滝澤左内氏が生糸の暴落から引き出したのは、相場は危ないという教訓ではなく、価格を誰が決めるのかという問いだった。生糸の値はそれを買うアメリカ人が決めていて、作る側の手には何も残らない。蓄電池も電池式ラジオもカーラジオも、この会社が選んだ製品は、いずれも値を自分で決められる位置を探した結果である。蓄電池では硫酸をコロイド状に固める特許で他社の参入を止め、ラジオでは各社が交流式へ移ったあとの電池式に一社で残り、カーラジオでは国内に先行者のいない場所へ最初に立った。競争相手の少ない市場を選ぶことと、値を自分で決められることは、滝澤左内氏にとって同じ一つのことだった。
カーラジオを本命と見定めた根拠は、自動車が伸びるという読みではなく、電源がバッテリーだという一点にある。蓄電池から出発した会社にとって、電気が家庭へ行き渡っていく時代に電池式のラジオが残れる場所は、走る車のほかになかった。敗戦で飛行機を作れなくなった中島飛行機が、余ったジュラルミンの行き場としてバスを選んだのと同じ形で、帝国電波も自社の技術の行き場として自動車を選んでいる。月産60台から始まった車載ラジオは、1952年の日野自動車への純正納入を足がかりに、1961年9月期には売上の74%を占めるまでになった。ただしその時、製品の値を決める相手は、生糸を買ったアメリカ人から完成車メーカーへ替わっていた。
創業者の滝澤左内氏は養蚕の盛んな長野県に生まれ、生家も生糸業に関わっていた。大正末期から昭和初期にかけて生糸と原料の繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に預け、倉庫券を担保に資金を借りて商いをしていた生糸家は増担保を迫られた。滝澤左内氏の生家もその影響を免れなかった。生糸の価格を決めていたのは生産者ではなく、それを買うアメリカ人だった。少年期から青年期にかけてこれを身近に見た滝澤左内氏は、生産者が価格を決められる事業でなければ将来性はないと考えた。ちょうど懐中電灯が普及し、スイッチを切り忘れれば一晩で切れる乾電池が使い捨てられていたため、滝澤左内氏はそこに蓄電するという着想を得た。
滝澤左内氏は蓄電池を学ぶため、大学へ進むより上京して図書館で調べるほうが得策だと考え、反対する両親を説き伏せて東京へ出た。蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み込み、原理をつかんで製造に入った。当時の蓄電池は電槽に入れた硫酸が流出する危険を抱えており、滝澤左内氏は研究を重ねて硫酸をコロイド状に固めることに成功し、特許権を得て販売を開始した。電槽には日本で最初のセルロイド製を用いた。1924年8月、滝澤左内氏は東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、蓄電池の製作に取りかかった。独学で入った製造業でありながら、他社が同じものを作れない領域を特許で先に押さえている。価格を決められる側に立つという創業時の基準は、製品の選び方だけでなく、その製品をどう囲うかにも及んでいた。
蓄電池は、それ自体で需要を生む製品ではない。電気で動く機械が広まって初めて売れる。1925年に始まったラジオ放送は、当初は電池がなければ聴くことができず、蓄電池にとって最大の用途がここで現れた。白山電池合名会社は同年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造へ進み、電池を納める側から受信機そのものを作る側へ前へ出た。1930年2月には社名を白山無線に改め、ラジオ無線機の製造販売を手がけている。1940年12月18日、合名会社から株式会社へ組織を変え、東京都文京区白山前町21番地に資本金18万円の白山無線電機株式会社を設立し、電池式家庭用ラジオの製造を開始した。
第二次世界大戦が始まると、蓄電池は潜水艦の機動力に振り向けられ、民間ではほとんど使えなくなった。白山無線電機はラジオへ進み、蓄電池を手がけてきた関係から電池式に目をつけた。1925年の放送開始当初は電池がなければラジオを聴けなかったが、電気で聴けるようになると、ラジオメーカーはほとんどが交流式へ切り替えていた。それでも当時は全国に電気が行き渡らず、人口の35%は電気を使えなかった。滝澤左内氏は、他社が交流式に集まるなかで電池式の専門メーカーになるほうが賢明だと判断した。1941年には日本で第一号のポータブルラジオを開発し、製造販売を開始した。
1943年11月、白山無線電機は資本金15万円の瀧澤無線電機工業株式会社を合併して商号を帝国電波株式会社に改め、資本金は設立時の18万円から33万円に増えた。翌1944年8月には東京無線工業株式会社を合併し、資本金を37万7,500円とした。2年のあいだに同業2社を吸収したことになる。空襲で発電所が止まると、電気に頼らずに聴ける帝国電波のラジオは注目を集めた。交流式が主流になった市場で電池式に残る判断は、平時には売り先の狭さを引き受けることだったが、送電そのものが途絶する局面では、需要の側が電池式へ戻ってきた。
