クラリオン の歴史

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創業 1940年
創業者 滝沢左内・高岡正義
創業地 東京都文京区
創業 1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、セルロイド製
1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、セルロイド製の電槽に硫酸をコロイド状に固めた蓄電池の製造を開始した。生糸相場の暴落を郷里で見た滝澤氏は、生産者が価格を決められる事業でなければ将来性はないと考えていた。1930年2月に白山無線へ改め、1940年12月18日には資本金18万円の白山無線電機株式会社を設立して電池式の家庭用ラジオを作る。1943年11月に瀧澤無線電機工業を合併して商号を帝国電波へ、1970年12月には製品ブランドに合わせてクラリオンへ改めた。他社が交流式へ移るなか、人口の35%に電気が届かない国で電池式の専業を選んだところに出発点がある。
決断 装置を売るために、その装置で流す中身の側へ資本を入れてきた。1948年1月、飛行
装置を売るために、その装置で流す中身の側へ資本を入れてきた。1948年1月、飛行機の生産が止まった中島飛行機へ滝澤左内氏が共同研究を持ちかけ、わが国最初のカーラジオを作った。1963年10月に開発したカーステレオは、国内のレコード会社が音楽テープの供給に応じず、ロサンゼルスのマンツ社と提携してテープを確保し、まず米国へ売り出した。日本コロムビアの承諾も得て、売上は1969年9月期にカーラジオを上回った。1978年からは送受信機を売るために米国のペイテレビ会社へ自ら出資したが、利用者は採算を確保できる4万5,000世帯に達せず、1984年9月期に11億7,000万円の特別損失を計上して撤退した。中身を先に手当てする手順は、テープでは市場を開拓し、放送では損失で終わった。
現況 最後の決算で最も大きな損失を計上したのは、創業以来の本拠である日本だった。201
最後の決算で最も大きな損失を計上したのは、創業以来の本拠である日本だった。2018年3月期の売上収益1,831億円は、米州806億円、日本577億円、アジア・豪州312億円、欧州136億円で構成される。営業損益は米州23億円、アジア・豪州29億円の黒字に対し、日本は5億9,600万円、欧州は1億9,000万円の損失であった。1999年に筆頭株主で最大の取引先でもある日産自動車が打ち出した日産リバイバルプランは、調達原価の3年2割引き下げを掲げて収益を直撃し、2001年9月中間期には自己資本比率が0.2%まで下がっている。2004年12月に日立製作所が筆頭株主となり2006年12月に公開買付で子会社となったのち、2019年3月25日に上場廃止となり、翌4月にフォルシアの第4の事業部門へ入った。
競合 順位を決めたのは音ではなく、どの完成車メーカーの純正に入れたかである。1961年
順位を決めたのは音ではなく、どの完成車メーカーの純正に入れたかである。1961年9月期の自動車ラジオで帝国電波は神戸工業と松下通信工業に次ぐ3位、占有率は20%程度にとどまった。一方でバス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占めて首位に立っている。小山田豊氏は1955年から4年間、初めは門前払いされた日産自動車へ通いつめて1959年に純正部品の指定を取り付け、国内純正部品で30〜35%のシェアを得た。1969年9月期にはカーオーディオが売上のほぼ90%を占め、その4割が同社へ流れる。純正へ入る早さが順位を決めた市場で納入先を1社へ寄せたことが、1974年と1975年9月期の減産では経常利益の2期連続の半減を、1999年の再建計画では8期ぶりの営業赤字を招いた。
長期業績の推移 1958〜2018年
クラリオン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2018年3月期

第1章 1940年〜 白山電池合名会社の蓄電池から日本初のカーラジオへ

筆者考察y.sugiura, author

滝澤左内氏が生糸の暴落から引き出したのは、相場は危ないという教訓ではなく、価格を誰が決めるのかという問いだった。生糸の値はそれを買うアメリカ人が決めていて、作る側の手には何も残らない。蓄電池も電池式ラジオもカーラジオも、この会社が選んだ製品は、いずれも値を自分で決められる位置を探した結果である。蓄電池では硫酸をコロイド状に固める特許で他社の参入を止め、ラジオでは各社が交流式へ移ったあとの電池式に一社で残り、カーラジオでは国内に先行者のいない場所へ最初に立った。競争相手の少ない市場を選ぶことと、値を自分で決められることは、滝澤左内氏にとって同じ一つのことだった。

カーラジオを本命と見定めた根拠は、自動車が伸びるという読みではなく、電源がバッテリーだという一点にある。蓄電池から出発した会社にとって、電気が家庭へ行き渡っていく時代に電池式のラジオが残れる場所は、走る車のほかになかった。敗戦で飛行機を作れなくなった中島飛行機が、余ったジュラルミンの行き場としてバスを選んだのと同じ形で、帝国電波も自社の技術の行き場として自動車を選んでいる。月産60台から始まった車載ラジオは、1952年の日野自動車への純正納入を足がかりに、1961年9月期には売上の74%を占めるまでになった。ただしその時、製品の値を決める相手は、生糸を買ったアメリカ人から完成車メーカーへ替わっていた。

売上高(単体) 1958年11月期〜1961年9月期(億円)

3 58.11 4 59.9 7 60.9 11 61.9
  • 1958年11月期のみ決算期が異なる。出所は1958年11月期が会社年鑑 1963年版、1959年9月期以降が会社年鑑 1967年版。

1940年〜生糸相場の暴落が決めた蓄電池という選択

創業者の滝澤左内氏は養蚕の盛んな長野県に生まれ、生家も生糸業に関わっていた。大正末期から昭和初期にかけて生糸と原料の繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に預け、倉庫券を担保に資金を借りて商いをしていた生糸家は増担保を迫られた。滝澤左内氏の生家もその影響を免れなかった。生糸の価格を決めていたのは生産者ではなく、それを買うアメリカ人だった。少年期から青年期にかけてこれを身近に見た滝澤左内氏は、生産者が価格を決められる事業でなければ将来性はないと考えた。ちょうど懐中電灯が普及し、スイッチを切り忘れれば一晩で切れる乾電池が使い捨てられていたため、滝澤左内氏はそこに蓄電するという着想を得た。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [1]滝澤左内氏の出身地は当時の養蚕王国長野県で、生家も生糸業に関係していた
    • [2]大正末期から昭和初期にかけて生糸と繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に入れ倉庫券を担保に資金を借りていた生糸家は増担保を余儀なくされた
    • [3]滝澤左内氏の生家も生糸暴落の影響を免れなかった
    • [4]生糸価格の決定は生産者ではなく、それを買うアメリカ人の手にゆだねられていた
    • [5]少年から青年にかけての時代にこれを身近に経験した結果、生産者が価格を決定できる事業でなければ将来性はないと考えるようになった
    • [6]当時普及し始めた懐中電灯の電池は、スイッチを消し忘れれば一晩でなくなり使い切ると捨てられていたため、これに蓄電することを考えついた

