山水電気 の歴史

創業

1944年

創業者

菊池幸作

創業地

東京都渋谷区

直近売上高(2010/12)

0億円

長期業績と転換点(1981/10〜2010/12)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1944年にトランス生産から始まった山水電気が、オーディオ御三家と呼ばれる会社になれたのか
A 創業は1944年12月、東京都渋谷区でのトランス生産である。1954年8月にステレオアンプへ移った転換に無理はなかった。真空管式アンプの音質を左右するのは出力トランスであり、10年分の巻線技術がそのまま完成品の中核に置けたためである。売り先は初めから海外にあり、事典は製品の90%以上を日本国外で販売したと記す。1970年代にはチューナーのトリオ、アンプの山水電気、スピーカーのパイオニアがオーディオ御三家と呼ばれ、売上高は1984年10月期の525億5,200万円で頂点に達した
Q なぜ1985年の円高のあと、音質で評価された山水電気は立ち直れなかったのか
A 理由は一つではない。第一に、輸出比率の高さがそのまま損益の振れ幅になった。1985年10月期から経常赤字となり、その後の売上高は半分以下に落ち込んでいる。第二に、売れる価格帯に商品がなかった。国内営業本部の河内八洲男氏は「変なプライドがあった上にコストダウンを実現する力が弱かったので、結果としては高級品しか作れなかった」と語る。第三に、前社長の稲宮達也氏は、オーディオへの固執と多角化の不在、技術者の偏り、士気の低下という3点を挙げた。どれか一つが欠けても1988年10月期の債務超過には至らなかった
Q なぜ1989年に山水電気は英ポリーペックへ株式の51%を渡したのか
A 国内で買い手が決まらなかったためである。主幹事の大和証券が2年ほど提携先を探し、京セラ・東芝・パイオニアなど20社以上の名が挙がったものの、いずれもまとまらなかった。1989年10月、英ポリーペックが第三者割当増資を引き受け、156億円で株式の51%を取得する。延命という意味では目的を果たした。しかし翌1990年9月に親会社自身が取引停止となり、再建は2年で途切れる。株式は香港資本へ渡り、2000年には商標権も担保に移る。会社は2012年4月に民事再生法を申請し、2014年7月に破産手続開始の決定を受けた

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1944年〜 トランス製造からステレオアンプへの転換と輸出主導の拡大

  1. 1944年菊池幸作が東京都渋谷区に山水電気製作所を創業しトランスの生産を開始
  2. 1947年山水電気製作所を改組し山水電気株式会社を設立
  3. 1954年ステレオアンプの生産を開始
  4. 1955年トランジスタ用トランスの生産を開始
  5. 1959年武蔵工場を新設
  6. 1960年山水音研株式会社を吸収合併し三鷹工場とする
  7. 1962年セパレート・ステレオの発売を開始

山水電気の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

戦時下のトランス製造として始まった創業

1944年12月、菊池幸作氏が東京都渋谷区で山水電気製作所を興し、トランスの生産を始めた。トランスは電圧を変える部品で、当時は通信機や計測器に欠かせない。空襲が本格化する直前の東京で、軍需に連なる部品を作る小さな町工場として出発した会社である。終戦から2年後の1947年6月、この製作所を改組して山水電気株式会社を設立した。資本金は18万円にすぎない。同じ年に大企業が復興資金を政府から受けていたことを考えれば、資本の規模では比べるべくもない出発だった。会社が持っていたものは、巻線と磁気回路をめぐる設計と加工の技能だけである。 [1][2][3]

1954年8月、山水電気はステレオアンプの生産を始めた。部品メーカーから完成品メーカーへ移る決定である。この転換には無理がなかった。真空管式アンプの音質を左右するのは出力トランスであり、会社が10年かけて積んだ巻線の技術がそのまま製品の中核に置けたからである。翌1955年7月にはトランジスタ用トランスの生産にも入り、真空管と半導体の両方に足場を作った。部品で培った技術を完成品へ持ち上げる筋道は、戦後の日本の電機メーカーが繰り返し辿った道でもある。ただし山水電気の場合、その後もアンプという単一の製品分野に技術資源を集めつづけた点で、総合電機各社とは進み方が違った。 [4][5][6]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [4]1954年8月にステレオアンプの生産を開始した
    • [5]1955年7月にトランジスタ用トランスの生産を開始した
    • [6]トランスを基調にHi-Fiアンプの生産・販売を1954年に開始したという事典の記述