文京区白山に本社と工場を復興させ、民生用ラジオの生産へ戻ったのは1946年5月で、帝国電波はそれまで、1945年4月の戦災で本社工場と尾久工場を失って以来、静岡県の富士宮工場で操業を続けていた。同じ1946年に考案したブランド名"クラリオン"は、澄みわたる良い音や、そうした音を出す楽器を意味する語に由来し、標章はCLARIONの頭文字Cの中央に電波のシンボルマークを置いた意匠とした。設備を失ったばかりの会社は、生産を立て直すのと同時に、製品に付ける自社の名前にも着手した。受注で作る限り製品には買い手の名が付き値も買い手が決めるので、生糸の相場で得た基準を製品で満たすには、自分の名で呼ばれる商品が欠かせなかった。
戦後、連合軍の進駐とともにアメリカの自動車が流入し、その車には自動車専用のラジオが組み付けられていた。滝澤左内氏は、カーラジオがバッテリーを電源とする電池式ラジオであることから、これを帝国電波の本命商品と見定めた。敗戦で飛行機の生産が止まった中島飛行機は、手元に残ったジュラルミンを別の製品に振り向ける必要に迫られ、バスの製造を選んでいた。バスは50人から70人を乗せるためマイクロフォンもラジオも要ると考えた滝澤左内氏は、同社に足を運んでバス搭載用ラジオの共同研究を持ちかけ、話をまとめた。
1948年1月、帝国電波はわが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を開発し、製造販売を開始した。日本第一号の自動車専用ラジオが生まれたのは1947年——滝澤左内社長が1967年の講演で示した年代である。当初の生産は月60台だった。1948年12月には62万2,500円を増資し、資本金を100万円に引き上げた。日産自動車が生産を再開し、日野自動車がルノーの生産を開始すると、帝国電波の自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオへ移った。1952年、帝国電波は日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を締結し、製造と納入を始めた。
売上高は1958年11月期の3億円から、1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円へ伸びた。1956年4月に200万円、1959年7月にさらに200万円を増資し、資本金は500万円となった。1960年8月、帝国電波は埼玉県蕨市に蕨工場を新設し、量産に移した。1961年9月期の製品別売上構成は自動車ラジオが74%、バス・宣伝車用拡声装置が15%、工業計器が2%、部品その他が9%、販売先は日産自動車、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業への直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%を占めた。自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度とみられた。
カーステレオを売れる商品にしたのは、機械の性能ではなく、そこに入れる中身の手配だった。1963年に国内で最初のカーステレオを開発しながら、発売した1964年の売り先は輸出だけにとどまる。レコード会社がレコードの売行きの低下を嫌って音楽テープを出さず、聴くものが国内に無かったためである。滝澤左内氏はロサンゼルスのマンツ社と提携してテープごと米国市場へ持ち込み、そこでの売行きを根拠に日本コロムビアへ供給を繰り返し求めた。月産3万5,000台の水準では毎月10万巻のテープが要る。機械を作る会社が機械に入れる中身の調達まで背負ったところに、この時期の伸びの理由がある。
首位に立った時期と、会社の持ち主が入れ替わった時期は重なっている。1969年9月期にカーステレオの売上がカーラジオを上回り、翌年には市場第一部へ移って310万株を公募した。資本を広く集めることは、創業家の持分が薄まることでもある。1962年の上場時に発行済160万株の38.3%を握っていた滝澤左内氏は、1974年9月には筆頭株主の座を日産自動車へ明け渡し、上位10名に残る創業家は2名となった。純正納入で伸びた会社の株を、その納入先の一社が最も多く持つ。販路の安定と引き換えに、値を決める相手をもう一度手放したことになる。生糸の相場から立てた基準に照らせば、これは創業の出発点から遠ざかる動きだった。
帝国電波は1962年8月2日、東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した。上場時の資本金は8,000万円、上場株式数は160万株、従業員は517名で、決算期は9月30日である。1961年9月期の製品別売上比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%だった。1962年9月期の売上高は15億円。上場に先立つ1960年8月には埼玉県蕨市に蕨工場を新設し、カーラジオの量産を開始した。1962年4月と8月の2度の増資で、資本金は1,900万円から8,000万円へ増えた。
