日本国有鉄道分割・民営化の提言と、JR旅客6社・JR貨物1社への移行

民営化か、分割・民営化か——国鉄の外に置かれた委員会が出した結論

時期 1985年7月
意思決定者(推定) 杉浦喬也・亀井正夫 総裁・日本国有鉄道再建監理委員会 委員長
論点 経営形態と長期債務の処理
概要
1985年7月26日、日本国有鉄道再建監理委員会が国鉄改革に関する意見を内閣総理大臣へ提出し、旅客6分割と貨物全国1社への分割、および民営化を提言した。国鉄は1986年11月の関連法成立を経て、1987年4月1日にJR旅客6社とJR貨物へ移行した。
背景
1976年度と1980年度の二度にわたり5兆3千億円の長期債務が棚上げされたのちも赤字は拡大し、長期債務残高は1975年度末の6兆8000億円から1985年度末に23兆6000億円へ達する見込みとなっていた。1984年度の純損失は1兆6504億円であった。
内容
委員会は、全国一元的組織である限り運賃・賃金・主要人事・投資の決定権を本社に留保せざるを得ず、公社制度を改めて民営化するだけでは解決され難いとみた。旅客は本州3グループと3島、貨物は全国1社とし、余剰人員約93,000人と長期債務37兆3000億円の処理策を併記した。
含意
経営形態を決める場は第二次臨時行政調査会、自民党の国鉄再建小委員会、再建監理委員会と国鉄の外へ移り、委員会と対立した高木文雄氏、仁杉巌氏の二代の総裁が更迭された。実行は運輸事務次官から送り込まれた杉浦喬也総裁が担った。
筆者の見解

決めた者と、引き受けた者

1985年7月26日に意見書を受け取ったのは内閣総理大臣であって、国鉄の総裁ではなかった。経営形態を決める場は第二次臨時行政調査会からの4年で国鉄の外へ移り、監理委員会と対立した高木文雄氏と仁杉巌氏の二代の総裁が更迭されている。実行を担った杉浦喬也総裁は運輸事務次官からの就任で、みずから設計に加わった案を配ったわけではない。38年の歴史を閉じる判断を当事者が下せなかったこと自体が、全国一元的組織の帰結だとみることができる。

委員会が国民負担として示した16兆7000億円は、非事業用用地5兆8000億円と出資株式6000億円の売却を前提に置いた数字で、地価と株価の変動に耐える設計ではなかった。実際の負担は1996年時点で約20兆円へ膨らんでいる。雇用でも、職員とその家族を路頭に迷わせないという原則を掲げながら1047人が解雇され、17の地方労働委員会が不当労働行為と認定した。分割の論理の徹底ぶりと後始末の詰めの甘さは、分けて読む必要がある。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

二度の債務棚上げののちも止まらない赤字

国鉄の経営は1964年度に単年度赤字へ転落し、その後に立てられた再建対策はいずれも中途で挫折した。1976年度と1980年度の二度にわたり、累積欠損額に相当する5兆3千億円の長期債務が棚上げされ、後のない計画と呼ばれた経営改善計画が実施されたが、事態は好転しなかった。毎年の国庫助成も1985年度予算で6025億円に上ったものの、赤字額を償うには届かなかった[1][2]

不足分は財政投融資と鉄道債券の発行による借入金で埋められた。その結果、1975年度末に6兆8000億円であった長期債務残高は、1985年度末に23兆6000億円へ達する見込みとなった。損益の側にも歯止めはかからず、1984年度は営業収入3兆3898億円に対し営業損益が1兆8193億円の赤字、純損益が1兆6504億円の赤字であった。借入金による資金繰りは一時しのぎにすぎなかった[3][4]

