常磐興産 の歴史

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創業 1884年
創業者 浅野総一郎・渋沢栄一ほか
創業地 福島県いわき市
創業
1884年10月、浅野総一郎氏らが磐城炭礦社を設立した。同社は1893年11月に磐城炭礦へ改称し、1895年5月には白井遠平氏が入山採炭を創立している。常磐炭田は福島県の浜通りから茨城県北部にかけて広がり、筑豊や石狩に比べれば小さいが、東京にいちばん近いという条件だけを持っていた。二社はその同じ市場を60年にわたって奪い合う。合流は1944年3月の合併による常磐炭礦の発足で、合流させたのは経営判断ではなく戦時下の増産要請だった。同年9月には子会社の神ノ山炭礦と中郷無煙炭礦も吸収している。資本金3,150万円、本店は産炭地ではなく東京都中央区銀座に置いた。
決断
坑から出て捨てていたものを、そのまま次の商売の元手にしてきた。常磐炭礦は炭田で最も深い海面下638メートルまで掘り、深部ほど湧く温泉の排水に費用がかかった。1954年6月には売り物にならない3,500カロリー級の裾物炭を燃料に発電機を増設し、深く掘るための電気を掘って出た残りで起こしている。1964年9月に常磐湯本温泉観光を設立し、1966年1月に坑内に湧く湯で常磐ハワイアンセンターを開設した。迎えたのは合理化で職を失う炭鉱労働者1,000人余りで、従業員は1955年の1万3,428人から1966年に6,878人へ減っていた。1970年7月には石炭生産部門を新常磐炭礦へ営業譲渡し、自らは常磐興産と名を改めた。元の社名は祖業を続ける新常磐炭礦が受け継ぎ、譲渡した常磐炭礦のほうが新しい名を取った。
現況
業績が計画を上回るさなかに、75年続いた上場を自ら終えた。最終年度となった2024年3月期は売上高149億円・営業利益13億円で、『経営計画2023』の目標を超えている。制約は数字ではなく設備にあった。1966年に開いた施設は50年を越えて更新期に入り、設備投資は2020年3月期の7億円から2024年3月期には1億円へ縮んだ。買付者へ示した事業計画では、更新投資を実行すると2027年3月期と2029年3月期のフリーキャッシュフローがマイナスへ転じる。2024年9月に米フォートレス系のTOBを受け入れ、11月と12月の公開買付けで約88%の株式が集まり、2025年2月19日に上場廃止となった。坑の中から元手を出してきた会社が、施設の更新にあたっては市場の外から資金を入れる側へ回った。
競合
同じ石炭からの転換でも、外から買った資産で転じたか、坑の中から出た資産で転じたかが分かれた。1950年代後半のレジャーブームには西武・東急・東武・近鉄・南海といった私鉄と観光資本が相次いで参入し、斜陽の石炭鉱業から観光へ出た会社もほかにあった。私鉄は沿線の土地と輸送力を、他の炭鉱会社は資本と人員を持ち込む。常磐炭礦が持ち込んだのは、排水として処理していた湯そのものだった。1973年に石炭生産部門を分離した三井松島は本体を販売・不動産・スーパーの兼業会社へ組み替え、2024年3月には連続M&Aで111年続いた石炭事業から撤退した。常磐興産は紙器・コンクリート・プラスチックを2000年代に分割と譲渡で外し、観光との距離が遠いものから順に整理した。買った事業ではなく坑から出たものだけを残したことが、いわきの施設1か所に会社を集約した。
常磐興産:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年3月期2024年3月期

創業ストーリー 首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで (1884年〜)

首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで

常磐炭田の二大会社、磐城炭礦社と入山採炭

常磐炭田は福島県の浜通りから茨城県北部にかけて広がる炭田で、九州の筑豊や北海道の石狩と比べれば規模は小さい。ただ一点だけ、他のどの炭田も持たない条件があった。東京にいちばん近い。この立地が、明治期にこの土地へ資本を呼び込んだ。1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称する。1895年5月には入山採炭株式会社が創立された。『会社銀行八十年史』は前者を浅野総一郎氏が、後者を白井遠平氏が創立したものと記し、両社をそろって『常磐炭田の開拓者』であり炭田の二大会社と位置づけている。 [1][2][3][4][5]

    • [1]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
    • [2]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった
  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [3]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
    • [4]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [5]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった

