日本国有鉄道生産性向上運動の全国展開と、公労委による不当労働行為の認定を受けた中止

経営意識の教育か、組合の切りくずしか——第三者機関が1年半で下した判定

時期 1970年4月
意思決定者(推定) 磯崎叡 総裁
論点 財政再建と労使関係
概要
1970年、日本国有鉄道が財政再建の自助努力の柱として生産性教育を全国で始め、1年半後に公共企業体等労働委員会から不当労働行為と認定され、磯崎叡総裁が陳謝して中止した経営判断。
背景
1964年度に赤字へ転じ、1969年度には償却前赤字を生じた。累積欠損は1971年度末に8200億円へ達する見込みで、財政再建促進特別措置法のもと国鉄自身の企業努力が求められていた。
内容
日本生産性本部への一部委託と中央鉄道学園での教育を柱に、1970年度だけで教育予算約120億円の相当部分を投じ、年間のべ約30万人、職員総数の65%にあたる規模の生産性教育を行った。
含意
現場では国労からの脱退工作が起き、公労委は5件を不当労働行為と認定した。運動は中断し、以後の労使関係では組合側が優位に立った。
筆者の見解

投資効果を、誰の頭数で測ったか

教育に投じた金の効果を出せという指示が、国労からの脱退者の頭数へ翻訳された時点で、この運動は別のものになっていた。1970年度に約30万人、職員の65%へ届いた生産性教育は、当局にとっては財政再建の自助努力を職員の意識の側から支える手立てであった。しかし苗穂工場で職場長らに示されたのは、意識の変化ではなく、工作局長が来るまでに何名を脱退させるかという期限つきの数であり、鉄労との勢力逆転という目標であった。

もっとも、公労委が裁いたのは当局の行為であって、労使のどちらの主張が正しいかではない。国労の稲田委員長が1990年に、マスコミに助けられた面があり、優位に立っているという錯覚が目を曇らせたと振り返ったのは、その区別を勝敗として受け取った側の反省であった。当局は運動を中止し、現場管理者には不信が残り、組合は自らの力を測り違えた。4年後の同時代の報道が労使双方に深い傷跡と書いたのは、この両方を指していたとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

赤字の累積と財政再建促進特別措置法

国鉄の収支は1964年度に赤字へ転じ、以後4年続けて欠損を繰り越した。1968年度の繰越欠損金は2821億円に達し、1969年度には減価償却費を賄えない償却前赤字を生じた。政府が総合交通体系を検討した際の資料では、累積欠損は1971年度末に8200億円へ達すると見込まれていた。1969年5月に日本国有鉄道財政再建促進特別措置法が成立し、同年9月には1969年度以降の10年間で国鉄財政を黒字にする基本方針が閣議決定された[1][2][3]

悪化の中心は人件費であった。損益勘定の人件費は1960年度の1863億円から1967年度には3849億円へ倍増した。ただ、職員が働かなくなったわけではない。職員1人当りの輸送人キロは1955年度の20万5000人キロから1967年度には40万1000人キロへ96%伸び、同じ期間の職員総数の増加は5%にとどまる。仕事量に見合う人員という点では実質的に減っており、それでも賃金の上昇を収入で吸収できない構造にあった[4][5]

賃上げと合理化のバーター

赤字のもとでは、他の公社と同じ賃上げ回答を出すことができなかった。当局は職員の賃金に他公社との格差がつくことを望まないとして、財政再建に要る合理化への協力と賃上げを引き換える方法をとった。償却前赤字に陥った1971年の春闘では、まず当局提案の合理化事案の解決に全力をあげ、新賃金はその進み具合をみて交渉したいという態度を示した。組合は合理化と賃金は別に検討すべきだとして譲らず、交渉は対立したまま推移した[6]

1969年5月に総裁へ就いた磯崎叡氏は、就任と同時に全国の現場管理者へ財政再建の必要性を説いた。財政再建計画は政府の援助・国民の協力・国鉄自身の努力を三つの支柱としており、部内の職員に再建への企業意欲を持たせることが、三つめの中身にあたる。当時、国労と動労は例年の春闘に加えて運賃値上げ反対闘争や電気機関車・ディーゼル機関車の1人乗務反対闘争を重ねており、現場の管理者と組合の距離は開いていた[7][8]

決断

職員総数の65%へ届いた生産性教育

当局は、1955年に設立された日本生産性本部へ教育の一部を委託し、一部は中央鉄道学園で行う形をとって、1970年4月ごろから生産性教育を全国で始めた。のちにマル生と呼ばれる運動である。教育は「使用者への誠意」と「国鉄への愛情」を基調に置き、労使協力による国鉄再建を目標に掲げた。地方の鉄道学園や自主的な運動グループも同じ教育にあたった。1970年3月には職員局の養成課が能力開発課へ改められ、この課が教育の指導にあたった[9][10][11]

規模は国鉄の教育史でも例がない。当局の発表によれば、1970年度だけで教育予算約120億円の相当部分をここへ注ぎ、正規教育約1万5000名、転換教育約1万3000名、短期教育約5万名、職場教育その他約22万名の、年間のべ約30万人へ生産性教育を行った。当時の職員総数の65%にあたる。まず全国8つの鉄道学園へ約1000人の幹部を集めて再教育し、その幹部が成果を職場へ持ち帰って広げた[12][13]

