常磐興産石炭生産部門の新会社への営業譲渡と、常磐炭礦から常磐興産への商号変更
切り出した新会社に「常磐炭礦」を名乗らせる——中村豊社長が選んだ分離の向き
- 概要
- 1970年5月、常磐炭礦株式会社は新常磐炭礦株式会社を設立した。同年7月、石炭生産部門をこの新会社へ営業譲渡し、新会社は商号を常磐炭礦株式会社へ改める。譲渡した側は常磐湯本温泉観光株式会社を合併したうえで、商号を常磐興産株式会社と改めて再発足した。一連の手続きは中村豊社長のもとで進み、社名は掘る側と掘らない側で入れ替わった。
- 背景
- 戦後のエネルギー政策は石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価への非難のなかで石炭鉱業は本格的な合理化を迫られた。閉山費用は1965年末に2,000億円の異常負債となって各社の経理を圧迫し、石炭鉱業審議会は債務の一部を財政資金で肩代わりすべきだと答申している。常磐炭田でも中小炭鉱から閉山が進んでいた。
- 内容
- 採掘そのものを新会社へ移し、温泉観光・港運・機械製作といった非石炭事業を本体に残した。本体は常磐湯本温泉観光を合併して観光施設を直営に取り込んでいる。石炭を掘り続ける新会社に元の社名「常磐炭礦」を渡し、掘るのをやめた側が「常磐興産」という新しい名を引き受けた。
- 含意
- 分離の9カ月後、1971年4月に磐城砿業所が閉山し、一つの鉱業所の閉山としては国内最大の4,702名が解雇された。国から受けていた助成金の返済が優先され、観光施設への新規投資は14年間止まっている。1985年9月、常磐興産は外へ出したはずの常磐炭礦を吸収合併した。
社名を渡したことの意味
掘るのをやめた側が新しい名を引き受け、掘り続ける側が「常磐炭礦」を名乗った。石炭を捨てて身軽になるだけが狙いなら、この向きは逆になる。温泉観光と港運を抱えた本体が元の名を保ち、赤字の採掘に新しい名を与えるほうが、取引先にも金融機関にも通りやすい。中村豊社長は、炭田を開いた二社の来歴が付いた社名を採掘会社へ持たせ、自らは実績のない名で市場に向き合う道を採った。
ただ、切り離しは負担からの解放にはならなかった。助成金の返済が優先された14年のあいだ観光施設への投資は止まり、入場者数は155万人から98万人へ落ちている。分離の9カ月後には4,702名を解雇する閉山が来て、1985年には外へ出したはずの常磐炭礦を合併し直した。閉山の後始末は、最後まで同じ会社の負担として残った。分離が動かしたのは負担の所在ではなく、会社が何を名乗るかである。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
本州最大の炭田を掘る会社
常磐炭礦株式会社は、1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して資本金3,150万円で発足した。二社はいずれも、この炭田を最初に開いた会社である。合併後は中郷無煙炭礦と神ノ山炭礦を吸収し、出炭は1945年度の67万トンから1949年度に140万トン、1952年度には180万トンへ伸びる。産出炭は国鉄やセメント、暖房用に売れる一般炭で、需要先の幅が広かった[1]。
掘る場所は年を追って深くなった。常磐炭田で最も深い海面下638メートルまで達し、深部開発で膨らむ電力をまかなうため、1954年6月には平発電所へ5,000キロワットの火力発電機を増設して合計1万6,000キロワットとしている。炭田全体でも1951年には炭坑数83、就業者およそ2万2,000人を数えた。石炭は、掘り進むほど設備と人手を抱え込む[2][3]。
エネルギーの主役から降ろされた石炭
『日本産業史』は戦後の石炭について、エネルギー政策が石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価の非難のなかで本格的な合理化の時代に入ったと書いている。1955年の石炭鉱業合理化臨時措置法にもとづく炭鉱整備事業団が老朽炭鉱の買い上げに動き、1962年には首相特命の石炭鉱業調査団が買いつぶしへ方針を変えた。スクラップ予定は出炭1,200万トン、職を失う人口は7万人と見積もられている[4][5]。
合理化の代償は借金として残った。退職手当を中心とする閉山費用は過去の累積赤字とあわせ、1965年末には2,000億円の異常負債となって石炭各社の経理を圧迫する。1960年代半ば、石炭鉱業審議会は債務の一部を財政資金で肩代わりすべきだと答申した。石炭関連法にもとづき投じられた財政資金は、予算ベースで名目4兆円にのぼったとされる。石炭は、国の支えなしには畳むこともできない産業になっていた[6][7]。