創立の年については資料が割れる。『会社銀行八十年史』は磐城炭礦の前身を『明治十六年一月』すなわち1883年1月の創立と書き、同社の公式沿革は1884年10月とする。1年の差は、発起の時点を取るか登記の時点を取るかの違いから生じたものであろう。どちらを取るにせよ、この二社が別々に坑を開き、別々に採炭の技術を蓄えた60年が先にある。首都に近いという地の利は、裏を返せば同じ市場を二社で奪い合う条件でもあった。競い合っていた両社が一つに合流するのは1944年であり、合流させたのは経営判断ではなく戦争だった。 [6][7][8]

    • [1]磐城炭礦社の設立は浅野総一郎氏の提案を受けた渋沢栄一氏ほかを発起人とするもので、渋沢栄一氏が会長に就任した(明治26年11月まで在任)。会社の公式沿革も1884年10月の発起人を「浅野総一郎、渋沢栄一、他」と記す
    • [6]渋沢栄一伝記資料系では磐城炭礦会社の設立を1884年8月とし、公式沿革の1884年10月とも1か月以上ずれる。すなわち1883年1月・1884年8月・1884年10月の三説が併存する
    • [2]入山採炭は1895年創立時の初代社長が盛岡昌純氏で、白井遠平氏が社長に就任したのは1896年。白井遠平氏・川崎八右衛門氏らが発起人であった
  • 常磐興産 公式サイト「沿革」
    • [3]1884年10月に磐城炭礦社が設立され、1893年11月に磐城炭礦株式会社へ改称した
    • [4]1895年5月に入山採炭株式会社が創立された
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [5]磐城炭礦は浅野総一郎氏、入山採炭は白井遠平氏がそれぞれ創立したもので、両社は常磐炭田の開拓者かつ二大会社であった
    • [7]会社銀行八十年史は「明治十六年一月浅野総一郎氏によつて創立された常磐炭砿」と記す(社名は磐城炭礦ではなく合併後の「常磐炭砿」と書かれている)。公式沿革は1884年10月の磐城炭礦社設立とする
    • [8]浅野総一郎の伝記系資料も「明治16年(1883)磐城炭鉱会社を設立した」と1883年創立説を採る。1883年説は会社銀行八十年史の単独記述ではなく、浅野側の伝記に共通する系統である

1944年、戦時統合が常磐炭礦を生む

1944年3月、磐城炭礦株式会社と入山採炭株式会社が合併し、常磐炭礦株式会社が発足した。資本金3,150万円、本店は東京都中央区銀座に置いている。産炭地は福島県と茨城県にあるが、本店は東京から動かさなかった。同年9月には両社の子会社であった神ノ山炭礦株式会社と中郷無煙炭礦株式会社を吸収合併し、系列の炭礦もまとめて一社の下に入れている。『会社銀行八十年史』はこの一連の統合をもって、同社が『合併後両社の子会社である中郷無煙炭砿、神ノ山炭砿を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となつた。』[引用元]と記した。二社が60年かけて競った結果ではない。戦時下の増産要請が、同じ市場を奪い合ってきた両社を一社にまとめた。 [9][10]

  • 有価証券報告書
    • [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった

束ねたところで、出炭は増えなかった。同書は戦争末期の常磐炭礦について『極度の資材難と労務給源の枯渇に悩みながら、創設以来の懸案である排水計画と坑道の整備を行いつつ増産に努めた』[引用元]と書き、終戦とともに出炭が著しく減ったと続ける。創設以来の懸案が排水だったという一行は、後の展開に効いてくる。掘り進むほど坑内に水が出て、その水を汲み上げる費用が採算を削る。しかも常磐炭田の湧水は温かった。地表へ汲み上げれば、それは温泉である。会社が半世紀にわたって費用として処理し続けたその湯が、のちに主力商品へ変わる。 [11]

  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した
  • 有価証券報告書
    • [9]1944年3月、磐城炭礦と入山採炭が合併して常磐炭礦株式会社を東京都中央区銀座に設立、資本金3,150万円
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [10]1944年9月に神ノ山炭礦・中郷無煙炭礦を吸収合併し、名実ともに常磐炭田の代表的炭砿となった
    • [11]戦争末期の常磐炭礦は資材難と労務不足のなか、創設以来の懸案であった排水計画と坑道整備を進めながら増産に努め、終戦とともに著しく減産した