滝澤左内氏は蓄電池を学ぶため、大学へ進むより上京して図書館で調べるほうが得策だと考え、反対する両親を説き伏せて東京へ出た。蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み込み、原理をつかんで製造に入った。当時の蓄電池は電槽に入れた硫酸が流出する危険を抱えており、滝澤左内氏は研究を重ねて硫酸をコロイド状に固めることに成功し、特許権を得て販売を開始した。電槽には日本で最初のセルロイド製を用いた。1924年8月、滝澤左内氏は東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、蓄電池の製作に取りかかった。独学で入った製造業でありながら、他社が同じものを作れない領域を特許で先に押さえている。価格を決められる側に立つという創業時の基準は、製品の選び方だけでなく、その製品をどう囲うかにも及んでいた。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [7]蓄電池を勉強するには大学に入学するより上京して図書館等で勉強する方が得策と考え、反対する両親を説き伏せて上京した
    • [8]蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み、蓄電池の原理をつかんでその製造に着手した
    • [9]電槽に入れた硫酸は流出の危険があったため研究を重ねてコロイド状にすることに成功し、特許権を得て販売を開始した
    • [10]電槽には日本で最初のセルロイド製電槽を使用した
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [11]1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し蓄電池の製作を始めた(創業年は資料により異なり、蓄電池メーカーとしての事業開始を1925年4月とする記述もある)

蓄電池は、それ自体で需要を生む製品ではない。電気で動く機械が広まって初めて売れる。1925年に始まったラジオ放送は、当初は電池がなければ聴くことができず、蓄電池にとって最大の用途がここで現れた。白山電池合名会社は同年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造へ進み、電池を納める側から受信機そのものを作る側へ前へ出た。1930年2月には社名を白山無線に改め、ラジオ無線機の製造販売を手がけている。1940年12月18日、合名会社から株式会社へ組織を変え、東京都文京区白山前町21番地に資本金18万円の白山無線電機株式会社を設立し、電池式家庭用ラジオの製造を開始した。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [12]1925年の放送開始当初、ラジオ放送は電池でしか聴取できなかった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [13]1925年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造を開始した
    • [17]1940年12月、資本金18万円をもって白山無線電機株式会社を設立(設立日は1940年12月18日)
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [14]1930年2月、白山無線と改称しラジオ無線機の製造販売を開始した
    • [15]1940年12月、白山無線電機株式会社に組織変更した
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1940年12月18日、東京都文京区白山前町21番地に白山無線電機株式会社を設立
    • [18]電池式家庭用ラジオの製造を開始
参考文献[1]-[18]
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [1]滝澤左内氏の出身地は当時の養蚕王国長野県で、生家も生糸業に関係していた
    • [2]大正末期から昭和初期にかけて生糸と繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に入れ倉庫券を担保に資金を借りていた生糸家は増担保を余儀なくされた
    • [3]滝澤左内氏の生家も生糸暴落の影響を免れなかった
    • [4]生糸価格の決定は生産者ではなく、それを買うアメリカ人の手にゆだねられていた
    • [5]少年から青年にかけての時代にこれを身近に経験した結果、生産者が価格を決定できる事業でなければ将来性はないと考えるようになった
    • [6]当時普及し始めた懐中電灯の電池は、スイッチを消し忘れれば一晩でなくなり使い切ると捨てられていたため、これに蓄電することを考えついた
    • [7]蓄電池を勉強するには大学に入学するより上京して図書館等で勉強する方が得策と考え、反対する両親を説き伏せて上京した
    • [8]蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み、蓄電池の原理をつかんでその製造に着手した
    • [9]電槽に入れた硫酸は流出の危険があったため研究を重ねてコロイド状にすることに成功し、特許権を得て販売を開始した
    • [10]電槽には日本で最初のセルロイド製電槽を使用した
    • [12]1925年の放送開始当初、ラジオ放送は電池でしか聴取できなかった
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [11]1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し蓄電池の製作を始めた(創業年は資料により異なり、蓄電池メーカーとしての事業開始を1925年4月とする記述もある)
    • [14]1930年2月、白山無線と改称しラジオ無線機の製造販売を開始した
    • [15]1940年12月、白山無線電機株式会社に組織変更した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [13]1925年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造を開始した
    • [17]1940年12月、資本金18万円をもって白山無線電機株式会社を設立(設立日は1940年12月18日)
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1940年12月18日、東京都文京区白山前町21番地に白山無線電機株式会社を設立
    • [18]電池式家庭用ラジオの製造を開始

1941年〜交流式への転換期に選んだ電池式ラジオ専業

第二次世界大戦が始まると、蓄電池は潜水艦の機動力に振り向けられ、民間ではほとんど使えなくなった。白山無線電機はラジオへ進み、蓄電池を手がけてきた関係から電池式に目をつけた。1925年の放送開始当初は電池がなければラジオを聴けなかったが、電気で聴けるようになると、ラジオメーカーはほとんどが交流式へ切り替えていた。それでも当時は全国に電気が行き渡らず、人口の35%は電気を使えなかった。滝澤左内氏は、他社が交流式に集まるなかで電池式の専門メーカーになるほうが賢明だと判断した。1941年には日本で第一号のポータブルラジオを開発し、製造販売を開始した。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [19]第二次大戦の開始と同時に、蓄電池は潜水艦の機動力に使うため民間での使用がほとんど不可能になった
    • [20]そこでラジオに進出し、蓄電池の製造・販売を手がけていた関係から電池式ラジオに目をつけた
    • [21]1925年の放送開始当初は電池でしか聴取できなかったが、電気で聴けるようになってからはラジオ・メーカーはほとんどすべて交流式ラジオに切り替えていた
    • [22]当時は全国に電気がいきわたっておらず、人口の35%は電気の恩恵に浴していなかった
    • [23]ラジオ・メーカーのほとんどが交流式であることから、電池式の専門メーカーになった方が賢明ではないかと考えた
    • [24]1941年に日本で第一号のポータブル・ラジオを開発し、製造・販売を開始した

1943年11月、白山無線電機は資本金15万円の瀧澤無線電機工業株式会社を合併して商号を帝国電波株式会社に改め、資本金は設立時の18万円から33万円に増えた。翌1944年8月には東京無線工業株式会社を合併し、資本金を37万7,500円とした。2年のあいだに同業2社を吸収したことになる。空襲で発電所が止まると、電気に頼らずに聴ける帝国電波のラジオは注目を集めた。交流式が主流になった市場で電池式に残る判断は、平時には売り先の狭さを引き受けることだったが、送電そのものが途絶する局面では、需要の側が電池式へ戻ってきた。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1943年11月、瀧澤無線電機工業株式会社を合併し帝国電波株式会社と改称
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [26]1943年11月、白山無線電機と滝沢無線電機工業(資本金15万円)が合併して帝国電波と改称し、資本金は33万円となった(設立時資本金は18万円)
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [27]1944年8月に東京無線工業株式会社を合併し、資本金は4万7,500円増えて37万7,500円となった
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [28]電池式は空襲による発電所機能のストップで大きくクローズアップされるに至った

