1918年〜 中びん職人の弟と商人の兄が興し、戦時の休業を修理業でしのいで創業者を送るまで
- 1948年 協和製作所を設立
電明社の専属工場から抜けて組立問屋へ
1918年5月、愛知県中島郡朝日村の出身で電球加工の職人だった市川金三郎氏と、その兄で販売を担った市川銀三郎氏が、大阪市西区九条に住居兼作業所を借りて市川兄弟商会を創立した[1]。金三郎氏は17歳、銀三郎氏は20歳[2]である。白熱電球は真空工業の元祖にあたり[3]、ガラスで真空をつくる技術は魔法瓶の中びん製造に通じた。試作した中びんを星印魔法壜の電明社が買うと約束した[4]ことが独立の後押しとなり、一家をあげて大阪へ移った。当初は電明社の専属工場として、金三郎氏がつくり銀三郎氏が自転車で運ぶ[5]体制だった。
- [1]1918年5月 大阪市西区九条に市川兄弟商会を創立
- [2]創業時 金三郎17歳・銀三郎20歳
- [3]白熱電球の真空技術が中びん製造に通じる
- [4]試作した中びんの買い手は星印魔法壜の電明社
- [5]金三郎が製造・銀三郎が配達を担当
当時の魔法瓶業界は、中びんメーカーと金属ケース屋、その両方を買って組み立てる問屋の三者で成り立ち[6]、製品の9割が輸出だった[7]。中びん製造は輸出の端境期に仕事が絶えるうえ、専属である限り条件は問屋の都合で決まった[8]。銀三郎氏は専属を解いて複数の問屋へ売る道を選び、閑散期に在庫を積んで繁忙期に有利な値で捌く[9]形に変えた。1923年には稲荷町に組立工場を設けて自ら問屋の側に回り[10]、創業から5年でアッセンブルメーカーの体裁を整えた。
- [6]業界は中びんメーカー・ケース屋・組立問屋の三者構成
- [7]当時の魔法瓶は製品の9割が輸出
- [8]専属工場では条件が問屋側の都合で決まった
- [9]専属を解き閑散期に在庫を積んで繁忙期に売る形へ変えた
- [10]1923年 稲荷町に組立工場を設け組立業へ進出
問屋になれば自社の商標が要るため、銀三郎氏は業界でまだ使われていなかった「象」[11]に目をつけ、輸出用には王冠を載せた「ELEPHANT & CROWN」を登録した[12]。販路は大阪市西区川口町と神戸の華商を通じ[13]、天津・大連から上海・広東、フィリピンやインドネシアへ広がった。取引先の破綻で3000円の貸倒れを出して[14]からは、野村銀行川口支店と取引して手形の振出人の信用を確かめる[15]ようにし、2年に一度は自ら上海航路の客となって飛び込みで販売先を開拓した。
- [11]象は業界で未使用の商標だった
- [12]商標に象を採用し輸出用に ELEPHANT & CROWN を登録
- [13]販路は川口町・神戸の華商経由で中国・東南アジアへ
- [14]華商の破綻で約3000円の貸倒れが発生
- [15]貸倒れを機に野村銀行川口支店と取引し信用調査を開始
- [1]1918年5月 大阪市西区九条に市川兄弟商会を創立
- [2]創業時 金三郎17歳・銀三郎20歳
- [3]白熱電球の真空技術が中びん製造に通じる
- [4]試作した中びんの買い手は星印魔法壜の電明社
- [5]金三郎が製造・銀三郎が配達を担当
- [6]業界は中びんメーカー・ケース屋・組立問屋の三者構成
- [7]当時の魔法瓶は製品の9割が輸出
- [8]専属工場では条件が問屋側の都合で決まった
- [9]専属を解き閑散期に在庫を積んで繁忙期に売る形へ変えた
- [10]1923年 稲荷町に組立工場を設け組立業へ進出
- [11]象は業界で未使用の商標だった
- [12]商標に象を採用し輸出用に ELEPHANT & CROWN を登録
- [13]販路は川口町・神戸の華商経由で中国・東南アジアへ
- [14]華商の破綻で約3000円の貸倒れが発生
- [15]貸倒れを機に野村銀行川口支店と取引し信用調査を開始
弟の独立と統制経済、休業して修理業へ
1927年10月、金三郎氏はラジオ用真空管の事業化を目指して東京へ移り[16]、創業を共にした兄弟は東西に分かれた。中びん製造は職人の腕と勘に頼る仕事[17]で、監督役を失った負担は小さくない。折しも中国では日貨排斥が広がり、輸出は細っていた[18]。銀三郎氏は1932年に塩草町の中びん工場を手放して稲荷町の組立に専念し[19]、輸出先を南方へ広げる方針に切り替えた。
- [16]1927年10月 金三郎が真空管事業のため東京へ独立
- [17]中びん吹きは職人の腕と勘に頼る作業だった
- [18]中国での日貨排斥により輸出が縮小
- [19]1932年 塩草町の中びん工場を手放し組立専業へ
南方への転換は当たり、広口びんの改良も進んで、日本の魔法瓶輸出は1937年の41万ダースで頂点に達した[20]。だが同年の日中戦争開始を境に流れは逆転し、翌1938年には26万ダースへ半減する[21]。1940年には銅と鉄が使用制限を受けてケースがつくれなくなり[22]、1942年には生産が休止状態に陥った。企業整備令を受けて同年6月、銀三郎氏は市川兄弟商会を閉鎖[23]している。
- [20]1937年 日本の魔法瓶輸出は41万ダースで頂点
- [21]1938年 輸出は26万ダースへ半減
- [22]1940年 銅・鉄の使用制限でケース製造が不能に
- [23]1942年6月 企業整備令を受け市川兄弟商会を閉鎖