生産設備の増強と資本市場への参加が続いた。1957年3月に本店を東京都杉並区和泉2丁目へ移し、1959年7月に武蔵工場を新設する。1960年4月には山水音研株式会社を吸収合併して三鷹工場とした。1961年12月、東京証券取引所市場第2部に株式を上場している。創業から17年、アンプの生産開始からは7年しか経っていない。翌1962年4月にはセパレート・ステレオの発売を始めた。アンプ・チューナー・スピーカーを別筐体で組み合わせる売り方であり、買い手が自分で機器を選ぶ市場を前提とする。この製品の考え方が、後に高級機へ集中する経営の土台になった。 [7][8][9]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [7]1959年7月に武蔵工場を新設、1960年4月に山水音研を吸収合併して三鷹工場とした
    • [8]1961年12月に東京証券取引所市場第2部に上場した
    • [9]1962年4月にセパレート・ステレオの発売を開始した
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [1]1944年12月に東京都渋谷区で創業しトランスの生産を開始した
    • [3]1947年6月に改組して山水電気株式会社を設立、資本金18万円
    • [4]1954年8月にステレオアンプの生産を開始した
    • [5]1955年7月にトランジスタ用トランスの生産を開始した
    • [7]1959年7月に武蔵工場を新設、1960年4月に山水音研を吸収合併して三鷹工場とした
    • [8]1961年12月に東京証券取引所市場第2部に上場した
    • [9]1962年4月にセパレート・ステレオの発売を開始した
    • [2]創業者は菊池幸作
    • [6]トランスを基調にHi-Fiアンプの生産・販売を1954年に開始したという事典の記述

輸出の膨張とオーディオ御三家としての位置

1966年10月、米国にサンスイ・エレクトロニクス・コーポレーションを設立した。国内市場より先に、輸出先へ販売会社を置いた形である。1960年代後半から1970年代にかけて、日本の家電は米国向けのカラーテレビとステレオを中心に輸出を大きく伸ばした。日本産業史はこの時期を「海外市場に合った商品をきめ細かく開発した結果」と記録している。山水電気の場合、輸出比率はとりわけ高く、事典は製品の90%以上を日本国外で販売したと記す。国内で名を売ってから海外へ出たのではなく、初めから海外の需要に乗った会社だった。この構造は、円が安いあいだは強みとして働いた。 [10][11][12]

販売と生産の会社を相次いで作り、資本市場での格も上げた。1965年4月にサンスイ・トランス株式会社、1967年3月にサンスイ音響株式会社とサンスイ・ステレオ株式会社を設立する。1968年5月には大阪証券取引所市場第2部へ上場し、同じ月にサンスイ・トランスとサンスイ音響を合併して山水音響株式会社とした。そして1970年3月、東京証券取引所と大阪証券取引所の市場第1部へ上場する。1972年3月には山水音響とサンスイ・ステレオを吸収合併し、それぞれ福島事業所・長野事業所とした。分けて作った会社を10年ほどで本体へ戻し、直営の生産体制に組み替えている。 [13][14][15]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [13]1968年5月に大阪証券取引所市場第2部へ上場し、サンスイ・トランスとサンスイ音響を合併して山水音響とした
    • [14]1970年3月に東京証券取引所および大阪証券取引所の市場第1部へ上場した
    • [15]1972年3月に山水音響およびサンスイ・ステレオを吸収合併し福島事業所・長野事業所とした

1970年代の日本のオーディオ市場では、チューナーのトリオ、アンプの山水電気、スピーカーのパイオニアが「オーディオ御三家」と呼ばれた。総合電機の一部門ではなく音響機器の専業として伸びた3社であり、得意な機器が互いに違っていた点にこの呼び名の実質がある。証券アナリストジャーナルが1975年に載せたトリオの分析記事にも、当時の売り方として「当社のアンプ、パイオニアのスピーカー、サンスイのプレーヤー」を組み合わせる例が挙がっている。専業各社の製品を買い手が自由に組み合わせる市場が現に成立していたことを、同業他社の資料が裏づけている。 [16][17]

1973年〜 高級機への集中がもたらした頂点と、円高後の債務超過

  1. 1984年年間売上高が525億5,200万円と過去最高を記録
  2. 1985年福島事業所の郡山工場を分離し郡山物流センターとして設置
  3. 1986年福島・静岡の両生産事業所及び郡山物流センターを子会社化し福島サンスイ・静岡サンスイ・サンスイ物流サービスを設立

山水電気の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

音の山水という評価と売上高の頂点

山水電気の売上高は1984年10月期の525億5,200万円で頂点に達した。プリメインアンプを主力に据え、社内でも社外でも「音の山水」と呼ばれる評価を得た時期である。高級機に資源を集める経営は、当時の条件では筋が通っていた。買い手が機器を一台ずつ選ぶ市場では音質そのものが商品の価値を決め、専業メーカーの技術者を抱えつづけたことがそのまま製品の差になったからである。総合電機各社が家電の一品目としてオーディオを扱うのに対し、音響機器だけを作る会社が上位機種で存在感を保つ形は、少なくとも1970年代を通じて成立していた。 [18][19]

