象印マホービン の歴史

創業

1918年

創業者

市川銀三郎・市川金三郎

創業地

大阪市

直近売上高(2025/11)

912億円

長期業績と転換点(1996/11〜2025/11)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1923年に商標へ「象」を選んだのか
A 中びん専業のうちは商標が要らなかった。1918年に電球職人の市川金三郎氏が兄の銀三郎氏と魔法瓶の中びん製造で創立し、1923年に稲荷町へ組立工場を設けて問屋の側に回ったことで、自社ブランドを掲げる必要が生じた。銀三郎氏が家族と相談して選んだのが象である。おとなしいが力は強く、頭が良く家族愛も強い、生命力が強く寿命も長いという象のイメージが魔法瓶にふさわしいと考えられたうえ、業界でまだ使われていない印だったことが決め手になった。輸出向けには王冠を戴いた「ELEPHANT & CROWN」も登録している。この象が1961年の社名「象印マホービン」となり、ブランドの核になった
Q なぜ1980年代後半に低価格路線から高級品路線へ転換したのか
A 主力の電気炊飯ジャーが松下電器やシャープなど大手家電の攻勢にさらされ、部品を仕入れて組み立てるアセンブリーメーカーの薄い採算では価格競争に耐えられず、円高も重なって創業以来といわれる営業赤字に陥ったためである。象印は正面からの価格勝負を避け、市川博邦社長を委員長とするコスト15%削減運動「クリエイト15」で1988年と1989年に25億円を削りつつ、ヒット商品づくりの運動「サクセス90」で高級ジャーを前面に押し出した。1989年には電気炊飯ジャーで23.5%、電気ジャーポットで35.3%の国内出荷シェアを占め、いずれも首位に立った
Q なぜ2016年の「爆買い」の山を越えたあと炎舞炊きなど高付加価値化を進めたのか
A 2015年から2016年の中国人観光客の「爆買い」で営業利益121億円まで伸びた業績の山は、インバウンドという外的要因に支えられた「異常値」で、需要が一巡すれば売上・利益が減る性質のものだったためである市川典男社長はこれを通常時の参考にはできないと振り返り、ピークを平常の実力へ着地させつつ高い収益体質へ組み替える必要に向き合った。2018年の創業100周年には最高級炊飯ジャー「炎舞炊き」を発売し、同年10月には大阪に初の直営「象印食堂」を開いて、価格競争から離れた高単価ブランドへの移行を進めた

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1918年〜 中びん職人の弟と商人の兄が興し、戦時の休業を修理業でしのいで創業者を送るまで

  1. 1948年 協和製作所を設立

電明社の専属工場から抜けて組立問屋へ

1918年5月、愛知県中島郡朝日村の出身で電球加工の職人だった市川金三郎氏と、その兄で販売を担った市川銀三郎氏が、大阪市西区九条に住居兼作業所を借りて市川兄弟商会を創立した[1]。金三郎氏は17歳、銀三郎氏は20歳[2]である。白熱電球は真空工業の元祖にあたり[3]、ガラスで真空をつくる技術は魔法瓶の中びん製造に通じた。試作した中びんを星印魔法壜の電明社が買うと約束した[4]ことが独立の後押しとなり、一家をあげて大阪へ移った。当初は電明社の専属工場として、金三郎氏がつくり銀三郎氏が自転車で運ぶ[5]体制だった。

当時の魔法瓶業界は、中びんメーカーと金属ケース屋、その両方を買って組み立てる問屋の三者で成り立ち[6]、製品の9割が輸出だった[7]。中びん製造は輸出の端境期に仕事が絶えるうえ、専属である限り条件は問屋の都合で決まった[8]。銀三郎氏は専属を解いて複数の問屋へ売る道を選び、閑散期に在庫を積んで繁忙期に有利な値で捌く[9]形に変えた。1923年には稲荷町に組立工場を設けて自ら問屋の側に回り[10]、創業から5年でアッセンブルメーカーの体裁を整えた。

問屋になれば自社の商標が要るため、銀三郎氏は業界でまだ使われていなかった「象」[11]に目をつけ、輸出用には王冠を載せた「ELEPHANT & CROWN」を登録した[12]。販路は大阪市西区川口町と神戸の華商を通じ[13]、天津・大連から上海・広東、フィリピンやインドネシアへ広がった。取引先の破綻で3000円の貸倒れを出して[14]からは、野村銀行川口支店と取引して手形の振出人の信用を確かめる[15]ようにし、2年に一度は自ら上海航路の客となって飛び込みで販売先を開拓した。

