クラリオン:白山無線電機の設立と日本初のカーラジオ
1940年〜生糸相場の暴落が決めた蓄電池という選択
創業者の滝澤左内氏は養蚕の盛んな長野県に生まれ、生家も生糸業に関わっていた。大正末期から昭和初期にかけて生糸と原料の繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に預け、倉庫券を担保に資金を借りて商いをしていた生糸家は増担保を迫られた。滝澤左内氏の生家もその影響を免れなかった。生糸の価格を決めていたのは生産者ではなく、それを買うアメリカ人だった。少年期から青年期にかけてこれを身近に見た滝澤左内氏は、生産者が価格を決められる事業でなければ将来性はないと考えた。ちょうど懐中電灯が普及し、スイッチを切り忘れれば一晩で切れる乾電池が使い捨てられていたため、滝澤左内氏はそこに蓄電するという着想を得た。
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [1]滝澤左内氏の出身地は当時の養蚕王国長野県で、生家も生糸業に関係していた
- [2]大正末期から昭和初期にかけて生糸と繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に入れ倉庫券を担保に資金を借りていた生糸家は増担保を余儀なくされた
- [3]滝澤左内氏の生家も生糸暴落の影響を免れなかった
- [4]生糸価格の決定は生産者ではなく、それを買うアメリカ人の手にゆだねられていた
- [5]少年から青年にかけての時代にこれを身近に経験した結果、生産者が価格を決定できる事業でなければ将来性はないと考えるようになった
- [6]当時普及し始めた懐中電灯の電池は、スイッチを消し忘れれば一晩でなくなり使い切ると捨てられていたため、これに蓄電することを考えついた
滝澤左内氏は蓄電池を学ぶため、大学へ進むより上京して図書館で調べるほうが得策だと考え、反対する両親を説き伏せて東京へ出た。蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み込み、原理をつかんで製造に入った。当時の蓄電池は電槽に入れた硫酸が流出する危険を抱えており、滝澤左内氏は研究を重ねて硫酸をコロイド状に固めることに成功し、特許権を得て販売を開始した。電槽には日本で最初のセルロイド製を用いた。1924年8月、滝澤左内氏は東京都文京区に白山電池合名会社を設立し、蓄電池の製作に取りかかった。独学で入った製造業でありながら、他社が同じものを作れない領域を特許で先に押さえている。価格を決められる側に立つという創業時の基準は、製品の選び方だけでなく、その製品をどう囲うかにも及んでいた。
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [7]蓄電池を勉強するには大学に入学するより上京して図書館等で勉強する方が得策と考え、反対する両親を説き伏せて上京した
- [8]蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み、蓄電池の原理をつかんでその製造に着手した
- [9]電槽に入れた硫酸は流出の危険があったため研究を重ねてコロイド状にすることに成功し、特許権を得て販売を開始した
- [10]電槽には日本で最初のセルロイド製電槽を使用した
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [11]1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し蓄電池の製作を始めた(創業年は資料により異なり、蓄電池メーカーとしての事業開始を1925年4月とする記述もある)
蓄電池は、それ自体で需要を生む製品ではない。電気で動く機械が広まって初めて売れる。1925年に始まったラジオ放送は、当初は電池がなければ聴くことができず、蓄電池にとって最大の用途がここで現れた。白山電池合名会社は同年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造へ進み、電池を納める側から受信機そのものを作る側へ前へ出た。1930年2月には社名を白山無線に改め、ラジオ無線機の製造販売を手がけている。1940年12月18日、合名会社から株式会社へ組織を変え、東京都文京区白山前町21番地に資本金18万円の白山無線電機株式会社を設立し、電池式家庭用ラジオの製造を開始した。
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [12]1925年の放送開始当初、ラジオ放送は電池でしか聴取できなかった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [13]1925年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造を開始した
- [17]1940年12月、資本金18万円をもって白山無線電機株式会社を設立(設立日は1940年12月18日)
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [14]1930年2月、白山無線と改称しラジオ無線機の製造販売を開始した