もっとも、この集中には代償があった。1992年に前社長の稲宮達也氏が振り返ったところでは、会社が傾く条件は3つ揃っていた。第1に経営陣がオーディオだけにこだわり多角化に手をつけなかったこと、第2に技術者がオーディオの専門家に偏り先端技術に追随できなかったこと、第3に従業員の士気が落ちていたことである。稲宮氏はこれを個人の怠慢ではなく会社の作りの問題として語った。実際、同じ時期に音響を事業の一部として抱えた総合電機各社は、映像やコンピュータへ人と資金を振り向けている。単一分野に絞る強みは、その分野の需要が伸びているあいだしか働かない。 [20][21]

  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [20]稲宮達也氏は「経営トップの先見性のなさ」「技術面の立ち遅れ」「従業員のモラール低下」を会社が傾いた条件として挙げた
    • [21]オーディオのエンジニアだけで先端技術についていけない状態だったという当事者の証言
    • [18]年間売上高の最高は1984年10月期の525億5,200万円
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [19]「音の山水」が同社の持ち味として社長挨拶でも用いられた
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [20]稲宮達也氏は「経営トップの先見性のなさ」「技術面の立ち遅れ」「従業員のモラール低下」を会社が傾いた条件として挙げた
    • [21]オーディオのエンジニアだけで先端技術についていけない状態だったという当事者の証言

円高と普及価格帯への出遅れが招いた債務超過

売上高の頂点から1年で赤字に転じた。1985年10月期から経常赤字となり、その後売上高は半分以下に落ち込む。輸出比率の高さがそのまま損益の振れ幅になった。1985年9月のプラザ合意以降の円高で、海外で受け取る代金の円換算額が縮み、国内で払う人件費と部品代は変わらなかったためである。1985年6月には福島事業所の郡山工場を分離して郡山物流センターとし、1986年8月には福島・静岡の両生産事業所と郡山物流センターを子会社化して福島サンスイ・静岡サンスイ・サンスイ物流サービスの3社を設立した。生産と物流を本体から切り離す組織の作り替えが、この時期の対応の中心にあった。 [22][23]

  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [22]円高前の1985年10月期から経常赤字に転落し、その後売上高は半分以下に落ち込んだ
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [23]1986年8月に福島・静岡の生産事業所と郡山物流センターを子会社化し3社を設立した

商品の側でも売れる価格帯を押さえられなかった。1990年に国内営業本部マーケティング部長の河内八洲男氏は、それまでを「変なプライドがあった上にコストダウンを実現する力が弱かったので、結果としては高級品しか作れなかった」と語っている。人気の集まる標準価格12万円前後のミニコンポに商品を置けず、市場の主戦場から外れた。1986年2月に社長へ就いた伊藤瞭介氏のもとで、会社は高級機の評価を保ったまま数量の出る価格帯を欠く形になる。技術の高さと事業の成立は別の問題であり、音質で勝ちながら台数で負ける状態が続いた。 [24][25][26]

  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [24]河内八洲男氏は高級品しか作れなかった理由を「変なプライド」とコストダウン力の弱さに求めた
    • [25]当時売れていたのは標準価格12万円前後のミニコンポの価格帯だった
    • [26]伊藤瞭介氏は1986年2月に代表取締役社長へ就任した生え抜きの経営者

1988年10月期に債務超過へ転落した。1989年10月期は売上高221億円に対し営業損失43億円、税引後で64億円の赤字となり、累積損失はさらに膨らむ。頂点だった1984年10月期と比べれば売上高は4割ほどの水準にすぎない。この間、主幹事の大和証券は2年ほどかけて提携先を探し、京セラ・東芝・パイオニア・ケンウッド・韓国の三星電子など20社以上の名が身売り先として取り沙汰された。伊藤氏は「確かに数社と交渉したのは事実」と認めている。国内の主だった企業に持ちかけたものの、いずれもまとまらなかった。 [27][28][29]

  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [27]1988年10月期で債務超過となった
    • [29]身売り先として京セラ・東芝・パイオニア・ケンウッド・韓国三星電子など20社以上の名が挙がった
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [28]1989年10月期は売上高221億円・営業損失43億円、税引後64億円の赤字
  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [22]円高前の1985年10月期から経常赤字に転落し、その後売上高は半分以下に落ち込んだ
    • [27]1988年10月期で債務超過となった
    • [29]身売り先として京セラ・東芝・パイオニア・ケンウッド・韓国三星電子など20社以上の名が挙がった
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [23]1986年8月に福島・静岡の生産事業所と郡山物流センターを子会社化し3社を設立した
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [24]河内八洲男氏は高級品しか作れなかった理由を「変なプライド」とコストダウン力の弱さに求めた
    • [25]当時売れていたのは標準価格12万円前後のミニコンポの価格帯だった
    • [26]伊藤瞭介氏は1986年2月に代表取締役社長へ就任した生え抜きの経営者
    • [28]1989年10月期は売上高221億円・営業損失43億円、税引後64億円の赤字

