1951年〜 ミシン卸から輸出専業メーカーへ——円高と労使対立が鍛えた低価格量産
- 1961年 資本金20百万円にて船井電機を設立
- 1964年 生産会社として中国船井電機を設立
- 1973年 変動相場制移行を機とした海外工場建設と生産の国外移転 ドル建て輸出の会社が円高に耐えるには——船井電機は工場そのものを国外へ動かした
- 1976年 形式上の存続会社と合併
- 1976年 本社を移転
- 1987年 輸出専業からの転換——製パン器とVTRによる国内市場参入 円高で韓国製が日本へ来るなら、こちらも国内で売れるか——26年目の方針転換
- 1987年 輸出専業から国内市場に参入
ミシン商会から生まれた輸出専業の家電メーカー
1951年、24歳の船井哲良氏が大阪でミシンの卸商・船井ミシン商会を興した。ミシン輸出の伸び悩みを受けて社名を船井軽機工業に改め、1959年からは輸出用トランジスタラジオの生産を始めた。1961年8月、このラジオ部門を分離して大阪市生野区に資本金2,000万円で船井電機株式会社を設立した。設立の2年前からラジオを手掛けていたため、創業と同時に量産と輸出の体制が動いていた。製品を国内ではほとんど売らず、米欧の大手メーカーや流通業者へのOEM(相手先ブランドによる生産)供給に徹する輸出専業メーカーとして歩み始めた会社である。 [1][2][3][4]
- 週刊東洋経済 2002/12/14号
- [1]船井哲良氏は24歳で船井ミシン商会を設立し、34歳で船井電機を創業した(1927年生まれ)
- [2]1951年に船井哲良氏がミシンの卸問屋・船井ミシン商会を創業し、のちに船井軽機工業へ改称した
- 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
- [3]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1961年8月に大阪市生野区に資本金20百万円で船井電機株式会社を設立
輸出先の開拓は早かった。1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に進出し、1963年にはオープンリール式のテープレコーダーを製作、そこから派生した8トラックカーステレオでは世界最大の生産台数を確保した。1964年には広島県深安郡(現福山市)に生産子会社の中国船井電機を設立した。取引先はGE、フィリップスといった米欧の大手電機メーカーや、シアーズ・ローバックなどの大手流通業者で、「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にOEM供給で成長した。トランジスタラジオは、この米欧大手向けOEMを中心に売れ行きを伸ばした。 [5][6][7][8]
- 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
- [5]1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に海外進出した
- [6]1963年にオープンリールのテープレコーダーを製作し、8トラックカーステレオで世界最大の生産台数となった
- 有価証券報告書【沿革】
- [7]1964年3月に広島県深安郡(現福山市)に生産会社の中国船井電機を設立
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [8]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した
- 週刊東洋経済 2002/12/14号
- [1]船井哲良氏は24歳で船井ミシン商会を設立し、34歳で船井電機を創業した(1927年生まれ)
- [2]1951年に船井哲良氏がミシンの卸問屋・船井ミシン商会を創業し、のちに船井軽機工業へ改称した
- 証券アナリストジャーナル 1999年3月号
- [3]設立2年前の1959年から輸出用トランジスタラジオを手掛けていた
- [5]1960年に米軍統治下の沖縄へ最初に海外進出した
- [6]1963年にオープンリールのテープレコーダーを製作し、8トラックカーステレオで世界最大の生産台数となった
- 有価証券報告書【沿革】
- [4]1961年8月に大阪市生野区に資本金20百万円で船井電機株式会社を設立
- [7]1964年3月に広島県深安郡(現福山市)に生産会社の中国船井電機を設立
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [8]1961年の創業以来「低価格、安定した品質、納期の正確さ」の3点を武器にGE・フィリップス・シアーズ・ローバックなどへOEM供給した
ニクソンショックが生んだ船井生産方式と減量経営