- [15]1940年12月、白山無線電機株式会社に組織変更した
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1940年12月18日、東京都文京区白山前町21番地に白山無線電機株式会社を設立
- [18]電池式家庭用ラジオの製造を開始
参考文献[1]-[18]
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [1]滝澤左内氏の出身地は当時の養蚕王国長野県で、生家も生糸業に関係していた
- [2]大正末期から昭和初期にかけて生糸と繭が大暴落し、夏に相場で買った繭を倉庫に入れ倉庫券を担保に資金を借りていた生糸家は増担保を余儀なくされた
- [3]滝澤左内氏の生家も生糸暴落の影響を免れなかった
- [4]生糸価格の決定は生産者ではなく、それを買うアメリカ人の手にゆだねられていた
- [5]少年から青年にかけての時代にこれを身近に経験した結果、生産者が価格を決定できる事業でなければ将来性はないと考えるようになった
- [6]当時普及し始めた懐中電灯の電池は、スイッチを消し忘れれば一晩でなくなり使い切ると捨てられていたため、これに蓄電することを考えついた
- [7]蓄電池を勉強するには大学に入学するより上京して図書館等で勉強する方が得策と考え、反対する両親を説き伏せて上京した
- [8]蓄電池に関する書物2冊を納得のいくまで読み、蓄電池の原理をつかんでその製造に着手した
- [9]電槽に入れた硫酸は流出の危険があったため研究を重ねてコロイド状にすることに成功し、特許権を得て販売を開始した
- [10]電槽には日本で最初のセルロイド製電槽を使用した
- [12]1925年の放送開始当初、ラジオ放送は電池でしか聴取できなかった
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [11]1924年8月、滝澤左内氏が東京都文京区に白山電池合名会社を設立し蓄電池の製作を始めた(創業年は資料により異なり、蓄電池メーカーとしての事業開始を1925年4月とする記述もある)
- [14]1930年2月、白山無線と改称しラジオ無線機の製造販売を開始した
- [15]1940年12月、白山無線電機株式会社に組織変更した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [13]1925年6月の東京放送局開局を機に蓄電池ラジオの製造を開始した
- [17]1940年12月、資本金18万円をもって白山無線電機株式会社を設立(設立日は1940年12月18日)
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [16]1940年12月18日、東京都文京区白山前町21番地に白山無線電機株式会社を設立
- [18]電池式家庭用ラジオの製造を開始
1941年〜交流式への転換期に選んだ電池式ラジオ専業
第二次世界大戦が始まると、蓄電池は潜水艦の機動力に振り向けられ、民間ではほとんど使えなくなった。白山無線電機はラジオへ進み、蓄電池を手がけてきた関係から電池式に目をつけた。1925年の放送開始当初は電池がなければラジオを聴けなかったが、電気で聴けるようになると、ラジオメーカーはほとんどが交流式へ切り替えていた。それでも当時は全国に電気が行き渡らず、人口の35%は電気を使えなかった。滝澤左内氏は、他社が交流式に集まるなかで電池式の専門メーカーになるほうが賢明だと判断した。1941年には日本で第一号のポータブルラジオを開発し、製造販売を開始した。
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [19]第二次大戦の開始と同時に、蓄電池は潜水艦の機動力に使うため民間での使用がほとんど不可能になった
- [20]そこでラジオに進出し、蓄電池の製造・販売を手がけていた関係から電池式ラジオに目をつけた
- [21]1925年の放送開始当初は電池でしか聴取できなかったが、電気で聴けるようになってからはラジオ・メーカーはほとんどすべて交流式ラジオに切り替えていた
- [22]当時は全国に電気がいきわたっておらず、人口の35%は電気の恩恵に浴していなかった
- [23]ラジオ・メーカーのほとんどが交流式であることから、電池式の専門メーカーになった方が賢明ではないかと考えた
- [24]1941年に日本で第一号のポータブル・ラジオを開発し、製造・販売を開始した
1943年11月、白山無線電機は資本金15万円の瀧澤無線電機工業株式会社を合併して商号を帝国電波株式会社に改め、資本金は設立時の18万円から33万円に増えた。翌1944年8月には東京無線工業株式会社を合併し、資本金を37万7,500円とした。2年のあいだに同業2社を吸収したことになる。空襲で発電所が止まると、電気に頼らずに聴ける帝国電波のラジオは注目を集めた。交流式が主流になった市場で電池式に残る判断は、平時には売り先の狭さを引き受けることだったが、送電そのものが途絶する局面では、需要の側が電池式へ戻ってきた。