弟の独立と統制経済、休業して修理業へ

1927年10月、金三郎氏はラジオ用真空管の事業化を目指して東京へ移り[16]、創業を共にした兄弟は東西に分かれた。中びん製造は職人の腕と勘に頼る仕事[17]で、監督役を失った負担は小さくない。折しも中国では日貨排斥が広がり、輸出は細っていた[18]。銀三郎氏は1932年に塩草町の中びん工場を手放して稲荷町の組立に専念し[19]、輸出先を南方へ広げる方針に切り替えた。

南方への転換は当たり、広口びんの改良も進んで、日本の魔法瓶輸出は1937年の41万ダースで頂点に達した[20]。だが同年の日中戦争開始を境に流れは逆転し、翌1938年には26万ダースへ半減する[21]。1940年には銅と鉄が使用制限を受けてケースがつくれなくなり[22]、1942年には生産が休止状態に陥った。企業整備令を受けて同年6月、銀三郎氏は市川兄弟商会を閉鎖[23]している。

転業はせず、南区日本橋に間口二間の借家を借りて魔法瓶の修理専門店を開いた[24]。在庫の中びんを使って直す仕事で、いつか製造を再開する日まで事業とのつながりを残す[25]構えである。1939年に住吉区田辺町の貸家30軒を買っておいた[26]ことが、この時期の暮らしを支えた。疎開させた家財は空襲で焼け、田辺町の一角だけが焼け残る[27]という皮肉な結果になったが、修理業という細い灯と貸家の収入が、戦後の再出発の足場として残った。

協和製作所としての再出発と創業者の死

1945年10月、長男の市川重幸氏が復員した[28]。輸送任務で見た中国製の魔法瓶[29]が事業への思いを呼び戻したという。1947年3月に修理店を閉じ、同年10月、南区高津に金属加工部と組立部を置いて市川兄弟商会の看板を掲げ直した[30]。創業時は中びんから出発したが、再開にあたっては外装と組立を主体に据えている[31]。翌1948年には戦後第一号の卓上ポット「ポットペリカン」が生まれ、1956年まで売れ続けた[32]

1948年12月29日、資本金30万円で株式会社協和製作所を設立した[33]。社名の協和には、重幸氏の兄弟が力を合わせるという意味が込められ[34]ている。銀三郎氏は物品税をめぐる問題の当事者だったため代表には就かず、大正生命大阪支店長の大西健太郎氏に代表取締役を託した[35]。銀三郎氏が代表取締役に就いたのは1951年1月[36]で、体調を崩した父に社長の座を用意したいという息子たちの意向によるものだった。

戦後の輸出再開では出遅れた[37]。1947年にGHQが民間貿易の再開品目へ魔法瓶を加えた[38]とき、恩恵を受けたのは近畿輸出魔法瓶協同組合の加入社で、未加入の同社は蚊帳の外[39]に置かれた。1949年以降は中南米向けの値下げ競争が激化し、細口が1本30セントの採算点を割る勢いとなる[40]。同社は採算を割る取引を断り、1952年に24セントまで下がると注文は止まった[41]。銀三郎氏は業界紙に自粛を促す一文を寄せた3か月後、1952年7月23日に55歳で世を去った[42]

1953年〜 攻めの経営で東京と電波を押さえ、中びん自動化に踏み切って業界首位へ

  1. 1953年 協和魔法瓶工業に商号変更
  2. 1961年 象印マホービンに商号変更
  3. 1967年 製造会社和研プラスチックス〔現・象印ファクトリー・ジャパン〕を設立
  4. 1970年 電子ジャーの開発・発売と、魔法瓶専業から家庭用電気製品部門への進出 ガラスの保温に行き詰まった魔法瓶メーカーは、なぜ畑違いの電気製品へ踏み込んだか
  5. 1970年 家庭用電気製品部門に参入

主力を国内市場へ移し、東京とデザインで足場をつくる

市川重幸氏が社長に就き、以後1987年2月まで35年にわたって経営を率いた[43]。打ち出したのは攻めの経営で、価格でしか勝負できない輸出には見切りをつけ、輸出部門だけを残して主力を国内へ移した[44]。1953年6月20日には株式会社協和製作所から協和魔法瓶工業株式会社へ商号を変更し[45]、社名に事業を明示している。1954年の販売比率は内需6・輸出4となり[46]、戦前から続いた輸出主体の構図はここで反転した。