自動車ラジオでの帝国電波の順位は神戸工業と松下通信工業に次ぐ3位で、占有率は20%程度と推定された。これに対しバス・宣伝車用拡声装置は全国生産の79%を占め、首位に立っていた。販売先の内訳は、日産自動車・プリンス・富士重工・ダイハツ・東洋工業といった自動車メーカーへの直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、官公庁が7.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%。完成車メーカーへの純正納入は、1952年に日野自動車工業と結んだルノー4CV車用カーラジオの契約から始まった。
上場時の筆頭株主は滝澤左内社長で、発行済160万株のうち38.3%にあたる612,780株を持っていた。2位の今村久義氏が111,360株、3位の下田俊雄常務が68,160株、4位の福洋音響が65,040株と続き、上位5名のうち法人は福洋音響1社にとどまった。取締役8名のうち3名が滝澤姓で、監査役は斎藤清次郎氏と渡辺五三九氏の2名である。授権株式数は464万株、未発行株式数は304万株。取引銀行は協和銀行、住友銀行、富士銀行、埼玉銀行の4行。配当率は前期の30%から1961年9月期に50%へ上げた。
帝国電波は1963年10月、国内で最初のカーステレオを開発した。1964年に発売したものの、当初の販売先は輸出に限られた。国内のレコード会社がレコードの売行き減を理由に音楽テープの供給へ応じず、中身となるテープが手に入らなかったためである。滝澤左内社長はロサンゼルスのマンツ社と提携して同社から音楽テープの供給を受け、まず米国市場へ売り込んだ。1964年1月には米国にClarion Corporation of Americaを設立している。カーステレオの売上は1964年9月期で1億6,000万円弱にとどまった。
米国での売行きから国内でも売れると判断した滝澤左内社長は、日本コロムビアに音楽テープの供給を繰り返し求め、納入の承諾を得た。納入量は当初の月5,000巻から1967年には月2万5,000巻へ増え、日本クラウンから月2万巻、日本放送からも供給を受けた。帝国電波はカーステレオ1台にテープ1巻を無料で添えており、1台あたり2巻の追加購入を見込むと、月産3万5,000台の水準では毎月10万巻の音楽テープが要った。テープはプレスで量産できるレコードと違って録音に時間がかかり、30分物を12分以内で録音することはできなかった。
カーステレオの売上は1966年9月期の8億5,000万円から1967年9月期に21億2,000万円、1968年9月期に46億2,000万円、1969年9月期には71億5,000万円へ伸び、同期にカーラジオの51億1,000万円を初めて上回った。会社全体の売上高も1965年9月期の31億円から1969年9月期には156億円と5年で5倍になり、経常利益は2億円から12億円へ増えた。増産に応じるため1967年9月、9億5,000万円を投じて埼玉県戸田市に埼玉事業所を新設し、カーラジオの生産能力を月産15万台へ引き上げた。1968年3月には国内で最初のカセットカーステレオを発売した。
帝国電波は1970年2月、東京証券取引所市場第二部から第一部へ指定替えとなった。同年4月払込で310万株の公募増資を行い、埼玉工場の増設と営業網の整備に充てて、カーステレオの生産能力増強には10億円を投じた。この時点の帝国電波は借入に依存する会社ではなく、1969年9月末の自己資本比率は26.5%と製造業平均を上回り、借入金依存度は26.9%、長短借入金17億2,000万円に対して現預金を22億2,000万円抱えていた。カーラジオでは松下通信工業と富士通を抑えて台数ベースのシェア約30%で首位に立ち、カーステレオも国内では同じ2社を抑えて首位だった。資金繰りに迫られての増資ではなく、伸び続ける需要に生産能力を先回りさせるための調達だった。
カーラジオは7割近くが完成車メーカーへの純正納入で、市販は3割にとどまっていた。カーステレオは市販の比重が約5割と高く、1969年後半にはガソリンスタンドなど1万2,000余店を新たに特約店に設定し、市販網を広げた。純正で納めた製品には完成車メーカーの名が付くが、市販の店頭では自社の名で売ることになる。1970年12月、帝国電波は商号をクラリオンへ改めた。クラリオンは1946年に考案した製品ブランドで、CLARIONの頭文字Cに電波のシンボルマークを配した図案を社章に用い、澄みきった良い音、またはその音を出す楽器を意味する。同じ1970年にはClarion (Malaysia) Sdn., Bhd.へ資本参加している。24年前に付けた製品の名を会社の名へ引き上げたのは、買い手へ直接届く商標を手にしたからだった。
1970年5月時点では滝澤左内社長が発行済2,620万株のうち1,969,000株を保有し、筆頭株主の座にあった。2位は協和銀行の1,504,000株、3位は安田生命の916,000株で、カーステレオ用の音楽テープを供給した日本コロムビアが627,000株の4位に入り、日産自動車は288,000株で7位に入った。1974年9月にはこの並びが入れ替わり、日産自動車が5,203,000株で筆頭株主となった。協和銀行の3,250,000株が2位、滝澤将一氏の1,705,000株が3位で、上位10名に残る創業家は滝澤将一氏と滝澤孝氏の2名にとどまった。
