1945年の終戦時に18歳だった船井哲良は、自分で商売を立ち上げることを決意し、ミシン事業に注目した。船井哲良の両親がミシン関連の事業に従事していたこともあり、1951年に「船井ミシン商会」を創立して卸売りに参入した。
しかし、開業直後に不渡手形の事故に遭うなど、順風満帆とは言えなかった。ただし、不渡の経験から現金の重要性を痛感し、輸出事業であれば「輸出時に代金回収できる」ことを知り、ミシンの輸出に注力することを決めた。
輸出は順調だったものの、競合を含めて、日本からのミシンが大量にアメリカに輸出されたことで貿易摩擦が発生するなど、ミシン輸出を取り巻く環境は厳しくなっていった。