文京区白山に本社と工場を復興させ、民生用ラジオの生産へ戻ったのは1946年5月で、帝国電波はそれまで、1945年4月の戦災で本社工場と尾久工場を失って以来、静岡県の富士宮工場で操業を続けていた。同じ1946年に考案したブランド名"クラリオン"は、澄みわたる良い音や、そうした音を出す楽器を意味する語に由来し、標章はCLARIONの頭文字Cの中央に電波のシンボルマークを置いた意匠とした。設備を失ったばかりの会社は、生産を立て直すのと同時に、製品に付ける自社の名前にも着手した。受注で作る限り製品には買い手の名が付き値も買い手が決めるので、生糸の相場で得た基準を製品で満たすには、自分の名で呼ばれる商品が欠かせなかった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [29]1946年5月、本社ならびに工場を文京区白山に復興し、民生用ラジオの生産を始めた
    • [30]1945年4月、戦災により本社工場・尾久工場を焼失し、静岡県富士宮工場で操業を継続した
    • [31]クラリオンは澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意で、ブランドとして1946年に考案した。標章はCLARIONの頭文字Cと中央に配した電波のシンボルマークから成る
参考文献[19]-[31]
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [19]第二次大戦の開始と同時に、蓄電池は潜水艦の機動力に使うため民間での使用がほとんど不可能になった
    • [20]そこでラジオに進出し、蓄電池の製造・販売を手がけていた関係から電池式ラジオに目をつけた
    • [21]1925年の放送開始当初は電池でしか聴取できなかったが、電気で聴けるようになってからはラジオ・メーカーはほとんどすべて交流式ラジオに切り替えていた
    • [22]当時は全国に電気がいきわたっておらず、人口の35%は電気の恩恵に浴していなかった
    • [23]ラジオ・メーカーのほとんどが交流式であることから、電池式の専門メーカーになった方が賢明ではないかと考えた
    • [24]1941年に日本で第一号のポータブル・ラジオを開発し、製造・販売を開始した
    • [28]電池式は空襲による発電所機能のストップで大きくクローズアップされるに至った
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [25]1943年11月、瀧澤無線電機工業株式会社を合併し帝国電波株式会社と改称
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [26]1943年11月、白山無線電機と滝沢無線電機工業(資本金15万円)が合併して帝国電波と改称し、資本金は33万円となった(設立時資本金は18万円)
    • [29]1946年5月、本社ならびに工場を文京区白山に復興し、民生用ラジオの生産を始めた
    • [30]1945年4月、戦災により本社工場・尾久工場を焼失し、静岡県富士宮工場で操業を継続した
    • [31]クラリオンは澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意で、ブランドとして1946年に考案した。標章はCLARIONの頭文字Cと中央に配した電波のシンボルマークから成る
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [27]1944年8月に東京無線工業株式会社を合併し、資本金は4万7,500円増えて37万7,500円となった

1948年〜中島飛行機との共同研究から生まれた車載ラジオ

戦後、連合軍の進駐とともにアメリカの自動車が流入し、その車には自動車専用のラジオが組み付けられていた。滝澤左内氏は、カーラジオがバッテリーを電源とする電池式ラジオであることから、これを帝国電波の本命商品と見定めた。敗戦で飛行機の生産が止まった中島飛行機は、手元に残ったジュラルミンを別の製品に振り向ける必要に迫られ、バスの製造を選んでいた。バスは50人から70人を乗せるためマイクロフォンもラジオも要ると考えた滝澤左内氏は、同社に足を運んでバス搭載用ラジオの共同研究を持ちかけ、話をまとめた。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [32]戦後、連合軍の進駐と同時にアメリカの自動車が流入し、それには自動車専用のラジオが組み付けられていた
    • [33]自動車専用ラジオすなわちカーラジオはバッテリーを電源とする電池式ラジオであるため、これを本命商品とみた
    • [34]敗戦により飛行機の生産が中止され、飛行機生産メーカーは手持材料のジュラルミンを何かの製造に向けねばならず、中島飛行機はそれをバスの製造に向けた
    • [35]バスには50〜70人が乗るためマイクロフォンもラジオも必要と考え、中島飛行機に足を運んでバス搭載専用ラジオの共同研究を持ちかけ、話がまとまった

1948年1月、帝国電波はわが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を開発し、製造販売を開始した。日本第一号の自動車専用ラジオが生まれたのは1947年——滝澤左内社長が1967年の講演で示した年代である。当初の生産は月60台だった。1948年12月には62万2,500円を増資し、資本金を100万円に引き上げた。日産自動車が生産を再開し、日野自動車がルノーの生産を開始すると、帝国電波の自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオへ移った。1952年、帝国電波は日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を締結し、製造と納入を始めた。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1948年1月、わが国最初のカーラジオ、バス用拡声装置を開発し製造販売を開始
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [37]日本で第一号の自動車専用ラジオが誕生したのは昭和22年(1947年)だと滝澤左内社長が講演で述べた
    • [38]1947年当時の自動車専用ラジオは月産60台だった
    • [40]日産自動車が生産を再開し日野自動車がルノーの生産を開始するにおよび、自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオに移行した
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [39]1948年12月に62万2,500円を増資し、資本金は100万円となった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [41]1952年、日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入した

売上高は1958年11月期の3億円から、1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円へ伸びた。1956年4月に200万円、1959年7月にさらに200万円を増資し、資本金は500万円となった。1960年8月、帝国電波は埼玉県蕨市に蕨工場を新設し、量産に移した。1961年9月期の製品別売上構成は自動車ラジオが74%、バス・宣伝車用拡声装置が15%、工業計器が2%、部品その他が9%、販売先は日産自動車、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業への直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%を占めた。自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度とみられた。

  • 会社年鑑(1963年版)
    • [42]帝国電波の1958年11月期売上高は3億円
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [43]帝国電波の売上高は1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [44]1956年4月に200万円を増資して資本金300万円、1959年7月に200万円を増資して資本金500万円
    • [45]1960年8月、埼玉県蕨市に蕨工場を設置
    • [46]1961年9月期の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
    • [47]販売は各自動車メーカー(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)への直接販売34.9%、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
    • [48]自動車ラジオでの業界地位は神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度と推定される
参考文献[32]-[48]
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [32]戦後、連合軍の進駐と同時にアメリカの自動車が流入し、それには自動車専用のラジオが組み付けられていた
    • [33]自動車専用ラジオすなわちカーラジオはバッテリーを電源とする電池式ラジオであるため、これを本命商品とみた
    • [34]敗戦により飛行機の生産が中止され、飛行機生産メーカーは手持材料のジュラルミンを何かの製造に向けねばならず、中島飛行機はそれをバスの製造に向けた
    • [35]バスには50〜70人が乗るためマイクロフォンもラジオも必要と考え、中島飛行機に足を運んでバス搭載専用ラジオの共同研究を持ちかけ、話がまとまった
    • [37]日本で第一号の自動車専用ラジオが誕生したのは昭和22年(1947年)だと滝澤左内社長が講演で述べた
    • [38]1947年当時の自動車専用ラジオは月産60台だった
    • [40]日産自動車が生産を再開し日野自動車がルノーの生産を開始するにおよび、自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオに移行した
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1948年1月、わが国最初のカーラジオ、バス用拡声装置を開発し製造販売を開始
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [39]1948年12月に62万2,500円を増資し、資本金は100万円となった
    • [44]1956年4月に200万円を増資して資本金300万円、1959年7月に200万円を増資して資本金500万円
    • [45]1960年8月、埼玉県蕨市に蕨工場を設置
    • [46]1961年9月期の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
    • [47]販売は各自動車メーカー(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)への直接販売34.9%、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
    • [48]自動車ラジオでの業界地位は神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度と推定される
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [41]1952年、日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入した
  • 会社年鑑(1963年版)
    • [42]帝国電波の1958年11月期売上高は3億円
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [43]帝国電波の売上高は1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円