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [25]1943年11月、瀧澤無線電機工業株式会社を合併し帝国電波株式会社と改称
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [26]1943年11月、白山無線電機と滝沢無線電機工業(資本金15万円)が合併して帝国電波と改称し、資本金は33万円となった(設立時資本金は18万円)
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [27]1944年8月に東京無線工業株式会社を合併し、資本金は4万7,500円増えて37万7,500円となった
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [28]電池式は空襲による発電所機能のストップで大きくクローズアップされるに至った
文京区白山に本社と工場を復興させ、民生用ラジオの生産へ戻ったのは1946年5月で、帝国電波はそれまで、1945年4月の戦災で本社工場と尾久工場を失って以来、静岡県の富士宮工場で操業を続けていた。同じ1946年に考案したブランド名"クラリオン"は、澄みわたる良い音や、そうした音を出す楽器を意味する語に由来し、標章はCLARIONの頭文字Cの中央に電波のシンボルマークを置いた意匠とした。設備を失ったばかりの会社は、生産を立て直すのと同時に、製品に付ける自社の名前にも着手した。受注で作る限り製品には買い手の名が付き値も買い手が決めるので、生糸の相場で得た基準を製品で満たすには、自分の名で呼ばれる商品が欠かせなかった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [29]1946年5月、本社ならびに工場を文京区白山に復興し、民生用ラジオの生産を始めた
- [30]1945年4月、戦災により本社工場・尾久工場を焼失し、静岡県富士宮工場で操業を継続した
- [31]クラリオンは澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意で、ブランドとして1946年に考案した。標章はCLARIONの頭文字Cと中央に配した電波のシンボルマークから成る
参考文献[19]-[31]
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [19]第二次大戦の開始と同時に、蓄電池は潜水艦の機動力に使うため民間での使用がほとんど不可能になった
- [20]そこでラジオに進出し、蓄電池の製造・販売を手がけていた関係から電池式ラジオに目をつけた
- [21]1925年の放送開始当初は電池でしか聴取できなかったが、電気で聴けるようになってからはラジオ・メーカーはほとんどすべて交流式ラジオに切り替えていた
- [22]当時は全国に電気がいきわたっておらず、人口の35%は電気の恩恵に浴していなかった
- [23]ラジオ・メーカーのほとんどが交流式であることから、電池式の専門メーカーになった方が賢明ではないかと考えた
- [24]1941年に日本で第一号のポータブル・ラジオを開発し、製造・販売を開始した
- [28]電池式は空襲による発電所機能のストップで大きくクローズアップされるに至った
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [25]1943年11月、瀧澤無線電機工業株式会社を合併し帝国電波株式会社と改称
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [26]1943年11月、白山無線電機と滝沢無線電機工業(資本金15万円)が合併して帝国電波と改称し、資本金は33万円となった(設立時資本金は18万円)
- [29]1946年5月、本社ならびに工場を文京区白山に復興し、民生用ラジオの生産を始めた
- [30]1945年4月、戦災により本社工場・尾久工場を焼失し、静岡県富士宮工場で操業を継続した
- [31]クラリオンは澄みきった良い音、または澄みきった音をだす楽器の一種等の意で、ブランドとして1946年に考案した。標章はCLARIONの頭文字Cと中央に配した電波のシンボルマークから成る
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [27]1944年8月に東京無線工業株式会社を合併し、資本金は4万7,500円増えて37万7,500円となった
1948年〜中島飛行機との共同研究から生まれた車載ラジオ
戦後、連合軍の進駐とともにアメリカの自動車が流入し、その車には自動車専用のラジオが組み付けられていた。滝澤左内氏は、カーラジオがバッテリーを電源とする電池式ラジオであることから、これを帝国電波の本命商品と見定めた。敗戦で飛行機の生産が止まった中島飛行機は、手元に残ったジュラルミンを別の製品に振り向ける必要に迫られ、バスの製造を選んでいた。バスは50人から70人を乗せるためマイクロフォンもラジオも要ると考えた滝澤左内氏は、同社に足を運んでバス搭載用ラジオの共同研究を持ちかけ、話をまとめた。