クラリオンは1976年8月に業務用カラオケを発売した。生産では福島県への進出を進め、1976年7月に郡山市で東北クラリオン電子が仮創業し、同年10月に正式な操業を開始した。従業員200人の同社は延べ3,000坪の工場でカーラジオ、カーステレオ、バス車内放送用アンプなどを組み立て、製品を埼玉県戸田の工場へ送った。進出の理由は東北自動車道の開通で埼玉県との距離が縮まったことと労働力の確保にあり、工場敷地内には幼児を60人ほど収容する保育所を置いた。県内には二本松クラリオン、郡山クラリオン、いわきクラリオン、船引クラリオン精機も並んだ。1978年10月には郡山市へ東北事業所を新設した。売上高は1974年9月期の293億円から1978年9月期に548億円へ伸びた。
クラリオンは1978年の暮れ、3年で売上高を倍増させて1,000億円企業になるという3カ年計画を掲げた。当時の社長は下田俊雄氏で、計画の先兵には輸出市場の拡大を据えた。1979年に入るとスウェーデンに1社、米国に2社、カナダに1社の販売子会社を相次いで設け、それまでの代理店契約を資本関係のある子会社方式へ切り替えた。1979年9月期の売上高は672億円、経常利益は51億円で、4年連続の増益となった。この決算の直後、1979年12月に小山田豊氏が社長へ就任した。小山田豊氏は1928年3月に満州で生まれ、中華航空養成所を出て1949年4月に前身の帝国電波へ入社し、1959年に営業部長、1962年に取締役、1979年に副社長を務めた。小山田豊社長は1955年から4年間、初めは門前払いされた日産自動車へ通いつめ、カーラジオの純正部品の指定を取り付けた。
カーオーディオは1969年9月期に売上高のほぼ90%を占め、そのうち4割が日産自動車へ流れた。日産自動車への納入は1959年の純正部品指定に始まり、国内純正部品では30〜35%のシェアで首位に立っていた。専業の利点は納入の安定にあり、裏返せば自動車メーカーの生産動向がそのまま業績に響く関係でもあった。1974年9月期と1975年9月期は自動車メーカーの減産を受け、経常利益が2期連続で半減した。1973年9月期に16億円あった経常利益は、1975年9月期には3億円まで減少した。日産自動車は筆頭株主でありながら歴史的にも人的にも関係が深いわけではなく、納入の安定を保証する力は薄れていた。1984年9月時点でも日産自動車の持株数は14,935,000株で、なお筆頭を占めた。
小山田豊社長は、部品としての色彩が強い商品ばかりが増えれば納入先の要請をこなすだけになり、消費者が何を求めているかをつかんで商品を開発する機能が失われると社内へ訴えた。多角化そのものは、常務だった1970年から1971年にかけて小山田豊社長が言い出していた。1973年には家庭用コンポステレオへ進出して3年足らずで撤退し、1974年に手がけたトランシーバーは需要の激減に遭った。それでも消費者と直結する市場への足がかりは残り、1976年8月の業務用カラオケ発売へつながった。カラオケ演奏装置は金融筋も代理店も反対するなかで開発を通し、発売後に売れ行きを伸ばして、高くなかったクラリオンの知名度を全国へ広げた。1981年の売上構成は自動車会社向けとそれ以外が72%対28%で、これを1985年までに半々にする中期3カ年計画を策定していた。
クラリオンは、ペイテレビ用の送受信機システムを売るために米国のペイテレビ事業へ自ら出資した。初期投資の重い事業であり、機器を納めると同時に資本を入れて事業者を後押しし、運営のノウハウと技術の改善を同時並行で進めた。まず大市場の米国に狙いを定め、1978年にロサンゼルス、1980年にミルウォーキーで、それぞれ現地のペイテレビ会社へ資本参加した。ミルウォーキーでは米国の販売子会社とともにペイテレビ会社STVWへ40万ドルを出資し、約45%の株式を握った。同市のテレビ視聴世帯は約80万でロサンゼルスの5分の1にとどまるものの、競合会社が少ないぶん成功すると読んだ。
利用者数は採算に乗る4万5,000世帯へ届かなかった。3万3,000軒までは伸びたものの一進一退が続き、1983年に入ると減り始めた。ペイテレビは設備一式をそろえてから開業する事業のため、見込んだ利用者数に達しない限り黒字化の手はない。クラリオンは、ミルウォーキーではペイテレビ自体の人気が乏しいという判断へ傾いた。1983年半ばから小山田豊社長は撤退を検討したが、そのまま清算すれば損害が大きすぎた。主力のカーオーディオが順調な一方でカラオケなどは不振に落ち、1984年当時のクラリオンの業績は厳しかった。
