1847年(弘化4年)、久光仁平氏[1]がこの地で製薬・売薬の店『小松屋』を創業した。行商人が家庭に薬箱を預けて回る九州の配置売薬の伝統に連なる幕末生まれの小さな売薬商であり、会社は今日までこの年を創業年と数えている。1869年には丸薬『奇神丹』を売り出し、1871年には屋号を小松屋から久光常英堂[2]へ改めた。創業から170年以上を経てもなお九州本社を創業の地・鳥栖に置き続けている点に、この会社の土地との結び付きの強さが表れている。
1903年12月、売薬製造販売を目的とする久光兄弟合名会社が設立され[3]、個人商店から会社組織へ移行した。初代社長には中冨三郎氏が就き[4]、以後の経営は中冨家が担った。1907年に発売した貼り薬『朝日万金膏』[5]は同社の看板商品となり、膏薬を患部に貼って治すという、後のサロンパスへつながる商品系譜がこの時期に固まった。全国に売薬行商の販路を張り巡らせた地方の製薬業者という姿が、大正から昭和初期にかけての同社の基本形であり、貼り薬はその中核であり続けた。売薬の里・田代で培われた製造と行商のノウハウが、そのまま会社の骨格になった。
1934年、久光兄弟合名会社は白い貼り薬『サロンパス』を発売した[6]。看板商品の朝日万金膏には黒い膏体が皮膚に残るという難点があり、これを解決するためゴムを基剤とする白色貼付剤の開発に挑んだ成果である。商品名は主成分のサリチル酸メチルと、剤型を表すプラスターを組み合わせて発想され[7]、対外的にはフランス語で社交場を意味する『サロン』に『パス』を結び付けた名前として説明された。
販売を支えたのは徹底した宣伝であった。発売2年後の1936年には、後に社長となる中冨正義氏が銭湯で入浴客にサロンパスを貼って回る『実物宣伝』を展開し[8]、戦後はコマーシャルソングを制作して電波に乗せた。もっとも有名になったのは会社名ではなく製品名であり、この『サロンパスの会社』という顔は、その後も長く久光製薬の対外イメージを規定した。
戦時から戦後にかけて、事業は複数の会社に分かれて営まれた。1944年5月に医薬品製造の三養基製薬株式会社が、1948年2[9]月には鉱山機械その他鍛造品を手掛ける田代鉱機工業株式会社が設立されている。1951年2月、久光兄弟合名会社とこの2社が合併して久光兄弟株式会社が発足し[10]、現在まで続く会社組織の直接の出発点となった。1952年に大阪、1957年に東京へ出張所を開設して販売網を全国へ広げ、1960年11月には台湾に合弁会社の久光製薬股份有限公司を設立して[11]、本体の商号変更に先立ち海外に『久光製薬』の名の足場を築いた。
1962年9月、久光兄弟は東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所に株式を上場し[12]、1964年8月には大阪証券取引所市場第二部にも上場した[13]。高度経済成長期、テレビ広告に乗った大衆薬は家庭の常備品として普及が進んでおり、全国区の知名度を持つサロンパスを擁する同社にとって、資本市場への接続は自然な成長の道筋であった。幕末の売薬商から数えて100年余り、九州の同族企業は上場企業としての体裁を整え、次の時代に向けて社名と事業構造を作り替えた。社名が製品名の知名度に追い付くのは、この直後の商号変更を待ってのことであった。
1965年4月、久光兄弟株式会社は商号を久光製薬株式会社[14]へ改めた。製品名が先に全国区となった会社が、社名をそれに合わせた改称であり、1960年設立の台湾合弁会社が名乗っていた『久光製薬』の名を本体が後から採った形でもある。1966年に名古屋、1970年に札幌へ出張所を開設して国内販売網を固め、製品面では1968年に『サロンパスE』、1971年には水分を含む湿布剤『サロンシップ』を発売して[15]、一般用貼付剤の品ぞろえを広げた。同じ1971年5月には創業の地に鳥栖研究所を竣工させ[16]、研究開発の拠点も整えている。
資本市場での位置も一段上がった。1971年9月に名古屋証券取引所市場第二部へ上場し[17]、1972年7月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部への指定替えを果たした[18]。1975年4月にはインドネシアに合弁会社P.T.サロンパスインドネシアを設立し[19]、台湾に続くアジアの生産・販売拠点を確保している。もっとも、この時期の収益の柱はなお一般用のサロンパス群であり、テレビ広告を主戦場とする大衆薬各社との競争は年々厳しさを増していた。大衆薬市場の伸びに寄り掛かった成長であったことが、後の苦境の伏線となった。
一部上場で整った歩みは、1980年前後に大きくつまずいた。日本家庭薬協会の記録には、1980年に久光製薬が赤字決算に陥ったことが記されている[20]。大衆薬市場の成熟でサロンパスに頼る収益構造は行き詰まり、中堅製薬企業として限られた経営資源をどこへ振り向けるのかという問いを突き付けられた。この危機が、その後の久光製薬の性格を決める転機となる。何でも手掛ける総合路線ではなく、一つの技術に賭ける専業路線への入口であった。
1981年5月、創業家の中冨博隆氏が44歳で代表取締役社長に就任[21]した。1966年の入社から15年、常務からの昇格である。新社長は『お客様第一主義』を企業哲学として掲げ[22]、自社の強みを問い直した末に、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤への経営資源の集中を選び取った。後年、中冨博隆社長はこの時期の判断を『自社の強み、技術力、ブランド力を検討して、経皮吸収型製剤に経営資源を集中させてきた結果だ』[引用元]と語っている。以後34年に及ぶ長期政権の下で、久光製薬は貼付剤一本に絞り込んだ企業へと姿を変えた。
生産・研究面でも、1987年6月に宇都宮工場、1990年6月に筑波研究所を竣工させ[23]、九州の外に医療用シフトを支える拠点を整えた。大衆薬の会社が主力を医療用へ移す、静かだが決定的な転換であった。
海外展開も同じ時期に骨格ができた。1986年1月にブラジル、1987年4月には米国に販売子会社を設立し、1994年9月にはベトナムに生産子会社を設けて[24]、台湾・インドネシアと合わせた海外生産・販売網を広げた。再建の成果は数字にも表れ、1999年12月の会社説明によれば、経常利益は8期連続、当期純利益は17期連続の増益を続けていた[25]。1980年の赤字転落から数えれば、中冨博隆社長の下でほぼ一貫して利益を伸ばし続けた計算であり、貼付剤への集中という選択の正しさを裏付ける実績となった。