第2章 1962年〜 カーステレオ首位と日産自動車への筆頭株主交代

筆者考察y.sugiura, author

カーステレオを売れる商品にしたのは、機械の性能ではなく、そこに入れる中身の手配だった。1963年に国内で最初のカーステレオを開発しながら、発売した1964年の売り先は輸出だけにとどまる。レコード会社がレコードの売行きの低下を嫌って音楽テープを出さず、聴くものが国内に無かったためである。滝澤左内氏はロサンゼルスのマンツ社と提携してテープごと米国市場へ持ち込み、そこでの売行きを根拠に日本コロムビアへ供給を繰り返し求めた。月産3万5,000台の水準では毎月10万巻のテープが要る。機械を作る会社が機械に入れる中身の調達まで背負ったところに、この時期の伸びの理由がある。

首位に立った時期と、会社の持ち主が入れ替わった時期は重なっている。1969年9月期にカーステレオの売上がカーラジオを上回り、翌年には市場第一部へ移って310万株を公募した。資本を広く集めることは、創業家の持分が薄まることでもある。1962年の上場時に発行済160万株の38.3%を握っていた滝澤左内氏は、1974年9月には筆頭株主の座を日産自動車へ明け渡し、上位10名に残る創業家は2名となった。純正納入で伸びた会社の株を、その納入先の一社が最も多く持つ。販路の安定と引き換えに、値を決める相手をもう一度手放したことになる。生糸の相場から立てた基準に照らせば、これは創業の出発点から遠ざかる動きだった。

売上高(単体) 1962年9月期〜1978年9月期(億円)

15 62.9 18 63.9 27 64.9 31 65.9 43 66.9 74 67.9 121 68.9 156 69.9 181 70.9 182 71.9 195 72.9 262 73.9 293 74.9 292 75.9 400 76.9 497 77.9 548 78.9
  • 棒はすべて単体。出所は1962年9月期から1964年9月期が会社年鑑 1967年版、1965年9月期から1974年9月期が会社年鑑 1976年版、1975年9月期以降が会社年鑑 1986年版。

1962年〜自動車ラジオが売上の74%を占めた上場時

帝国電波は1962年8月2日、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は8,000万円、上場株式数は160万株、従業員は517名で、決算期は9月30日である。1961年9月期の製品別売上比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%だった。1962年9月期の売上高は15億円。上場に先立つ1960年8月には埼玉県蕨市に蕨工場を新設し、カーラジオの量産を開始した。1962年4月と8月の2度の増資で、資本金は1,900万円から8,000万円へ増えた。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1962年8月2日、東京証券取引所市場第二部に株式上場
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [50]上場時の資本金80,000千円、上場株式数1,600千株、従業員517名(1962年3月31日現在)、決算期9月30日
    • [51]1961年9月期実績の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
    • [53]1960年8月に埼玉県蕨市へ蕨工場を設置し量産体制を整備
    • [54]資本金は1961年12月に19,000千円、1962年4月に58,000千円、1962年8月に80,000千円へ増加
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [52]1962年9月期の売上高15億円

自動車ラジオでの帝国電波の順位は神戸工業と松下通信工業に次ぐ3位で、占有率は20%程度と推定された。これに対しバス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占め、首位に立っていた。販売先の内訳は、日産自動車・プリンス・富士重工・ダイハツ・東洋工業といった自動車メーカーへの直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、官公庁が7.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%。完成車メーカーへの純正納入は、1952年に日野自動車工業と結んだルノー4CV車用カーラジオの契約から始まった。

  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [55]自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次いで第3位、占有率20%程度と推定
    • [56]バス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占め業界首位
    • [57]販路は自動車メーカー直販34.9%(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [58]1952年に日野自動車工業とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入

上場時の筆頭株主は滝澤左内社長で、発行済160万株のうち38.3%にあたる612,780株を持っていた。2位の今村久義氏が111,360株、3位の下田俊雄常務が68,160株、4位の福洋音響が65,040株と続き、上位5名のうち法人は福洋音響1社にとどまった。取締役8名のうち3名が滝澤姓で、監査役は斎藤清次郎氏と渡辺五三九氏の2名である。授権株式数は464万株、未発行株式数は304万株。取引銀行は協和銀行、住友銀行、富士銀行、埼玉銀行の4行。配当率は前期の30%から1961年9月期に50%へ上げた。

  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [59]1962年5月22日現在の大株主筆頭は滝沢左内612,780株(上場株式数1,600千株)
    • [60]大株主2位今村久義111,360株、3位下田俊雄68,160株、4位福洋音響65,040株、5位渡辺五三九24,840株
    • [61]役員は社長滝沢左内、常務下田俊雄、取締役中村栄一郎・武見喜代治・小山田豊・滝沢将一・加藤藤市・滝沢孝の8名、監査役斎藤清次郎・渡辺五三九の2名
    • [62]授権株式数4,640千株、未発行株式数3,040千株
    • [63]取引銀行は協和銀行、住友銀行、富士銀行、埼玉銀行
    • [64]配当率は1961年9月期50%、1960年9月期30%
参考文献[49]-[64]
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [49]1962年8月2日、東京証券取引所市場第二部に株式上場
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
    • [50]上場時の資本金80,000千円、上場株式数1,600千株、従業員517名(1962年3月31日現在)、決算期9月30日
    • [51]1961年9月期実績の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
    • [53]1960年8月に埼玉県蕨市へ蕨工場を設置し量産体制を整備
    • [54]資本金は1961年12月に19,000千円、1962年4月に58,000千円、1962年8月に80,000千円へ増加
    • [55]自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次いで第3位、占有率20%程度と推定
    • [56]バス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占め業界首位
    • [57]販路は自動車メーカー直販34.9%(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
    • [59]1962年5月22日現在の大株主筆頭は滝沢左内612,780株(上場株式数1,600千株)
    • [60]大株主2位今村久義111,360株、3位下田俊雄68,160株、4位福洋音響65,040株、5位渡辺五三九24,840株
    • [61]役員は社長滝沢左内、常務下田俊雄、取締役中村栄一郎・武見喜代治・小山田豊・滝沢将一・加藤藤市・滝沢孝の8名、監査役斎藤清次郎・渡辺五三九の2名
    • [62]授権株式数4,640千株、未発行株式数3,040千株
    • [63]取引銀行は協和銀行、住友銀行、富士銀行、埼玉銀行
    • [64]配当率は1961年9月期50%、1960年9月期30%
  • 会社年鑑(1967年版)
    • [52]1962年9月期の売上高15億円
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [58]1952年に日野自動車工業とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入

1963年〜音楽テープの調達がカーステレオを決めた

帝国電波は1963年10月、国内で最初のカーステレオを開発した。1964年に発売したものの、当初の販売先は輸出に限られた。国内のレコード会社がレコードの売行き減を理由に音楽テープの供給へ応じず、中身となるテープが手に入らなかったためである。滝澤左内社長はロサンゼルスのマンツ社と提携して同社から音楽テープの供給を受け、まず米国市場へ売り込んだ。1964年1月には米国にClarion Corporation of Americaを設立している。カーステレオの売上は1964年9月期で1億6,000万円弱にとどまった。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1963年10月、わが国最初のカーステレオを開発
    • [69]1964年1月、Clarion Corporation of Americaを設立
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [66]1964年に発売したカーステレオは当初輸出のみで、国内販売は行わなかった
    • [67]国内では音楽テープの供給がなく、レコード会社はレコードが売れなくなるとして音楽テープの供給に二の足を踏んだ
    • [68]ロサンゼルスのマンツ社と提携し、同社から音楽テープの供給を受けてアメリカ市場に売り込むことから始めた
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [70]カーステレオの1964年9月期売上は1億6,000万円たらず