最大の商圏である東京に地盤はなく[47]、1955年5月、台東区根岸に東京出張所を開き、置いた所員は22歳の1人だけである[48]。市場はグロリアとタイガーが押さえ[49]、金物メーカーの金象印と取り違える問屋さえあった。武器にしたのは中びんの修理[50]だった。当時の中びんは割れやすく、取り合ってくれない問屋にも修理を足がかりに食い込めた[51]。このアフターサービスが信頼につながり、1956年にファンシージャーが出ると百貨店へ広がって、1年ほどで月商200万円に達した[52]

地場産業から抜け出す手立てとして、市川重幸社長はデザインを外部に委ねた[53]。布施市の工芸指導所から紹介された3人の競作から若手の藤井敬温氏を選び[54]、金型代100万円を投じて1956年6月に初のオリジナル商品スーパーポットS型を出している[55]。展示会では賞をとり百貨店も置いたが、注文は伸びなかった[56]。デザインの良さと使い勝手は別物だという教訓を得て、実用性を軸に据え直した後継のポットP型が1960年に受け入れられた[57]

電波と自動化への投資

宣伝でも先に動き、1957年にラジオの天気予報で電波に乗った[58]。1958年5月には資本金300万円の会社が200数十万円を投じて大相撲ダイジェストの単独提供[59]に踏み切った。手応えを得て1960年7月に始めた象印歌のタイトルマッチは1966年12月まで120回続き、視聴率は最高37%に達した[60]。後を継いだスターものまね大合戦は47%で視聴率首位を記録[61]している。

量産の隘路は中びんにあり、手吹きに頼る限り価格は下がらなかった[62]。ただし自動化が成れば数多い中びん加工業者は立ち行かなくなるため、業界の誰も手を出せずにいた[63]。市川重幸社長は1956年の香港視察で交流を得たキャメル社から自動機のカタログを送られ、1960年5月の欧米8か国視察でケール社の設備一式を10万ドル、当時の為替で3600万円で購入した[64]。1955年に売上1億円・従業員30名だった会社が、1960年には10億円・232名まで伸びており[65]、この投資は全額を自己資金でまかなった[66]

自動化は難航し[67]、1963年9月に国産初の自動びん製品サーモスAK型を出したものの不良率は70%に達し[68]、市川重幸社長は1本につき100円玉を1つ付けて売っているようなものだと嘆いた。それでも設備の公開を求めてきた日本硝子商事に対し、自動化は一企業ではなく地場産業全体の問題だとして機械を見せている[69]。同社が世界初のポット用中びん加工機を開発し、1965年に硬質のほう珪酸ガラスが実用化されて、1966年3月のUポットで量産の道が開けた[70]。1967年には日本の魔法瓶生産高が世界一[71]となる。

業界首位と、単品経営からの脱皮

1961年11月20日、社名を象印マホービン株式会社へ変更した[72]。広く知られた商標を社名に据え、硬い印象の魔法瓶を片仮名のマホービンに改めている[73]。業績を押し上げたのは1963年2月発売のハイポットZ型で、傾けるだけで湯が注げる自動開閉蓋が受け、1960年に10億円だった売上は1963年に37億円へ伸びて業界首位に立った[74]。1965年には暮しの手帖が卓上魔法瓶6社を比較し、保温力で唯一のA評価を得て総合1位に推されている[75]

売り先の押さえ方も変え、1964年に日綿実業から下垣一氏を取締役営業部長に迎え[76]、地域別の販売実態を調べたうえで手薄な東北などに営業所を置き[77]、二次問屋との直接取引を進めた。1967年には全国11ブロックで象印サークルを結成し、5000から7500の小売店を組織[78]している。1967年からはケースに京都友禅の絵師による花柄を刷り、1969年には四流派の家元が生けた花を図柄にしたエールポットいけばなシリーズを出して[79]、花柄ブームを起こした。

1968年に創業50周年を迎えた時点で、資本金1億円、従業員600名、売上高90億円[80]である。同じ年に一貫生産体制を敷いた大阪工場が完成している[81]。もっとも単品経営の限界は意識されており、1966年に開発室を設けて多角化に着手している[82]。第一号は1968年の氷削り器ハイアイスで、年間100万台を超える売れ行きを示した[83]。1969年度の方針には世界のマホービンメーカーを目指すことが掲げられた[84]