経営形態を決める場が国鉄の外へ移る

国鉄は自ら再建計画を立て、運賃の大幅な値上げを計画したが、ことごとく失敗した。1981年3月、鈴木内閣は第二次臨時行政調査会を開き、国鉄・コメ・健保の3Kを政策課題に据えて、国鉄再建計画を臨調の手に委ねた。臨調は三公社五現業と特殊法人のあり方を審議する第四部会を設け、部会長には加藤寛慶応大教授が就いた。第四部会は当初から国鉄の再建は分割・民営化しかないと考え、臨調は1982年7月末に分割・民営化の基本答申を打ち出した[5]

自民党も1982年2月、党内に国鉄再建小委員会(三塚委員会)を置いた。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことに端を発したもので、委員会は甲府駅への抜き打ち視察や全国の現場管理者へのアンケート調査を行い、分割・民営化論へ傾斜した。中曽根内閣は1983年6月10日、亀井正夫住友電気工業会長を委員長とする日本国有鉄道再建監理委員会を発足させた。委員会は国鉄当局と対立を重ね、高木文雄氏、仁杉巌氏の二代の総裁が更迭された[6][7]

決断

民営化するだけでは解決され難い

1985年7月26日、監理委員会は国鉄改革に関する意見を内閣総理大臣へ提出した。委員会がみずから最終意見と呼んだ文書であり、危機的状況にある国鉄の事業を再生させ得る唯一の方策は現行経営形態を改めて分割・民営化することであり、しかも直ちにこの改革を断行する必要がある、と提言した。現行制度の枠内での手直しという従来の延長線上の対症療法では、もはや国鉄事業の再建は不可能である、と断じている[8][9]

論の中心は、なぜ民営化ではなく分割・民営化なのかに置かれた。委員会は、全国一元的組織の事業体である以上、いかなる徹底した分権化を図ろうとも、運賃の決定権、賃金や労働時間などの労働条件の決定権、主要人事の任免権、基本的施設への投資の決定権は本社に留保せざるを得ないとみた。全国を事業区域とする巨大組織のもとで事業運営が続く限り、公社制度を改めて民営化するだけでは依然として解決され難い、というのが結論であった[10][11]

分割によらず分権化で足りるという見解には、国鉄自身の経験が反証に使われた。1957年、地域ごとの総合性と独自性を重んじた経営管理を目指し、本社から大幅に権限を委譲して支社制度が発足した。しかし運賃や労働条件の決定権が本社に留保された結果、経営環境の変化に弾力的に対応できず、1970年に廃止された。分権化では経営責任が曖昧で不徹底になる、という見立ては、この13年の実地に支えられていた[12][13]

6分割の設計と、余剰人員・長期債務の見積もり

分割の形は、三つの案を斥けた末に決まった。全国30の鉄道管理局を基礎とする案は技術上の問題が大きく、収益格差も著しい。線区区分で収益格差を平準化する案は、旅客の流動実態に合わなくなる。新幹線全体を一事業体とし在来線を地域ブロックで分ける案は、安定経営の基盤となる路線を持たない事業体を残す。旅客流動との適合を重んじた6分割が選ばれ、グループ内完結度は本州3グループで98%、3島で95〜99%であった[14][15]

貨物は旅客から切り離し、全国一元の1社とした。客貨一体の運営体制のもとでは経営責任が不明確となり、貨物部門の合理化・効率化を遅らせ、経営全体にも悪影響を及ぼしていたためである。新会社の形は、競争関係にある大手私鉄等と同様の株式会社形態が最も適切としながら、国が強制的に設立する特殊会社とした。当初は国鉄の全額出資で設立し、諸条件が整い次第、逐次株式を処分して早期に純民間会社へ移す設計であった[16][17]

人員の見積もりも同じ意見書に置かれた。1987年度首の在籍職員数は約276,000人、新事業体の適正要員規模は約183,000人で、余剰人員は約93,000人に上る。解雇による一括処理は斥けられた。公的部門の雇用慣行から見て、職員とその家族を路頭に迷わせることがあってはならないためである。移行前に2万人程度の希望退職を見込み、移行時に旅客鉄道会社が約32,000人を受け入れ、残る約41,000人を旧国鉄に3年を限度で所属させる配分とした[18][19]

