付き抗重力・空間作業機械)への限定と、多角化の不採用 2008年、タダノが事業領域をLE(Lifting Equipment=移動機能付き抗重力・空間作業機械)と定義し、吊る・持ち上げる・高い所で作業する移動できる機械に事業を限ると明文化した経営判断。多角化で需要の振れを吸収する道を採らず、一つの分野で世界一を目指す方針を掲げた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2009〜2025年デマーグ買収で世界最大手級となり、欧州の赤字と長く向き合う | 多田野宏一 | 子会社タダノ・タイランドCo., Ltd.を設立(2024年12月解散) | ★ | |
| 多田野宏一 | クレーンズ・ユーケーLtd.を買収 | ★ | ||
| 多田野宏一 | タダノ・エスコーツ・インディアPvt. Ltd.を設立 | ★ | ||
| 多田野宏一 | 米テレックスからのデマーグクレーン事業の取得と、ドイツ生産拠点の集約 2019年2月23日、タダノが米テレックス・コーポレーションの持つデマーグブランドのクレーン事業を約2億1,500万ドル(約236億円)で取得すると発表し、同年7月31日に完了した経営判断。8社の株式取得と11社の事業譲受を含む取引で、超大型のオールテレーンクレーンとクローラクレーンを一度に商品系列へ加えた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 多田野宏一 | 香西工場を新設し本格稼働。創業100周年を迎えた | ★ | ||
| 多田野宏一 | 現地法に基づく事業再生手続きを申請 | ★★ | ||
| 氏家俊明 | 創業家以外からの初の社長登用と、丸紅出身者への経営の移譲 2021年2月19日、タダノが氏家俊明副社長の社長CEO昇格を発表し、4月1日に就任した経営判断。1948年の設立以来、社長は創業家の多田野家が務めてきたが、丸紅出身で2019年に入社したばかりの人物へ経営が渡った。多田野宏一社長は代表権のある会長へ退いた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 氏家俊明 | 世界初のフル電動ラフテレーンクレーンEVOLT eGR-250Nを発売 | ★ | ||
| 氏家俊明 | マニテックス・インターナショナルInc.ほか14社を子会社化 | ★★ |
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事実根拠:出所(タダノ)