1971年のニクソンショックによる円高は、ドル建て輸出に依存する船井電機を直撃した。1973年の変動相場制移行を受けて、船井哲良社長は為替対策として海外工場の建設を急ぎ、1960年に進出した沖縄に続いて台湾へ工場を置き、さらにシンガポール、ドイツ、イギリスへ生産・販売の拠点を広げた。1976年には、円高に苦しむさなか、約100人の幹部社員をトヨタグループの工場へ3カ月間の研修に送り出した。この研修から、かんばん方式を原型に独自の改良を重ねた生産方式FPS(フナイ・プロダクション・システム)が生まれた。ラインの速度をあえて作業員の限界近くまで上げ、隠れた問題点を表面化させて毎日改善する手法で、後の低価格量産体質の土台となった。 [9][10][11][12]
- 日経ビジネス 1999/11/15号
- [9]1971年のニクソンショックによる円高で大打撃を受け、変動相場制移行を機に海外工場進出で対応した
- 週刊東洋経済 2002/12/14号
- [10]1976年に幹部社員約100人をトヨタグループ(日野自動車と報じた記事とトヨタ自動車と報じた記事がある)の工場へ3カ月間研修に派遣し、FPSが生まれた
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [11]FPSはラインを限界速度で動かして問題点を表面化させ改善を繰り返す生産方式
- 船井電機 会社説明会録
- [12]沖縄(昭和35年=1960年)に続いて台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスへ工場を展開した。台湾進出の具体的な年は一次資料で確認できない
生産の海外移転は国内の人員削減を伴い、労働組合との対立は20年に及んだ。1960年代に国内7工場・製造部門1650人を抱えた体制は、法廷闘争を経て1990年代初めに3工場・約300人まで縮小した。この間の1976年、株式の額面変更のため形式上の存続会社と合併し、本店を大阪府大東市に移した。1980年にはドイツ・ハンブルクに欧州の販売拠点FUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)を設立した。事業の顔ぶれも動き続けた。ビデオカメラ、レーザーディスク、エアコンなど参入と撤退を繰り返し、一度は高いシェアを取っても大手ブランド品と低価格のアジア製品に挟まれて退く経験を重ねた。 [13][14][15]
- 週刊東洋経済 2002/12/14号
- [13]1960年代に国内7工場・製造部門社員1650人を抱え、労組との20年に及ぶ対立を経て1990年代初めに国内3工場・製造部門社員300人に縮小
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1976年6月に額面変更のため形式上の存続会社と合併し、同年9月に本店を大阪府大東市に移転
- [15]1980年6月にドイツ・ハンブルクに販売拠点FUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立
- 日経ビジネス 1999/11/15号
- [9]1971年のニクソンショックによる円高で大打撃を受け、変動相場制移行を機に海外工場進出で対応した
- 週刊東洋経済 2002/12/14号
- [10]1976年に幹部社員約100人をトヨタグループ(日野自動車と報じた記事とトヨタ自動車と報じた記事がある)の工場へ3カ月間研修に派遣し、FPSが生まれた
- [13]1960年代に国内7工場・製造部門社員1650人を抱え、労組との20年に及ぶ対立を経て1990年代初めに国内3工場・製造部門社員300人に縮小
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [11]FPSはラインを限界速度で動かして問題点を表面化させ改善を繰り返す生産方式
- 船井電機 会社説明会録
- [12]沖縄(昭和35年=1960年)に続いて台湾・シンガポール・ドイツ・イギリスへ工場を展開した。台湾進出の具体的な年は一次資料で確認できない
- 有価証券報告書【沿革】
- [14]1976年6月に額面変更のため形式上の存続会社と合併し、同年9月に本店を大阪府大東市に移転
- [15]1980年6月にドイツ・ハンブルクに販売拠点FUNAI ELECTRIC TRADING(EUROPE)GmbHを設立
国内参入のつまずきと中国生産・プリンターOEMへの集約
プラザ合意後の円高が進んだ1987年、船井電機は創業以来の輸出専業を転換し、家庭用製パン器とVTRで国内市場に参入した。NIES(新興工業経済群)製品に競り勝つ低価格が注目を集め「ジャパNIES」と呼ばれ、1989年上半期には据え置き型VTRで国内シェア7%を取ったとされた。しかし参入直後に現金問屋や通信販売業者へ製品を流して家電量販店から締め出される失敗を犯し、ハイファイ機など高級機種へ需要が移ると価格一本やりの限界も表れた。1990年6月期の国内売上高は当初見込みの200億円から150億〜170億円へ下方修正され、国内比率30%を掲げた中期計画は事実上見直しに追い込まれた。 [16][17][18]