決断
1970年夏、二カ月で入れ替えた社名
1970年5月、常磐炭礦株式会社は新常磐炭礦株式会社を設立した。同年7月、石炭生産部門をこの新会社へ営業譲渡し、新会社は同じ月に商号を常磐炭礦株式会社へ改める。譲渡した側は常磐湯本温泉観光株式会社を合併したうえで、商号を常磐興産株式会社と改めて再発足した。設立・営業譲渡・商号変更・合併の四つを、二カ月のあいだに重ねている[8]。
新会社が引き受けたのは、採掘の工程だけだった。本体には、1964年9月設立の常磐湯本温泉観光が営む温泉観光施設のほか、1953年設立の双葉貨物自動車と1961年設立の小名浜港石炭荷役による港運、1963年設立の常磐製作所による機械製作が残る。観光会社は合併によって直営に組み込まれた。石炭を運ぶ事業も、石炭の機械を作る事業も手元に置いたまま、掘る工程だけを外へ出している[9][10]。
祖業に元の名を渡す
目を引くのは、社名の行き先である。石炭を掘り続ける新会社が「常磐炭礦」を名乗り、掘るのをやめた本体が「常磐興産」という新しい名を引き受けた。通常の分離では、残る側が元の名を保ち、切り出す側に新しい名を与える。1967年5月に社長へ就いた中村豊氏は、その逆の向きを選んだ[11]。
分離という手続き自体は、常磐炭礦の独創ではない。石炭政策のもとでは、閉山炭鉱の採炭事業の一部を引き継ぐ第二会社と、石炭会社の多角化・転身によって生まれた系列会社とが離職者の主要な受け皿として想定され、系列会社への転身は政策上も推奨されていた。1970年の分離は、国が用意した縮小の道筋の内側にある。1968年から1972年は、石炭産業が縮小均衡期と呼ばれた時期である[12]。
結果
分離の9カ月後に来た磐城砿業所の閉山
1971年4月29日、常磐炭礦は福島県いわき市の磐城砿業所を閉山した。分離のわずか9カ月後で、解雇された従業員は4,702名、一つの鉱業所の閉山としては国内最大にあたる。労使は2月中旬に就職対策本部「磐城砿業所転進対策本部」を設け、閉山の2カ月以上前から求人情報を集めている。本部が掲げた基本課題は、大口求人の確保、高齢者雇用の促進、地元企業求人の開拓、県外就職の説得の4点である[13]。
離職者の行き先は分かれた。16カ月後までに求職者の91%が再就職し、993名は第二会社である西部炭礦の新炭鉱へ移り、2,612名は他産業に職を求めている。東京・千葉・神奈川を中心に県外へ移った者も1,115名を数えた。ただ、地元に残る道も長くは続かない。1976年には常磐炭鉱が閉山していわき市内から坑口がなくなり、福島県側の採炭は分離から6年で終わった[14][15]。
助成金の返済が止めた14年
分離で帳簿から外れたのは採掘の設備と人員であって、国への返済義務ではなかった。週刊東洋経済によれば、常磐ハワイアンセンターは開業後の14年間にわたって新規の投資を凍結している。炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済を優先せざるをえなかったためで、これが響いて入場者数は低迷し、1970年の155万人が1983年には約98万人まで落ち込んだ[16]。
本体は本体で、炭鉱時代の設備と人員に行き先を与える合併を重ねた。1975年に常磐紙業、1982年に常磐コンクリート工業を吸収し、1978年にはいわき紙器を設立している。そして1985年3月、常磐炭礦は茨城地区の終掘をもって事業を廃止し、同年9月、常磐興産はその常磐炭礦を吸収合併した。外へ出した会社を15年後に引き取り、閉山の後始末も同じ帳簿へ戻した[17][18]。
- 常磐興産 有価証券報告書【沿革】
- 常磐興産 公式サイト「沿革」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「常磐炭礦」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「エネルギー産業-石油と電力の結婚」
- 嶋﨑尚子「石炭産業の収束過程における離職者支援」(日本労働研究雑誌 No.641、2013年12月)
- 国土交通省東北地方整備局磐城国道事務所「近代化を支えた常磐炭田」
- 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」