常磐炭田は福島県の浜通りから茨城県北部にかけて広がる炭田で、九州の筑豊や北海道の石狩と比べれば規模は小さい。ただ一点だけ、他のどの炭田も持たない条件があった。東京にいちばん近い。この立地が、明治期にこの土地へ資本を呼び込んだ。1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称する。1895年5月には入山採炭株式会社が創立された。『会社銀行八十年史』は前者を浅野総一郎氏が、後者を白井遠平氏が創立したものと記し、両社をそろって『常磐炭田の開拓者』であり炭田の二大会社と位置づけている。 [1][2][3][4][5]
創立の年については資料が割れる。『会社銀行八十年史』は磐城炭礦の前身を『明治十六年一月』すなわち1883年1月の創立と書き、同社の公式沿革は1884年10月とする。1年の差は、発起の時点を取るか登記の時点を取るかの違いから生じたものであろう。どちらを取るにせよ、この二社が別々に坑を開き、別々に採炭の技術を蓄えた60年が先にある。首都に近いという地の利は、裏を返せば同じ市場を二社で奪い合う条件でもあった。競い合っていた両社が一つに合流するのは1944年であり、合流させたのは経営判断ではなく戦争だった。 [6][7][8]
1944年3月、磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社が合併し、常磐炭礦株式会社が発足した。資本金3,150万円、本店は東京都中央区銀座に置いている。産炭地は福島県と茨城県にあるが、本店は東京から動かさなかった。同年9月には両社の子会社であった神ノ山炭礦株式会社と中郷無煙炭礦株式会社を吸収合併し、系列の炭礦もまとめて一社の下に入れている。『会社銀行八十年史』はこの一連の統合をもって、同社が『合併後両社の子会社である中郷無煙炭砿、神ノ山炭砿を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となつた。』[引用元]と記した。二社が60年かけて競った結果ではない。戦時下の増産要請が、同じ市場を奪い合ってきた両社を一社にまとめた。 [9][10]
束ねたところで、出炭は増えなかった。同書は戦争末期の常磐炭礦について『極度の資材難と労務給源の枯渇に悩みながら、創設以来の懸案である排水計画と坑道の整備を行いつつ増産に努めた』[引用元]と書き、終戦とともに出炭が著しく減ったと続ける。創設以来の懸案が排水だったという一行は、後の展開に効いてくる。掘り進むほど坑内に水が出て、その水を汲み上げる費用が採算を削る。しかも常磐炭田の湧水は温かった。地表へ汲み上げれば、それは温泉である。会社が半世紀にわたって費用として処理し続けたその湯が、のちに主力商品へ変わる。 [11]
敗戦直後の炭鉱は壊滅的だった。『日本産業史』によれば、1945年11月の全国出炭は55万4,000トンと戦時中の約1割に落ち込んでいる。これを引き上げるために採られたのが傾斜生産方式で、炭鉱向けの鋼材割当を増やし、その見返りに鉄鋼向けの配炭を増やすという相互増配の仕組みだった。復興金融金庫からは設備328億円・運転145億円の計473億円が炭鉱に流れ、これは1948年度末の復金融資残高の36%にあたる。復興に配る資材と資金は、まず石炭へ回された。常磐炭礦もその配分を受ける側にいた。 [12][13]
常磐炭礦の回復は速かった。『会社銀行八十年史』は出炭を1945年度の67万トンから1949年度に140万トン、1952年度には180万トンへ引き上げたと記録する。1949年5月には東京証券取引所へ上場し、同年12月に資本金を1億円へ増額した。産出したのは国鉄・セメント・暖房用に広く売れる一般炭で、1953年末には茨城砿業所で払面250メートルから280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を行っている。1949年11月の鹿島坑を皮切りに選炭場を6か所築き、鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出すまでになった。技術の面でこの会社は先頭にいた。 [14][15][16][17]
常磐炭礦は常磐炭田で最も深いところを掘った。最深部は海面下638メートルに達し、炭質は深部へ行くほど良くなる一方で、揚炭と排水に使う電力の需要が増えた。同社は1954年6月に既設の平発電所へ5,000キロワットの火力発電機を1基増設して合計出力1万6,000キロワットとし、その燃料に3,500カロリー級の裾物炭を使った。低品位燃料を使う発電装置としては国内で最初のものだったという。深く掘るための電気を、深く掘って出た売り物にならない石炭で起こす。坑から出たものを坑の次の工程へ回すこの段取りは、以後もこの会社に繰り返し現れる。 [18]
深部採掘には代償があった。坑内に大量の温泉が湧き、その排水に費用がかかる。石炭を掘るための会社にとって、温水は処理すべき厄介物にすぎない。週刊東洋経済は2002年の記事で、この温泉を炭鉱にとっての『負の財産』と表現している。1960年代に入ると石炭そのものの立場が変わった。エネルギー政策は石炭中心から石油と電力へ比重を移し、高い炭価への批判のなかで業界は本格的な合理化を迫られる。掘るほど水が出る深い坑は、斜陽産業のなかでも条件の悪い部類に入った。閉山は時間の問題であり、残るのはそこで働く1,000人余りの行き先だった。 [19]
1964年9月、同社は常磐湯本温泉観光株式会社を設立した。1966年1月、その事業として常磐ハワイアンセンターが開業する。使ったのは坑内から湧く温泉であり、迎え入れたのは職を失う炭鉱労働者だった。ただしこの時点で山が閉じたわけではない。常磐炭礦の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所であり、1966年はまだ合理化による人員整理の途上だった。従業員数は1955年の1万3,428人から1966年には6,878人まで減っており、ハワイアンセンターはその受け皿として開いた施設だった。当時のハワイは庶民に手の届かない旅行先で、そこへ行った気分を味わえる場として人気を集め、1970年には入場者数が155万人を突破する。 [20][21][22][23]