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [16]1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化して国内市場に参入した
- [17]1989年上半期に据え置き型VTRで国内シェア7%を取ったと言われた
- [18]1990年6月期の国内売上高を200億円見込みから150億〜170億円へ下方修正し、国内比率30%の中期計画は事実上見直しとなった
1992年6月期には欧州のダンピング課税を受けて英国工場を閉鎖し、売上高は前年比25%減、経常利益は85%減と赤字寸前まで落ち込んだ。VTRの生産は中国・東莞へ、テレビデオ(テレビ・VTR一体型)はマレーシアへ移し、1992年3月には広東省での委託加工を担う嘉財実業有限公司を香港に設立した。部品も香港の調達センター経由で金額の9割以上をドル建てで調達し、1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した。1992年発売のテレビデオ「画2マン」シリーズは実売5万円を切る価格で量販店の売れ筋となり、1993年6月期の経常利益は前期比8倍近い23億円へ回復した。 [19][20][21][22]
- 日経ビジネス 1999/11/15号
- [19]欧州でVTRがダンピング課税対象となり1992年に英国工場を閉鎖、1992年6月期は売上高25%減・経常利益85%減
- [21]1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
- 有価証券報告書【沿革】
- [20]1992年3月に中国広東省で委託加工を行うため香港に嘉財実業有限公司を設立
- 日経ビジネス 1994/2/14号
- [22]1992年発売のテレビデオ「画2マン」シリーズが店頭実売5万円を切りヒットし、1993年6月期の経常利益は前期比8倍近い23億円に回復
次の柱はプリンターであった。AV機器で培ったメカトロニクス技術をもとに1990年代半ばからインクジェットプリンターの研究開発に着手し、米IBMから分離独立したプリンター専業のレックスマーク・インターナショナルと組んだ。1997年6月に発売された船井製の第1号機「1100」は、大手3社の最安機が200ドル前後の市場に、同等の印刷性能で100ドルを切る価格で登場し、2年余りで約480万台を出荷するインクジェットプリンター史上最大のヒット機種となった。1996年6月期から4期連続の増収増益となり、製品の9割を中国・マレーシアで生産し販売の8割を北米が占める収益構造が固まった。 [23][24][25]
- 日経ビジネス 1999/11/15号
- [23]レックスマーク・インターナショナルは1991年に米IBMから分離独立したプリンター専業メーカー
- [24]1997年6月発売のレックスマーク向け船井製プリンター第1号機「1100」が100ドルを切る価格で登場し、2年余りで約480万台出荷のヒットとなった
- [25]1996年6月期から4期連続増収増益、製品の9割を中国・マレーシアで生産し北米販売比率8割
- 日経ビジネス 1990/3/12号
- [16]1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化して国内市場に参入した
- [17]1989年上半期に据え置き型VTRで国内シェア7%を取ったと言われた
- [18]1990年6月期の国内売上高を200億円見込みから150億〜170億円へ下方修正し、国内比率30%の中期計画は事実上見直しとなった
- 日経ビジネス 1999/11/15号
- [19]欧州でVTRがダンピング課税対象となり1992年に英国工場を閉鎖、1992年6月期は売上高25%減・経常利益85%減
- [21]1995年までにエアコンを除く白物家電から撤退した
- [23]レックスマーク・インターナショナルは1991年に米IBMから分離独立したプリンター専業メーカー
- [24]1997年6月発売のレックスマーク向け船井製プリンター第1号機「1100」が100ドルを切る価格で登場し、2年余りで約480万台出荷のヒットとなった
- [25]1996年6月期から4期連続増収増益、製品の9割を中国・マレーシアで生産し北米販売比率8割
- 有価証券報告書【沿革】
- [20]1992年3月に中国広東省で委託加工を行うため香港に嘉財実業有限公司を設立
- 日経ビジネス 1994/2/14号
- [22]1992年発売のテレビデオ「画2マン」シリーズが店頭実売5万円を切りヒットし、1993年6月期の経常利益は前期比8倍近い23億円に回復