1951年に船井哲良氏が大阪で興したミシン卸の船井ミシン商会が起源。
1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛け、GEやフィリップスへのOEM供給で低価格の家電を世界へ送り出した。米エマーソンの商標で北米の量販店に食い込み、2007年3月期に過去最高の売上高を記録した。
船井電機の最初の30年は、売り場を持たない会社がどうやって生き残るかを試す時間だった。1961年の設立時から国内にはほとんど売らず、GEやフィリップス、シアーズ・ローバックといった米欧の取引先へ相手先ブランドで納める。系列店も自社ブランドの信用も無いため、注文はバイヤーの評価だけで決まり、価格と品質と納期の三つが競争の焦点になった。技術で先に立たなかったのではなく、先に立てる位置にいなかった。1976年ごろに開発した4分の1インチのコンパクトビデオを統一規格の成立で捨てたのも、規格を決める側に回れなかったからである。残ったのは、決められた仕様を誰よりも安く作る能力だった。
その能力を守るために、船井電機は工場の場所と工程の手順を動かし続けた。1971年のニクソンショックと1973年の変動相場制移行で円高が恒常的な条件になると、沖縄から台湾、シンガポール、ドイツ、イギリスへと工場を広げた。同時に、幹部社員をトヨタ自動車へ三カ月送り込んで持ち帰ったかんばん方式を改造し、FPSと呼ぶ手順に作り替えた。岡山県津山市の工場では従業員150人を変えないまま、1人1日のVTR生産台数を16.7台から73.7台へ引き上げている。設備ではなく手順に投資したことが、後の移転で効いた。手順は人が持ち運べるが、設備は置いていくしかないからである。
1951年4月、船井哲良氏が大阪でミシンの卸商・船井ミシン商会を興した。翌1952年12月には株式会社船井ミシン商会の代表取締役に就任している。そこから電機の量産へ移り、1959年には輸出用トランジスタラジオを手掛けはじめた。1961年8月、このラジオ部門を分離し、大阪市生野区に資本金2,000万円で船井電機株式会社を設立した。設立の2年前から輸出用ラジオを手掛けていたため、量産と輸出の体制は創業の時点で既に動いていた。輸出産業として出発したことが、その後の為替対応の前提になった。国内ではほとんど売らず、米欧の大手メーカーと流通業者への相手先ブランドによる生産に徹する輸出専業メーカーとして出発した。
輸出先の開拓は会社の設立より前から始まっていた。1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に進出した。1963年にはオープンリール式のテープレコーダーを製作し、そこから派生した8トラックカーステレオでは世界最大の生産台数を確保した。1964年3月には広島県深安郡(現福山市)に生産子会社の中国船井電機を設立した。取引先はGE、フィリップスといった米欧の大手電機メーカーや、シアーズ・ローバックなどの大手流通業者である。船井電機の競争優位の源泉は『低価格、安定した品質、納期の正確さ』の3点にあり、技術の先進性でも自社ブランドでもなかった。回転機構を扱うメカトロニクスの技術は、この時期の製品群を通じて社内に蓄積された。
松下電器産業をはじめ国内の大手メーカーは自社の系列店を抱えていたが、輸出専門だった船井電機に系列店は無かった。1965年ごろにはカセットのダブルデッキの量産に移り、回転機構を持つ機器へ製品の幅を広げた。取引相手は米欧の大手電機メーカーや流通業者で、受注の可否は仕入れを担うバイヤー一人の判断に委ねられていた。長い付き合いや人とのつながりがものを言う国内のような商慣行は通用せず、米国ではメーカー間にも販売業者間にも仲間内の意識がないため、応えられなくなった取引先は取引歴の長さに関係なくすぐ切られた。常に価格・品質・納期の三つだけで測られる、この取引の条件こそが、同社の原価への向き合い方を決めた。
