久光製薬 の歴史

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創業 1847年
創業者 久光仁平
創業地 佐賀県鳥栖市
創業
1847年、久光仁平氏が肥前国田代(現在の佐賀県鳥栖市)で製薬・売薬の店『小松屋』を創業した。行商人が家庭へ薬箱を預けて回る九州の配置売薬の地で、1869年に丸薬『奇神丹』を売り出し、1871年には屋号を久光常英堂へ改めている。1903年12月には久光兄弟合名会社が設立され、初代社長に中冨三郎氏が就任した。1907年発売の貼り薬『朝日万金膏』が看板となり、膏薬を患部へ貼るという商品の系譜がここで定まる。1934年には黒い膏体が肌に残る難点を解いた白い貼付剤『サロンパス』を発売し、1936年からは後に社長となる中冨正義氏が銭湯で入浴客に貼って回った。1951年2月に久光兄弟合名・三養基製薬・田代鉱機工業の三社が合併して株式会社となった。ただし全国に知られたのは社名ではなく製品名で、商号を久光製薬へ改めるのは1965年4月である。
決断
赤字の翌年に就任した創業家の社長が、34年かけて会社を一剤型へ絞った。1980年、大衆薬市場の成熟でサロンパスに依存する収益構造は赤字決算に行き着く。翌1981年5月、中冨博隆氏が44歳で代表取締役社長に就任し、総合路線をやめ、薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤へ経営資源を集中した。1988年発売の医療用モーラス、1995年発売のモーラステープが採算のよい医療用の収益源となり、看板の大衆薬と主力事業はこの時期に別物になった。2000年2月には更年期障害治療剤エストラーナを発売し、消炎鎮痛にとどまらない全身作用型へ適応を広げている。2005年4月にはエスエス製薬の医療用医薬品事業を吸収分割で譲り受け、貼付剤に偏っていた医療用の品ぞろえとMRの陣容を一度に厚くした。
現況
180年続いた同族企業は、2026年に株式市場から離れた。同年1月に中冨一榮氏の資産管理会社である大洋興産がMBOを決議し、2月20日に公開買付けが成立している。数字で追える最後の2025年2月期は、売上高1560億円・営業利益189億円・当期純利益218億円で、コロナ禍に1145億円まで減少した売上を4年で戻した。地域別では日本824億円に対し米国389億円・その他347億円と、海外が売上の47%を占める。2009年に約400億円で完全子会社化した米ノーベン由来の統合失調症治療剤SECUADOは2020年3月に米国で発売され、消炎鎮痛から全身作用型への移行が製品として形になった。2024年2月には新研究拠点が竣工し、非公開化のあとも研究と本社は創業の地の鳥栖に残っている。
競合
大衆薬で名を売った同業が事業を広げるなかで、久光製薬は剤型を狭めた。市場の成熟という同じ条件に、同業は扱う品目を増やす側で応じている。ロート製薬がメンソレータムのブランドを源流ごと取得して化粧品へ広げたのに対し、久光製薬は貼るという一つの剤型に載せる薬効を入れ替えて医療用へ移った。武田薬品工業が大衆薬事業を投資ファンドへ売却したのも、大衆薬の看板を残さない決着である。国内の外用鎮痛消炎剤で得た位置は高齢者の処方に支えられ、伸びは人口構成に縛られる。海外では米ノーベンを取得して全身作用型の足場を作ったが、2025年2月期の米国売上389億円は日本824億円の半分に達しない。国内で築いた剤型の優位を米国の処方へ移せるかどうかが、次の10年の売上を決める。
久光製薬:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2006年2月期2025年2月期

創業ストーリー 田代売薬の小松屋から国民薬サロンパスへ──九州の配置薬業に生まれた貼り薬の原点 (1847年〜)

田代売薬の小松屋から国民薬サロンパスへ──九州の配置薬業に生まれた貼り薬の原点

配置売薬の里に生まれた小松屋と久光兄弟合名会社

1847年(弘化4年)、久光仁平氏[1]がこの地で製薬・売薬の店『小松屋』を創業した。行商人が家庭に薬箱を預けて回る九州の配置売薬の伝統に連なる幕末生まれの小さな売薬商であり、会社は今日までこの年を創業年と数えている。1869年には丸薬『奇神丹』を売り出し、1871年には屋号を小松屋から久光常英堂[2]へ改めた。創業から170年以上を経てもなお九州本社を創業の地・鳥栖に置き続けている点に、この会社の土地との結び付きの強さが表れている。

