ツムラバブル期に広げた多角化子会社の整理と、創業家外からの社長招聘
化粧品・美術品輸入まで広げたグループをどう畳み、誰に畳ませるか
- 概要
- 1995年、ツムラは創業以来はじめて創業家の外から社長を迎え、バブル期に広げた子会社群の整理と有利子負債の圧縮に着手した。1996年度から経営改善計画を進め、1997年3月期には美術品輸入販売子会社の整理にともなう特別損失96億円を計上して、上場以来初の当期損失に沈んだ経営判断である。
- 背景
- 3代目にあたる津村昭社長の時代に、ツムラは化粧品、美術品輸入販売、米国法人へと事業を広げた。バブル崩壊後、ツムラ化粧品とツムラインターナショナルインクの2社だけで約180億円の累積損失が積み上がり、本業の医療用漢方製剤が稼ぐ利益を子会社の後始末が食う構造になっていた。
- 内容
- 第一製薬から転じた風間八左衛門氏が社長に就き、同社時代の部下だった芳井順一氏も再建要員として移籍した。子会社の整理・清算と、売上高を上回る有利子負債の圧縮が新経営陣の最初の仕事となり、1997年2月には業績見通しを再度下方修正したうえで経営改善計画を修正して、2000年までの人員500名削減を織り込んだ。
- 含意
- 整理の途上で、年商200億円の最主力品「小柴胡湯」の副作用報道と、前社長・津村昭氏の特別背任容疑での逮捕が重なった。市場としての医療用漢方は守られた一方、失った信用の回復には時間を要し、復配は2004年3月期まで6年を待った。
家伝薬の会社が外部の手を借りた10年
この判断の核心は、子会社を何社畳んだかよりも、畳む役を誰に任せたかにある。中将湯という家伝薬から始まり、創業家が三代にわたって経営してきた会社が、整理の段になって第一製薬出身の二人組に経営を委ねた。血縁のある人物を選んだ点に創業家の面目は残ったものの、実務の判断基準は製薬会社の経営経験に置かれていた。1992年に会長の津村重舎氏が説いた「地道に体質を改善し基礎体力を蓄えること」は、結局、創業家の外から来た経営者の手で実行された。
整理された事業の顔ぶれを並べると、化粧品、美術品輸入販売、米国法人と、生薬の知識がほとんど効かない領域が並ぶ。一方で残ったのは、1976年の薬価収載で押さえた129品目という、他社が後から取りに来られない資産であった。バブル期に外へ向けた投資が10年分の利益を削った後、ツムラの収益はふたたび漢方一本に戻り、2004年の復配を経て今日の医療用漢方シェア8割へつながっている。守るべきものが何かは、失った側の一覧を見るとかえって明瞭になる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
漢方と入浴剤の外へ広がったグループ
1988年10月に社名を株式会社ツムラへ改めたころ、この会社は漢方薬と入浴剤という二本の商品群の外へ事業を広げていた。3代目にあたる津村昭社長の時代に、化粧品を手がけるツムラ化粧品、美術品輸入販売のツムライリュージョン、米国のツムラインターナショナルインクがグループに並んだ。医療用漢方製剤は1976年の薬価収載以来の先行者利益を握っており、本業で積み上げた信用が、本業から遠い投資の担保にもなっていた[1]。
広がりに歯止めをかける声は、社内の最長老から出ていた。会長に退いていた2代目津村重舎氏は1992年3月、日経ビジネスの「有訓無訓」欄で、バブル経済が膨張する過程では営業ノルマと論功行賞が当然のように行われてきたはずだと述べ、その結果として何が残ったのかと問うた。企業の不祥事や安易な拡大路線のツケが表に出るなかで、地道に体質を改善して基礎体力を蓄えることの大切さを説いた言葉であった。バスクリンの利益を漢方研究に注ぎ続けた本人による、拡大路線への警句といえる[2]。
本業の稼ぎを食う子会社の損失
本業そのものは強かった。1990年代半ばのツムラでは、漢方製剤が売上高の8割近く、金額にして800億円近くを稼いでいた。なかでも肝機能障害に用いる「小柴胡湯」は年商200億円の主力品で、医療用漢方の市場はツムラが品目数で圧倒する寡占状態にあった。稼ぎ手が明確な会社が財務で行き詰まるとすれば、原因は本業の外にしかなかった[3]。
その外側に積み上がったのが、子会社の累積損失と借入である。ツムラ化粧品とツムラインターナショナルインクの2社だけで累積損失は約180億円に達し、グループ全体の有利子負債は売上高を上回る水準まで膨らんでいた。後年、加藤照和社長は当時の整理を相当な痛みを伴う改革だったと振り返っている。本業の漢方が健全であっても、この負の残高を処理しない限り会社の信用は戻らない状態であった[4][5]。
