常磐興産坑内湧出温泉を用いた常磐ハワイアンセンターの開業
排水費として払い続けた湯を、売り物に読み替えられるか——閉山を控えた炭鉱会社の多角化
- 概要
- 1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月、常磐炭礦が坑内から湧く温泉を使う常磐ハワイアンセンターを開業した。合理化で職を失う炭鉱労働者1,000人余りを受け入れ、観光事業として営業を始めた判断。
- 背景
- 常磐炭田で最も深い坑を掘る同社は、石炭1トンにつき4トンの湯を汲み上げ、排水処理に年間2億円を払っていた。重油との価格逆転で石炭の斜陽化が決まり、国策としての閉山が1960年代前半に一気に進んだ。
- 内容
- 排水費として処理していた坑内湧出温泉を、土地も水源も買い足さずにそのまま原料へ転用した。踊り手も1965年4月設立の常磐音楽舞踊学院で養成し、接客経験のない元炭鉱労働者が運営にあたった。
- 含意
- 初年度の入場者は目標80万人に対し120万人、1970年には155万人に達した。ただし開業後14年は国の助成金返済を優先して新規投資が凍結され、1983年には約98万人まで落ち込んでいる。
買わずに済ませた資産と、買い戻せなかった時間
石炭を1トン掘るのに4トンの湯を汲み上げ、排水処理に年2億円を払っていた会社が、その湯で客を集めた。同じ時期にレジャーへ出た会社は多く、進出先を観光に定めたこと自体に新しさはない。中村豊副社長の着想の非凡さは、進出のために何も取得しなくて済ませた点にあるだろう。客を呼ぶ湯も、それを汲み上げる設備も、すでに帳簿の費用側に載っていた。買収も探鉱もいらない多角化は、資金の乏しい斜陽企業に残された数少ない選択肢である。
ただし、それで会社が身軽になったわけではない。開業後14年の投資凍結は、閉山費用を国の助成に頼った以上避けにくく、1970年に155万人だった入場者は1983年に98万人まで落ちた。新事業の稼ぎは、まず祖業を畳む費用の返済に充てられている。1,000人余りを雇い入れた判断も、客足が計画から外れた期間には人件費として重くのしかかった。捨てていたものを売り物にする発想は、その売り物を作り直す資金までは生まなかった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
掘るほど水が出る坑
常磐炭田は首都圏に最も近い炭田であり、常磐炭礦はそのなかで最も深い坑を持っていた。会社銀行八十年史は、同社が最深度で海面下638メートルまで採掘し、炭質は深部へ移るほど優秀になると記している。ただし深く掘れば、それだけ坑内に水が出る。同書が「創設以来の懸案」に挙げたのは増産でも機械化でもない。排水計画と坑道の整備である。出炭は1945年度の67万トンから1952年度の180万トンへ伸びたが、汲み上げる水の量も並んで増えた[1]。
湧いてくるのは、ただの水ではなかった。摂氏60度の湯である。石炭を1トン掘るために、4トンの湯を汲み出さねばならなかった。坑道は高温多湿になり、作業員は水風呂で体を冷やしながら働いたという。温泉の排水処理費は年に2億円へ達している。石炭を掘る会社の帳簿で、この湯は売上にも資産にもならない。処理費の行として毎年積み上がるだけであった[2][3]。
国策として進んだ閉山
1950年代後半、燃料の値段が逆転した。日本産業史によれば、京浜市場で石炭が1キロカロリー当たり1円だったのに対し、重油は88銭へ急落し、1割以上の値差が生じた。重油はボイラー用燃料市場で石炭を圧倒し、石炭業界は1957年下期以降、生産調整に追われた。硫安や製鉄のコークス需要まで石油に置き換わると、石炭固有の市場と見込まれていた原料用途も細くなる。不振は一社にとどまらない。燃料市場での石炭の順位そのものが下がった[4]。
1962年、首相特命の石炭鉱業調査団が合理化計画を練り直した。老朽炭鉱は買い上げから買いつぶしへ改められ、その財源の一部を国が負担する。スクラップ予定の炭鉱は出炭量にして1,200万トン、職を失う労働人口は7万人をくだらないと見積もられた。5年かけるはずの整理は、1963年と1964年の2年で終わっている。退職手当を中心とする閉山費用は膨大な借入金となり、1965年末には業界全体で2,000億円の負債が経理を圧迫した[5]。
決断
費用に計上していたものを、原料に読み替える