1971年のニクソンショックによる円高は輸出専業の船井電機に大きな打撃を与え、その後も断続的な円高が続いた。円が1973年に変動相場制へ移ると、為替の動きは一過性のものではなく、常に付きまとう条件になった。同社は海外への工場展開を加速させ、円高を越えて国際競争力を保つことをその後の経営の軸に置き続けた。競争力を失えば会社そのものが立ち行かなくなるとの認識から、1ドル60円でも利益が出る体制さえ一時は検討したとされる。相場の行方は読めない以上、どんな水準でも生き残れる原価まで下げるしか手はなかった。こうした20年余りの危機意識が、やがて社風として定着した。
最初の海外拠点は1960年に進出した米軍統治下の沖縄で、その後は台湾、シンガポール、ドイツ、イギリスへと工場を広げた。1967年に進出した台湾の工場は、ピーク時に3,500人の従業員を抱えるまでになった。国内では1964年に設立した中国船井電機が量産を担い、1970年代の国内工場の従業員は1,600人を超えた。ドイツのハンブルクには販売拠点としてFUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを置いた。進出先は売り先の市場ではなく、為替と生産の条件で選ばれた。海外のどこに工場を作っても業績に結びつくわけではなく、試行錯誤を繰り返した末に最も適した地域へ集約した。
船井電機がVHS方式のビデオデッキに加わったのは後発としてであった。それより前の1976年から77年ごろ、同社は後の8ミリビデオの原型となるコンパクトビデオを、4分の1インチ判で作り上げていたが、世界の主要企業がこぞって支持する統一規格が成立し、この製品からは退いた。テープレコーダーに始まり、8トラックカーステレオ、カセットのダブルデッキへと重ねてきた回転機構の技術は、それでも社内に残った。この技術の蓄積は、のちに主力となったビデオに生き、さらにインクジェットプリンターの開発にも結びついた。1990年代末にはVHSビデオデッキの生産高で世界第2位に立った。
FPS(フナイ・プロダクション・システム)と呼ばれる生産方式は、1970年代半ば、ニクソンショック後の苦境のなかで生まれた。FPSの源流は、船井社長が幹部をトヨタ自動車の工場に3カ月間研修に出したことにあり、トヨタのかんばん方式を下敷きに独自の改良を重ねて形になった。目指したのは、日々の仕事にひそむ無駄を残らず見える形にし、手直しを重ねて品質を高めることと原価を下げることを同時に達成することだった。そのため工程ごとに不良を拾う検査点をなるべく多く置き、ラインは常に最高速度で回して問題を表に出させた。現場の意見を取り込みながらFPSとそれを土台にした開発を進め、同社は他社をしのぐ生産性を獲得した。
この手法を他のどこよりも突き詰め、高い水準にまで仕上げた現場は、津山と広島県福山市にあったVTR工場である。そこでは速度を一定に保てるようになった段階で満足せず、さらに速めることが求められた。原因の見当がつかないうちは、稼働の最中でもラインは止めたまま置かれ、不良品や作業上の不具合が一つ出ただけでも扱いは同じだった。滞りなく流れるラインはむしろ改善の工夫が足りない証拠とされ、1日の割り当てに届かない分は残業で取り戻させた。生産が始まった後も部品の数を減らし、ラインの組み方を変える作業は止まらず、1年経てば以前の面影がないほどに姿が変わった。岡山県津山市の工場を例にとると、従業員は1985年以降ほぼ150人のまま据え置かれたが、1人当たり1日に作るVTRは16.7台から伸び、1989年には73.7台に達した。
人の技術に設備を合わせるほうが効率がよく、機械化で原価を下げるよりFPSのほうが効くとの考えから、船井電機はVTRの量産にロボットを使わなかった。VTRは技術の移り変わりが速いため、ロボットを導入してもすぐに設備が時代遅れになる。OEM生産では300機種近くを同じラインに流しており、機械より人のほうが柔軟に応じられた。こうして、機械に頼らず安い価格と揃った品質を両立して供給する体制がこの時期に整った。船井社長自身は、狙いを定めた海外への工場進出と、精密なメカトロニクス製品の大量生産の二点を、自社の最大の強みに挙げている。設備ではなく手順に投資したため、工場を国外へ移すときにも同じ作り方をそのまま持ち運べた。