1971年〜 電子ジャーで家電に踏み出し、欠陥問題と大手家電の攻勢を高付加価値で抜けるまで

  1. 1978年 物流会社象印配送サービス〔現・象印ユーサービス〕を設立
  2. 1979年 販売会社象印フレスコを設立
  3. 1981年 ステンレス製マホービンを開発し販売を開始
  4. 1986年 大阪証券取引所市場第二部に上場
  5. 1986年 製造会社Union Zojirushi Co.,Ltd.を設立
  6. 1987年 販売会社Zojirushi America Corporationを設立
  7. 1987年 電気炊飯ジャーの低価格路線から高級品路線への転換と「サクセス90」の始動 創業以来の営業赤字に陥った象印は、なぜ大手家電との価格競争を避け高級品へ向かったか

真空から電気へ、発想を切り替えた電子ジャー

ガラス製のジャーは割れやすく、保温力も低く、ご飯ににおいがついた[85]。商品開発室はこの限界を電気で越えようとし、村田製作所のサーミスタ「ポジスター」を組み込む案に至る[86]。真空で保ってきた会社が、熱源を電気に替える転換[87]である。1969年12月、容器をガラスから金属に改める設計変更が決まる[88]。金属にすれば電機メーカーの参入を招く[89]ことになる。市川重幸社長は後年、経営者として悩んだのはこのときが一番だった[90]と語っている。

1970年5月、象印電子ジャーを1万円で発売した[91]。ガラスのジャーが5000円から6000円だった[92]から割高で、社内でも爆発的な売れ行きまでは見込んでいなかった。ところが秋には西日本から需要が跳ね、代理店がトラックで工場に乗りつけて在庫を求める[93]までになった。1970年に約143億円だった売上高は1971年に約259億円、1972年に約310億円へ伸び[94]、1972年の歳暮では同社の電子ジャーが売れ筋の首位に立った[95]。電子ジャーは電気店という新しい売り場も開いた[96]

続くヒットも保温と電気の組み合わせから生まれ、1973年3月に発売したエアーポットは、空気圧で押すだけで湯が注げる仕組み[97]が受けた。1974年7月には電子ジャー炊飯器を出[98]している。炊飯のノウハウは持たなかったため、電子ジャーをOEM供給していた日立製作所系列の日立熱器具と技術提携し、熱板の供給を受けて開発した[99]。保温では先行し、炊飯では他社の技術を借りて商品に仕立てた[100]

焼損事故が突きつけた家電メーカーの責任

1973年2月6日の朝刊が、東京で電子ジャーRH型の焼損事故が起きた[101]ことを報じた。東京消防庁からは改修要望書が届く[102]。市川重幸社長は生産を止め、1970年6月から1971年3月までに製造した機種の電源コードをすべて交換すると決めた[103]。新聞とテレビで全国に交換を呼びかけ、代理店と営業所を動かして回収[104]にあたった。会社更生法を申請するといったデマも流れたが[105]、自己資金で損失に耐えられる財務が対応を支えた。

この経験は体制を変え[106]、1973年から2月と9月を品質月間と定めてQC活動を始め[107]、品質管理室は品質管理部へ昇格した。1973年1月には大阪工場にテクニカルセンターが完成し[108]、商品試験所が開発品の耐久試験や他社製品との比較を担うようになる。魔法瓶の業界には無かったアフターサービス網も、電子ジャーの発売時に各地へ要員を置く形で整えられていた[109]

1973年4月23日、販売会社の象印株式会社が営業を開始し、生産と販売を初めて分けた[110]。従業員は1200名を超え、工場は大阪と滋賀の二つ[111]、販売網は全国に広がっていた。製造側は研究開発と品質保証を、販売側はマーケティングと苦情処理・アフターサービスを担った[112]。社長は市川重幸氏が兼ね、専務には営業を率いてきた下垣一氏が就いた[113]

素材とデザインで非価格の軸をつくり、赤字を抜ける

1978年11月、日本酸素がOEM供給するオールステンレス製の魔法瓶が他社から発売された[114]。中びんはガラスという業界の常識[115]が、外から崩された。市川重幸社長は二番手であるならもっといいものをつくれと号令し[116]、酸素メーカーとの提携を打ち切って自社技術に切り替えた。他社が1000度の炉で封じるのに対し、450度で働くゲッターを使ってガラス中びんと同じ銀メッキを可能にし[117]、保温力で差をつけた。開発に2年半を費やし、1981年8月にタフボーイを発表[118]している。

