創業者の滝澤左内氏は養蚕の盛んな長野県に生まれ、生家も生糸業に関わっていた[1]。大正末期から昭和初期にかけて生糸と原料の繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に預け、倉庫券を担保に資金を借りて商いをしていた生糸家は増担保を迫られた[2]。滝澤左内氏の生家もその影響を免れなかった[3]。生糸の価格を決めていたのは生産者ではなく、それを買うアメリカ人だった[4]。少年期から青年期にかけてこれを身近に見た滝澤左内氏は、生産者が価格を決められる事業でなければ将来性はないと考えた[5]。ちょうど懐中電灯が普及し、スイッチを切り忘れれば一晩で切れる乾電池が使い捨てられていたため、滝澤左内氏はそこに蓄電するという着想を得た[6]。
滝澤左内氏は蓄電池を学ぶため、大学へ進むより上京して図書館で調べるほうが得策だと考え、反対する両親を説き伏せて東京へ出た[7]。蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み込み、原理をつかんで製造に入った[8]。電槽に入れた硫酸には流出の危険があり、研究を重ねてコロイド状に固め、特許権を得て販売を開始した[9]。電槽には日本で最初のセルロイド製を用いた[10]。1924年8月、滝澤左内氏は東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、蓄電池の製作に取りかかった[11]。ラジオ放送は1925年の開始当初、電池がなければ聴けず、同年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造へ進んだ[12][13]。1930年2月には社名を白山無線に改め、ラジオ無線機の製造販売を手がけた[14]。1940年12月18日には合名会社から株式会社へ組織を変え、東京都文京区白山前町21番地に資本金18万円の白山無線電機株式会社を設立し[15][16][17]、電池式家庭用ラジオの製造を始めた[18]。
第二次世界大戦が始まると、蓄電池は潜水艦の機動力に振り向けられ、民間ではほとんど使えなくなった[19]。白山無線電機はラジオへ進み、蓄電池を手がけてきた関係から電池式に目をつけた[20]。1925年の放送開始当初は電池がなければラジオを聴けなかったが、電気で聴けるようになると、ラジオメーカーはほとんどが交流式へ切り替えていた[21]。それでも当時は全国に電気が行き渡らず、人口の35%は電気を使えなかった[22]。滝澤左内氏は、他社が交流式に集まるなかで電池式の専門メーカーになるほうが賢明だと判断した[23]。1941年には日本で第一号のポータブルラジオを開発し、製造販売を始めた[24]。
1943年11月、白山無線電機は資本金15万円の瀧澤無線電機工業株式会社を合併して商号を帝国電波株式会社に改め、資本金は設立時の18万円から33万円に増えた[25][26]。1944年8月には東京無線工業株式会社を合併し、資本金を37万7,500円とした[27]。空襲で発電所が止まると、電池でも聴ける帝国電波のラジオは注目を集めた[28]。1945年4月、帝国電波は戦災で本社工場と尾久工場を焼失し、静岡県の富士宮工場に移って操業を続けた[29]。戦争が終わると、1946年5月に本社と工場を文京区白山へ復興し、民生用ラジオの生産に戻った[30]。同じ1946年、澄みきった良い音、または澄みきった音を出す楽器を指す語からブランド名『クラリオン』を考案し、CLARIONの頭文字Cの中央に電波のシンボルマークを配した標章を定めた[31]。
戦後、連合軍の進駐とともにアメリカの自動車が流入し、その車には自動車専用のラジオが組み付けられていた[32]。滝澤左内氏は、カーラジオがバッテリーを電源とする電池式ラジオであることから、これを帝国電波の本命商品と見定めた[33]。敗戦で飛行機の生産が止まった中島飛行機は、手元に残ったジュラルミンを別の製品に振り向ける必要に迫られ、バスの製造を選んでいた[34]。バスは50人から70人を乗せるためマイクロフォンもラジオも要ると考えた滝澤左内氏は、同社に足を運んでバス搭載用ラジオの共同研究を持ちかけ、話をまとめた[35]。
1948年1月、帝国電波はわが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を開発し、製造販売に乗り出した[36]。滝澤左内社長は1967年の講演で、日本第一号の自動車専用ラジオが生まれたのは1947年だったと述べている[37]。当初の生産は月60台だった[38]。1948年12月には62万2,500円を増資し、資本金を100万円に引き上げた[39]。日産自動車が生産を再開し、日野自動車がルノーの生産を始めると、帝国電波の自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオへ移った[40]。1952年、帝国電波は日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び、製造と納入を始めた[41]。