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [32]戦後、連合軍の進駐と同時にアメリカの自動車が流入し、それには自動車専用のラジオが組み付けられていた
- [33]自動車専用ラジオすなわちカーラジオはバッテリーを電源とする電池式ラジオであるため、これを本命商品とみた
- [34]敗戦により飛行機の生産が中止され、飛行機生産メーカーは手持材料のジュラルミンを何かの製造に向けねばならず、中島飛行機はそれをバスの製造に向けた
- [35]バスには50〜70人が乗るためマイクロフォンもラジオも必要と考え、中島飛行機に足を運んでバス搭載専用ラジオの共同研究を持ちかけ、話がまとまった
1948年1月、帝国電波はわが国最初のカーラジオとバス用拡声装置を開発し、製造販売を開始した。日本第一号の自動車専用ラジオが生まれたのは1947年——滝澤左内社長が1967年の講演で示した年代である。当初の生産は月60台だった。1948年12月には62万2,500円を増資し、資本金を100万円に引き上げた。日産自動車が生産を再開し、日野自動車がルノーの生産を開始すると、帝国電波の自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオへ移った。1952年、帝国電波は日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を締結し、製造と納入を始めた。
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [36]1948年1月、わが国最初のカーラジオ、バス用拡声装置を開発し製造販売を開始
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [37]日本で第一号の自動車専用ラジオが誕生したのは昭和22年(1947年)だと滝澤左内社長が講演で述べた
- [38]1947年当時の自動車専用ラジオは月産60台だった
- [40]日産自動車が生産を再開し日野自動車がルノーの生産を開始するにおよび、自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオに移行した
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [39]1948年12月に62万2,500円を増資し、資本金は100万円となった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [41]1952年、日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入した
売上高は1958年11月期の3億円から、1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円へ伸びた。1956年4月に200万円、1959年7月にさらに200万円を増資し、資本金は500万円となった。1960年8月、帝国電波は埼玉県蕨市に蕨工場を新設し、量産に移した。1961年9月期の製品別売上構成は自動車ラジオが74%、バス・宣伝車用拡声装置が15%、工業計器が2%、部品その他が9%、販売先は日産自動車、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業への直接販売が34.9%、自動車ディーラーが20.2%、代理店経由が34.8%、輸出が7.9%を占めた。自動車ラジオでは神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度とみられた。
- 会社年鑑(1963年版)
- [42]帝国電波の1958年11月期売上高は3億円
- 会社年鑑(1967年版)
- [43]帝国電波の売上高は1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [44]1956年4月に200万円を増資して資本金300万円、1959年7月に200万円を増資して資本金500万円
- [45]1960年8月、埼玉県蕨市に蕨工場を設置
- [46]1961年9月期の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
- [47]販売は各自動車メーカー(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)への直接販売34.9%、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
- [48]自動車ラジオでの業界地位は神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度と推定される
参考文献[32]-[48]
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- [32]戦後、連合軍の進駐と同時にアメリカの自動車が流入し、それには自動車専用のラジオが組み付けられていた
- [33]自動車専用ラジオすなわちカーラジオはバッテリーを電源とする電池式ラジオであるため、これを本命商品とみた