1987年の国内市場参入で、船井電機は自社の強みが日本では通用しないことを確かめることになった。米国ではバイヤーが価格と品質と納期だけで発注を決めたが、日本では系列店と付き合いの深さが取引を左右した。参入直後に極端な値引きをする問屋へ製品を流したため、量販店と百貨店から締め出される。出荷を止めて信頼を回復し、取扱店を5,000店まで広げても、伸びは続かなかった。得意なノーマルタイプのVTRの構成比が45%から27%台へ落ち、大手が3万円前後で同じ機能を出してきたからである。安く作る力は、その価格帯が市場に残っているあいだしか効かない。
行き詰まりからの出口は、売り先を増やすことではなく作る場所を絞ることだった。1992年に英国工場をダンピング課税で失い、売上高が前年比25%、経常利益が85%低下した後、船井電機はVTRを中国の東莞へ、VTR一体型テレビをマレーシアへ寄せ、シンガポールと台湾を閉じた。5年間で約151億円の特別損失を出し、国内工場の従業員を1,600人から約400人へ減らしている。その原価で作った100ドルのインクジェットプリンターが、レックスマーク経由で米国市場に投入された。1999年6月期の株主資本利益率40.7%は、新しい市場を開いて得た数字ではなく、閉じ続けた末に残った数字である。
創業以来輸出一筋だった同社は、1987年2月に家庭用製パン器、同年3月にVTRを製品化して国内市場に乗り込んだ。その引き金は1986年の円高で、NIES(新興工業経済群)諸国、とりわけ韓国の製品が安値で国内に流入したが、価格でも品質でも海外市場ではもう韓国製品を上回っているのだから、円高下でも国内で十分に戦えると船井社長は読んだ。もっとも据え置き型VTRの国内市場では松下電器産業など大手5社がほぼ8割を押さえ、後発の食い込む余地は小さかった。それでも参入したのは、価格で競争できるという自信があってのことだった。自動製パン器のヒットと低価格の輸入家電製品のブームに乗り、国内の売上は一時急速に伸びた。市場を新しく開くのではなく、既にある市場の価格帯を下から破りに行く参入だった。
馬場永久氏は、大手オーディオメーカーで30年間、国内の営業を担ってきた人物である。船井電機がこの人を東京フナイの取締役営業本部長に迎えたことで、国内での売り先の方針はようやく固まった。それ以前、国内に入った直後の同社は、値引きの大きさを看板にする問屋や通信販売の業者へ、自分から製品を流していた。その結果、世間は船井を安売りのメーカーと見るようになった。家電量販店は取り扱いをやめ、百貨店や大手スーパーも取引を受け付けなかった。2カ月後には通信販売業者と現金問屋のルートへの出荷を全面的に止め、量販店の信頼回復に努めた。全国70カ所以上の量販店の9割以上が船井電機の製品を扱うようになり、取扱店はスーパーや百貨店を含めて5,000店を超えた。国内販売を担う会社の営業担当者は常務を含めて48人にすぎず、1人で150店舗ほどを回った。
1987年、船井電機は録画専用VTRを店頭価格2万5000円で発売した。当時の韓国製品はおよそ2万3000円だった。1988年ごろに店頭に並んだノーマル型の録画再生VTRも3万5000円前後だった。同機能を持つ国内メーカー品の最安値と比べても1万円以上安い水準だった。参入から2年後の1989年上半期には、国内の据え置き型VTR市場でのシェアが7%に達したとされる。他方、韓国製VTRは不良品の多さとアフターサービス体制の不備によって量販店の店頭から扱われなくなり、日本市場から消えていった。低価格の家庭用ビデオデッキと自動製パン器が、船井電機を代表する製品になった。
1988年6月期に3.2%だった売上高経常利益率は、翌1989年6月期に1.0%まで低下した。1990年6月期の国内売上高は当初200億円を見込んでいたが、150億円から170億円のあいだへ下方修正した。1991年に国内売上高比率を30%へ高める中期経営計画も、10%前後にとどまる見通しで見直しを迫られた。国内市場ではノーマルタイプのVTRの比率が1988年の約45%から27〜28%まで下がっていた。国内メーカーが3万円前後でノーマルタイプを出すようになり、船井電機の価格競争力は低下した。国内販売を担うフナイ販売は1990年6月期に赤字となり、人員を100人前後減らして営業所を6カ所閉じた。得意な価格帯そのものが縮んだため、低価格の一本足では国内で伸びを続けられなくなった。