売上高は1958年11月期の3億円から、1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円へ伸びた[42][43]。1956年4月に200万円、1959年7月にさらに200万円を増資し、資本金は500万円となった[44]。1960年8月、帝国電波は埼玉県蕨市に蕨工場を設け、量産に移した[45]。1961年9月期の製品別売上構成は自動車ラジオが74%、バス・宣伝車用拡声装置が15%、工業計器が2%、部品その他が9%[46]、販売先は日産自動車、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業への直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%を占めた[47]。自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度とみられた[48]。
帝国電波は1962年8月2日、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した[49]。上場時の資本金は8,000万円、上場株式数は160万株、従業員は517名で、決算期は9月30日である[50]。1961年9月期の製品別売上比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%だった[51]。1962年9月期の売上高は15億円[52]。上場に先立つ1960年8月には埼玉県蕨市に蕨工場を設け、カーラジオの量産を始めた[53]。1962年4月と8月の2度の増資で、資本金は1,900万円から8,000万円へ増えた[54]。
自動車ラジオでの帝国電波の順位は神戸工業と松下通信工業に次ぐ3位で、占有率は20%程度と推定された[55]。これに対しバス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占め、首位に立っていた[56]。販売先の内訳は、日産自動車・プリンス・富士重工・ダイハツ・東洋工業といった自動車メーカーへの直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、官公庁が7.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%[57]。完成車メーカーへの純正納入は、1952年に日野自動車工業と結んだルノー4CV車用カーラジオの契約から始まった[58]。
上場時の筆頭株主は滝澤左内社長で、発行済160万株のうち38.3%にあたる612,780株を持っていた[59]。2位の今村久義氏が111,360株、3位の下田俊雄常務が68,160株、4位の福洋音響が65,040株と続き、上位5名のうち法人は福洋音響1社にとどまった[60]。取締役8名のうち3名が滝澤姓で、監査役は斎藤清次郎氏と渡辺五三九氏の2名である[61]。授権株式数は464万株、未発行株式数は304万株[62]。取引銀行は協和銀行、住友銀行、富士銀行、埼玉銀行の4行[63]。配当率は前期の30%から1961年9月期に50%へ上げた[64]。
帝国電波は1963年10月、国内で最初のカーステレオを開発した[65]。1964年に発売したものの、当初の販売先は輸出に限られた[66]。国内のレコード会社がレコードの売行き減を理由に音楽テープの供給へ応じず、中身となるテープが手に入らなかったためである[67]。滝澤左内社長はロサンゼルスのマンツ社と提携して同社から音楽テープの供給を受け、まず米国市場へ売り込んだ[68]。1964年1月には米国にClarion Corporation of Americaを設立している[69]。カーステレオの売上は1964年9月期で1億6,000万円弱にとどまった[70]。
米国での売行きから国内でも売れると判断した滝澤左内社長は、日本コロムビアに音楽テープの供給を繰り返し求め、納入の承諾を得た[71]。納入量は当初の月5,000巻から1967年には月2万5,000巻へ増え、日本クラウンから月2万巻、日本放送からも供給を受けた[72]。帝国電波はカーステレオ1台にテープ1巻を無料で添えており、1台あたり2巻の追加購入を見込むと、月産3万5,000台の水準では毎月10万巻の音楽テープが要った[73]。テープはプレスで量産できるレコードと違って録音に時間がかかり、30分物を12分以内で録音することはできなかった[74]。