米国での売行きから国内でも売れると判断した滝澤左内社長は、日本コロムビアに音楽テープの供給を繰り返し求め、納入の承諾を得た。納入量は当初の月5,000巻から1967年には月2万5,000巻へ増え、日本クラウンから月2万巻、日本放送からも供給を受けた。帝国電波はカーステレオ1台にテープ1巻を無料で添えており、1台あたり2巻の追加購入を見込むと、月産3万5,000台の水準では毎月10万巻の音楽テープが要った。テープはプレスで量産できるレコードと違って録音に時間がかかり、30分物を12分以内で録音することはできなかった。

  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [71]アメリカ市場での売れ行きから日本でも売れると確信し、日本コロムビアに音楽テープの供給を再三再四懇請して供給を受けられるようになった
    • [72]日本コロムビアからの納入は当初月5,000巻、1967年時点で月2万5,000巻。ほかに日本クラウンから2万巻、日本放送からも納入
    • [73]カーステレオ1台につきテープ1巻を無料添付。1台につき2巻出るとすれば月産3万5,000台で計10万巻の音楽テープが毎月必要
    • [74]レコードはプレスで生産できるがテープは録音のため時間がかかり、30分物のテープを12分以内で録音することは不可能

カーステレオの売上は1966年9月期の8億5,000万円から1967年9月期に21億2,000万円、1968年9月期に46億2,000万円、1969年9月期には71億5,000万円へ伸び、同期にカーラジオの51億1,000万円を初めて上回った。会社全体の売上高も1965年9月期の31億円から1969年9月期には156億円と5年で5倍になり、経常利益は2億円から12億円へ増えた。増産に応じるため1967年9月、9億5,000万円を投じて埼玉県戸田市に埼玉事業所を新設し、カーラジオの生産能力を月産15万台へ引き上げた。1968年3月には国内で最初のカセットカーステレオを発売した。

  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [75]カーステレオ売上は1966年9月期8億5,000万円、1967年9月期21億2,000万円、1968年9月期46億2,000万円、1969年9月期71億5,000万円。1969年9月期に初めてカーラジオの51億1,000万円を抜き首位
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [76]売上高は1965年9月期31億円、1969年9月期156億円。経常利益は1965年9月期2億円、1969年9月期12億円
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [77]9億5,000万円を投じ埼玉県戸田市に新工場を建設、1967年8月末完成で月産15万台の能力。1967年9月に埼玉事業所を新設
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1968年3月、わが国最初のカセットカーステレオを発売
参考文献[65]-[78]
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [65]1963年10月、わが国最初のカーステレオを開発
    • [69]1964年1月、Clarion Corporation of Americaを設立
    • [78]1968年3月、わが国最初のカセットカーステレオを発売
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
    • [66]1964年に発売したカーステレオは当初輸出のみで、国内販売は行わなかった
    • [67]国内では音楽テープの供給がなく、レコード会社はレコードが売れなくなるとして音楽テープの供給に二の足を踏んだ
    • [68]ロサンゼルスのマンツ社と提携し、同社から音楽テープの供給を受けてアメリカ市場に売り込むことから始めた
    • [71]アメリカ市場での売れ行きから日本でも売れると確信し、日本コロムビアに音楽テープの供給を再三再四懇請して供給を受けられるようになった
    • [72]日本コロムビアからの納入は当初月5,000巻、1967年時点で月2万5,000巻。ほかに日本クラウンから2万巻、日本放送からも納入
    • [73]カーステレオ1台につきテープ1巻を無料添付。1台につき2巻出るとすれば月産3万5,000台で計10万巻の音楽テープが毎月必要
    • [74]レコードはプレスで生産できるがテープは録音のため時間がかかり、30分物のテープを12分以内で録音することは不可能
    • [77]9億5,000万円を投じ埼玉県戸田市に新工場を建設、1967年8月末完成で月産15万台の能力。1967年9月に埼玉事業所を新設
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [70]カーステレオの1964年9月期売上は1億6,000万円たらず
    • [75]カーステレオ売上は1966年9月期8億5,000万円、1967年9月期21億2,000万円、1968年9月期46億2,000万円、1969年9月期71億5,000万円。1969年9月期に初めてカーラジオの51億1,000万円を抜き首位
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [76]売上高は1965年9月期31億円、1969年9月期156億円。経常利益は1965年9月期2億円、1969年9月期12億円

1970年〜クラリオンへの商号変更と株主構成の入れ替わり

帝国電波は1970年2月、東京証券取引所市場第二部から第一部へ指定替えとなった。同年4月払込で310万株の公募増資を行い、埼玉工場の増設と営業網の整備に充てて、カーステレオの生産能力増強には10億円を投じた。この時点の帝国電波は借入に依存する会社ではなく、1969年9月末の自己資本比率は26.5%と製造業平均を上回り、借入金依存度は26.9%、長短借入金17億2,000万円に対して現預金を22億2,000万円抱えていた。カーラジオでは松下通信工業と富士通を抑えて台数ベースのシェア約30%で首位に立ち、カーステレオも国内では同じ2社を抑えて首位だった。資金繰りに迫られての増資ではなく、伸び続ける需要に生産能力を先回りさせるための調達だった。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1970年2月、東京証券取引所市場第二部より第一部に上場指定替
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [80]1970年4月払込で310万株の公募増資。増資資金は埼玉工場の建設・営業網の強化など設備資金に充当し、埼玉工場増設はカーステレオ生産能力増強が中心で投下資金10億円
    • [81]1969年9月末の自己資本比率は26.5%で製造業平均を上回り、借入金依存度は26.9%。長短借入金17億2,000万円を上回る現預金22億2,000万円を保有
    • [82]カーラジオでは松下通信工業、富士通を抑えて業界トップで台数ベースのシェアは約30%。カーステレオも国内では松下通信、富士通を抑えて業界トップ

カーラジオは7割近くが完成車メーカーへの純正納入で、市販は3割にとどまっていた。カーステレオは市販の比重が約5割と高く、1969年後半にはガソリンスタンドなど1万2,000余店を新たに特約店に設定し、市販網を広げた。純正で納めた製品には完成車メーカーの名が付くが、市販の店頭では自社の名で売ることになる。1970年12月、帝国電波は商号をクラリオンへ改めた。クラリオンは1946年に考案した製品ブランドで、CLARIONの頭文字Cに電波のシンボルマークを配した図案を社章に用い、澄みきった良い音、またはその音を出す楽器を意味する。同じ1970年にはClarion (Malaysia) Sdn., Bhd.へ資本参加している。24年前に付けた製品の名を会社の名へ引き上げたのは、買い手へ直接届く商標を手にしたからだった。

  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [83]カーラジオはその7割近くが純正指定として自動車メーカーに販売され、一般市販は約3割
    • [84]カーステレオの一般市販のウエイトは約5割と高い
    • [85]1969年後半、従来の販売ルート以外にガソリンスタンドなど1万2,000余店の特約販売を新たに設定し、カーステレオの販売網を拡充強化した
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [86]1970年12月、商号をクラリオン株式会社に改称
    • [88]1970年、Clarion (Malaysia) Sdn., Bhd.に資本参加
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [87]ブランド「クラリオン」は1946年に考案。CLARIONの頭文字Cと中央に電波のシンボルマークを配し、澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意