転業はせず、南区日本橋に間口二間の借家を借りて魔法瓶の修理専門店を開いた[24]。在庫の中びんを使って直す仕事で、いつか製造を再開する日まで事業とのつながりを残す[25]構えである。1939年に住吉区田辺町の貸家30軒を買っておいた[26]ことが、この時期の暮らしを支えた。疎開させた家財は空襲で焼け、田辺町の一角だけが焼け残る[27]という皮肉な結果になったが、修理業という細い灯と貸家の収入が、戦後の再出発の足場として残った。
- [24]南区日本橋に間口二間の魔法瓶修理専門店を開業
- [25]再開の日まで魔法瓶と付かず離れずの距離を保つ狙いだった
- [26]1939年 住吉区田辺町に貸家30軒を購入
- [27]疎開先が空襲で焼け田辺町の家だけが残った
- [16]1927年10月 金三郎が真空管事業のため東京へ独立
- [17]中びん吹きは職人の腕と勘に頼る作業だった
- [18]中国での日貨排斥により輸出が縮小
- [19]1932年 塩草町の中びん工場を手放し組立専業へ
- [20]1937年 日本の魔法瓶輸出は41万ダースで頂点
- [21]1938年 輸出は26万ダースへ半減
- [22]1940年 銅・鉄の使用制限でケース製造が不能に
- [23]1942年6月 企業整備令を受け市川兄弟商会を閉鎖
- [24]南区日本橋に間口二間の魔法瓶修理専門店を開業
- [25]再開の日まで魔法瓶と付かず離れずの距離を保つ狙いだった
- [26]1939年 住吉区田辺町に貸家30軒を購入
- [27]疎開先が空襲で焼け田辺町の家だけが残った
協和製作所としての再出発と創業者の死
1945年10月、長男の市川重幸氏が復員した[28]。輸送任務で見た中国製の魔法瓶[29]が事業への思いを呼び戻したという。1947年3月に修理店を閉じ、同年10月、南区高津に金属加工部と組立部を置いて市川兄弟商会の看板を掲げ直した[30]。創業時は中びんから出発したが、再開にあたっては外装と組立を主体に据えている[31]。翌1948年には戦後第一号の卓上ポット「ポットペリカン」が生まれ、1956年まで売れ続けた[32]。
- [28]1945年10月 市川重幸が復員
- [29]復員時の輸送任務で中国製の魔法瓶を目にした
- [30]1947年10月 南区高津で市川兄弟商会を再開(高津工場)
- [31]戦後の再開は中びんではなく外装と組立が主体
- [32]1948年 戦後第一号製品「ポットペリカン」、1956年まで販売
1948年12月29日、資本金30万円で株式会社協和製作所を設立した[33]。社名の協和には、重幸氏の兄弟が力を合わせるという意味が込められ[34]ている。銀三郎氏は物品税をめぐる問題の当事者だったため代表には就かず、大正生命大阪支店長の大西健太郎氏に代表取締役を託した[35]。銀三郎氏が代表取締役に就いたのは1951年1月[36]で、体調を崩した父に社長の座を用意したいという息子たちの意向によるものだった。
- [33]1948年12月29日 資本金30万円で株式会社協和製作所を設立
- [34]社名「協和」は兄弟が力を合わせる願いに由来
- [35]初代代表取締役は大正生命大阪支店長の大西健太郎
- [36]1951年1月 市川銀三郎が代表取締役に就任
戦後の輸出再開では出遅れた[37]。1947年にGHQが民間貿易の再開品目へ魔法瓶を加えた[38]とき、恩恵を受けたのは近畿輸出魔法瓶協同組合の加入社で、未加入の同社は蚊帳の外[39]に置かれた。1949年以降は中南米向けの値下げ競争が激化し、細口が1本30セントの採算点を割る勢いとなる[40]。同社は採算を割る取引を断り、1952年に24セントまで下がると注文は止まった[41]。銀三郎氏は業界紙に自粛を促す一文を寄せた3か月後、1952年7月23日に55歳で世を去った[42]。
- [37]戦後の輸出再開で同社は出遅れた
- [38]1947年 GHQが民間貿易の再開品目に魔法瓶を加えた
- [39]輸出再開の恩恵は近畿輸出魔法瓶協同組合の加入社に限られ同社は未加入
- [40]中南米向け細口は1本30セントの採算点割れ、1952年に24セントまで下落
- [41]採算割れの取引を断った結果 1952年に注文が止まった
- [42]1952年7月23日 市川銀三郎が55歳で死去
- [28]1945年10月 市川重幸が復員
- [29]復員時の輸送任務で中国製の魔法瓶を目にした
- [30]1947年10月 南区高津で市川兄弟商会を再開(高津工場)
- [31]戦後の再開は中びんではなく外装と組立が主体
- [32]1948年 戦後第一号製品「ポットペリカン」、1956年まで販売
- [33]1948年12月29日 資本金30万円で株式会社協和製作所を設立
- [34]社名「協和」は兄弟が力を合わせる願いに由来
- [35]初代代表取締役は大正生命大阪支店長の大西健太郎
- [36]1951年1月 市川銀三郎が代表取締役に就任
- [37]戦後の輸出再開で同社は出遅れた
- [38]1947年 GHQが民間貿易の再開品目に魔法瓶を加えた
- [39]輸出再開の恩恵は近畿輸出魔法瓶協同組合の加入社に限られ同社は未加入
- [40]中南米向け細口は1本30セントの採算点割れ、1952年に24セントまで下落
- [41]採算割れの取引を断った結果 1952年に注文が止まった
- [42]1952年7月23日 市川銀三郎が55歳で死去