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| 1847〜1964年田代売薬の小松屋から国民薬サロンパスへ──九州の配置薬業に生まれた貼り薬の原点 | 久光兄弟合名会社を設立 | ★ | ||
| 三養基製薬を設立 | ★ | |||
| 田代鉱機工業を設立 | ★ | |||
| 久光兄弟合名・三養基製薬・田代鉱機工業の三社合併による株式会社化 1951年2月、久光兄弟合名会社が三養基製薬株式会社と田代鉱機工業株式会社を合併し、商号を久光兄弟株式会社へ改めた。1903年から続いた合名会社の形をここで畳み、株式会社として再出発した判断であり、現在の久光製薬へ直接つながる会社組織の出発点となった。新会社の社長には中冨正義氏が就いた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 久光兄弟に商号変更 | ★ | |||
| 大阪出張所を開設 | ★ | |||
| 東京出張所を開設 | ★ | |||
| 合弁会社の久光製薬股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部・福岡証券取引所に上場 | ★ | |||
| 大阪証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 1965〜1994年久光製薬への改称と赤字転落──貼付剤特化への決断とモーラスの誕生 | 商号を久光製薬に変更 | ★ | ||
| 名古屋出張所を開設 | ★ | |||
| 札幌出張所を開設 | ★ | |||
| 鳥栖研究所が竣工 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所・大阪、名古屋証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | |||
| 合弁会社のP.T.サロンパスインドネシアを設立 | ★ | |||
| 中冨博隆 | 赤字決算を受けた経皮吸収型製剤への経営資源集中 1980年の赤字決算を受け、1981年5月に44歳で社長へ就いた中冨博隆氏が、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤へ経営資源を集中させた判断。総合製薬をめざす道を採らず、サロンパスに源を持つ製剤技術を一点で深める路線を選んだ。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中冨博隆 | 経皮吸収型製剤(TTS)へ経営資源を集中 | ★★ | ||
| 中冨博隆 | ヒサミツ ファルマセウティカ ド ブラジル リミターダを設立 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 連結子会社のヒサミツ アメリカ インコーポレイテッドを設立 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 宇都宮工場が竣工 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 筑波研究所が竣工 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 東京支店を品川区西五反田へ移転 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 東京本社を開設 | ★ | ||
| 中冨博隆 | ヒサミツ ベトナム ファーマシューティカル カンパニーリミテッドを設立 | ★ | ||
| 1995〜2009年モーラステープの大ヒットと「貼る文化」の世界戦略──エスエス事業取得からノーベン買収へ | 中冨博隆 | ヒサミツ ファルマセウティカ デ マナウス リミターダを設立 | ★ | |
| 中冨博隆 | 連結子会社のヒサミツ ユーケー リミテッドを設立 | ★ | ||
| 中冨博隆 | エスエス製薬の医療用医薬品事業を吸収分割で譲り受け、医療用の品ぞろえを広げる 2004年5月21日、久光製薬とエスエス製薬は、エスエス製薬の医療用医薬品事業を分割して2005年4月1日付で久光製薬へ譲渡することで合意した。休眠会社の株式会社バイオメディクスへ事業を移し、久光製薬がその全株式を取得する吸収分割方式で、譲受後に同社は久光メディカル株式会社へ商号を改めた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 中冨博隆 | 連結子会社のヒサミツ ユーエス インコーポレイテッドを設立 | ★ | ||
| 中冨博隆 | 米ノーベン・ファーマシューティカルズの株式公開買付けによる完全子会社化 2009年7月14日、久光製薬は米フロリダ州の医薬品会社ノーベン・ファーマシューティカルズを株式公開買付けにより完全子会社化すると発表した。買付価格は1株16.50ドル、既に取得していた4.8%を含めた買収総額は約430百万ドル(約400億円)で、同年8月に買収を完了した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2010〜2025年世代交代とコロナ禍を越えて──全身作用型貼付剤で挑むグローバル展開 | 中冨博隆 | 大阪証券取引所を上場廃止 | ★ | |
| 中冨博隆 | 連結子会社の久光製薬技術諮詢(北京)有限公司を設立 | ★ | ||
| 中冨一榮 | 連結子会社の久光製葯有限公司を設立 | ★ | ||
| 中冨一榮 | 連結子会社の久光製藥有限公司を設立 | ★ | ||
| 中冨一榮 | 連結子会社のヒサミツ イタリア S.r.l.を設立 | ★ | ||
| 中冨一榮 | ヒサミツ ファーマシューティカル マレーシア Sdn.Bhd.を設立 | ★ | ||
| 中冨一榮 | 通信販売事業を吸収分割により連結子会社の久光ウエルネスへ承継 | ★★ | ||
| 中冨一榮 | 中冨一榮氏の資産管理会社・大洋興産がMBOを決議 | ★★ | ||
| 中冨一榮 | MBOのTOBが成立(2026年2月20日)。5月ごろ上場廃止の見込み | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(久光製薬)