変えようとしたものと、現場で起きたこと

当局が変えようとしたのは、職員の意識であった。同時代の報道は、この運動によって、官僚主義と階級闘争主義が併存していた国鉄に初めて経営の指導理念が持ち込まれ、職員がそこに国鉄の明るい未来をのぞき見ることができたと書いている。悪化を続ける財政のもとで、運賃や設備ではなく人の側から生産性を上げようとした試みであった。同盟系の鉄労はむしろ当局へ早く取り組むよう助言しており、反対したのは国労と動労であった[14][15]

ところが現場では、教育は組合からの脱退を迫る工作に変わった。1971年9月4日、苗穂工場に職場長や工作指導掛を集めた工作局の高橋調査役は、マル生教育に投資した効果を出すのが諸君らの任務であるとしたうえで、工作局長が来るまでに国労から脱退させよ、あと数万名脱退させれば鉄労との勢力は逆転すると指示した。国労は札幌地方裁判所へ仮処分を申請し、同月14日、地裁は不当労働行為を行ってはならないと命じた[16]

結果

証拠の集積と、公労委の救済命令

証拠は各地から集まった。長野の辰野駅では家庭訪問して脱退を強要した助役の録音が、静岡の豊橋変電区では職制の会議で交わされた脱退の相談の録音が、それぞれ国労本部へ送られた。1971年10月8日に水戸で開かれた現場長会議では、能力開発課長が、不当労働行為はやってはならないがやむにやまれぬときもある、その場合は証拠を残すな、テープをとられたらおしまいだと訓示した。国労が新聞へ発表し、翌日の紙面がこれを伝えた[17][18]

当局の説明は、現場で起きていたことと食い違っていた。1971年5月20日の団体交渉で山田副総裁は、マル生は経営者の哲学であるから絶対にやめない、といって不当労働行為をする気もないと述べていた。同年10月8日、公労委は静岡地本関係の5件について国労の主張を全面的に認め、組合へ陳謝するよう救済命令を出した。国労側の記録によれば、命令まで2年から3年かかるのが通例で、1年半足らずの結論は異例の速さであった[19][20][21]

総裁の陳謝と生産性教育の中止

当局の内部にも迷いは出ていた。国労側の記録によれば、常務理事会では、マル生で国労がつぶせるのか、つぶせなかったら労使関係はもちろん職場まで荒廃し、国鉄再建も不可能になるおそれがある、という議論が交わされていた。公労委の命令に対し、当局は当初、命令は受けられない、法廷に持ち込むことも検討するという態度をとった。受諾が決まったのは、10月10日夜の緊急会議であった[22][23]

翌11日の朝、磯崎総裁は新聞記者を集めて声明を発表し、国会では、不当労働行為は不徳のいたりできわめて遺憾だと陳謝した。23日には公労委命令による陳謝文を組合へ持参し、訓告2件・厳重注意16件の処分と真鍋職員局長の更迭を発表した。29日には国労・動労の代表を招いて、教材の点検が終わるまで生産性教育を延期すると申し入れ、11月2日には両組合との間に紛争対策委員会が置かれた[24][25][26]

労使関係の逆転

紛争対策委員会は、不当労働行為や差別待遇が起きないよう、昇職・昇格・昇給の基準について、12月17日に国労と、25日に動労と覚書を交わした。最終の集約では、不当労働行為を行った者への処罰が中央・地方で合計200名、不利益を救済された組合員が約3000名にのぼった。7月7日に通告された春闘処分は、国労・動労を合わせて解雇・免職68名を含む2万5158名を数え、分会長級の解雇が初めて大量に行われていた[27][28][29]

組織の側の傷は残った。1971年8月の函館大会までの約1年間に国労の組合員は約2万5000人減り、9月ごろの脱退は月5000名に達した。同盟系の鉄労は7万人から11万人へ増えている。中止後、国労と動労はスト権奪還とマル生反対を掲げ、1972年から1973年にかけて激しい順法闘争を繰り返した。運動を進めた職制は更迭され、現場管理者には当局への不信が残った。同時代の報道は、労使双方に深い傷跡を残した出来事だったと4年後に書いている[30][31][32]

勝ったとされた側にも問いは残った。国労の稲田芳朗中央執行委員長は1990年に、マル生のあと国労は勝ったと評価したが、組合の力で勝てたというよりマスコミに助けられた面があり、その後に当局が完全に国労の言うままになると、自分の力を過信するきっかけになったと振り返っている。優位に立っているという錯覚が目を曇らせた、というのがその総括であった[33][34]

出典・参考
  • 一人ひとりがつくる労働組合を:国鉄マル生と国労運動の発展(1971年)
  • 日本国有鉄道百年史 第12巻(日本国有鉄道、1973年)
  • 日経ビジネス 1976年4月12日号
  • 日経ビジネス 1990年6月18日号
  • 日本国有鉄道監査報告書 昭和54年度

この決断を下した社長 磯崎叡

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