常磐炭礦が選んだのは、湯を捨てる費用を湯で稼ぐ収入に替える道だった。のちに社長となる中村豊副社長は、厄介者の温泉を使って東北に常夏の空間を作ろうと考えた。1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月、常磐ハワイアンセンターが営業を始める。1ドル360円の固定相場のもとで海外旅行は庶民の手に届かず、ハワイ気分を味わえる場所には客が付くと踏んでいた。原料の調達費は、すでに炭鉱として払い終えていた[6][7]。
同じころ、他の産業資本も観光へ出ていた。日本産業史は、西武・東急・東武・近鉄・南海といった私鉄資本が遊園地、宿泊施設、別荘地、自動車道、スキー場へ手を広げ、軽井沢は西武、箱根は東急と西武、伊勢志摩は近鉄と勢力を固めたと記す。同書は北海道炭砿が斜陽化した石炭鉱業の支柱を求めて観光事業に乗り出した例も併記している。レジャーへの進出そのものは、この時期の産業界に広く見られた動きである[8]。
分かれ目は、新事業に何を注ぎ込んだかにある。私鉄は自社の沿線に持つ土地と輸送力を観光地へ振り向けた。北海道炭砿は、斜陽の採炭を支える別の収益源を本業の外に求めている。常磐炭礦は、坑の底から毎日汲み上げていたものを使った。掘れば出てきて、それまで金を払って捨てていた湯を、そのまま商品の中身に据えている。新たに用意したのは湯を客に見せる建物と踊る人だけで、資源の取得費は最初からゼロだった[9][10]。
雇う人数が先に決まっていた事業
開業した施設は、職を失う人の行き先でもあった。週刊東洋経済によれば、開業にあたって1,000人余りの炭鉱労働者を受け入れている。ただし本州最大とされた磐城砿業所の閉山は1971年4月であり、1966年はその前段にあたる合理化による人員整理の時期だった。日経ビジネスは1990年の記事で、開業当時を「元炭鉱従事者が自らホテルを運営し、楽器を奏でダンスを踊るといった手作りの観光事業だった」と振り返った。接客を仕事にしてきた者は、そのなかにほとんどいなかった[11][12]。
踊り手も内部で育てた。開業前年の1965年4月に常磐音楽舞踊学院を設立し、専属ダンサーの養成を始めている。踊りはすべてオリジナルで、本場のハワイでは見ることのできない演目である。ただし雇用の受け皿という動機と、収益事業としての合理性は、この一件で重なってはいても同じものではない。雇う人数が先に決まっている事業は、人件費を客足に合わせて動かせない。1,000人余りという数は、集客が計画に届かなければそのまま重荷へ変わる[13][14]。
結果
155万人と、明けなかった14年
開業初年度の入場者は目標の80万人を上回り、120万人に達した。日経ビジネスによれば、ホテルに泊まって温泉につかり、ハワイアンダンスのショーを見るという趣向が宴会目当ての団体客に受け入れられ、入場者数は年間100万人をゆうに超えた。1970年には155万人を記録している。排水処理に年2億円を払っていた会社が、同じ湯で年に150万人を集めた。原料の値段が最初から要らない事業は、客さえ来れば利幅が厚い[15][16]。
ところが、その後14年にわたって新規の投資は凍結された。週刊東洋経済によれば、炭鉱会社が国から受けていた助成金の返済を優先せざるをえなかったためで、これが響いて入場者数は低迷し、1983年には約98万人まで落ち込む。開業から17年で、集客は最盛期の6割強へ下がった。閉山の費用を国の資金に頼った条件が、観光事業の設備更新まで縛っている。石炭から抜け出したはずの事業が、石炭の後始末に稼ぎを吸われた[17]。
- 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「エネルギー産業-石油と電力の結婚」
- 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」
- 週刊東洋経済 2002年10月12日号「売れる営業に変わろう! スパリゾートハワイアンズ」
- 日経ビジネス 1990年5月7日号「常磐興産 名称変更で高級リゾートへ変身図る」
- nippon.com(2023年6月18日)「東京から3時間で行ける常夏の楽園「スパリゾートハワイアンズ」:フラガールと共に炭鉱閉山や東日本大震災から復興」
- 常磐興産 公式サイト「沿革」
- 常磐興産 有価証券報告書【沿革】