1970年5月時点では滝澤左内社長が発行済2,620万株のうち1,969,000株を保有し、筆頭株主の座にあった。2位は協和銀行の1,504,000株、3位は安田生命の916,000株で、カーステレオ用の音楽テープを供給した日本コロムビアが627,000株の4位に入り、日産自動車は288,000株で7位に入った。1974年9月にはこの並びが入れ替わり、日産自動車が5,203,000株で筆頭株主となった。協和銀行の3,250,000株が2位、滝澤将一氏の1,705,000株が3位で、上位10名に残る創業家は滝澤将一氏と滝澤孝氏の2名にとどまった。

  • 会社年鑑(1971年版)
    • [89]1970年5月時点の大株主筆頭は滝沢左内1,969,000株(発行済26,200,000株)
    • [90]1970年5月時点の大株主2位協和銀行1,504,000株、3位安田生命916,000株、4位日本コロムビア627,000株、7位日産自動車288,000株
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [91]1974年9月時点の筆頭株主は日産自動車5,203,000株
    • [92]1974年9月時点の2位協和銀行3,250,000株、3位滝沢将一1,705,000株、9位滝沢孝502,000株

クラリオンは1976年8月に業務用カラオケを発売した。生産では福島県への進出を進め、1976年7月に郡山市で東北クラリオン電子が仮創業し、同年10月に正式な操業を開始した。従業員200人の同社は延べ3,000坪の工場でカーラジオ、カーステレオ、バス車内放送用アンプなどを組み立て、製品を埼玉県戸田の工場へ送った。進出の理由は東北自動車道の開通で埼玉県との距離が縮まったことと労働力の確保にあり、工場敷地内には幼児を60人ほど収容する保育所を置いた。県内には二本松クラリオン、郡山クラリオン、いわきクラリオン、船引クラリオン精機も並んだ。1978年10月には郡山市へ東北事業所を新設した。売上高は1974年9月期の293億円から1978年9月期に548億円へ伸びた。

  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [93]1976年8月、業務用カラオケを発売
    • [98]1978年10月、福島県郡山市に東北事業所を設置
  • 財界ふくしま 1977年新年号「動く音の先駆者 クラリオン傘下の新工場東北クラリオン電子(株)」
    • [94]東北クラリオン電子は1976年7月に仮創業、同年10月に正式オープンして生産に入った
    • [95]東北クラリオン電子の従業員は200人。延べ3,000坪の工場でトランシーバー、市販カーラジオ、輸出カーラジオ、カーステレオ、バス車内放送用アンプを組み立て、埼玉県戸田のクラリオン工場へ送る
    • [96]福島県進出の理由は東北自動車道の開通で親会社のある埼玉県と立地的に近いことと労働力の確保。工場敷地内の保育所は3歳以上就学期までの幼児を60人ほど収容
    • [97]同系に二本松クラリオン、郡山クラリオン、いわきクラリオン、船引クラリオン精機がある
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [99]売上高は1974年9月期293億円、1978年9月期548億円
参考文献[79]-[99]
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [79]1970年2月、東京証券取引所市場第二部より第一部に上場指定替
    • [86]1970年12月、商号をクラリオン株式会社に改称
    • [88]1970年、Clarion (Malaysia) Sdn., Bhd.に資本参加
    • [93]1976年8月、業務用カラオケを発売
    • [98]1978年10月、福島県郡山市に東北事業所を設置
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
    • [80]1970年4月払込で310万株の公募増資。増資資金は埼玉工場の建設・営業網の強化など設備資金に充当し、埼玉工場増設はカーステレオ生産能力増強が中心で投下資金10億円
    • [81]1969年9月末の自己資本比率は26.5%で製造業平均を上回り、借入金依存度は26.9%。長短借入金17億2,000万円を上回る現預金22億2,000万円を保有
    • [82]カーラジオでは松下通信工業、富士通を抑えて業界トップで台数ベースのシェアは約30%。カーステレオも国内では松下通信、富士通を抑えて業界トップ
    • [83]カーラジオはその7割近くが純正指定として自動車メーカーに販売され、一般市販は約3割
    • [84]カーステレオの一般市販のウエイトは約5割と高い
    • [85]1969年後半、従来の販売ルート以外にガソリンスタンドなど1万2,000余店の特約販売を新たに設定し、カーステレオの販売網を拡充強化した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
    • [87]ブランド「クラリオン」は1946年に考案。CLARIONの頭文字Cと中央に電波のシンボルマークを配し、澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意
  • 会社年鑑(1971年版)
    • [89]1970年5月時点の大株主筆頭は滝沢左内1,969,000株(発行済26,200,000株)
    • [90]1970年5月時点の大株主2位協和銀行1,504,000株、3位安田生命916,000株、4位日本コロムビア627,000株、7位日産自動車288,000株
  • 会社年鑑(1976年版)
    • [91]1974年9月時点の筆頭株主は日産自動車5,203,000株
    • [92]1974年9月時点の2位協和銀行3,250,000株、3位滝沢将一1,705,000株、9位滝沢孝502,000株
  • 財界ふくしま 1977年新年号「動く音の先駆者 クラリオン傘下の新工場東北クラリオン電子(株)」
    • [94]東北クラリオン電子は1976年7月に仮創業、同年10月に正式オープンして生産に入った
    • [95]東北クラリオン電子の従業員は200人。延べ3,000坪の工場でトランシーバー、市販カーラジオ、輸出カーラジオ、カーステレオ、バス車内放送用アンプを組み立て、埼玉県戸田のクラリオン工場へ送る
    • [96]福島県進出の理由は東北自動車道の開通で親会社のある埼玉県と立地的に近いことと労働力の確保。工場敷地内の保育所は3歳以上就学期までの幼児を60人ほど収容
    • [97]同系に二本松クラリオン、郡山クラリオン、いわきクラリオン、船引クラリオン精機がある
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [99]売上高は1974年9月期293億円、1978年9月期548億円

第3章 1979年〜 カラオケとペイテレビ、自動車依存9割からの多角化

1979年〜部品会社に甘んじない小山田豊社長

クラリオンは1978年の暮れ、3年で売上高を倍増させて1,000億円企業になるという3カ年計画を掲げた。当時の社長は下田俊雄氏で、計画の先兵には輸出市場の拡大を据えた。1979年に入るとスウェーデンに1社、米国に2社、カナダに1社の販売子会社を相次いで設け、それまでの代理店契約を資本関係のある子会社方式へ切り替えた。1979年9月期の売上高は672億円、経常利益は51億円で、4年連続の増益となった。この決算の直後、1979年12月に小山田豊氏が社長へ就任した。小山田豊氏は1928年3月に満州で生まれ、中華航空養成所を出て1949年4月に前身の帝国電波へ入社し、1959年に営業部長、1962年に取締役、1979年に副社長を務めた。小山田豊社長は1955年から4年間、初めは門前払いされた日産自動車へ通いつめ、カーラジオの純正部品の指定を取り付けた。

  • 実業往来 1980年新年号
    • [100]1978年暮れに3年で売上倍増・1,000億円企業を掲げる3カ年計画
    • [101]当時の社長は下田俊雄。3カ年計画のリード役は輸出市場拡大策
    • [102]1979年にスウェーデン1社・米国2社・カナダ1社の販売子会社を設立し、代理店方式から子会社方式へ変更
    • [103]1979年9月期は売上672億円、経常利益51億円、4年連続増益
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [104]1979年12月に小山田豊が社長就任
    • [105]1928年3月満州生まれ、中華航空養成所卒、1949年4月帝国電波入社、1959年営業部長、1962年取締役、1979年副社長
    • [106]1955年から4年間、門前払いされた日産自動車に通いつめカーラジオの純正部品指定を受けた