傾斜生産の主役として復興を支え、エネルギー革命によって主力を失うまで

戦後復興が石炭に与えた特権的な地位

敗戦直後の炭鉱は壊滅的だった。『日本産業史』によれば、1945年11月の全国出炭は55万4,000トンと戦時中の約1割に落ち込んでいる。これを引き上げるために採られたのが傾斜生産方式で、炭鉱向けの鋼材割当を増やし、その見返りに鉄鋼向けの配炭を増やすという相互増配の仕組みだった。復興金融金庫からは設備328億円・運転145億円の計473億円が炭鉱に流れ、これは1948年度末の復金融資残高の36%にあたる。復興に配る資材と資金は、まず石炭へ回された。常磐炭礦もその配分を受ける側にいた。 [12][13]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [12]1945年11月の全国出炭は55万4,000トンで戦時中の約1割の水準まで落ち込んだ
    • [13]傾斜生産期に復興金融金庫から炭鉱へ設備328億円・運転145億円の計473億円が融資され、1948年度末の復金融資残高の36%を占めた

常磐炭礦の回復は速かった。『会社銀行八十年史』は出炭を1945年度の67万トンから1949年度に140万トン、1952年度には180万トンへ引き上げたと記録する。1949年5月には東京証券取引所へ上場し、同年12月に資本金を1億円へ増額した。産出したのは国鉄・セメント・暖房用に広く売れる一般炭で、1953年末には茨城砿業所で払面250メートルから280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を行っている。1949年11月の鹿島坑を皮切りに選炭場を6か所築き、鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出すまでになった。技術の面でこの会社は先頭にいた。 [14][15][16][17]

    • [14]有報【沿革】は「1949年5月 東京証券取引所市場第一部に上場」と記すが、東証の市場第二部開設(=第一部・第二部の区分開始)は1961年であり、1949年時点に「市場第一部」は存在しない。会社の公式沿革は「1949年 東京証券取引所に上場」「1970年5月 東京証券取引所 一部に上場(当時社名「常磐炭礦株式会社」)」と2件に分けて記載しており、有報表記は遡及的な圧縮である。本文が「東京証券取引所へ上場」とのみ書くのは有報・公式沿革の双方と矛盾せず適切
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [15]常磐炭礦の出炭は1945年度67万トンから1949年度140万トン、1952年度180万トンへ増加した
    • [17]1953年末に茨城砿業所で払面250〜280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を実施し、選炭場6か所の建設で鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出した。1949年12月に資本金を1億円へ増額した
  • 有価証券報告書
    • [16]1949年5月に東京証券取引所へ上場した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [12]1945年11月の全国出炭は55万4,000トンで戦時中の約1割の水準まで落ち込んだ
    • [13]傾斜生産期に復興金融金庫から炭鉱へ設備328億円・運転145億円の計473億円が融資され、1948年度末の復金融資残高の36%を占めた
    • [14]有報【沿革】は「1949年5月 東京証券取引所市場第一部に上場」と記すが、東証の市場第二部開設(=第一部・第二部の区分開始)は1961年であり、1949年時点に「市場第一部」は存在しない。会社の公式沿革は「1949年 東京証券取引所に上場」「1970年5月 東京証券取引所 一部に上場(当時社名「常磐炭礦株式会社」)」と2件に分けて記載しており、有報表記は遡及的な圧縮である。本文が「東京証券取引所へ上場」とのみ書くのは有報・公式沿革の双方と矛盾せず適切
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [15]常磐炭礦の出炭は1945年度67万トンから1949年度140万トン、1952年度180万トンへ増加した
    • [17]1953年末に茨城砿業所で払面250〜280メートルに及ぶ国内初のロング採炭を実施し、選炭場6か所の建設で鹿島坑では6,700カロリーの商品炭を出した。1949年12月に資本金を1億円へ増額した
  • 有価証券報告書
    • [16]1949年5月に東京証券取引所へ上場した

深部採掘が生んだ湧出温泉という負債

常磐炭礦は常磐炭田で最も深いところを掘った。最深部は海面下638メートルに達し、炭質は深部へ行くほど良くなる一方で、揚炭と排水に使う電力の需要が増えた。同社は1954年6月に既設の平発電所へ5,000キロワットの火力発電機を1基増設して合計出力1万6,000キロワットとし、その燃料に3,500カロリー級の裾物炭を使った。低品位燃料を使う発電装置としては国内で最初のものだったという。深く掘るための電気を、深く掘って出た売り物にならない石炭で起こす。坑から出たものを坑の次の工程へ回すこの段取りは、以後もこの会社に繰り返し現れる。 [18]

