1947年に坂本薫俊氏が星崎電機株式会社を設立。坂本薫俊氏はブラザー(愛知県名古屋市に本社)に勤務しており、終戦後に独立を志向して会社設立に至った。この経緯から、星崎電機の祖業はブラザー向けのミシン部品の生産であり、ブラザーの下請け工場であった。
当時日本ミシン製造は、GHQの命令で精密機械が作れなかったので、何かしらの電化製品を作り生き残ろうとしていた。いざ創業者とともに会社を立ち上げようとしたところGHQの命令が解除されることに。そこで創業者は独立して起業することになったんですね。
坂本薫俊氏は米国の工作機械メーカーの視察を通じてウォータークーラーの存在を認知。帰国後に試作しようとしたが、すでに国内では松下電器が参入しており参入を断念した。一方、ホシザキに対してウォータークーラーと構造が似ているという理由で、「名古屋まつり」向けに自動販売機の製造依頼があった。
そこで、1957年にホシザキは自動販売機の製造販売に着手し、自社製品の開発を開始した。1950年代において自販機に参入するメーカーが稀有であり、ホシザキはジュース自販機の製造販売で業容を拡大した。
自動販売機の事業展開に苦戦したことを受けて、1965年ごろに坂本薫俊氏は自身の息子である坂本精志氏(ホシザキ・当時取締役)に対して新事業の立案を要請。坂本精志氏は渡米し、現地の展示会を巡る中で、日本では普及していなかった製氷機に着眼し、父親である創業者に進出を提言した。
ところが、当時は日本国内で製氷機は普及しておらず、氷は地場の「氷屋」から購入するのが一般的であったため、創業者である坂本薫俊氏は製氷機への参入に反対した。ところが、息子である坂本精志氏は製氷機が有望と考え、ホシザキにおいて製氷機の開発に注力したため、結果として親子関係が悪化し、のちの事業継承における問題を残した。
なお、最終的に創業者である坂本薫俊氏は製氷機への参入を決定。ホシザキは自動販売機メーカーから、飲食店向け製氷機メーカーへと業態転換した。
現地でいろいろ案内してくれた人から「世の中贅沢になればなるほど水と氷と紙が必要になる」と言われました。たしかに、アメリカにはそのころ日本にはなかった製氷機がたくさんありました。また、ジュース自販機を作るホシザキにとって冷凍技術は得意分野で「氷」にピンときたというのもあります。(略)
はじめは社内で氷の将来性について賛同してくれる人はいなかった。そうこうしているうちに、ジュース自販機の売れ行きが悪くなり会社が経営危機に直面しました。創業者の一声で製氷機に社運を託すことになったんです。もちろん、製氷機を売ってくれる代理店もいないので自社で売り込みをかけました。これが徐々に売れ、ホシザキは危機を乗り越えることができたんです。
製氷機を開発したものの、飲食店向けの販売に苦戦しており、代理店の反応も芳しくなかった。
そこで、ホシザキは代理店ではなく、国内の各地に販売会社を設立し、自社の直接販売によって飲食店を攻略する方針を決めた。1966年の東京における販売会社の設立を皮切りに、ホシザキは全国に販社を設立した。
飲食店にとっては、冷蔵庫の故障は業務に大きな影響となるため、ホシザキのような厨房メーカーには「壊れた際にすぐに直しに来てくれる」というサービスを望んでおり、この市場においては、営業・サービスの充実が鍵を握っていた。
結果として、ホシザキはきめ細かい営業網を作り上げることで、迅速なサービス提供が可能となり、業務用冷蔵庫のトップ企業として成長するきっかけとなった。加えて、1970年代からは、外食産業が次々とチェーン展開を始めたことを受けて、市場そのものも拡大し、ホシザキは順調に売り上げを拡大した。
一方で、販社に経営を任せた弊害としては、本社からのコントロールが効きにくい構造が長年続き、2018年にはホシザキ東海において架空取引による不正が発覚している。
飲食店向けの事業を拡大するために、業務用冷蔵庫の販売に参入。当初は専業メーカーの「福島工業」からのOEM調達を実施していたが、のちにホシザキは冷蔵庫の製造を内製化し、福島工業と競合する道を選択。