1989年〜 英ポリーペックによる買収と、親会社の破綻による再建の中断

  1. 1989年英ポリーペック・インターナショナル・ピーエルシーと新株引受契約を締結し同社の傘下に入る
  2. 1990年ケープトロニック・グループ及びインペリアル・グループを買収・統合

山水電気の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

上場企業の外資傘下入りと通産省演出説

1989年10月27日、東京・兜町のホテルで山水電気と英ポリーペック・インターナショナル(PPI)の資本提携が発表された。会見には米ウォール・ストリート・ジャーナルをはじめ内外の記者が100人以上詰めかけている。PPIは第三者割当増資を引き受けて株式の51%を握った。出資額は156億円である。日米構造協議で日本の資本市場の閉鎖性が問われ、ソニーによる米コロンビア映画の買収が議論を呼んでいた時期にあたり、外国企業が日本の上場企業を傘下に収めた稀な例として注目を集めた。PPIのアシル・ナディア会長は会見で「日本の資本市場が外国の企業に開放されていないという神話はこれで崩れ去った」と述べた。 [30][31][32]

  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [30]1989年10月27日に日本橋兜町のロイヤルパーク・ホテルで資本提携の記者会見が開かれ、内外の記者100人以上が出席した
    • [31]PPIは山水電気の株式51%を取得し、出資額は156億円だった
    • [32]ナディア会長の「日本の資本市場が外国の企業に開放されていないという神話はこれで崩れ去った」との発言

この提携には、政府の意図が働いたのではないかという見方がつきまとった。日経ビジネスは、投資摩擦への批判をかわす材料を欲しがっていた通産省が銀行・証券会社と組んで買収を仕組んだとする大手証券幹部の見方を伝えている。提携発表の当日は情報が事前に漏れ、朝のテレビが増資の期日と金額まで報じたため、午後2時調印・3時半発表の予定を朝7時半の調印へ繰り上げたと伊藤氏自身が明かした。夕刊各紙には一民間企業の提携を歓迎する通商産業大臣の談話が載っている。真相は確かめようがない。しかし外資への傘下入りが当時の政府にとって好都合な材料だったことは、複数の関係者が認めていた。 [33][34][35]

  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [33]通産省が銀行・証券会社と連携して買収を仕組んだとする大手証券幹部の見方があった
    • [34]情報漏れにより調印と会見の時刻を繰り上げた経緯を伊藤社長が説明した
    • [35]夕刊各紙に山水電気のPPI傘下入りを歓迎する通商産業大臣の談話が掲載された

PPIの狙いについては見方が分かれた。ナディア会長は買収の最大の利点として山水電気のブランド力を挙げた。一方で、山水電気が1984年6月に日本ビクターから取得したVHSビデオの製造ライセンスが目当てだったとする見方もある。PPIはビクターに直接ライセンスを申し込んで断られており、山水電気を通じて間接的に参入する道を選んだという読みである。さらに株価の値上がり益が目的だとする声もオーディオ業界にあった。当時の山水株は1989年8月半ばから急騰し、9月1日には出来高247万株でストップ高をつけている。会社側は転売説を否定し、新株を主幹事の大和証券が保管する契約にしたと説明した。 [36][37][38]

  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [36]ナディア会長は買収最大のメリットとして山水電気のブランド力を挙げた
    • [37]山水電気は1984年6月に日本ビクターからVHSのライセンスを取得しており、PPIはビクターへの直接申し込みを断られていた
    • [38]1989年9月1日に出来高247万株でストップ高となった
  • 日経ビジネス 1989年11月20日号「山水救済買収 流れる通産省演出説」
    • [30]1989年10月27日に日本橋兜町のロイヤルパーク・ホテルで資本提携の記者会見が開かれ、内外の記者100人以上が出席した
    • [31]PPIは山水電気の株式51%を取得し、出資額は156億円だった
    • [32]ナディア会長の「日本の資本市場が外国の企業に開放されていないという神話はこれで崩れ去った」との発言
    • [33]通産省が銀行・証券会社と連携して買収を仕組んだとする大手証券幹部の見方があった
    • [34]情報漏れにより調印と会見の時刻を繰り上げた経緯を伊藤社長が説明した
    • [35]夕刊各紙に山水電気のPPI傘下入りを歓迎する通商産業大臣の談話が掲載された
    • [36]ナディア会長は買収最大のメリットとして山水電気のブランド力を挙げた
    • [37]山水電気は1984年6月に日本ビクターからVHSのライセンスを取得しており、PPIはビクターへの直接申し込みを断られていた
    • [38]1989年9月1日に出来高247万株でストップ高となった