カーステレオの売上は1966年9月期の8億5,000万円から1967年9月期に21億2,000万円、1968年9月期に46億2,000万円、1969年9月期には71億5,000万円へ伸び、同期にカーラジオの51億1,000万円を初めて上回った[75]。会社全体の売上高も1965年9月期の31億円から1969年9月期には156億円と5年で5倍になり、経常利益は2億円から12億円へ増えた[76]。増産に応じるため1967年9月、9億5,000万円を投じて埼玉県戸田市に埼玉事業所を新設し、カーラジオの生産能力を月産15万台へ引き上げた[77]。1968年3月には国内で最初のカセットカーステレオを発売した[78]。
帝国電波は1970年2月、東京証券取引所市場第二部から第一部へ指定替えとなった[79]。同年4月払込で310万株の公募増資を行い、埼玉工場の増設と営業網の整備に充てて、カーステレオの生産能力増強には10億円を投じた[80]。同年12月には商号をクラリオンへ改めた[81]。クラリオンは1946年に考案した製品ブランドで、CLARIONの頭文字Cに電波のシンボルマークを配した図案を社章に用い、澄みきった良い音、またはその音を出す楽器を意味する[82]。1970年にはClarion (Malaysia) Sdn., Bhd.へ資本参加している[83]。
1970年5月時点では滝澤左内社長が発行済2,620万株のうち1,969,000株を保有し、筆頭株主の座にあった[84]。2位は協和銀行の1,504,000株、3位は安田生命の916,000株で、カーステレオ用の音楽テープを供給した日本コロムビアが627,000株の4位に入り、日産自動車は288,000株で7位に入った[85]。1974年9月にはこの並びが入れ替わり、日産自動車が5,203,000株で筆頭株主となった[86]。協和銀行の3,250,000株が2位、滝澤将一氏の1,705,000株が3位で、上位10名に残る創業家は滝澤将一氏と滝澤孝氏の2名にとどまった[87]。
クラリオンは1976年8月に業務用カラオケを発売した[88]。生産では福島県への進出を進め、1976年7月に郡山市で東北クラリオン電子が仮創業し、同年10月に正式な操業を始めた[89]。従業員200人の同社は延べ3,000坪の工場でカーラジオ、カーステレオ、バス車内放送用アンプなどを組み立て、製品を埼玉県戸田の工場へ送った[90]。進出の理由は東北自動車道の開通で埼玉県との距離が縮まったことと労働力の確保にあり、工場敷地内には幼児を60人ほど収容する保育所を置いた[91]。県内には二本松クラリオン、郡山クラリオン、いわきクラリオン、船引クラリオン精機も並んだ[92]。1978年10月には郡山市へ東北事業所を設けた[93]。売上高は1974年9月期の293億円から1978年9月期に548億円へ伸びた[94]。
クラリオンは1978年の暮れ、3年で売上高を倍増させて1,000億円企業になるという3カ年計画を掲げた[95]。当時の社長は下田俊雄氏で、計画の先兵には輸出市場の拡大を据えた[96]。1979年に入るとスウェーデンに1社、米国に2社、カナダに1社の販売子会社を相次いで設け、それまでの代理店契約を資本関係のある子会社方式へ切り替えた[97]。1979年9月期の売上高は672億円、経常利益は51億円で、4年連続の増益となった[98]。この決算の直後、1979年12月に小山田豊氏が社長へ就いた[99]。小山田豊氏は1928年3月に満州で生まれ、中華航空養成所を出て1949年4月に前身の帝国電波へ入社し、1959年に営業部長、1962年に取締役、1979年に副社長を務めた[100]。小山田豊社長は1955年から4年間、初めは門前払いされた日産自動車へ通いつめ、カーラジオの純正部品の指定を取り付けた[101]。
カーオーディオは1969年9月期に売上高のほぼ90%を占め、そのうち4割が日産自動車へ流れた[102]。日産自動車への納入は1959年の純正部品指定に始まり、国内純正部品では30〜35%のシェアで首位に立っていた[103]。専業の利点は納入の安定にあり、裏返せば自動車メーカーの生産動向がそのまま業績に響く関係でもあった[104]。1974年9月期と1975年9月期は自動車メーカーの減産を受け、経常利益が2期連続で半減した[105]。1973年9月期に16億円あった経常利益は、1975年9月期には3億円まで落ちた[106]。日産自動車は筆頭株主でありながら歴史的にも人的にも関係が深いわけではなく、納入の安定を保証する力は薄れていた[107]。1984年9月時点でも日産自動車の持株数は14,935,000株で、なお筆頭を占めた[108]。