創業者の息子である坂本精志氏は「50歳でホシザキの社長になる」ことを要望していたが、創業者かつ父である坂本薫俊氏はこの提案を拒絶して社長を続投。この結果、親子関係が悪化した。
坂本精志氏は別のビジネスでの独立を志向。ホシザキの子会社であった「ネスター社」について、ホシザキによる出資比率を14%に低下させることで、坂本精志氏はネスター社の経営に従事し、ホシザキとは距離を置いた。
創業者である坂本薫俊氏が逝去したことを受けて、2005年に代表取締役社長として坂本精志氏が就任。
日時 | 経歴 | 備考 |
1937年 | 生まれ | - |
1960年 | ホシザキ・取締役 | - |
1965年 | ホシザキ・専務取締役 | |
1987年 | ネスター・代表取締役社長 | 2002年まで歴任 |
1988年 | ホシザキ・取締役 | |
2002年 | ホシザキ・取締役退任 | |
2003年 | ホシザキ・取締役相談役 | |
2005年 | 代表取締役社長 | |
2017年 | 代表取締役会長 | |
2019年 | 取締役会長 |
欧州の海外展開を進めるため買収を中心に据えた。2006年以降、ホシザキは、米州・欧州・アジア(インド)の各地域で、現地のメーカーを買収することにより、海外展開を加速させた。
坂本家による同族経営から脱却するため、株式上場を実施
ホシザキ(本社)は、営業活動について全国各地の販社を競わせる形で任せており、営業現場ではノルマを達成するための値引きが横行。この結果、ホシザキの利益率が低迷する要因となっていた。そこで、2010年代を通じてホシザキは、国内において営業・サービスの改革を実施。取引先の飲食店に対しては「値引きをせずに価格を見積もり提示する」ことを要請し、収益性の改善を試みた。
2018年9月にホシザキにおいて子会社の販売会社(ホシザキ東海株式会社)における不正取引が社内通報を通じて発覚。通報内容は、ホシザキ東海において、一部の営業担当者が架空発注(架空工事の発注)などの不正取引を行なっている、というものであった。
不正取引に至った理由は、ホシザキ東海において過度な営業ノルマ(売上目標)が設定され、営業担当者がノルマ達成に応えるために架空取引を行なったためである。ホシザキの全国15社の販社のうち、ホシザキ東海はホシザキ本社がある地域を担当し、販社の中でも相応の売上高を確保する「花形」の部署とされたため、結果として目標に対するプレシャーが強く、営業担当者による架空取引を誘発するに至った。
なお、不正取引の実行にあたっては、ホシザキ東海と長年取引がある取引先と協力するなど、組織および社外ぐるみの不正を遂行した。
このため、監査法人のトーマツはホシザキに対して調査の実施を依頼。ホシザキとしては決算報告書の提出が期限に間に合わない状態となり、2018年12月14日に証券取引所によってホシザキは監理銘柄に指定され、上場廃止の危機に陥った。
その後、2018年12月27日にホシザキは四半期報告書を提出し、翌12月28日に証券取引所はホシザキに対する監理銘柄の指定を解除。ホシザキは不正による上場廃止の危機を免れた。
なお、翌2019年5月にホシザキは不正取引に関する第三者委員会の調査報告書を公表。架空発注額は合計約3000万円に及んだ。
ホシザキ東海のエリア営業部で蔓延していた不正行為の原因の一つは、数十年前から醸成されてきた特異な組織風土である。これを一掃するのは容易ではないが、まずは大幅な人事刷新が不可欠である。ホシザキ東海に長年培われてきた純潔主義(略)を打破するため、組織の半分を他の販社から入れ替えるような大胆な人事異動も検討に値する。
過度な目標達成プレッシャーの下で不正行為に追い込まれてきたホシザキ東海のエリア営業部の営業担当者にとっては、他の営業部や他の販社に移動して異なる組織風土に触れ、正攻法の営業スキルを持った上長の下で営業活動を実践することが、即効性の高いリハビリテーションになる。