衛星の電波を共同アンテナで受けて各戸へ分配するSMATVの開発がクラリオン社内で技術的に完成し、撤退の目算がついた。1984年初め、クラリオンはSMATVを運営するテルスター社へ接近し、電波妨害の暗号を解読するデコーダーを転用できるよう改造して売り込んだ。改造設備の実験を同年5月から始め、テルスター社が中古設備の引き取りを決めると同時に、小山田豊社長はミルウォーキー撤退を決めた。STVWの他の株主へ会社解散を通告し、視聴者には1カ月前に知らせ、7月初めに営業を中止した。引き上げたデコーダーはそのままSMATVへ振り向け、デコーダーだけで約300万ドルの損失を防いだ。清算は1984年9月期中に終わり、決算では11億7,000万円の特別損失を計上した。同期の売上高は1,090億円、経常利益は23億円、当期純利益は5億円で、経常利益は前期の60億円から6割超減少した。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6796/company.json https://the-shashi.com/api/6796/history.json https://the-shashi.com/api/6796/ceo.json https://the-shashi.com/api/6796/financials.json https://the-shashi.com/api/6796/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/6796/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/6796/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/6796/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/6796/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/6796/financials.csv https://the-shashi.com/api/6796/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1940〜1961年白山電池合名会社の蓄電池から日本初のカーラジオへ | 白山無線電機を設立 | ★★★ | ||
| 瀧澤無線電機工業を合併し帝国電波に商号変更 | ★★ | |||
| わが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を発売 | ★★★ | |||
| 1962〜1978年カーステレオ首位と日産自動車への筆頭株主交代 | 東京証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | ||
| わが国最初のカーステレオを開発 | ★★ | |||
| Clarion Corporation of Americaを設立 | ★★ | |||
| 埼玉事業所を新設し量産体制を整備 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| クラリオンに商号変更 | ★★ | |||
| 業務用カラオケを発売 | ★★ | |||
| 東北事業所を設置 | ★ | |||
| 1979〜1999年カラオケとペイテレビ、自動車依存9割からの多角化 | 小山田豊 | CDカーステレオを発売 | ★ | |
| 小山田豊 | フィリピンに生産子会社を設立 | ★ | ||
| 小山田豊 | 決算期日を9月30日から3月31日に変更 | ★ | ||
| 小山田豊 | わが国最初の音声誘導式ナビゲーションを発売 | ★★★ | ||
| 石坪一三 | 生産子会社Dongguan Clarion Orient Electronicsを設立 | ★★ | ||
| 石坪一三 | ハンガリーに生産子会社を設立 | ★★ | ||
| 石坪一三 | マイクロソフトと車載コンピューティングシステムを共同開発 | ★★ | ||
| 2000〜2019年日産リバイバルプランから仏フォルシアの傘下まで | 石坪一三 | 日立製作所などと合弁でエイチ・シー・エックスを設立 | ★★ | |
| 泉龍彦 | 世界初の後方確認用俯瞰カメラシステムを日産車向けに納入 | ★★ | ||
| 泉龍彦 | 中国と北米の市販市場にカーナビゲーションを発売 | ★ | ||
| 泉龍彦 | 日立製作所による子会社化 | ★★★ | ||
| 泉龍彦 | ザナヴィ・インフォマティクスを完全子会社化 | ★★ | ||
| 泉龍彦 | ザナヴィ・インフォマティクスを吸収合併 | ★ | ||
| 泉龍彦 | 世界初の車載用フルデジタルスピーカーを開発 | ★ | ||
| 泉龍彦 | クラウド情報ネットワークサービスSmart Accessを構築 | ★★ | ||
| 川本英利 | 安全走行支援システムSurroundEyeを発売 | ★ | ||
| 川本英利 | 介護ロボット合弁会社ケアボットを設立 | ★ | ||
| 川端敦 | 自動駐車用ECUを日産車向けに納入 | ★★ | ||
| 川端敦 | 日立製作所が保有全株式のフォルシアへの売却を発表 | ★★★ | ||
| 川端敦 | フォルシアの株式公開買付け成立により上場廃止 | ★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(クラリオン)