カーオーディオは1969年9月期に売上高のほぼ90%を占め、そのうち4割が日産自動車へ流れた。日産自動車への納入は1959年の純正部品指定に始まり、国内純正部品では30〜35%のシェアで首位に立っていた。専業の利点は納入の安定にあり、裏返せば自動車メーカーの生産動向がそのまま業績に響く関係でもあった。1974年9月期と1975年9月期は自動車メーカーの減産を受け、経常利益が2期連続で半減した。1973年9月期に16億円あった経常利益は、1975年9月期には3億円まで減少した。日産自動車は筆頭株主でありながら歴史的にも人的にも関係が深いわけではなく、納入の安定を保証する力は薄れていた。1984年9月時点でも日産自動車の持株数は14,935,000株で、なお筆頭を占めた。

  • 実業往来 1980年新年号
    • [107]1969年9月期にカーオーディオが売上のほぼ90%、その4割が日産自動車向け
    • [108]1959年に日産自動車の純正部品指定。国内純正部品でシェア30〜35%の首位
    • [109]専業は納入安定性という利点と自動車メーカーの生産動向に左右される欠点を併せ持つ
    • [110]1974年・1975年に自動車メーカーの減産で経常利益が2期連続半減
    • [112]日産自動車は筆頭株主だが歴史的にも人的にも関係は深くなく、納入安定性への効力は薄くなりつつあった
  • 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
    • [111]経常利益は1973年9月期16億円、1975年9月期3億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [113]1984年9月時点の筆頭株主は日産自動車で14,935,000株

小山田豊社長は、部品としての色彩が強い商品ばかりが増えれば納入先の要請をこなすだけになり、消費者が何を求めているかをつかんで商品を開発する機能が失われると社内へ訴えた。多角化そのものは、常務だった1970年から1971年にかけて小山田豊社長が言い出していた。1973年には家庭用コンポステレオへ進出して3年足らずで撤退し、1974年に手がけたトランシーバーは需要の激減に遭った。それでも消費者と直結する市場への足がかりは残り、1976年8月の業務用カラオケ発売へつながった。カラオケ演奏装置は金融筋も代理店も反対するなかで開発を通し、発売後に売れ行きを伸ばして、高くなかったクラリオンの知名度を全国へ広げた。1981年の売上構成は自動車会社向けとそれ以外が72%対28%で、これを1985年までに半々にする中期3カ年計画を策定していた。

  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [114]部品会社に甘んじれば納入先の要請をこなすだけとなり、消費者の求めを掴んで商品を開発する創造的機能が失われるという小山田豊社長の主張
    • [115]多角化路線を打ち出したのは1970〜1971年で、当時常務だった小山田豊が仕掛け役
    • [116]1973年に家庭用コンポステレオへ進出し3年足らずで撤退、1974年にトランシーバー生産を手がけ需要激減に見舞われた
    • [118]金融筋も代理店も反対したがカラオケ演奏装置は大ヒットし、高くなかったクラリオンの知名度が全国に浸透した
    • [119]自動車会社向けとそれ以外の売上構成は72%対28%、1985年までに半々とする中期3カ年計画を策定中
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [117]1976年8月に業務用カラオケを発売
参考文献[100]-[119]
  • 実業往来 1980年新年号
    • [100]1978年暮れに3年で売上倍増・1,000億円企業を掲げる3カ年計画
    • [101]当時の社長は下田俊雄。3カ年計画のリード役は輸出市場拡大策
    • [102]1979年にスウェーデン1社・米国2社・カナダ1社の販売子会社を設立し、代理店方式から子会社方式へ変更
    • [103]1979年9月期は売上672億円、経常利益51億円、4年連続増益
    • [107]1969年9月期にカーオーディオが売上のほぼ90%、その4割が日産自動車向け
    • [108]1959年に日産自動車の純正部品指定。国内純正部品でシェア30〜35%の首位
    • [109]専業は納入安定性という利点と自動車メーカーの生産動向に左右される欠点を併せ持つ
    • [110]1974年・1975年に自動車メーカーの減産で経常利益が2期連続半減
    • [112]日産自動車は筆頭株主だが歴史的にも人的にも関係は深くなく、納入安定性への効力は薄くなりつつあった
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
    • [104]1979年12月に小山田豊が社長就任
    • [105]1928年3月満州生まれ、中華航空養成所卒、1949年4月帝国電波入社、1959年営業部長、1962年取締役、1979年副社長
    • [106]1955年から4年間、門前払いされた日産自動車に通いつめカーラジオの純正部品指定を受けた
    • [114]部品会社に甘んじれば納入先の要請をこなすだけとなり、消費者の求めを掴んで商品を開発する創造的機能が失われるという小山田豊社長の主張
    • [115]多角化路線を打ち出したのは1970〜1971年で、当時常務だった小山田豊が仕掛け役
    • [116]1973年に家庭用コンポステレオへ進出し3年足らずで撤退、1974年にトランシーバー生産を手がけ需要激減に見舞われた
    • [118]金融筋も代理店も反対したがカラオケ演奏装置は大ヒットし、高くなかったクラリオンの知名度が全国に浸透した
    • [119]自動車会社向けとそれ以外の売上構成は72%対28%、1985年までに半々とする中期3カ年計画を策定中
  • 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
    • [111]経常利益は1973年9月期16億円、1975年9月期3億円
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [113]1984年9月時点の筆頭株主は日産自動車で14,935,000株
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
    • [117]1976年8月に業務用カラオケを発売

1980年〜11億7,000万円の特別損失で閉じた米ペイテレビ

クラリオンは、ペイテレビ用の送受信機システムを売るために米国のペイテレビ事業へ自ら出資した。初期投資の重い事業であり、機器を納めると同時に資本を入れて事業者を後押しし、運営のノウハウと技術の改善を同時並行で進めた。まず大市場の米国に狙いを定め、1978年にロサンゼルス、1980年にミルウォーキーで、それぞれ現地のペイテレビ会社へ資本参加した。ミルウォーキーでは米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し、約45%の株式を握った。同市のテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1にとどまるものの、競合会社が少ないぶん成功すると読んだ。

  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [120]ペイテレビ事業に直接乗り出したのはペイテレビ用送受機システムの販売促進のため
    • [121]初期投資が重いため機器販売と同時に資本を出して事業者を後押しし、運営ノウハウと技術改善を同時並行で進めた
    • [122]大市場の米国に狙いを定め、1978年ロサンゼルス、1980年ミルウォーキーで現地ペイテレビ会社に資本参加
    • [123]米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し約45%の株式を保有
    • [124]ミルウォーキーのテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1だが競合が少なく成功するとの読み

利用者数は採算に乗る4万5,000世帯へ届かなかった。3万3,000軒までは伸びたものの一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた。ペイテレビは設備一式をそろえてから開業する事業のため、見込んだ利用者数に達しない限り黒字化の手はない。クラリオンは、ミルウォーキーではペイテレビ自体の人気が乏しいという判断へ傾いた。1983年半ばから小山田豊社長は撤退を検討したが、そのまま清算すれば損害が大きすぎた。主力のカーオーディオが順調な一方でカラオケなどは不振に落ち、1984年当時のクラリオンの業績は厳しかった。