決断
創業家の外から社長を迎える
1995年、ツムラは創業以来はじめて外部から社長を迎えた。就任したのは創業家と血縁関係のある風間八左衛門氏で、第一製薬から転じた。風間氏は同社時代の部下であった芳井順一氏を再建要員として伴い、二人で乗り込む形をとった。売薬から始まり創業家が経営を担ってきた会社が、資本の系譜ではなく製薬業の実務経験を基準に経営者を選んだ点に、この人事の性格が表れている[6]。
新経営陣が最初に手をつけたのは、前経営陣が広げた債務保証と赤字子会社の始末であった。1996年度から経営改善計画を開始し、化粧品や美術品輸入など本業から離れた子会社を順に整理して、有利子負債の圧縮を進めた。整理の第一弾となったのが美術品輸入販売のツムライリュージョンで、1995年から続く子会社整理の一環として処理された。本業の建て直しではなく、本業の外に残された勘定の清算から再建は始まった[7]。
副作用報道と前社長逮捕が重なる
整理の途上で、本業と信用の双方を揺らす出来事が続いた。1996年、最主力品の小柴胡湯に間質性肺炎の副作用報道が広がり、年商200億円のこの製品は4割近く売上を落とした。同じ年、前社長の津村昭氏が特別背任容疑で逮捕され、企業イメージの毀損は入浴剤など家庭用品の販売にも及ぶことが懸念された。さらに債務保証の履行を求める裁判が重なり、1997年3月期の業績は下押しされた[8]。
1997年2月、ツムラは中間決算期に一度下げた業績見通しをさらに引き下げ、当期利益が21億円の赤字になると発表した。同時に経営改善計画を修正し、2000年までに人員500名を削減する方針を織り込んだ。子会社整理という財務の処理に、人員削減という本体の縮小を重ねた形である。新規投入した水虫薬や夏用入浴剤が好調でも、この規模の下押しを埋めるには足りなかった[9]。
結果
上場以来初の赤字と、その後の回復
1997年3月期、ツムラは美術品輸入販売子会社ツムライリュージョンの整理にともなう96億円の子会社整理特別損失を計上し、上場以来初の純損失を記録した。1997年6月の時点で残る大物子会社はツムラ化粧品とツムラインターナショナルインクの2社となり、整理は最終段階へ入った。もっともこの2社は当面存続させる方針とされ、約180億円の累積損失をめぐる追加負担の可能性は残された[10]。
前経営陣が残した保証契約は、法廷でも決着を求められた。津村昭元社長が取締役会の決議を得ないまま幸福銀行と結んだ保証契約について、主債務が履行されず、東京地裁はツムラに対し同行へ約6億円を賠償するよう命じる判決を下した。この事例はオーナー経営における取締役会決議の不備として、株主代表訴訟の解説でも取り上げられた。多角化の失敗は、損益計算書だけでなくガバナンスの記録にも残った[11]。
再建の完了と社長交代
財務の整理が一巡すると、業績は本業の力に沿って戻った。2004年3月期の売上高は821億5500万円、純利益は84億円まで回復し、6年ぶりの復配にこぎ着けた。同じ2004年、風間氏の後任として芳井順一氏が社長に昇格した。創業111年目にして、創業家と血縁関係を持たない初の社長である。1995年に二人で乗り込んだ第一製薬出身者が、9年をかけて再建を引き継いだ[12][13]。
再建の内容は、費用の削減だけにとどまらなかった。1997年に医薬営業本部長へ就いた芳井氏は、漢方薬を売り込む営業から、医師が漢方を学ぶ機会を広げる活動へ営業のかたちを組み替え、国内80大学すべての医学部で漢方医学教育が実施される状態をつくった。子会社の清算で守った本業を、処方する医師の裾野を広げることで太らせる。整理と並行して進んだこの作業が、次の10年の収益を用意した[14]。
- 日経ビジネス 1992年3月9日号「有訓無訓 売れないものを売るのが商人 津村重舎[ツムラ会長]」
- 週刊東洋経済 1997年5月10日号「株価が警告する「危ない会社」」
- 週刊東洋経済 1997年6月21日号「まだあるバブル処理に手こずる企業たち」
- 週刊東洋経済 1997年8月23日号「役員ならこれだけは知っておきたい株主代表訴訟の傾向と対策」
- 週刊東洋経済 2004年11月13日号「営業マンを社長にしたこの17社」
- 東洋経済オンライン(2018年10月29日)「「漢方のツムラ」多角化失敗からの超復活劇」