  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [18]常磐炭田で最深度海面下638メートルを採掘し、1954年6月に平発電所へ5,000キロワットを増設して合計出力1万6,000キロワットとした。3,500カロリー級の裾物炭を使う低品位燃料装置としては最初のものとされた

深部採掘には代償があった。坑内に大量の温泉が湧き、その排水に費用がかかる。石炭を掘るための会社にとって、温水は処理すべき厄介物にすぎない。週刊東洋経済は2002年の記事で、この温泉を炭鉱にとっての『負の財産』と表現している。1960年代に入ると石炭そのものの立場が変わった。エネルギー政策は石炭中心から石油と電力へ比重を移し、高い炭価への批判のなかで業界は本格的な合理化を迫られる。掘るほど水が出る深い坑は、斜陽産業のなかでも条件の悪い部類に入った。閉山は時間の問題であり、残るのはそこで働く1,000人余りの行き先だった。 [19]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [19]戦後のエネルギー政策は石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価批判のなかで石炭は本格的な合理化の時代に入った
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
    • [18]常磐炭田で最深度海面下638メートルを採掘し、1954年6月に平発電所へ5,000キロワットを増設して合計出力1万6,000キロワットとした。3,500カロリー級の裾物炭を使う低品位燃料装置としては最初のものとされた
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「石炭-増産から合理化へ」
    • [19]戦後のエネルギー政策は石炭中心から電力へ比重を移し、高炭価批判のなかで石炭は本格的な合理化の時代に入った

厄介物を商品に変えた1966年のハワイアンセンター

1964年9月、同社は常磐湯本温泉観光株式会社を設立した。1966年1月、その事業として常磐ハワイアンセンターが開業する。使ったのは坑内から湧く温泉であり、迎え入れたのは職を失う炭鉱労働者だった。ただしこの時点で山が閉じたわけではない。常磐炭礦の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所であり、1966年はまだ合理化による人員整理の途上だった。従業員数は1955年の1万3,428人から1966年には6,878人まで減っており、ハワイアンセンターはその受け皿として開いた施設だった。当時のハワイは庶民に手の届かない旅行先で、そこへ行った気分を味わえる場として人気を集め、1970年には入場者数が155万人を突破する。 [20][21][22][23]

この転換は同社だけの思いつきではない。『日本産業史』のレジャー産業の章は、1950年代後半からのレジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海といった私鉄資本や観光資本が相次いで進出したことを記したうえで、『このほか『北海道炭砿』のように斜陽化した石炭鉱業への支柱を求めて観光事業に乗り出したり』[引用元]と書いている。炭鉱会社が観光へ向かうのは、当時の産業地図では一つの型だった。常磐興産の特異な点は、進出先を選ぶときに自社の坑から出るものを使ったことにある。私鉄が沿線の土地と輸送力を持ち込み、他の炭鉱会社が資本と人員を持ち込んだのに対し、この会社は排水そのものを商品に変えた。 [24]

  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」
    • [24]日本産業史は、レジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海などの私鉄資本が進出し、北海道炭砿のように斜陽化した石炭鉱業の支柱を求めて観光事業へ乗り出す動きがあったと記している
    • [20]常磐炭砿茨城砿業所(中郷砿・神の山砿)は1971年に閉山し、1971年8月の中郷砿出水事故により閉山が前倒しされた。1966年まで常磐炭田の炭鉱数は小康状態で、閉山が加速したのは第3次石炭政策の1967年以降である
    • [21]常磐炭礦株式会社の大規模な閉山は1971年4月の磐城砿業所閉山(いわゆる大閉山)であり、1966年の常磐ハワイアンセンター開業時点で同社は閉山していない。常磐炭田では1971年に磐城砿業所に続いて茨城砿業所の中郷砿・神の山砿が閉山し、坑内掘は茨城県側が1973年の櫛形礦業所、福島県側が1976年の西部砿の閉山で終焉、同社の茨城地区の終掘(露天掘)は1985年3月である
    • [22]常磐炭砿の人員削減は1960年8月の希望退職募集に始まり、1963年2月には勇退者・希望退職者1,235人(同年だけで従業員2,767人減)、大規模削減は1966年までつづき、従業員数は1955年の13,428人から1966年に6,878人(48.8%減)へ半減した。会社は1964年に温泉観光会社を設立、1966年にハワイアンセンターを開業し「炭砿閉山後の重要な活路」と位置づけた
  • 有価証券報告書
    • [23]1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月に常磐ハワイアンセンターを開業した
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」
    • [24]日本産業史は、レジャーブームに西武・東急・東武・近鉄・南海などの私鉄資本が進出し、北海道炭砿のように斜陽化した石炭鉱業の支柱を求めて観光事業へ乗り出す動きがあったと記している