    • [1]1847年(弘化4年)に久光仁平が佐賀県鳥栖市田代地区で小松屋を創業した
    • [2]1869年に「奇神丹」を発売し、1871年に小松屋から久光常英堂へ改称(久光与市)した

1903年12月、売薬製造販売を目的とする久光兄弟合名会社が設立され[3]、個人商店から会社組織へ移行した。初代社長には中冨三郎氏が就き[4]、以後の経営は中冨家が担った。1907年に発売した貼り薬『朝日万金膏』[5]は同社の看板商品となり、膏薬を患部に貼って治すという、後のサロンパスへつながる商品系譜がこの時期に固まった。全国に売薬行商の販路を張り巡らせた地方の製薬業者という姿が、大正から昭和初期にかけての同社の基本形であり、貼り薬はその中核であり続けた。売薬の里・田代で培われた製造と行商のノウハウが、そのまま会社の骨格になった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1903年12月に売薬製造販売を目的として久光兄弟合名会社を設立した
    • [4]久光兄弟合名会社の設立時の社長は中冨三郎である
    • [5]1907年に「朝日万金膏」を発売した
    • [1]1847年(弘化4年)に久光仁平が佐賀県鳥栖市田代地区で小松屋を創業した
    • [2]1869年に「奇神丹」を発売し、1871年に小松屋から久光常英堂へ改称(久光与市)した
    • [4]久光兄弟合名会社の設立時の社長は中冨三郎である
    • [5]1907年に「朝日万金膏」を発売した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [3]1903年12月に売薬製造販売を目的として久光兄弟合名会社を設立した

白い貼り薬サロンパスの誕生と実物宣伝の攻勢

1934年、久光兄弟合名会社は白い貼り薬『サロンパス』を発売した[6]。看板商品の朝日万金膏には黒い膏体が皮膚に残るという難点があり、これを解決するためゴムを基剤とする白色貼付剤の開発に挑んだ成果である。商品名は主成分のサリチル酸メチルと、剤型を表すプラスターを組み合わせて発想され[7]、対外的にはフランス語で社交場を意味する『サロン』に『パス』を結び付けた名前として説明された。

販売を支えたのは徹底した宣伝であった。発売2年後の1936年には、後に社長となる中冨正義氏が銭湯で入浴客にサロンパスを貼って回る『実物宣伝』を展開し[8]、戦後はコマーシャルソングを制作して電波に乗せた。もっとも有名になったのは会社名ではなく製品名であり、この『サロンパスの会社』という顔は、その後も長く久光製薬の対外イメージを規定した。

三社合併から株式上場へ──資本市場への接続

戦時から戦後にかけて、事業は複数の会社に分かれて営まれた。1944年5月に医薬品製造の三養基製薬株式会社が、1948年2[9]月には鉱山機械その他鍛造品を手掛ける田代鉱機工業株式会社が設立されている。1951年2月、久光兄弟合名会社とこの2社が合併して久光兄弟株式会社が発足し[10]、現在まで続く会社組織の直接の出発点となった。1952年に大阪、1957年に東京へ出張所を開設して販売網を全国へ広げ、1960年11月には台湾に合弁会社の久光製薬股份有限公司を設立して[11]、本体の商号変更に先立ち海外に『久光製薬』の名の足場を築いた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1944年5月に三養基製薬株式会社、1948年2月に田代鉱機工業株式会社が設立された
    • [10]1951年2月に三社が合併し商号を久光兄弟株式会社と変更した
    • [11]1952年7月に大阪出張所、1957年3月に東京出張所を開設し、1960年11月に台湾に合弁会社久光製薬股份有限公司を設立した

1962年9月、久光兄弟は東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所に株式を上場し[12]、1964年8月には大阪証券取引所市場第二部にも上場した[13]。高度経済成長期、テレビ広告に乗った大衆薬は家庭の常備品として普及が進んでおり、全国区の知名度を持つサロンパスを擁する同社にとって、資本市場への接続は自然な成長の道筋であった。幕末の売薬商から数えて100年余り、九州の同族企業は上場企業としての体裁を整え、次の時代に向けて社名と事業構造を作り替えた。社名が製品名の知名度に追い付くのは、この直後の商号変更を待ってのことであった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [12]1962年9月に東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所に上場した
    • [13]1964年8月に大阪証券取引所市場第二部に上場した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1944年5月に三養基製薬株式会社、1948年2月に田代鉱機工業株式会社が設立された
    • [10]1951年2月に三社が合併し商号を久光兄弟株式会社と変更した
    • [11]1952年7月に大阪出張所、1957年3月に東京出張所を開設し、1960年11月に台湾に合弁会社久光製薬股份有限公司を設立した
    • [12]1962年9月に東京証券取引所市場第二部と福岡証券取引所に上場した
    • [13]1964年8月に大阪証券取引所市場第二部に上場した

