日本国有鉄道5万人合理化計画の提示と、電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務化

技術で消えた仕事を、誰がどこへ移すのか——66回の交渉に費やされた2年半

時期 1967年3月
意思決定者(推定) 石田禮助磯崎叡 総裁・総裁(1969年5月就任)
論点 動力近代化と要員
概要
1967年3月31日、日本国有鉄道が第3次長期計画の機械化・近代化に伴う要員計画を各労働組合に提示し、最大の焦点となった電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務を、第三者委員会の答申を経て1969年11月に決着させた経営判断。
背景
1955年度から1967年度に職員1人当りの輸送人キロは96%増えたのに対し、職員総数は5%増にとどまった。それでも人件費は1863億円から3849億円へ倍増し、1964年度以降は職員1人当りの営業経費が営業収入を上回った。
内容
機械化・近代化で生じた剰員を輸送サービスの改善へ配置転換する計画で、5万人合理化計画と呼ばれた。電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務をめぐる交渉は3組合と66回に及び、当局は機関士・運転士への昇格による配転と説明し、組合は安全を根拠に反対した。
含意
対象となる機関助士は約7500人であった。安全の判定は大島正光東京大学教授を委員長とする調査委員会に委ねられ、1969年4月の答申を経て同年11月の徹夜交渉で合意した。
筆者の見解

技術が消した仕事と、消せなかった人数

機関助士の仕事は、動力の近代化が進んだ時点で技術のうえではほぼ失われていた。それでも約7500人を減らすのに2年半と66回の交渉を要したのは、国鉄が要員を解雇で減らせない事業体であったことによるとみられる。当局が示せたのは機関士・運転士への昇格による配置転換であり、それは職を守る約束であると同時に、要員が実際に減るのは何年も先になるという約束でもあった。解雇でないことが当局の強気を支え、同じ理由で交渉を長引かせた。

決着は労使の関係を安定させたわけではない。1人乗務は1969年11月に合意されたが、動労は1973年に深夜や長大トンネル線区での2人乗務の復活を要求し、いったん決めた条件は再び交渉の対象に戻った。安全という論点は、第三者の調査で客観的な条件が熟していると判定されたのちも、労働条件を動かすための言葉として使えたといえる。技術が仕事を消しても、その仕事に就いていた人をどこへ移すかは、別の交渉として残る。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

仕事量は倍近く、職員数は5%増

国鉄の職員1人当りの仕事量は、1955年度から1967年度までの12年でほぼ倍になった。輸送人キロは20万5000人キロから40万1000人キロへ96%増え、換算車両キロも4万キロから6万2000キロへ55%増えている。これに対して職員総数は44万6000人から45万8000人へ5%増えたにとどまり、業務量に照らせば実質的には減ったとさえいえる水準であった[1]

仕事量の増加は、収支の改善には結びつかなかった。損益勘定の人件費は1960年度の1863億円から1967年度には3849億円へ倍増し、1964年度以降は職員1人当りの営業経費が営業収入を上回る状態が続いた。製造業・鉄鋼・機械の3業種が賃金上昇の圧力を生産性の向上で吸収したのに対し、国鉄は人件費の伸びに見合う収入増加も生産性の上昇も達成できなかった[2]

45万人という枠と、業務刷新委員会

要員を抑える計画は1960年代の初めからあった。1961年8月、国鉄は輸送力増強を中心とする新5か年計画に伴う合理化の大綱を発表し、1965年度までに車両の検修や施設の保安改善などの合理化で約3万人の要員を生み出し、配置転換と新規採用の手控えによって全体の要員を45万人以下に抑えるとした。設備の近代化そのものは、1957年度の第1次5か年計画、1961年度の第2次5か年計画、1965年度の第3次長期計画と段を重ねていた[3]

1966年11月、国鉄は従来の経営合理化第一委員会を強化して業務刷新委員会を設け、業務執行体制の検討に入った。これに対する組合の構えは三者三様であった。国労は職場に労働運動を定着させることを基調に三つのヤマ場を置き、最終的にストを実施する方針をとった。動労は人命尊重と運転保安を最重点に掲げ、新国労は、近代化・合理化の推進が企業の繁栄と組合員個別の労働条件の引上げに通じることを具体的に立証させるとした[4]

決断

5万人合理化計画と、最後に残った1事案

1967年3月31日、当局は当面の機械化・近代化計画を各労働組合に提示した。第3次長期計画の企図する機械化・近代化によって国鉄の体質を改め、新しい交通機関として脱皮し、そこで生じた剰員を輸送サービスの改善のために配置転換するという内容で、5万人合理化計画と呼ばれた。百年史はこれを、人力依存型の体制から機械・装置中心型の体制へ転換するための計画と記している[5]

