日本国有鉄道国鉄内部の改革派の形成と、臨調・三塚委員会への情報提供
内から立て直すか、外の力で解体するか——最後の再建計画を書いた者たちの転向
- 概要
- 1982年2月に自民党が党内へ国鉄再建小委員会(三塚委員会)を設けた発端は、国鉄内部の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことにあった。経営計画室の主幹を務めた井手正敬氏・松田昌士氏・葛西敬之氏の3人は、第二次臨時行政調査会と再建監理委員会へ情報を出し、分割・民営化の理論構築を担った。
- 背景
- 井手氏が1980年にまとめた5カ年計画は、1985年度までに職員を42万人から35万人へ減らし幹線の収支を均衡させる内容であったが、労働組合は何の反応も示さなかった。計画をまとめたのちに見たのはヤミ手当の横行する職場で、国鉄の自助努力による再建は行き詰まっていた。
- 内容
- 葛西氏は臨調担当として土光臨調の参謀であった瀬島龍三氏へ現場の実情を書き送り、三塚委員会には本社職員局長の太田知行氏の推薦で3人が呼ばれた。当初の改革派は二十数人で、井手氏と松田氏は地方へ移され、1985年春には改革派が連判状を作成した。
- 含意
- 3人は1987年4月にJR西日本・JR東日本・JR東海の経営陣へ入り、いずれも社長へ進んだ。分割後は品川新駅構想や労働組合の分裂をめぐって互いに対立し、旧国鉄内部の対立がそのまま新会社の間へ移った。
計画を書いた者が、その計画を捨てた
最後の再建計画を書いた当人が、その計画を捨てて解体の側へ回った。井手氏は1980年に職員を42万人から35万人へ減らす5カ年計画をまとめ、翌年の秋にはそれを見捨てている。国鉄の外にいる者にとって分割・民営化は制度設計の問題であったが、内部の3人にとっては、自分たちの再建策ではヤミ手当の横行する職場に届かないという、現場を見た末の結論であった。3人の情報が臨調と自民党の委員会を動かしたのは、そこに現場の実情が付いていたからだとみられる。
もっとも、内部から解体を進めた者がそのまま後継会社の経営を担ったことで、旧組織の対立は新会社の間へ移った。品川新駅をめぐって松田氏と葛西氏は正面から衝突し、労働組合の分裂では井手氏と葛西氏が名指しで批判された。何万人も切った先輩たちを挙げてJRに残るつもりはないと漏らしていた井手氏が、6年後にJR西日本の社長へ進んでいることを思えば、3人の歩みは改革の完遂としても、権力闘争の帰結としても読める。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
自助努力で書かれた最後の再建計画
1980年3月、井手正敬氏は国鉄本社の経営計画室主幹に就いた。翌年度から始まる5カ年計画の立案にあたり、この計画が失敗すれば国鉄は消えると政府から最後通牒を突きつけられていた。井手氏が中心となってまとめた計画の柱は、1985年度までに職員を42万人から35万人へ減らし、幹線の収支を均衡させることであった。当時の井手氏は、国鉄内部にまだ改革をする余力が残っていると信じていた[1]。
7万人の合理化を掲げた計画に対し、労働組合は何の反応も示さなかった。井手氏は後年、組合はそんな計画が実現するはずがないと考え、最初から計画を無視してかかったのだろうと振り返っている。計画をまとめたのちに井手氏が見たのは、ヤミ手当が横行し、酒に酔った職員同士がけんかを始めるという職場の荒廃であった。もう国鉄の自助努力ではどうにもならない、と井手氏は思い始める[2]。
国鉄の外を知っていた者たち
第二次臨時行政調査会が発足したのは1981年3月であった。この夏ごろから分割・民営化の論議が出始め、井手氏は同じ年の秋、自ら手がけた最後の計画を見捨てて分割・民営化へ進むことを決めた。国鉄内部で同じ危機感を抱いていたのが、経営計画室で臨調を担当した葛西敬之氏と、同じ経営計画室の松田昌士氏である。3人に共通していたのは、大蔵省や運輸省との接触が多く、国鉄の外の世界を知っていたことであった[3][4]。
改革派は徹底して議論を重ねた。のちにJR東日本の副社長を務める細谷英二氏が3人の議論を整理する役に回り、そこで導かれた共通の認識は、国鉄が衰退した原因は親方日の丸ゆえに当事者意識が決定的に欠けることであった。議論を突き詰めて行き着いた結論が分割・民営化である。ただし当時のキャリア組およそ1500人のうち、改革派は二十数人にすぎなかった[5][6]。
決断