  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [125]利用者数は採算分岐点の4万5,000世帯を超えなかった
    • [126]3万3,000軒まで伸びたが一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた
    • [127]ペイテレビは最初に設備一式を抱えて始めるため、予定した利用者数に達しない限り黒字化の手がない
    • [128]ミルウォーキーではペイテレビの人気がないというクラリオンの判断
    • [129]1983年半ば頃から小山田豊社長の苦悩が深まり、撤退しても損害が大きすぎた
    • [130]主力のカーオーディオは順調だがカラオケなどが不振で業績は厳しい状態にあった

衛星の電波を共同アンテナで受けて各戸へ分配するSMATVの開発がクラリオン社内で技術的に完成し、撤退の目算がついた。1984年初め、クラリオンはSMATVを運営するテルスター社へ接近し、電波妨害の暗号を解読するデコーダーを転用できるよう改造して売り込んだ。改造設備の実験を同年5月から始め、テルスター社が中古設備の引き取りを決めると同時に、小山田豊社長はミルウォーキー撤退を決めた。STVWの他の株主へ会社解散を通告し、視聴者には1カ月前に知らせ、7月初めに営業を中止した。引き上げたデコーダーはそのままSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を防いだ。清算は1984年9月期中に終わり、決算では11億7,000万円の特別損失を計上した。同期の売上高は1,090億円、経常利益は23億円、当期純利益は5億円で、経常利益は前期の60億円から6割超減少した。

  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [131]衛星電波を共同アンテナで受け小型ケーブルテレビ装置で視聴者に分配するSMATVがクラリオン社内で技術的に完成
    • [132]1984年初めにSMATVを運営するテルスター社へ接近し、改造デコーダーを売り込んだ
    • [133]1984年5月から改造設備の実験。テルスター社の中古設備引き取り決定と同時に小山田豊社長がミルウォーキー撤退を決断
    • [134]STVWの他株主へ会社解散を通告、1カ月前に視聴者へ通知し7月初めに営業中止
    • [135]引き上げたデコーダーをSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を回避
    • [136]1984年9月期中に清算を終え、同期決算で11億7,000万円の特別損失を計上
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [137]1984年9月期は売上高1,090億円、経常利益23億円、当期純利益5億円。1983年9月期の経常利益は60億円
参考文献[120]-[137]
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
    • [120]ペイテレビ事業に直接乗り出したのはペイテレビ用送受機システムの販売促進のため
    • [121]初期投資が重いため機器販売と同時に資本を出して事業者を後押しし、運営ノウハウと技術改善を同時並行で進めた
    • [122]大市場の米国に狙いを定め、1978年ロサンゼルス、1980年ミルウォーキーで現地ペイテレビ会社に資本参加
    • [123]米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し約45%の株式を保有
    • [124]ミルウォーキーのテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1だが競合が少なく成功するとの読み
    • [125]利用者数は採算分岐点の4万5,000世帯を超えなかった
    • [126]3万3,000軒まで伸びたが一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた
    • [127]ペイテレビは最初に設備一式を抱えて始めるため、予定した利用者数に達しない限り黒字化の手がない
    • [128]ミルウォーキーではペイテレビの人気がないというクラリオンの判断
    • [129]1983年半ば頃から小山田豊社長の苦悩が深まり、撤退しても損害が大きすぎた
    • [130]主力のカーオーディオは順調だがカラオケなどが不振で業績は厳しい状態にあった
    • [131]衛星電波を共同アンテナで受け小型ケーブルテレビ装置で視聴者に分配するSMATVがクラリオン社内で技術的に完成
    • [132]1984年初めにSMATVを運営するテルスター社へ接近し、改造デコーダーを売り込んだ
    • [133]1984年5月から改造設備の実験。テルスター社の中古設備引き取り決定と同時に小山田豊社長がミルウォーキー撤退を決断
    • [134]STVWの他株主へ会社解散を通告、1カ月前に視聴者へ通知し7月初めに営業中止
    • [135]引き上げたデコーダーをSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を回避
    • [136]1984年9月期中に清算を終え、同期決算で11億7,000万円の特別損失を計上
  • 会社年鑑(1986年版)
    • [137]1984年9月期は売上高1,090億円、経常利益23億円、当期純利益5億円。1983年9月期の経常利益は60億円

第4章 2000-2019 (気が向いたら執筆します!) 日産リバイバルプランから仏フォルシアの傘下まで

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歴史年表 1940〜2019年

クラリオンの沿革1940〜2019年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1940〜1961年白山電池合名会社の蓄電池から日本初のカーラジオへ白山無線電機を設立★★★
瀧澤無線電機工業を合併し帝国電波に商号変更★★
わが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を発売★★★
1962〜1978年カーステレオ首位と日産自動車への筆頭株主交代東京証券取引所市場第二部に株式上場★
わが国最初のカーステレオを開発★★
Clarion Corporation of Americaを設立★★
埼玉事業所を新設し量産体制を整備★
大阪証券取引所市場第二部に株式上場★
東京証券取引所市場第一部に指定替え★
クラリオンに商号変更★★
業務用カラオケを発売★★
東北事業所を設置★
1979〜1999年カラオケとペイテレビ、自動車依存9割からの多角化小山田豊CDカーステレオを発売★
小山田豊フィリピンに生産子会社を設立★
小山田豊決算期日を9月30日から3月31日に変更★
小山田豊わが国最初の音声誘導式ナビゲーションを発売★★★
石坪一三生産子会社Dongguan Clarion Orient Electronicsを設立★★
石坪一三ハンガリーに生産子会社を設立★★
石坪一三マイクロソフトと車載コンピューティングシステムを共同開発★★
2000〜2019年日産リバイバルプランから仏フォルシアの傘下まで石坪一三日立製作所などと合弁でエイチ・シー・エックスを設立★★
泉龍彦世界初の後方確認用俯瞰カメラシステムを日産車向けに納入★★
泉龍彦中国と北米の市販市場にカーナビゲーションを発売★
泉龍彦日立製作所による子会社化★★★
泉龍彦ザナヴィ・インフォマティクスを完全子会社化★★
泉龍彦ザナヴィ・インフォマティクスを吸収合併★
泉龍彦世界初の車載用フルデジタルスピーカーを開発★
泉龍彦クラウド情報ネットワークサービスSmart Accessを構築★★
川本英利安全走行支援システムSurroundEyeを発売★
川本英利介護ロボット合弁会社ケアボットを設立★
川端敦自動駐車用ECUを日産車向けに納入★★
川端敦日立製作所が保有全株式のフォルシアへの売却を発表★★★
川端敦フォルシアの株式公開買付け成立により上場廃止★
出典・参考 15件
出典・参考
  • クラリオン 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑(1963年版)
  • 会社年鑑(1967年版)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
  • 会社年鑑(1971年版)
  • 会社年鑑(1976年版)
  • 会社年鑑(1976年版)/会社年鑑(1986年版)
  • 会社年鑑(1986年版)
  • 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号 23(16)(945)
  • 日経ビジネス 1981年5月4日号
  • 日経ビジネス 1984年11月12日号
  • 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
  • 財界ふくしま 1977年新年号「動く音の先駆者 クラリオン傘下の新工場東北クラリオン電子(株)」
  • 実業往来 1980年新年号

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