1992年、欧州でVTRがダンピング課税の対象に指定され、英国工場の閉鎖に追い込まれた。そこへ北米の不況と価格競争の激化が重なり、1992年6月期は売上高が前年比25%、経常利益が同85%減少した。経常利益は3億円と、赤字の一歩手前まで下がった。船井電機はAV不況に見舞われた局面で、海外向けの在庫などを大手メーカーより早い段階でまとめて処分した。足元の水準は、1988年6月期に記録した過去最高の35億円の10分の1にも届かない。本体の数字は子会社の赤字にも大きく左右されるため、同社は子会社を数で増やす道を捨て、柱になる子会社に力を集める方針に転じた。
船井電機は主力商品の生産拠点を絞り込み、VTRは中国の東莞工場へ、VTR一体型テレビはマレーシア工場へ集約して国内工場を縮小した。シンガポールと台湾の工場は閉鎖し、1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した。テレビとテレビデオの生産は1994年までにマレーシアとシンガポールの現地法人へほぼ移った。VTRも中国への生産委託が進み、1993年2月以降は中国で最終組み立てができるようになった。部品も香港の調達センターを通じ、テレビとVTRのいずれも金額で90%以上をドルで調達した。同じ時期の大手家電メーカーのVTR部品の海外調達は50%程度にとどまっていた。本社機能の一部も新大阪駅前のビルから大阪府大東市の本社敷地内の仮設建屋へ移した。
1989年、船井電機は岡山県津山工場の開発技術陣を大阪本社に集め、設計と購買の力を低価格品の開発に振り向けた。商品企画の順序も、買い手が引かれる値段を先に置き、そこへ向けて原価を削る形をとった。テレビデオは1985年から米国で売られていたが、14インチカラーテレビと据え置き型VTRを別々に買うより高く、伸び悩んでいた。同社は1足す1を1.8にするという考え方で価格から設計をやり直し、1992年に画2マンシリーズとして投入すると、店頭価格は5万円を下回り、量販店での販売実績で松下電器産業を抜いて首位に立った。低価格の製品を量産するだけでは安物メーカーという評価が付き、適正な利潤を確保できなくなる。国内へ出たことで、OEM専門の時期には考える必要の無かった課題が生じた。
船井電機は1994年ごろからインクジェットプリンターの研究開発に着手した。組んだ相手は米国のプリンター専業メーカー、レックスマークインターナショナルである。レックスマークは1991年に米IBMから分離独立した会社で、インクジェットでは先発大手3社に大きく水をあけられていた。中国の中山工場で低価格プリンターの大量生産を開始し、完成品は全量をレックスマークへOEM供給した。1997年6月に発売された1号機は、同等の印刷性能で100ドルを切る価格で登場した。当時の大手3社で最も安い機種は200ドル前後だった。設計段階から原価を詰めたのは、事務機器より価格競争の厳しいAV機器の発想によるもので、部品点数は他社製品の半分になった。月間の生産台数は1999年初めに50万台へ達した。
1996年6月期から4期連続で増収増益となり、1999年2月に大阪証券取引所市場第二部へ上場した。1999年6月期の情報通信機器の売上高は、単体で前期の約164億円から約262億6000万円へ6割近く増えた。主力の映像機器は北米の価格下落で減ったが、連結営業利益率は8.68%と松下電器産業の2.5%やソニーの5.0%を上回った。株主資本利益率は40.7%に達し、株価は公開から8カ月で約10倍の4万7000円台へ上昇した。この水準に至るまでに、1994年6月期からの5年間で海外子会社の清算などに伴う特別損失を約151億円計上している。1970年代に1,600人を超えた国内工場の従業員は約400人まで減った。高い収益率は新しい市場を開いて得たものではなく、工場を閉じ続けた末に残った数字だった。
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事実根拠:出所(船井電機)