元東芝の社長が進めた再建と、その中断

再建の担い手は外から来た。稲宮達也氏は東芝でテレビ・ビデオ・音響統括事業部長を務め、業界初のカラーテレビ量産化を指揮した人物である。1981年に東芝を辞してAV機器設計のアテイン開発を設立し、1989年12月に山水電気の副社長として着任、1990年6月に社長へ就いた。声をかけたのはPPI傘下でコンピュータ部品を作る台湾のケープトロニックの黄士弘社長で、東芝の事業部長時代からの付き合いだった。着任後の稲宮氏は、成果に応じて給与の差を広げ、同期入社でも2倍以上の開きがつく制度に変えた。品質管理の指導も現場で重ね、営業の仕事の7割を占めていた不良品処理の原因を絶ち、不良発生率を約4分の1に下げている。 [39][40][41]

  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [39]稲宮達也氏は1927年生まれ、東芝でテレビ・ビデオ・音響統括事業部長を務め、1989年に山水電気副社長、1990年6月に社長へ就任した
    • [40]招聘の打診はPPI子会社ケープトロニックの黄士弘社長から行われた
    • [41]不良品処理が営業の仕事の7割を占めていたが、品質管理の指導で不良発生率は約4分の1に下がった

事業の建て直しは二方向で進んだ。1990年7月にPPI傘下のケープトロニックとインペリアルの両グループを買収・統合し、生産と販売の拠点を海外へ広げた。同年9月13日には原宿で新製品発表会を開き、ミニコンポなど20機種を披露して普及価格帯に初めて商品を並べている。もう一方の柱がVTRへの参入だった。ただし山水電気の持つ製造ライセンスは使われないまま眠っており、技術者は一人もいない。15人ほどを集めて学ばせ1990年夏に米国向け出荷までこぎ着けたものの、台湾側が示す製造原価は高く、販売側は相場220ドルの普及機を320ドルで売り出した。日本側に販売への発言力はなく、製品は売れなかった。 [42][43][44]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [42]1990年7月にケープトロニック・グループおよびインペリアル・グループを買収・統合した
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [43]1990年9月13日に原宿で新製品発表会を開きミニコンポなど20機種を発表した
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [44]VTRは相場220ドル前後の普及タイプを320ドルで売り出し、販売に日本側の発言力がなかった

1990年9月20日の夜、稲宮氏は自宅にかかってきた国際電話で親会社の異変を知った。PPIに株価操作の疑いがかかり、ロンドン株式市場で取引が停止されたという知らせである。9月25日には山水株も東証で514円のストップ安をつけた。PPIはやがて事実上の倒産に至る。稲宮氏は後に「敗因はこの誤算に尽きる」と語り、5年あれば再建できたが2年では無理で、やりたかったことの3割しか実行できなかったと述べている。PPIから株式を取得した香港のグランデ・グループから続投を求められたものの、親会社が代わった以上は退くのが筋として1991年12月19日付で会社を去った。 [45][46][47]

  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [45]1990年9月20日夜にPPIのロンドン株式市場での取引停止が伝えられ、9月25日に山水株は514円のストップ安となった
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [46]稲宮氏は「敗因はこの誤算に尽きる」と述べ、5年あれば再建できたが2年では無理でやりたかったことの3割しか実行できなかったと語った
    • [47]PPIから株式を取得した香港のグランデ・グループの続投要請を断り、1991年12月19日付で退任した
  • 日経ビジネス 1992年2月3日号「稲宮達也氏[山水電気前社長]親会社PPI倒産の誤算」
    • [39]稲宮達也氏は1927年生まれ、東芝でテレビ・ビデオ・音響統括事業部長を務め、1989年に山水電気副社長、1990年6月に社長へ就任した
    • [40]招聘の打診はPPI子会社ケープトロニックの黄士弘社長から行われた
    • [41]不良品処理が営業の仕事の7割を占めていたが、品質管理の指導で不良発生率は約4分の1に下がった
    • [44]VTRは相場220ドル前後の普及タイプを320ドルで売り出し、販売に日本側の発言力がなかった
    • [46]稲宮氏は「敗因はこの誤算に尽きる」と述べ、5年あれば再建できたが2年では無理でやりたかったことの3割しか実行できなかったと語った
    • [47]PPIから株式を取得した香港のグランデ・グループの続投要請を断り、1991年12月19日付で退任した
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [42]1990年7月にケープトロニック・グループおよびインペリアル・グループを買収・統合した
  • 日経ビジネス 1990年10月22日号「山水電気 “即決”新製品開発、総合家電で再建成るか」
    • [43]1990年9月13日に原宿で新製品発表会を開きミニコンポなど20機種を発表した
    • [45]1990年9月20日夜にPPIのロンドン株式市場での取引停止が伝えられ、9月25日に山水株は514円のストップ安となった