電気エアーポットは1980年に市場へ出して以降、急速に伸びて[119]いた。デザインでも外の力を借り、1981年半ばに始めた新型の開発[120]では、イタリアのマリオ・ベリーニ氏を起用している[121]。デザインの変更を認めないという条件で、意匠の完成に1年、商品化までに2年半[122]を要した。1984年6月に出たミニ・デカは、容量を保ったまま高さを8センチ下げた形が受け、発売2か月余りで知名度は東京86%・大阪89%に達した[123]。この製品は1987年にニューヨーク近代美術館の永久収蔵品に加えられ[124]ている。

1986年9月、大阪証券取引所市場第二部に上場した[125]。しかし主力の電気炊飯ジャーは松下電器やシャープの攻勢にさらされ[126]、部品を買って組み立てるだけの薄い採算では価格競争に耐えられない。円高も重なり、1987年11月期の経常損益は16.7億円の赤字に沈んだ[127]。市川博邦社長のもとで低価格路線を高級品路線へ転じ[128]、1990年1月には従来の約2倍にあたる2万1800円の少量高級ジャー「ちょっと炊け」を投入した[129]。コストを15%削る運動も並行させた結果、1988年に経常黒字、1989年に営業黒字へ戻し、電気炊飯ジャーで国内出荷首位を占めた[130]

  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [125]1986年9月 大阪証券取引所市場第二部へ上場
  • 日経ビジネス 1990年5月7日号「象印マホービン 大手家電に勝てる体制作り、赤字脱出」
    • [126]主力の電気炊飯ジャーが松下電器・シャープの攻勢を受けアセンブリーメーカーの薄い採算では価格競争に耐えられなかった
    • [127]1987年11月期の経常損益は16.7億円の赤字
    • [128]市川博邦社長のもとで低価格路線から高級品路線へ転換しコスト15%削減運動を並行
    • [129]1990年1月 少量高級ジャー「ちょっと炊け」を2万1800円で投入(従来の約2倍)
    • [130]1988年に経常黒字、1989年に営業黒字へ回復し電気炊飯ジャーで国内出荷首位
    • [114]1978年11月 日本酸素OEMのオールステンレス製魔法瓶が他社から発売
    • [115]中びんはガラスという常識が外部から崩された
    • [116]市川社長は「二番手であるならばもっといいもの、日本一のステンレスサーモスをつくれ」と指示
    • [117]450度で活性化するゲッターにより銀メッキが可能となり保温力で差別化
    • [118]開発に約2年半を要し1981年8月にステンレスサーモス「タフボーイ」を発表
    • [119]1980年 電気エアーポットを市場投入し急成長
    • [120]新型電気エアーポットの開発を1981年半ばに開始
    • [121]電気エアーポットのデザインにイタリアのマリオ・ベリーニを起用
    • [122]デザイン完成に1年、商品化まで2年半を要した
    • [123]1984年6月発売のミニ・デカは2か月余で知名度 東京86%・大阪89%
    • [124]ミニ・デカは1987年にニューヨーク近代美術館の永久収蔵品となった
  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [125]1986年9月 大阪証券取引所市場第二部へ上場
  • 日経ビジネス 1990年5月7日号「象印マホービン 大手家電に勝てる体制作り、赤字脱出」
    • [126]主力の電気炊飯ジャーが松下電器・シャープの攻勢を受けアセンブリーメーカーの薄い採算では価格競争に耐えられなかった
    • [127]1987年11月期の経常損益は16.7億円の赤字
    • [128]市川博邦社長のもとで低価格路線から高級品路線へ転換しコスト15%削減運動を並行
    • [129]1990年1月 少量高級ジャー「ちょっと炊け」を2万1800円で投入(従来の約2倍)
    • [130]1988年に経常黒字、1989年に営業黒字へ回復し電気炊飯ジャーで国内出荷首位