小山田豊社長は、部品としての色彩が強い商品ばかりが増えれば納入先の要請をこなすだけになり、消費者が何を求めているかをつかんで商品を開発する機能が失われると社内へ訴えた[109]。多角化そのものは、常務だった1970年から1971年にかけて小山田豊社長が言い出していた[110]。1973年には家庭用コンポステレオへ進出して3年足らずで撤退し、1974年に手がけたトランシーバーは需要の激減に遭った[111]。それでも消費者と直結する市場への足がかりは残り、1976年8月の業務用カラオケ発売へつながった[112]。カラオケ演奏装置は金融筋も代理店も反対するなかで開発を通し、発売後に売れ行きを伸ばして、高くなかったクラリオンの知名度を全国へ広げた[113]。1981年の売上構成は自動車会社向けとそれ以外が72%対28%で、これを1985年までに半々にする中期3カ年計画を策定していた[114]。
クラリオンは、ペイテレビ用の送受信機システムを売るために米国のペイテレビ事業へ自ら出資した[115]。初期投資の重い事業であり、機器を納めると同時に資本を入れて事業者を後押しし、運営のノウハウと技術の改善を同時並行で進めた[116]。まず大市場の米国に狙いを定め、1978年にロサンゼルス、1980年にミルウォーキーで、それぞれ現地のペイテレビ会社へ資本参加した[117]。ミルウォーキーでは米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し、約45%の株式を握った[118]。同市のテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1にとどまるものの、競合会社が少ないぶん成功すると読んだ[119]。
利用者数は採算に乗る4万5,000世帯へ届かなかった[120]。3万3,000軒までは伸びたものの一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた[121]。ペイテレビは設備一式をそろえてから開業する事業のため、見込んだ利用者数に達しない限り黒字化の手はない[122]。クラリオンは、ミルウォーキーではペイテレビ自体の人気が乏しいという判断へ傾いた[123]。1983年半ばから小山田豊社長は撤退を検討したが、そのまま清算すれば損害が大きすぎた[124]。主力のカーオーディオが順調な一方でカラオケなどは不振に落ち、1984年当時のクラリオンの業績は厳しかった[125]。
衛星の電波を共同アンテナで受けて各戸へ分配するSMATVの開発がクラリオン社内で技術的に完成し、撤退の目算がついた[126]。1984年初め、クラリオンはSMATVを運営するテルスター社へ接近し、電波妨害の暗号を解読するデコーダーを転用できるよう改造して売り込んだ[127]。改造設備の実験を同年5月から始め、テルスター社が中古設備の引き取りを決めると同時に、小山田豊社長はミルウォーキー撤退を決めた[128]。STVWの他の株主へ会社解散を通告し、視聴者には1カ月前に知らせ、7月初めに営業を中止した[129]。引き上げたデコーダーはそのままSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を防いだ[130]。清算は1984年9月期中に終わり、決算では11億7,000万円の特別損失を計上した[131]。同期の売上高は1,090億円、経常利益は23億円、当期純利益は5億円で、経常利益は前期の60億円から6割超落ち込んだ[132]。
クラリオンは1991年3月、決算期日を9月30日から3月31日へ改めた[133]。1987年7月にCDカーステレオ、1992年2月にはわが国最初の音声誘導式ナビゲーションを発売した[134]。1948年のカーラジオ、1963年のカーステレオに続き、車内の音と情報を扱う装置で国内最初を重ねた[135]。生産の海外移しも続き、1989年10月にフィリピン、1995年1月に香港、同年4月に中国広東省の東莞、1997年10月にハンガリーで生産子会社を設けた[136]。クラリオンは1980年の時点で、日本で開発し東南アジアで生産して欧米へ流す三国間貿易を円高への備えとして描いていた[137]。
その米国販売会社が、1964年1月に設立したClarion Corporation of Americaにあたる[138]。
1998年1月、クラリオンは米マイクロソフトと世界初の車載用コンピューティングシステムClarion AutoPCを共同開発した[139]。
日産自動車はクラリオンの発行済株式の約10%を保有する筆頭株主であり、同時に最大の取引先でもあった[140]。その日産が1999年に打ち出した日産リバイバルプランは、系列部品メーカーの株式放出と調達原価の3年2割引き下げを掲げ、クラリオンの収益を直撃した[141]。2001年3月期の連結決算は8期ぶりの営業赤字に転落し、2001年9月中間期には自己資本比率が0.2%まで下がって債務超過寸前に追い込まれた[142]。メインバンクのあさひ銀行が不良債権問題で揺れていたこともあり、同年末の株価は40円まで落ち込んだ[143]。取締役だった泉龍彦氏は2001年4月に石坪一三会長兼社長から社長就任を打診され、5月に取締役社長へ就いた[144]。