1992年〜 香港資本の下での縮小と、ブランドだけを残した破産

  1. 1992年セミ=テック・グループの資本参加を受ける
  2. 1992年ケープトロニック・グループの全株式を売却
  3. 2000年親会社の香港・アカイホールディングスが現地裁判所から清算決定を受ける。商標権・特許権は融資の担保としてグランデ・グループに移る
  4. 2001年香港・グランデ・グループの資本参加を受ける
  5. 2001年福島工場を閉鎖し自社生産から撤退
  6. 2012年東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請
  7. 2014年東京地方裁判所から破産手続開始の決定を受ける

山水電気の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

香港資本の下で縮んだ製造と漂流する本店

1992年6月、山水電気はケープトロニック・グループの全株式を売却し、同じ月にセミ=テック・グループの資本参加を受けた。PPIが持ち込んだ資産を手放し、香港資本の下へ移った形である。経営を任されたのは津村哲男氏だった。横浜でバリコンの製造販売会社を興した経歴を持ち、香港の音響メーカー、アトラスの社員だった中国人ジョニー・ラオ氏と長く付き合いがあった。セミテック・グループの総帥ジェームス・ティン氏が、家電の経営が分かる日本人として親友のラオ氏を通じて津村氏に会社の切り盛りを頼んだという経緯である。1994年の時点で山水電気は10期連続の赤字にあり、津村氏は「中国展開以外に存続の道はない」と語った。 [48][49][50]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [48]1992年6月にケープトロニック・グループの全株式を売却し、セミ=テック・グループの資本参加を受けた
  • 日経ビジネス 1994年12月12日号「津村哲男氏[山水電気]香港人脈から中国へ、存続の道探る」
    • [49]セミテック・グループ総帥ジェームス・ティン氏がジョニー・ラオ氏を通じて津村哲男氏に経営を委ねた
    • [50]1994年時点で10期連続赤字にあり、津村氏は中国展開以外に存続の道はないと述べた

1990年代の沿革は資産の売却と本店の移転で埋まる。1993年1月に英領バージン諸島へサンスイ・インターナショナルを設立し、翌2月には香港・カオルーンに支店を置いた。同年10月に杉並区和泉の旧本店の土地建物を売り、1994年3月に本店を府中市へ、1995年4月には福島県須賀川市へ移す。1997年10月には米国のサンスイ・インコーポレーテッドの全株式も売却した。1999年4月に横浜市、2000年5月に小平市、2003年4月に渋谷区と、本店の所在地は10年で5回変わっている。売れる資産を順に手放し、残った機能を身軽な場所へ移す動きが続いた。1997年の週刊東洋経済は、AV業界で事業の存続自体が危ぶまれるメーカーとして同社の名を挙げている。 [51][52][53]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [51]1993年10月に旧本店の土地建物を売却し、1994年3月に府中市、1995年4月に福島県須賀川市へ本店を移した
    • [52]1997年10月に米国子会社サンスイ・インコーポレーテッドの全株式を売却した
  • 週刊東洋経済 1997年4月26日号「業界・大異動 21世紀の業界地図 AV」
    • [53]1997年の週刊東洋経済はAV業界で事業の存続自体が危機にさらされるメーカーとして山水電気を名指しした

親会社の破綻が二度目に襲った。山水電気が属した香港のアカイホールディングスは拡大路線の末に行き詰まり、2000年8月に現地裁判所から清算の決定を受ける。支援に入った香港のグランデ・グループは資本参加に二の足を踏み、必要最小限の融資しか出さなかった。同じ傘下の赤井電機は商標権をわずか10億円の融資と引き換えに手放し、同年11月に民事再生法の適用を申請している。山水電気も商標権と特許権を借金の担保としてグランデに押さえられた。2000年12月期の売上高は20億円まで減る見込みとなり、本体の債務超過額は6月末で80億円に達していた。会社に残ったのは、他人の手に渡った名前と、その名前を使う権利だけになった。 [54][55][56]