1996年〜 縮む国内市場と海外生産、爆買いの山を越えて創業100年の高付加価値化へ

象印マホービンの業績推移

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2002年 販売会社台象股份有限公司を設立
  2. 2003年 販売会社上海象印家用電器有限公司を設立
  3. 2003年 象印ファクトリー・ジャパンに生産移管
  4. 2005年 販売会社象印特販を設立
  5. 2013年 現物市場統合により東京証券取引所市場第二部へ移行
  6. 2025年 買収防衛策の不継続と、自己株式取得・増配による株主還元への切り替え 圧力に屈したのか、自らの判断か——買収防衛策の存廃と株主還元をめぐる二年間
  7. 2025年 自己株式取得・増配による株主還元へ切り替え

海外へ移した生産と、国内の構造改革

海外の足場は上場前後に築き、1986年10月にタイの製造会社Union Zojirushi、1987年1月に米国の販売会社Zojirushi America Corporationを設立し[131]、1995年3月には香港に製造会社の新象製造廠を置き[132]、2002年に台湾、2003年に中国・上海へ販売会社を構えた[133]。国内市場が買い替え中心に転じるなかで、ステンレス魔法瓶の生産はタイへ移された[134]。円高が進み、国内で組み立てる限り価格競争に耐えられない[135]という事情がある。生産の海外移転と、国内に残す高付加価値品との切り分け[136]が、以後の基本線になった。

  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [131]1986年10月 タイにUnion Zojirushi、1987年1月に米国Zojirushi America Corporationを設立
    • [132]1995年3月 香港に製造会社 新象製造廠を設立
    • [133]2002年 台湾、2003年 中国・上海に販売会社を設立
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2003年2月8日号
    • [134]ステンレス魔法瓶の生産をタイへ移管
    • [135]円高下で国内生産では価格競争に耐えられず生産をタイへ移した
    • [136]生産の海外移転と国内の高付加価値品を切り分けた

2000年代には国内の体制にも手を入れ、2003年に生産を象印ファクトリー・ジャパンへ移管し[137]、同年上期には239人が退職して特別退職金17億円を計上している[138]。2010年にも最大100名規模の希望退職を募った[139]。炊飯ジャーも魔法瓶も普及しきって買い替え中心の市場に変わり、そこへ中国製の安価な製品が流入していた[140]。国内の生産と人員を絞りながら、高付加価値の商品へ資源を寄せる形が続いている[141]

  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [137]2003年 象印ファクトリー・ジャパンへ生産を移管
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2003年8月9日号
    • [138]2003年上期に239人が退職し特別退職金17億円を計上
    • [140]普及しきった買い替え市場に中国製の安価品が流入した
    • [141]国内の生産・人員を絞り高付加価値商品へ資源を集中した
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2010年7月3日号
    • [139]2010年に最大100名規模の希望退職を募集
  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [131]1986年10月 タイにUnion Zojirushi、1987年1月に米国Zojirushi America Corporationを設立
    • [132]1995年3月 香港に製造会社 新象製造廠を設立
    • [133]2002年 台湾、2003年 中国・上海に販売会社を設立
    • [137]2003年 象印ファクトリー・ジャパンへ生産を移管
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2003年2月8日号
    • [134]ステンレス魔法瓶の生産をタイへ移管
    • [135]円高下で国内生産では価格競争に耐えられず生産をタイへ移した
    • [136]生産の海外移転と国内の高付加価値品を切り分けた
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2003年8月9日号
    • [138]2003年上期に239人が退職し特別退職金17億円を計上
    • [140]普及しきった買い替え市場に中国製の安価品が流入した
    • [141]国内の生産・人員を絞り高付加価値商品へ資源を集中した
  • 週刊東洋経済 会社四季報 2010年7月3日号
    • [139]2010年に最大100名規模の希望退職を募集

インバウンド需要がつくった外からの業績の山

2010年代半ばは訪日外国人の増加が業績を押し上げ、中国人観光客のいわゆる爆買いで、贈答にも向くステンレスマホービンや炊飯ジャーが売れ[142]た。利益率の高い非電気の製品が伸びたことが収益を厚くして[143]いる。それまでの同社は売上高600億円ほど、営業利益20億円から30億円という水準[144]が多かったが、この時期は売上高が800億円を超え、営業利益が100億円を超える年が2年ほど続いた[145]。ROEも12%程度[146]に達している。

  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [142]中国人観光客の爆買いでステンレスマホービン・炊飯ジャーが伸びた
    • [143]利益率の高い非電気製品の伸びが収益を押し上げた
    • [144]爆買い前は売上高600億円程度・営業利益20〜30億円が多かった
    • [145]爆買い期は売上高800億円超・営業利益100億円超が2年ほど続いた
    • [146]爆買い期のROEは12%程度、売上高は800億円超