社長就任の直前に発表された中期経営計画『新創業21』は2年間でグループ人員1,500人の削減を目標にしていたが、実際にクラリオンを去った社員は3倍の約4,500人にのぼった[145]。泉龍彦社長は2002年10月に生産・物流子会社9社を統合して製造部門を分離したうえで、福島県郡山市の東北事業所の敷地内に全ラインを集約した[146]。社員は新会社クラリオン・エム・アンド・エルへ転籍し、45歳以上を対象に早期退職を募ったうえで、1人当たりの賃金を平均15%下げた[147]。1976年に日本で初めて『カラオケ』の名称を使った事業も、収益の拡大が見込めないとして2003年1月に売却し、車載機器以外の事業から全て撤退した[148]。本社は2001年5月に渋谷区から文京区へ、2002年9月には研究開発部門のある埼玉県戸田市へ移った[149]。3年間で関係会社は54社から29社へ、連結従業員は1万4,000人から9,000人へ減らした[150]。
売上高の3分の2を占める自動車メーカー向けOEM製品は、納入が遅れれば取引先の生産を止めるため、余分な在庫を抱える習慣が社内に根づいていた[151]。泉龍彦社長は在庫削減を就任時から繰り返し訴え、2003年には月次だった生産計画と部品発注のサイクルを週次へ切り替えた[152]。2001年3月期に497億円・99日分あった連結棚卸資産は、2003年9月中間期に261億円・56日分まで落ちた[153]。2003年3月には外資系投資ファンドを対象に合計83億円の第三者割当増資を実施し、純有利子負債は3年で半分に減った[154]。2004年3月期の連結売上高は1,689億円、経常利益81億円、当期純利益63億円となった[155]。
クラリオンと日立製作所は2000年12月に車載情報システムの開発合弁会社エイチ・シー・エックスを設立し、2004年12月には日立がクラリオン株式を取得して筆頭株主となり、2005年4月に車載情報システム事業の包括的業務提携契約を結んだ[156]。2006年10月11日、両社は基本合意書に調印し、日立は公開買付けによる子会社化を決めた[157]。買付価格は1株230円、買付期間は10月25日から11月30日までで、日立の所有割合は14.41%から63.66%へ上がり、決済開始日は12月7日となった[158]。基本合意書は、日立が議決権の過半を持ったあともクラリオンの商号とブランドを現状のまま維持し、取締役9名のうち5名を日立、4名をクラリオンが指名して、代表取締役はクラリオンの指名した4名から選ぶと定めた[159]。
クラリオンは2007年1月、日立からザナヴィ・インフォマティクスの株式を140億円で買い取り、100%子会社に組み入れた[160]。ザナヴィを加えた2008年3月期の連結売上高は前期の1,810億円から2,468億円へ伸びたものの、2009年3月期は1,816億円へ落ち込み、営業損失124億円、当期純損失200億円を計上した[161]。自己資本は2008年3月期の319億円から2009年3月期に89億円へ沈み、連結従業員は1万1,186人から1万132人まで減った[162]。ザナヴィは2009年3月期に債務超過となる可能性があり、クラリオンは保有する債権の一部を放棄して債務超過を解消したうえで、2009年4月にザナヴィを吸収合併した[163]。
クラリオンは2006年6月に中国と北米の市販市場へカーナビゲーションを初投入し、2011年3月には世界初の車載用フルデジタルスピーカーを開発した[164]。2010年10月には本店を白山からさいたま新都心へ移し、2011年4月に白山分室と座間事業所を同地へ集めた[165]。
クラリオンは2012年6月に自動車向けクラウド情報ネットワークサービス『Smart Access』を構築し、同年12月には世界初の車載用フルデジタルAVナビゲーション・スピーカーシステムを発売した[166]。2014年4月、泉龍彦社長は代表取締役会長兼CEOへ退き、川本英利氏が代表取締役社長兼COOに就いた[167]。2015年3月期から国際会計基準を適用し、2016年3月期の売上収益は2,162億円、営業利益は116億円に達した[168]。同期の地域別売上収益は、米州の914億円が日本の832億円を上回った[169]。2017年4月には川端敦氏が執行役社長兼COOへ就き、2018年3月期の売上収益は1,831億円、日本セグメントは5億9,600万円の営業損失を計上した[170]。