石炭生産部門を切り離し、レジャー会社として自らを定義し直した40年

二度の震災と感染症を越え、上場企業としての幕を自ら引くまで

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常磐興産の沿革1884〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1884〜1944年首都に最も近い炭田を開いた二社が、戦時下に一つの会社へ束ねられるまで磐城炭礦社を設立★★
磐城炭礦に商号変更
入山採炭創立
磐城炭礦と入山採炭の合併により常磐炭礦を設立★★
神の山炭礦・中郷無煙炭礦を合併
1945〜1969年傾斜生産の主役として復興を支え、エネルギー革命によって主力を失うまで東京証券取引所に上場
双葉貨物自動車を設立
小名浜港石炭荷役を設立
常磐製作所を設立
常磐湯本温泉観光を設立★★
坑内湧出温泉を用いた常磐ハワイアンセンターの開業

1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月、常磐炭礦が坑内から湧く温泉を使う常磐ハワイアンセンターを開業した。合理化で職を失う炭鉱労働者1,000人余りを受け入れ、観光事業として営業を始めた判断。

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★★★
1970〜2010年石炭生産部門を切り離し、レジャー会社として自らを定義し直した40年東京証券取引所市場第一部に上場
石炭生産部門の新会社への営業譲渡と、常磐炭礦から常磐興産への商号変更

1970年5月、常磐炭礦株式会社は新常磐炭礦株式会社を設立した。同年7月、石炭生産部門をこの新会社へ営業譲渡し、新会社は商号を常磐炭礦株式会社へ改める。譲渡した側は常磐湯本温泉観光株式会社を合併したうえで、商号を常磐興産株式会社と改めて再発足した。一連の手続きは中村豊社長のもとで進み、社名は掘る側と掘らない側で入れ替わった。

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★★★
石炭生産部門を新常磐炭礦に営業譲渡★★
常磐興産に商号変更
常磐紙業を合併
常磐コンクリート工業を合併
常磐炭礦が茨城地区で終掘★★
常磐炭礦を吸収合併
コンベンションホール「ラピータ」を開業
常磐興産倉庫を合併
「常磐ハワイアンセンター」を「スパリゾートハワイアンズ」に名称変更
屋外施設「スプリングパーク」を開業
ホテルクレスト札幌を設立
露天風呂「江戸情話 与市」を開業
滞在型施設「ウイルポート」を開業
斎藤一彦屋外施設「スパガーデン パレオ」を開業
斎藤一彦PC事業部門を常磐興産ピーシーに吸収分割
斎藤一彦包装事業部門を新設分割することにより、常磐パッケージを設立
斎藤一彦開発事業部門をJKリアルエステートに吸収分割
斎藤一彦常磐パッケージの全株式を譲渡
斎藤一彦JKリアルエステートを吸収合併
2011〜2025年二度の震災と感染症を越え、上場企業としての幕を自ら引くまで斎藤一彦東日本大震災によりスパリゾートハワイアンズが休業★★
斎藤一彦ダンシングチームによる全国きずなキャラバンを実施
井上直美スパリゾートハワイアンズがグランドオープン。新ホテル「モノリスタワー」を開業
井上直美震災後の資本増強で発行した優先株式の消却を進める
西澤順一グランピング施設「マウナヴィレッジ」がグランドオープン
関根一志米フォートレス系Ontario合同会社によるTOBの受け入れと、東証スタンダード市場からの上場廃止

2024年9月9日、常磐興産は米フォートレス・インベストメント・グループが組成したOntario合同会社による公開買付けに賛同し、株主への応募推奨を決議した。第一回の買付価格は1株1,650円で、2025年2月19日に東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止となった。

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★★★
関根一志東京証券取引所スタンダード市場で上場廃止★★
出典・参考

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