外の委員会へ情報を出す
葛西氏は仙台鉄道管理局の総務部長から本社の経営計画室へ移り、1981年に臨調担当となった。国鉄も運輸省も臨調の審議に協力する意思を持たず、閑職に近いポストであった。葛西氏はそこから、土光臨調の参謀であった伊藤忠商事相談役の瀬島龍三氏へ、のちに葛西メモと呼ばれる文書を送っている。現場の実情を指摘し、抜本的な改革なしに国鉄の将来はないと訴える内容であった[7]。
1982年2月、自民党は党内に国鉄再建小委員会を置いた。国鉄の改革派が運輸族の三塚博氏へ職場の荒廃を訴えたことに端を発する。三塚氏は、国鉄は伏魔殿であって総裁にも実態が分からないとみて、本社職員局長の太田知行氏へ信頼できる部下を貸すよう頼んだ。太田氏が推したのが3人であった。3人は本社課長クラスの中枢にいて、情報提供から理論構築まで臨調と監理委員会の議論を導いた[8][9]。
島流しと連判状
経営側との対立が深まると、改革派は分断された。井手氏は1984年9月、将来を約束された者が就くとされる総裁室秘書課長から東京西鉄道管理局長へ移された。松田氏は1985年3月、本社の経営計画室計画主幹から北海道総局の総合企画部長へ移った。権限のほとんどない部署であった。職員課長として本社に残った葛西氏は、職員局の課長会議に一人だけ呼ばれず、葛西氏に電話する相手は偽名を使ったといわれた[10][11][12]。
圧力は職場の外にも及び、井手氏の自宅にはゴルフボールが投げ込まれ、仲間には過激派に時限発火装置で家を焼かれた者もいた。1985年春、窮地に追い込まれた改革派の二十数人が一堂に会し、改革の信念を貫くことを誓い合う連判状を作成する。井手氏は葛西氏や松田氏らとともに真っ先に署名した。同年6月に仁杉巌総裁が更迭されて杉浦喬也氏が総裁に就くと流れは変わり、松田氏は9カ月で東京へ戻された[13][14][15]。
結果
解体した組織の後継会社を担う
1987年4月、3人はそれぞれ分割された会社の経営陣に入った。井手氏はJR西日本の副社長、松田氏はJR東日本の常務、葛西氏はJR東海の取締役総合企画本部長である。葛西氏の国鉄でのキャリアは、組合対策の職員局次長で終わっていた。3人はその後いずれも社長へ進み、就任は井手氏が1992年6月、松田氏が1993年6月、葛西氏が1995年6月であった[16][17][18]。
井手氏は分割・民営化を世代間の闘いだったと述べている。おとなしくしていれば上のポストや退官後の天下り先が確保されている幹部と、鉄道の復権を果たさなければならない若手とのせめぎ合いであり、その結果、井手氏の上司や先輩の多くが職を追われ、井手氏の世代が主役に躍り出た。JR東日本は国鉄OBの人脈を旧体制の不良資産として切り捨て、約束のないOBの訪問を役員室で受け付けなくなった[19][20]。
同志が分かれる
解体を共に進めた3人は、分割された会社の利害を背負って対立した。1990年に浮上したJR東海の品川新駅構想は、JR東日本が継承した品川駅周辺の用地を買い受ける計画で、両社の交渉は決裂した。JR東日本副社長の松田氏は1991年、品川問題は民営・分割の原理原則にかかわるとし、どれ一つとっても自己完結的にできない問題を別の力で押し込んでくるのは昔の葛西氏らしくないと述べている[21][22]。
1992年にはJR総連のスト権論議をきっかけに労働組合が分裂し、JR東日本労組の松崎明委員長は、分裂を仕組んだのはJR西日本の井手氏とJR東海の葛西氏であると主張した。井手氏はこれを否定している。葛西氏は分割・民営化のあとも一部の労組から激しい個人攻撃を受けた。井手氏は分割・民営化の終わりに近い時期、何万人もの人を切りその中には多くの先輩もいる、JRに残るつもりはないと友人へ漏らしている[23][24][25]。
- 日経ビジネス 1991年4月8日号
- 日経ビジネス 1992年12月21日号
- 日経ビジネス 1993年12月6日号
- 日経ビジネス 1992年8月17日号
- 日経ビジネス 1995年7月3日号
- 日経ビジネス 1992年3月2日号
- 日経ビジネス 1988年4月25日号
- 日経ビジネス 2004年12月20日号
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(日本経済新聞社、1994年)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- 日本国有鉄道監査報告書 昭和59年度