常磐ハワイアンセンター開業(1964年・常磐興産の決断)更新:2026/07/25論点閉山で余る温泉と人員をどう使うか常磐興産:業績の推移売上高(億円)当期純利益率(%)データ出所坑内から湧く温泉を観光資源へ転じた新事業の立ち上げ何をなぜ決めたか:坑内から湧く温泉を観光資源へ転じた新事業の立ち上げ概要1964年9月に常磐湯本温泉観光株式会社を設立し、1966年1月、常磐炭礦が坑内から湧く温泉を使う常磐ハワイアンセンターを開業した。合理化で職を失う炭鉱労働者1,000人余りを受け入れ、観光事業として営業を開始した判断。背景常磐炭田で最も深い坑を掘る同社は、石炭1トンにつき4トンの湯を汲み上げ、排水処理に年間2億円を払っていた。重油との価格逆転で石炭の斜陽化が決まり、国策としての閉山が1960年代前半に一気に進んだ。内容排水費として処理していた坑内湧出温泉を、土地も水源も買い足さずにそのまま原料へ転用した。踊り手も1965年4月設立の常磐音楽舞踊学院で養成し、接客経験のない元炭鉱労働者が運営にあたった。含意初年度の入場者は目標80万人に対し120万人、1970年には155万人に達した。ただし開業後14年は国の助成金返済を優先して新規投資が凍結され、1983年には約98万人まで減少している。いつ何が起きたか8件考察:買わずに済ませた資産と、買い戻せなかった時間考察考察:買わずに済ませた資産と、買い戻せなかった時間石炭を1トン掘るのに4トンの湯を汲み上げ、排水処理に年2億円を払っていた会社が、その湯で客を集めた。同じ時期にレジャーへ出た会社は多く、進出先を観光に定めたこと自体に新しさはない。中村豊副社長の着想の非凡さは、進出のために何も取得しなくて済ませた点にあるだろう。客を呼ぶ湯も、それを汲み上げる設備も、すでに帳簿の費用側に載っていた。買収も探鉱もいらない多角化は、資金の乏しい斜陽企業に残された数少ない選択肢である。ただし、それで会社の負担が軽くなったわけではない。開業後14年の投資凍結は、閉山費用を国の助成に依存した以上避けにくく、1970年に155万人だった入場者は1983年に98万人まで減少した。新事業の稼ぎは、まず祖業から撤退する費用の返済に充てられている。1,000人余りを雇い入れた判断も、客足が計画から外れた期間には人件費として重くのしかかった。捨てていたものを売り物にする発想は、その売り物を作り直す資金までは生まなかった。Yutaka Sugiura, 2026年7月参考文献参考文献参考会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史「常磐炭礦」日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「エネルギー産業-石油と電力の結婚」日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「レジャー産業-陽を浴びて花盛り」日経ビジネス 1990年5月7日号常磐興産 公式サイト「沿革」常磐興産 有価証券報告書【沿革】次に読む決断常磐興産の意思決定1970年常磐興産常磐興産常磐湯本温泉観光を吸収合併石炭生産部門の新会社への営業譲渡と、常磐炭礦から常磐興産への商号変更1970年2024年常磐興産常磐興産米フォートレス系のTOB受入東証スタンダード市場からの上場廃止と非公開化への移行2024年同じ問い:雇用維持と固定費削減の両立1967年日本国有鉄道日本国有鉄道第3次長期計画の1人乗務化5万人合理化計画の提示と、電気機関車・ディーゼル1967年1970年日本セメント日本セメント大型工場へ生産集約小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策の実行1970年1950年大丸大丸非百貨店部門の分離独立人員整理によらない事業の存廃決定1950年1949年沖電気工業沖電気工業第二会社として設立企業再建整備法にもとづく旧沖電気の解散と、新法人への事業引き継ぎ1949年1948年東宝東宝第三次東宝争議と人員整理1,200名の人員整理と撮影所の一時閉鎖1948年×出所