交渉は当初から難航したが、大型保線機械の導入は1967年9月に、審査業務の近代化は同年10月に妥結し、事案は順に解決された。最後まで残ったのが、電気機関車とディーゼル機関車の1人乗務であった。1967年3月の提案以来、各組合と重ねた交渉は66回に及び、内訳は国労22回、動労25回、新国労19回である。当局は1968年4月に予定していた実施を延期し、6月の実施も見送った[6]

安全をめぐる二つの主張

当局は、電車・気動車・新幹線の乗務員数についてはすでに論議を尽くし結論が出ていると説明した。電車や気動車の80%が1人乗務になっているのに、同じレールの上を走る電気機関車・ディーゼル機関車に問題があるはずはなく、信号冒進事故についても統計上は1人乗務のほうが事故率が低いというのが当局側の論であった。あわせて諸外国の実情を示し、1人乗務によって過剰となる助士の不安を解消する提案も行った[7]

組合側は安全を根拠に反対を続けた。スピードアップと長距離走行、過密ダイヤによって乗務員の疲労は著しく増えており、潜在的な事故をなんとか防いでいるのは2人乗務があるためだ、という反論である。国労は第1次から第4次まで、動労は第1次から第7次まで、半日ストを含む順法闘争を背景に闘争を重ねた。9月12日と20日の2波では、ATSの警報表示があった場合は必ず停止ブレーキを扱うATS闘争を新戦術として採った[8][9]

結果

第三者への付託

1968年9月11日の朝日新聞社説は、この応酬を水かけ論と書いた。そのうえで、合理化の対象になっている機関助士は約7500人であり、当局の説明では原則として機関士・運転士に昇格させることになっており、理屈のうえでは解雇ではなく配転の問題であって、それが当局側の強気を支えているように思われるとした。打開策としては、折合いがつかなければ技術的に判断する第三者の委員会をつくり、公労委の調停に問題を委ねることを挙げた[10]

国労と動労は、闘争の中間である9月17日に共同声明を出し、労使の対立点については安全性を裏付けするために医学的・心理学的・工学的な見地から検討し、その結論を待って交渉を行うことを提案した。当局も科学的・客観的な調査に任せることが事態収拾の早道と判断してこれに応じ、9月20日には、第三者の調査に任せその答申を尊重して団体交渉を再開するということで一応の妥結点に達した[11]

大島委員会の実地調査と答申

1968年10月18日、EL・DLの乗務員数と安全の関係についての調査委員会が、丸の内のパレスホテルで第1回の会合を開いた。委員長は大島正光東京大学教授である。委員会は、労働科学と人間工学の面から1人乗務と2人乗務の作業を条件別に比較し、それぞれの場合の安全性と、安全を確保するための必要条件を審議することを目的とした。会合は毎週1回開かれ、12月6日から20日までは岡山・広島間で電気機関車乗務の実地調査を行った[12]

調査報告書が提出されたのは1969年4月9日である。諸外国の例からみて1人乗務の客観的条件は熟しており、それを前提とした種々の施策を基本方針として実施する、というのが結論であった。当局はこれに基づき、5月12日に安全性を高める措置を含む1人乗務実施の全体計画を各組合に提示した。動労は委員会の結論に異議を唱えて組織の命運をかけて絶対反対する態度をとり、5月27日からサボタージュに入り、30日には全国53か所で約12時間の違法ストを行った[13]

決着と、移された人々

動労も最終的には、ハンプ押上機関車について7月1日から試行し、全体としては9月実施を目標に解決をはかることを認めた。ヨーロッパ諸国では1人乗務が一般化しており、新聞の論調も、安全性が立証された以上は労働条件を話し合って移行すべきであるとしていた。それでも解決はさらに延び、合意に達したのは10月30日から11月1日にかけての3日間にわたる徹夜交渉であった。この過程で事前協議協定の改訂と労働時間の短縮も行われた[14]

配置転換は教育で支えられた。1971年度に鉄道学園を修了した者のうち、動力近代化に伴う乗務員の転換教育は4,149人、同じく検修要員の転換教育は2,623人、その他の近代化・合理化に伴う転換教育は4,803人である。もっとも、決着した条件は据え置かれなかった。動労は1973年に、深夜と長大トンネル線区、東京・大阪の国電区間などでの2人乗務の復活を求めて順法闘争に入った[15][16]

出典・参考
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 朝日新聞 1968年9月11日 社説(日本国有鉄道百年史 第12巻に再録)
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度

この決断を下した社長 石田禮助

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