池尻光夫氏は終戦直後、名古屋で個人企業を興し、マイクロホンの製造を始めた。戦前のマイクロホンは増幅器から取り出した電圧を加えないと働かず、使い手は公共施設や舞台に限られた。戦後はロッシェル塩の圧電効果を応用したクリスタルマイクが現れ、電圧なしで扱える製品が出回った。用途は放送・拡声装置・宣伝・船舶無線・通信機へと広がった。1960年時点でも、マイクロホンの主な販売先は日本国有鉄道・NHK・民間放送各社・学校だった。弱電業界に部品メーカーは数多くあったものの、マイクロホンを主力に据える会社は1958年時点でも愛興電機産業のほかに見当たらなかった。需要が広がりながら作り手の少ない品目を選んだことが、個人工場の出発点だったとみられる。
池尻光夫氏は1947年4月に東京へ進出し、組織を法人に改めて資本金15万円の合資会社愛興電機産業社を設けた。合資会社の創立を1946年12月とする資料もあり、年月は資料によって割れる。当時は戦後の品不足で、原材料の入手がきわめて難しかった。マイクロホンを製造する同業がほとんど無かったため、合資会社は通産省の指定工場に選ばれた。指定を受けてからは資材が滞りなく届くようになり、事業拡大の土台となった。合資会社は創立の当初からマイクロホンの製造と販売を手がけた。統制下でも資材を確保できる立場を得たことが、名古屋の個人工場を東京の法人へ押し上げたと推察される。
1951年6月20日、資本金100万円の愛興電機産業株式会社が発足した。合資会社の代表社員だった池尻光夫氏が代表取締役社長に就任し、国産マイクロホンの品質向上に本格的に取り組んだ。資本金は1953年10月に400万円、1956年10月に600万円へ増え、1957年10月には5,000万円に達した。1955年12月には、ラジオやテレビの取引が集まる神田の現本社所在地に鉄筋コンクリート4階建ての社屋を建てた。1958年5月30日時点でも、池尻光夫氏は発行済み160万株のうち34万5,400株を持つ筆頭株主だった。合資会社のままでは社外から出資を受け入れて増資を重ねる余地が乏しく、株式会社への移行はその備えだったと思われる。
1956年12月、愛興電機産業はNHK技術研究所の技術指導工場に指定され、マイクロホンの製造技術を一段と高めた。1958年時点で、生産するマイクロホンはダイナミック型・クリスタル型・ベロシティ型・コンデンサー型など数十種類に及んだ。国内のマイクロホン需要の80〜90%を愛興電機産業が供給し、製品は需要者と業界の指定銘柄品になった。国鉄・私鉄・日立製作所・東芝・三洋電機・NHK・民放各社には直売し、一般向けには卸の代理店160社と副代理店110社を置いた。マイクロホンに次ぐ製品のピックアップは放送用・ステレオ装置用の高級品が中心で、可変リラクタンス型は特許品だった。放送局の研究機関から指導を受けた実績が、大口需要者の指定銘柄となる信用につながったと考えられる。
1958年6月19日、愛興電機産業の株式は東京の店頭で売買が始まり、大協証券と新興証券が紹介会社を務めた。1958年当時、生産は全量が受注生産で、注文に供給が追いつかなかった。売上高は1957年5月期の2億5,415万1千円から、半期決算に移った1958年5月期に1億7,410万6千円となった。輸出は売上の3分の1程度から5割近くまで増え、板橋では7棟1,100坪の新工場を建設中で、店頭公開はその工事のさなかだった。公開後の1958年11月には倍額増資で資本金を1億円とし、1959年2月には台東区下谷に金杉工場を建てて分散していた工場を集約した。1959年10月、社名をアイワに改めた。社章は愛・和をローマ字で描き、エレクトロニクスの頭文字を添えた図案だった。
1960年7月、アイワは3倍増資で資本金を3億円に引き上げた。栃木県宇都宮市に宇都宮工場を建て、トランジスタラジオとFMラジオの生産を始めた。パーツからセットへ転じて成長していたソニーを追うように、アイワは設備投資を積極的に進めた。従業員は188人から633人へと3倍余りに膨らんだ。増資の直後、最大の納入先だった米国でトランジスタラジオの輸入制限運動が起き、アイワ製品も影響を受けた。1960年5月期に2割だった配当は、同年11月期に無配へ転じた。経理の不備も表面化し、公認会計士が意見を控える事態となった。増資の払い込み直後に無配としたことで、証券界には不信感が長く残った。
1961年10月、東京証券取引所が市場第二部を開設し、アイワ株は店頭銘柄から上場銘柄へ移った。無配の後、アイワは経理を明瞭に改め、金融界からの信用を回復した。同年12月にはテープレコーダーの生産に着手し、部品メーカーから完成品を組み立てるセットメーカーへ業態を転じた。トランジスタラジオとテープレコーダーへの進出にはビクターの技術援助があり、アイワはビクターの下請けとして輸出を拡大した。同時に海外市場の開拓へ経営資源を注いだ。マイクロホンで定評のあった音響技術が、ビクターの後ろ盾を得る根拠になったとする見方もあった。部品の納入だけでは無配からの回復が見込めず、完成品の輸出に活路を求めたのだろう。
半期決算の1963年11月期、アイワの売上高は24億2,900万円で、その85%を輸出が占めた。製品別では小型テープレコーダーが43%、トランジスタラジオが42%、マイクロホンが15%だった。輸出先のほとんどは米国で、米国での販売は木下産商から岩井産業へ移り、シカゴには現地法人アイワ・インターナショナル・コーポレーションを設けた。1964年6月からは通産省の輸出貢献企業に認定され、同年9月に資本金を6億円とした。某証券会社の評は『対米輸出一辺倒では丸木橋を渡つているようなもの』というものだった。輸出は1963年10月を山に減少し、1964年5月期の売上高は22億3,000万円にとどまった。売上に占める輸出の比率も88%から75%へ下がった。
アイワは1963年5月、国内販売の拠点としてアイワ商事を設立し、同年8月から営業を始めた。アイワ商事は団地や高級住宅地を回る訪問販売を採った。地方向けには八洲無線を第一卸店とし、弱電メーカーで初めて通信販売も手がけた。直売への切り替えで国内の販売網は変わり、従来の問屋経由の販路を失った。1963年12月には2億7,000万円を投じて宇都宮にテレビ工場を設けた。米国のパッカード・ベル・エレクトロニクスから技術を導入した19型テレビは、1964年4月の販売が50台にとどまった。輸出商社は資金繰りの悪化を認め、技術援助をしてきたビクターも技術者を引き上げつつあると伝えられた。国内販路の組み替えとテレビへの投資が輸出の減速と同時に重なり、資金と技術の両面で外部の支えを要する局面に入ったと読める。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/6761/company.json https://the-shashi.com/api/6761/history.json https://the-shashi.com/api/6761/ceo.json https://the-shashi.com/api/6761/financials_history.csv 免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(アイワ)