この転換は同社だけの思いつきではない。『日本産業史』のレジャー産業の章は、1950年代後半からのレジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海といった私鉄資本や観光資本が相次いで進出したことを記したうえで、『このほか『北海道炭砿』のように斜陽化した石炭鉱業への支柱を求めて観光事業に乗り出したり』[引用元]と書いている。炭鉱会社が観光へ向かうのは、当時の産業地図では一つの型だった。常磐興産の特異な点は、進出先を選ぶときに自社の坑から出るものを使ったことにある。私鉄が沿線の土地と輸送力を持ち込み、他の炭鉱会社が資本と人員を持ち込んだのに対し、この会社は排水そのものを商品に変えた。 [24]
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|---|---|---|---|---|
| 1884〜1944年首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで | 磐城炭礦社を設立 | ★★ | ||
| 磐城炭礦に商号変更 | ★ | |||
| 入山採炭創立 | ★ | |||
| 磐城炭礦と入山採炭の合併により常磐炭礦を設立 | ★★ | |||
| 神の山炭礦・中郷無煙炭礦を合併 | ★ | |||
| 1945〜1969年傾斜生産の主役として復興を支え、エネルギー革命によって主力を失うまで | 東京証券取引所に上場 | ★ | ||
| 双葉貨物自動車を設立 | ★ | |||
| 小名浜港石炭荷役を設立 | ★ | |||
| 常磐製作所を設立 | ★ | |||
| 常磐湯本温泉観光を設立 | ★★ | |||
| 坑内湧出温泉を用いた常磐ハワイアンセンターの開業 1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月、常磐炭礦が坑内から湧く温泉を使う常磐ハワイアンセンターを開業した。合理化で職を失う炭鉱労働者1,000人余りを受け入れ、観光事業として営業を始めた判断。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1970〜2010年石炭生産部門を切り離し、レジャー会社として自らを定義し直した40年 | 東京証券取引所市場第一部に上場 | ★ | ||
| 石炭生産部門の新会社への営業譲渡と、常磐炭礦から常磐興産への商号変更 1970年5月、常磐炭礦株式会社は新常磐炭礦株式会社を設立した。同年7月、石炭生産部門をこの新会社へ営業譲渡し、新会社は商号を常磐炭礦株式会社へ改める。譲渡した側は常磐湯本温泉観光株式会社を合併したうえで、商号を常磐興産株式会社と改めて再発足した。一連の手続きは中村豊社長のもとで進み、社名は掘る側と掘らない側で入れ替わった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 石炭生産部門を新常磐炭礦に営業譲渡 | ★★ | |||
| 常磐興産に商号変更 | ★ | |||
| 常磐紙業を合併 | ★ | |||
| 常磐コンクリート工業を合併 | ★ | |||
| 常磐炭礦が茨城地区で終掘 | ★★ | |||
| 常磐炭礦を吸収合併 | ★ | |||
| コンベンションホール「ラピータ」を開業 | ★ | |||
| 常磐興産倉庫を合併 | ★ | |||
| 「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に名称変更 | ★ | |||
| 屋外施設「スプリングパーク」を開業 | ★ | |||
| ホテルクレスト札幌を設立 | ★ | |||
| 露天風呂「江戸情話 与市」を開業 | ★ | |||
| 滞在型施設「ウイルポート」を開業 | ★ | |||
| 斎藤一彦 | 屋外施設「スパガーデン パレオ」を開業 | ★ | ||
| 斎藤一彦 | PC事業部門を常磐興産ピーシーに吸収分割 | ★ | ||
| 斎藤一彦 | 包装事業部門を新設分割することにより、常磐パッケージを設立 | ★ | ||
| 斎藤一彦 | 開発事業部門をJKリアルエステートに吸収分割 | ★ | ||
| 斎藤一彦 | 常磐パッケージの全株式を譲渡 | ★ | ||
| 斎藤一彦 | JKリアルエステートを吸収合併 | ★ | ||
| 2011〜2025年二度の震災と感染症を越え、上場企業としての幕を自ら引くまで | 斎藤一彦 | 東日本大震災によりスパリゾートハワイアンズが休業 | ★★ | |
| 斎藤一彦 | ダンシングチームによる全国きずなキャラバンを実施 | ★ | ||
| 井上直美 | スパリゾートハワイアンズがグランドオープン。新ホテル「モノリスタワー」を開業 | ★ | ||
| 井上直美 | 震災後の資本増強で発行した優先株式の消却を進める | ★ | ||
| 西澤順一 | グランピング施設「マウナヴィレッジ」がグランドオープン | ★ | ||
| 関根一志 | 米フォートレス系Ontario合同会社によるTOBの受け入れと、東証スタンダード市場からの上場廃止 2024年9月9日、常磐興産は米フォートレス・インベストメント・グループが組成したOntario合同会社による公開買付けに賛同し、株主への応募推奨を決議した。第一回の買付価格は1株1,650円で、2025年2月19日に東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 関根一志 | 東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止 | ★★ |
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事実根拠:出所(常磐興産)