  • 週刊東洋経済 2000年11月18日号「地盤沈下 香港資本の波間に沈没」
    • [54]2000年8月に親会社アカイホールディングスが香港の裁判所から清算決定を受けた
    • [55]2000年12月期の売上高は20億円まで減少する見込みで、本体の債務超過額は6月末で80億円だった
    • [56]山水電気の商標権・特許権は借金の担保としてグランデ・グループに取り上げられた
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [48]1992年6月にケープトロニック・グループの全株式を売却し、セミ=テック・グループの資本参加を受けた
    • [51]1993年10月に旧本店の土地建物を売却し、1994年3月に府中市、1995年4月に福島県須賀川市へ本店を移した
    • [52]1997年10月に米国子会社サンスイ・インコーポレーテッドの全株式を売却した
  • 日経ビジネス 1994年12月12日号「津村哲男氏[山水電気]香港人脈から中国へ、存続の道探る」
    • [49]セミテック・グループ総帥ジェームス・ティン氏がジョニー・ラオ氏を通じて津村哲男氏に経営を委ねた
    • [50]1994年時点で10期連続赤字にあり、津村氏は中国展開以外に存続の道はないと述べた
  • 週刊東洋経済 1997年4月26日号「業界・大異動 21世紀の業界地図 AV」
    • [53]1997年の週刊東洋経済はAV業界で事業の存続自体が危機にさらされるメーカーとして山水電気を名指しした
  • 週刊東洋経済 2000年11月18日号「地盤沈下 香港資本の波間に沈没」
    • [54]2000年8月に親会社アカイホールディングスが香港の裁判所から清算決定を受けた
    • [55]2000年12月期の売上高は20億円まで減少する見込みで、本体の債務超過額は6月末で80億円だった
    • [56]山水電気の商標権・特許権は借金の担保としてグランデ・グループに取り上げられた

生産をやめた会社の十年と破産までの道

2001年11月、山水電気は香港のグランデ・グループの資本参加を受けた。翌12月に福島工場を閉鎖し、自社での生産をやめている。2002年8月には同工場の土地建物も売却した。以後の会社は、ブランドの管理と資産の運用を主とする組織へ変わる。連結売上高は2003年12月期の8億5,400万円が最も多く、2008年12月期に1億700万円、2010年12月期には4,000万円まで細った。連結の従業員数も2003年12月期の23人から2010年12月期の5人へ減っている。2010年12月期の有価証券報告書は、音響・映像機器事業、アフターサービス事業、不動産賃貸事業の従業員をいずれも記載せず、全社共通の5人だけを挙げた。 [57][58][59]

  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [57]2001年11月にグランデ・グループの資本参加を受け、同年12月に福島工場を閉鎖した
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [58]連結売上高は2003年12月期8億5,400万円、2008年12月期1億700万円、2010年12月期4,000万円
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【従業員の状況】
    • [59]連結従業員数は2003年12月期23人から2010年12月期5人へ減少した

縮小する事業とは対照的に、貸借対照表はしばらく厚みを保った。2005年12月期の純資産は95億5,800万円、総資産は102億7,300万円あり、自己資本比率は93.0%に達する。2004年12月期に投資活動で79億円を支出し、財務活動で77億円を調達した動きが、この資産規模を作った。株主構成も香港側で固まる。2005年12月期の上位2社はバリカン・インベストメンツ19.98%とハイテック・プレシジョン・プロダクツ18.26%であり、2008年12月期以降は香港上海銀行がハイテック社の質権者として34.34%を保有する形になった。事業ではなく株式そのものが担保として動く会社になっていた。 [60][61][62]

  • 有価証券報告書 第69期(2005年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [60]2005年12月期の純資産は95億5,800万円、総資産は102億7,300万円、自己資本比率は93.0%
    • [61]2004年12月期は投資活動で79億2,992万円の支出、財務活動で77億8,709万円の収入があった
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【大株主の状況】
    • [62]2008年12月期以降、香港上海銀行がハイテック・プレシジョン社の質権者として34.34%を保有した

2010年5月、渋谷区の土地建物を売却して子会社の事業活動を終えた。2012年4月2日、山水電気は東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請する。負債総額は2億4,765万円で、頂点だった1984年10月期の売上高の200分の1にも満たない規模だった。同年5月3日に上場を廃止し、12月27日に再生手続が終結する。しかし資金繰りの目処は立たず、2014年7月9日に破産手続開始の決定を受けた。このときの負債は約3億5,000万円である。会社は消えたが、SANSUIの名は香港資本の下で製品ブランドとして残った。作った会社が先に無くなり、名前だけが売り物として生き延びた形になる。 [63][64][65]