- [34]敗戦により飛行機の生産が中止され、飛行機生産メーカーは手持材料のジュラルミンを何かの製造に向けねばならず、中島飛行機はそれをバスの製造に向けた
- [35]バスには50〜70人が乗るためマイクロフォンもラジオも必要と考え、中島飛行機に足を運んでバス搭載専用ラジオの共同研究を持ちかけ、話がまとまった
- [37]日本で第一号の自動車専用ラジオが誕生したのは昭和22年(1947年)だと滝澤左内社長が講演で述べた
- [38]1947年当時の自動車専用ラジオは月産60台だった
- [40]日産自動車が生産を再開し日野自動車がルノーの生産を開始するにおよび、自動車専用ラジオはバスラジオから本格的なカーラジオに移行した
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- [36]1948年1月、わが国最初のカーラジオ、バス用拡声装置を開発し製造販売を開始
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介
- [39]1948年12月に62万2,500円を増資し、資本金は100万円となった
- [44]1956年4月に200万円を増資して資本金300万円、1959年7月に200万円を増資して資本金500万円
- [45]1960年8月、埼玉県蕨市に蕨工場を設置
- [46]1961年9月期の製品別比率は自動車ラジオ74%、バス・宣伝車用拡声装置15%、工業計器2%、部品その他9%
- [47]販売は各自動車メーカー(日産、プリンス、富士重工、ダイハツ、東洋工業)への直接販売34.9%、自動車ディーラー20.2%、官公庁7.2%、代理店経由34.8%、輸出7.9%
- [48]自動車ラジオでの業界地位は神戸工業、松下通信に次ぐ第3位で、占有率は20%程度と推定される
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- [41]1952年、日野自動車工業株式会社とルノー4CV車用カーラジオの純正納入契約を結び製造納入した
- 会社年鑑(1963年版)
- [42]帝国電波の1958年11月期売上高は3億円
- 会社年鑑(1967年版)
- [43]帝国電波の売上高は1959年9月期4億円、1960年9月期7億円、1961年9月期11億円
筆者考察
滝澤左内氏が生糸の暴落から引き出したのは、相場は危ないという教訓ではなく、価格を誰が決めるのかという問いだった。生糸の値はそれを買うアメリカ人が決めていて、作る側の手には何も残らない。蓄電池も電池式ラジオもカーラジオも、この会社が選んだ製品は、いずれも値を自分で決められる位置を探した結果である。蓄電池では硫酸をコロイド状に固める特許で他社の参入を止め、ラジオでは各社が交流式へ移ったあとの電池式に一社で残り、カーラジオでは国内に先行者のいない場所へ最初に立った。競争相手の少ない市場を選ぶことと、値を自分で決められることは、滝澤左内氏にとって同じ一つのことだった。
カーラジオを本命と見定めた根拠は、自動車が伸びるという読みではなく、電源がバッテリーだという一点にある。蓄電池から出発した会社にとって、電気が家庭へ行き渡っていく時代に電池式のラジオが残れる場所は、走る車のほかになかった。敗戦で飛行機を作れなくなった中島飛行機が、余ったジュラルミンの行き場としてバスを選んだのと同じ形で、帝国電波も自社の技術の行き場として自動車を選んでいる。月産60台から始まった車載ラジオは、1952年の日野自動車への純正納入を足がかりに、1961年9月期には売上の74%を占めるまでになった。ただしその時、製品の値を決める相手は、生糸を買ったアメリカ人から完成車メーカーへ替わっていた。
- 1958年11月期のみ決算期が異なる。出所は1958年11月期が会社年鑑 1963年版、1959年9月期以降が会社年鑑 1967年版。
1940年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年11月期 | 単体 | 3 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年09月期 | 単体 | 4 | +33.3% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1960年09月期 | 単体 | 7 | +75.0% | 0 | 0.0% | n/a |
| 1961年09月期 | 単体 | 11 | +57.1% | 0 | 0.0% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
6件
- クラリオン 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑(1963年版)
- 会社年鑑(1967年版)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968年)3編「帝国電波」
- 証券アナリストジャーナル 1967年(滝澤左内 社長・講演)
- 証券 1962年 14(9)(160) 新規上場会社紹介