この山は続かず、市川典男社長は後年、2015年から2016年の売上と利益をある意味で異常値だったと振り返り[147]、通常時の参考にはできない[148]と述べている。爆買いが引いたあとは売上・利益とも当時に比べて減少が続いた[149]。同社はその数年を需要の実力値を測り直す期間として扱い[150]、直近5年は増収を重ねて水準を戻してきたものの、営業利益は円安の重石もあって爆買い期には届いていない[151]

  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [147]市川典男社長は2015〜2016年の業績を「ある意味、異常値」と述懐
    • [148]爆買い期の水準は通常時の参考にできないと位置づけた
    • [149]爆買い後は売上・利益とも当時比で減少が続いた
    • [150]爆買い後は需要の実力値を測り直す期間と位置づけた
    • [151]直近5年は増収基調だが営業利益は円安もあり爆買い期の水準に戻っていない
  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [142]中国人観光客の爆買いでステンレスマホービン・炊飯ジャーが伸びた
    • [143]利益率の高い非電気製品の伸びが収益を押し上げた
    • [144]爆買い前は売上高600億円程度・営業利益20〜30億円が多かった
    • [145]爆買い期は売上高800億円超・営業利益100億円超が2年ほど続いた
    • [146]爆買い期のROEは12%程度、売上高は800億円超
    • [147]市川典男社長は2015〜2016年の業績を「ある意味、異常値」と述懐
    • [148]爆買い期の水準は通常時の参考にできないと位置づけた
    • [149]爆買い後は売上・利益とも当時比で減少が続いた
    • [150]爆買い後は需要の実力値を測り直す期間と位置づけた
    • [151]直近5年は増収基調だが営業利益は円安もあり爆買い期の水準に戻っていない

創業100年の炎舞炊きと、資本政策の転換

創業100周年にあたる2018年、最高級炊飯ジャー「炎舞炊き」を発売[152]した。複数のヒーターを底面で切り替えて高火力を生む仕組みが競合との違いで、火力を担う内作部品は大阪工場で一貫生産[153]している。同年10月には大阪に初の直営飲食店「象印食堂」を開き[154]、炊いたご飯そのものを客に出す場[155]をつくった。市場での位置づけも上がり、2018年2月に東京証券取引所市場第一部へ指定され、2022年4月には市場区分の見直しでプライム市場へ移った[156]

  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [152]2018年 創業100周年に最高級炊飯ジャー「炎舞炊き」を発売
    • [153]炎舞炊きは複数ヒーターで高火力を出し内作部品を大阪工場で一貫生産
  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [154]2018年10月 大阪に初の直営飲食店「象印食堂」を開店
    • [155]象印食堂は炊いた米飯を提供する直営飲食店
    • [156]2018年2月 東証一部へ指定、2022年4月 プライム市場へ移行

資本政策も転じ、2022年1月に導入した買収防衛策を継続せず、2024年12月に廃止を公表して[157]、自己株式取得と増配へ切り替えている。2024年11月期には約33億円の自己株式取得を実施し、配当を34円から40円へ引き上げた[158]。中国家電大手の創業家系ファンドが筆頭株主となり、香港のファンドが防衛策の廃止を株主提案する[159]という圧力を受けた末の判断である。守りの制度を外して還元を厚くしたが、市川一族が中核株主である構図は変わっていない[160]

  • 象印マホービン統合報告書2024
    • [157]2022年1月に導入した買収防衛策を2024年12月に不継続と公表
    • [158]2024年11月期に約33億円の自己株式取得、配当は34円から40円へ増配
    • [160]市川一族が中核株主である構図は変わっていない
  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [159]中国家電大手の創業家系ファンドが筆頭株主、香港ファンドが防衛策廃止を株主提案

家庭用品ブランドから食と暮らしのソリューションブランドへの移行を掲げ、中期経営計画をADAPT、SHIFT、BEYONDと段階的に進めた[161]。事業は調理家電が売上の約7割を占め[162]、海外仕入れ比率は5割強で、1円の円安が営業利益を5000万円から1億円押し下げる[163]構造にある。価格転嫁と高単価商品への集中で応じた結果、2025年11月期の売上高は911億円、営業利益は前期比24.9%増の74億円となった[164]。2026年から始めたBEYONDでは、韓国や欧州、東南アジアへ販路を分散し[165]、2028年11月期に連結売上高1000億円・営業利益90億円を掲げている[166]