    • [63]2012年4月2日に東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請し、負債総額は2億4,765万円だった
    • [64]2012年5月3日に上場廃止、同年12月27日に民事再生手続が終結した
  • 日本経済新聞 2014年7月16日「『オーディオ御三家』山水電気が破産手続き」
    • [65]2014年7月9日に破産手続開始の決定を受け、負債は約3億5,000万円だった
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【沿革】
    • [57]2001年11月にグランデ・グループの資本参加を受け、同年12月に福島工場を閉鎖した
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [58]連結売上高は2003年12月期8億5,400万円、2008年12月期1億700万円、2010年12月期4,000万円
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【従業員の状況】
    • [59]連結従業員数は2003年12月期23人から2010年12月期5人へ減少した
  • 有価証券報告書 第69期(2005年12月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [60]2005年12月期の純資産は95億5,800万円、総資産は102億7,300万円、自己資本比率は93.0%
    • [61]2004年12月期は投資活動で79億2,992万円の支出、財務活動で77億8,709万円の収入があった
  • 有価証券報告書 第74期(2010年12月期)【大株主の状況】
    • [62]2008年12月期以降、香港上海銀行がハイテック・プレシジョン社の質権者として34.34%を保有した
    • [63]2012年4月2日に東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請し、負債総額は2億4,765万円だった
    • [64]2012年5月3日に上場廃止、同年12月27日に民事再生手続が終結した
  • 日本経済新聞 2014年7月16日「『オーディオ御三家』山水電気が破産手続き」
    • [65]2014年7月9日に破産手続開始の決定を受け、負債は約3億5,000万円だった

山水電気の沿革1944〜2014年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
菊池幸作が東京都渋谷区に山水電気製作所を創業しトランスの生産を開始★★★
山水電気製作所を改組し山水電気株式会社を設立★★★
ステレオアンプの生産を開始★★★
トランジスタ用トランスの生産を開始★★
本店所在地を東京都杉並区和泉2丁目に移転
武蔵工場を新設★★
山水音研株式会社を吸収合併し三鷹工場とする★★
東京証券取引所市場第2部に上場
セパレート・ステレオの発売を開始★★
関係会社サンスイ・トランス株式会社を設立
関係会社サンスイ・エレクトロニクス・コーポレーション(米国)を設立★★
関係会社サンスイ音響株式会社及びサンスイ・ステレオ株式会社を設立
大阪証券取引所市場第2部に上場。サンスイ・トランスとサンスイ音響を合併し山水音響株式会社とする
東京証券取引所及び大阪証券取引所市場第1部に上場
山水音響株式会社及びサンスイ・ステレオ株式会社を吸収合併しそれぞれ福島事業所及び長野事業所とする★★
年間売上高が525億5,200万円と過去最高を記録★★
福島事業所の郡山工場を分離し郡山物流センターとして設置
福島・静岡の両生産事業所及び郡山物流センターを子会社化し福島サンスイ・静岡サンスイ・サンスイ物流サービスを設立★★★
英ポリーペック・インターナショナル・ピーエルシーと新株引受契約を締結し同社の傘下に入る★★★
ケープトロニック・グループ及びインペリアル・グループを買収・統合★★★
ケープトロニック・グループの全株式を売却★★
セミ=テック・グループの資本参加を受ける★★★
関係会社サンスイ・インターナショナル・カンパニー・リミテッド(英領バージン諸島)を設立
香港支店を香港・カオルーンに設置★★
旧本店(東京都杉並区和泉2丁目)の土地及び建物を売却★★
本店所在地を東京都杉並区和泉4丁目から東京都府中市日鋼町に移転
関係会社エス・シー・アイ・シー・リミテッド(香港)を設立
本店所在地を東京都府中市から福島県須賀川市に移転★★
関係会社サンスイ・インコーポレーテッド(米国)の全株式を売却★★
本店所在地を福島県須賀川市から神奈川県横浜市に移転
本店所在地を神奈川県横浜市から東京都小平市に移転
香港支店を閉鎖★★
親会社の香港・アカイホールディングスが現地裁判所から清算決定を受ける。商標権・特許権は融資の担保としてグランデ・グループに移る★★★
サンスイ・インターナショナル、エス・シー・アイ・シー、サンスイ・インダストリアル(チャイナ)の全株式を売却★★
香港・グランデ・グループの資本参加を受ける★★★
福島工場を閉鎖し自社生産から撤退★★★
福島工場の土地及び建物を売却★★
連結子会社有限会社山水電気SPVを設立
本店所在地を東京都小平市から東京都渋谷区に移転
連結子会社サンスイ・セールス・ピーティーイー・リミテッドを取得★★
室越隆東京都渋谷区の土地及び建物を売却し有限会社山水電気SPVの事業活動を終結★★
東京地方裁判所に民事再生法の適用を申請★★★
東京証券取引所の上場を廃止★★
民事再生手続が終結★★
東京地方裁判所から破産手続開始の決定を受ける★★★
出典・参考

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