長期債務等の総額は37兆3000億円と見積もられた。新事業体が11兆4000億円を引き継ぎ、25兆9000億円を旧国鉄で処理する。旧国鉄の自主財源は、非事業用用地2600ha程度の売却収入5兆8000億円、出資株式の売却収入6000億円、新幹線保有主体からの収入2兆8000億円で、これらを充ててもなお16兆7000億円が残る計算であった。委員会はその残額について、何らかの形で国民に負担を求めざるを得ない、と書き置いている[20][21]

結果

実行にあたった最後の総裁

実行の役は国鉄の側へ戻された。運輸事務次官を経て1985年6月に第10代総裁へ就いた杉浦喬也氏は後年、就任当時の国鉄内部には改革の意識が乏しく、大多数の職員は現状維持を望んでいた、とりわけ労働組合の力が強く分割・民営化に反対する勢力が幅をきかせていた、と振り返っている。杉浦総裁は新聞・雑誌・社内機関誌など使える限りの媒体を通じて、分割・民営化が急を要することを国鉄の内外へ訴えた[22][23]

説得は現場にも向けられた。杉浦総裁はみずから現場を歩いて職員一人ひとりと話し、職員の家族へは将来の生活は必ず守ると手紙を書いた。1986年11月に国鉄改革関連法が成立し、1987年4月1日、国鉄はJR旅客6社とJR貨物へ移った。前日の3月31日、杉浦総裁は幹部職員を前に、激動の中に身を置いて新しい鉄道をつくり上げたことに誇りを持ってほしい、改革に示した情熱と行動力をもってすれば必ず道は開ける、と述べている[24][25]

移行後に残された債務と雇用

長期債務は監理委員会の見積もりに近い割り振りで配分された。移行時点で残った累積債務は約37兆円であり、JR各社が計4兆7000億円を直接承継し、新幹線保有機構が5兆7000億円を負担し、残る25兆5000億円を国鉄清算事業団が引き継いだ。1988年1月には、土地収入等の自主財源を充ててもなお残る事業団の債務等については最終的に国において処理する、と閣議決定された。事業団の理事長には杉浦氏が就いた[26]

財源の前提は崩れた。清算事業団は用地と株式の売却で債務を減らす計画であったが、1987年10月の緊急土地対策要綱により旧国鉄用地の売却にも厳しい制限が加えられ、続くバブル経済の崩壊で土地と株式の売却は思うように進まなかった。当初13兆8000億円と見込まれた国民負担は、1996年時点で約20兆円へ膨らんだ。杉浦氏は、国鉄改革のスキーム自体は正しかったとしつつ、計画が大幅に狂ったことは残念であると述べている[27][28]

雇用の側には別の結末が残った。清算事業団の発足した1987年4月1日時点の再就職未定者は7628人で、対策期限の切れた1990年4月1日付で職員1047人が解雇され、うち約9割が国労組合員であった。国労が全国17の地方労働委員会へ申し立てた分は、いずれも不当労働行為と認定された。稲田芳朗国労中央執行委員長は、最後まで反対したのは組織の今後について考え方を示すためだったと述べている[29][30][31]

国鉄改革法案の審議では、採用に当たり労働組合の所属によって差別しないよう留意する旨が参議院の付帯決議に明記されていた。分割・民営化そのものの評価は、これとは別に早い時期で定まった。日本産業史は1994年の時点で、行政改革の3Kのなかでも改革が最も成功した例に挙げられるだろうと記している。1993年9月にはJR東日本が上場し、純民間会社への移行という設計の入口が移行から6年で開いた[32][33]

出典・参考
  • 国鉄改革(日本国有鉄道再建監理委員会、1985年)
  • 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
  • 日経ビジネス 1996年7月15日号
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度

この決断を下した社長 杉浦喬也

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