日立製作所は2018年10月26日、フォルシアの子会社エナップ シス エスエーエスによる公開買付けに、保有するクラリオン株式35,963,034株、議決権所有割合63.80%の全部を応募する契約を結んだと発表した[171]。買付価格は1株2,500円、譲渡価額は899億円にのぼった[172]。日立は、クラリオンがフォルシアの顧客基盤や事業基盤、技術力を使うことで成長を速め、企業価値を高められると判断したと説明した[173]。フォルシアは、既存のコックピットエレクトロニクス事業を統合し、内装、シート、クリーンモビリティに続く第4のビジネスグループを日本を本拠地として作ることを買収の目的に挙げた[174]。クラリオンは日立に代わるパートナー候補を事業領域を問わず世界から探し、複数の候補にアライアンスを打診したうえでフォルシアが最適と結論づけた[175]。
公開買付けは2019年1月30日から2月28日まで行われ、応募のあった53,699,041株の全てをエナップ シス エスエーエスが取得し、日立製作所は3月7日付で親会社と筆頭株主から外れた[176]。クラリオン株式は3月22日を最終売買日とし、1962年8月の東京証券取引所市場第二部上場から56年で、2019年3月25日に上場廃止となった[177]。2019年4月1日にはクラリオン、パロット・オートモーティブ、コアジェント・エレクトロニクスを統合したフォルシアの第4の事業部門フォルシア クラリオン エレクトロニクスが日本を本社として発足し、川端敦社長がExecutive Vice Presidentに就いてエグゼクティブ・コミッティーに名を連ねた[178]。
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|---|---|---|---|---|
| 1940〜1961年白山電池合名会社の蓄電池から日本初のカーラジオへ | 白山無線電機を設立 | ★★★ | ||
| 瀧澤無線電機工業を合併し帝国電波に商号変更 | ★★ | |||
| わが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を発売 | ★★★ | |||
| 1962〜1978年カーステレオ首位と日産自動車への筆頭株主交代 | 東京証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | ||
| わが国最初のカーステレオを開発 | ★★ | |||
| Clarion Corporation of Americaを設立 | ★★ | |||
| 埼玉事業所を新設し量産体制を整備 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| クラリオンに商号変更 | ★★ | |||
| 業務用カラオケを発売 | ★★ | |||
| 東北事業所を設置 | ★ | |||
| 1979〜1999年カラオケとペイテレビ、自動車依存9割からの多角化 | 小山田豊 | CDカーステレオを発売 | ★ | |
| 小山田豊 | フィリピンに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 小山田豊 | 決算期日を9月30日から3月31日に変更 | ★ | ||
| 小山田豊 | わが国最初の音声誘導式ナビゲーションを発売 | ★★★ | ||
| 石坪一三 | 生産子会社Dongguan Clarion Orient Electronicsを設立 | ★★ | ||
| 石坪一三 | ハンガリーに生産子会社を設立 | ★★ | ||
| 石坪一三 | マイクロソフトと車載コンピューティングシステムを共同開発 | ★★ | ||
| 2000〜2019年日産リバイバルプランから仏フォルシアの傘下まで | 石坪一三 | 日立製作所などと合弁でエイチ・シー・エックスを設立 | ★★ | |
| 泉龍彦 | 世界初の後方確認用俯瞰カメラシステムを日産車向けに納入 | ★★ | ||
| 泉龍彦 | 中国と北米の市販市場にカーナビゲーションを発売 | ★ | ||
| 泉龍彦 | 日立製作所による子会社化 | ★★★ | ||
| 泉龍彦 | ザナヴィ・インフォマティクスを完全子会社化 | ★★ | ||
| 泉龍彦 | ザナヴィ・インフォマティクスを吸収合併 | ★ | ||
| 泉龍彦 | 世界初の車載用フルデジタルスピーカーを開発 | ★ | ||
| 泉龍彦 | クラウド情報ネットワークサービスSmart Accessを構築 | ★★ | ||
| 川本英利 | 安全走行支援システムSurroundEyeを発売 | ★ | ||
| 川本英利 | 介護ロボット合弁会社ケアボットを設立 | ★ | ||
| 川端敦 | 自動駐車用ECUを日産車向けに納入 | ★★ | ||
| 川端敦 | 日立製作所が保有全株式のフォルシアへの売却を発表 | ★★★ | ||
| 川端敦 | フォルシアの株式公開買付け成立により上場廃止 | ★ |
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事実根拠:出所(クラリオン)