  • 象印マホービン 2025年11月期 決算説明会 質疑応答(2026年1月16日)
    • [161]中期経営計画をADAPT・SHIFT・BEYONDと段階的に推進
    • [162]調理家電が売上の約7割
    • [164]2025年11月期 売上高912億円・営業利益74億円(前期比24.9%増)
    • [165]BEYONDは2026年開始、韓国・欧州・東南アジアへ販路を分散
    • [166]中期経営計画BEYONDは2028年11月期に連結売上高1000億円・営業利益90億円が目標
  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [163]海外仕入れ比率5割強、1円の円安で営業利益が5000万〜1億円減少
  • 象印マホービン 2024年11月期 決算説明会 質疑応答(2025年1月17日)
    • [152]2018年 創業100周年に最高級炊飯ジャー「炎舞炊き」を発売
    • [153]炎舞炊きは複数ヒーターで高火力を出し内作部品を大阪工場で一貫生産
    • [159]中国家電大手の創業家系ファンドが筆頭株主、香港ファンドが防衛策廃止を株主提案
    • [163]海外仕入れ比率5割強、1円の円安で営業利益が5000万〜1億円減少
  • 象印マホービン 有価証券報告書【沿革】
    • [154]2018年10月 大阪に初の直営飲食店「象印食堂」を開店
    • [155]象印食堂は炊いた米飯を提供する直営飲食店
    • [156]2018年2月 東証一部へ指定、2022年4月 プライム市場へ移行
  • 象印マホービン統合報告書2024
    • [157]2022年1月に導入した買収防衛策を2024年12月に不継続と公表
    • [158]2024年11月期に約33億円の自己株式取得、配当は34円から40円へ増配
    • [160]市川一族が中核株主である構図は変わっていない
  • 象印マホービン 2025年11月期 決算説明会 質疑応答(2026年1月16日)
    • [161]中期経営計画をADAPT・SHIFT・BEYONDと段階的に推進
    • [162]調理家電が売上の約7割
    • [164]2025年11月期 売上高912億円・営業利益74億円(前期比24.9%増)
    • [165]BEYONDは2026年開始、韓国・欧州・東南アジアへ販路を分散
    • [166]中期経営計画BEYONDは2028年11月期に連結売上高1000億円・営業利益90億円が目標

象印マホービンの沿革1948〜2025年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
協和製作所を設立
協和魔法瓶工業に商号変更
象印マホービンに商号変更
製造会社和研プラスチックス〔現・象印ファクトリー・ジャパン〕を設立
電子ジャーの開発・発売と、魔法瓶専業から家庭用電気製品部門への進出ガラスの保温に行き詰まった魔法瓶メーカーは、なぜ畑違いの電気製品へ踏み込んだか 詳細を読む★★★
家庭用電気製品部門に参入★★
物流会社象印配送サービス〔現・象印ユーサービス〕を設立
販売会社象印フレスコを設立
ステンレス製マホービンを開発し販売を開始★★
大阪証券取引所市場第二部に上場
製造会社Union Zojirushi Co.,Ltd.を設立
販売会社Zojirushi America Corporationを設立
電気炊飯ジャーの低価格路線から高級品路線への転換と「サクセス90」の始動創業以来の営業赤字に陥った象印は、なぜ大手家電との価格競争を避け高級品へ向かったか 詳細を読む★★★
製造会社新象製造廠有限公司を設立
市川典男販売会社台象股份有限公司を設立
市川典男販売会社上海象印家用電器有限公司を設立
市川典男象印ファクトリー・ジャパンに生産移管★★
市川典男販売会社象印特販を設立
市川典男現物市場統合により東京証券取引所市場第二部へ移行
市川典男販売会社Zojirushi SE Asia Corporation Ltd.を設立
市川典男東京証券取引所市場第一部に指定
市川典男象印マホービン初の飲食店「象印食堂」をオープン
市川典男買収防衛策の不継続と、自己株式取得・増配による株主還元への切り替え圧力に屈したのか、自らの判断か——買収防衛策の存廃と株主還元をめぐる二年間 詳細を読む★★★
市川典男自己株式取得・増配による株主還元へ切り替え★★
市川典男販売会社Lin & Partners Distributors Limitedを取得
市川典男販売会社Zojirushi Korea Corporationを設立
出典・参考

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