久光製薬への改称と赤字転落──貼付剤特化への決断とモーラスの誕生

久光製薬への商号変更と東証一部への指定替え

1965年4月、久光兄弟株式会社は商号を久光製薬株式会社[14]へ改めた。製品名が先に全国区となった会社が、社名をそれに合わせた改称であり、1960年設立の台湾合弁会社が名乗っていた『久光製薬』の名を本体が後から採った形でもある。1966年に名古屋、1970年に札幌へ出張所を開設して国内販売網を固め、製品面では1968年に『サロンパスE』、1971年には水分を含む湿布剤『サロンシップ』を発売して[15]、一般用貼付剤の品ぞろえを広げた。同じ1971年5月には創業の地に鳥栖研究所を竣工させ[16]、研究開発の拠点も整えている。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1965年4月に商号を久光製薬株式会社に変更した
    • [16]1971年5月に鳥栖研究所が竣工した
    • [15]1968年にサロンパスE、1971年にサロンシップを発売した

資本市場での位置も一段上がった。1971年9月に名古屋証券取引所市場第二部へ上場し[17]、1972年7月には東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部への指定替えを果たした[18]。1975年4月にはインドネシアに合弁会社P.T.サロンパスインドネシアを設立し[19]、台湾に続くアジアの生産・販売拠点を確保している。もっとも、この時期の収益の柱はなお一般用のサロンパス群であり、テレビ広告を主戦場とする大衆薬各社との競争は年々厳しさを増していた。大衆薬市場の伸びに寄り掛かった成長であったことが、後の苦境の伏線となった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1971年9月に名古屋証券取引所市場第二部に上場した
    • [18]1972年7月に東京・大阪・名古屋証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
    • [19]1975年4月にインドネシアに合弁会社P.T.サロンパスインドネシアを設立した
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1965年4月に商号を久光製薬株式会社に変更した
    • [16]1971年5月に鳥栖研究所が竣工した
    • [17]1971年9月に名古屋証券取引所市場第二部に上場した
    • [18]1972年7月に東京・大阪・名古屋証券取引所市場第一部へ指定替えとなった
    • [19]1975年4月にインドネシアに合弁会社P.T.サロンパスインドネシアを設立した
    • [15]1968年にサロンパスE、1971年にサロンシップを発売した

1980年の赤字決算と中冨博隆社長の集中戦略

一部上場で整った歩みは、1980年前後に大きくつまずいた。日本家庭薬協会の記録には、1980年に久光製薬が赤字決算に陥ったことが記されている[20]。大衆薬市場の成熟でサロンパスに頼る収益構造は行き詰まり、中堅製薬企業として限られた経営資源をどこへ振り向けるのかという問いを突き付けられた。この危機が、その後の久光製薬の性格を決める転機となる。何でも手掛ける総合路線ではなく、一つの技術に賭ける専業路線への入口であった。

1981年5月、創業家の中冨博隆氏が44歳で代表取締役社長に就任[21]した。1966年の入社から15年、常務からの昇格である。新社長は『お客様第一主義』を企業哲学として掲げ[22]、自社の強みを問い直した末に、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤への経営資源の集中を選び取った。後年、中冨博隆社長はこの時期の判断を『自社の強み、技術力、ブランド力を検討して、経皮吸収型製剤に経営資源を集中させてきた結果だ』[引用元]と語っている。以後34年に及ぶ長期政権の下で、久光製薬は貼付剤一本に絞り込んだ企業へと姿を変えた。

医療用モーラス発売がひらいた連続増益の道

生産・研究面でも、1987年6月に宇都宮工場、1990年6月に筑波研究所を竣工させ[23]、九州の外に医療用シフトを支える拠点を整えた。大衆薬の会社が主力を医療用へ移す、静かだが決定的な転換であった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1987年6月に宇都宮工場、1990年6月に筑波研究所が竣工した

海外展開も同じ時期に骨格ができた。1986年1月にブラジル、1987年4月には米国に販売子会社を設立し、1994年9月にはベトナムに生産子会社を設けて[24]、台湾・インドネシアと合わせた海外生産・販売網を広げた。再建の成果は数字にも表れ、1999年12月の会社説明によれば、経常利益は8期連続、当期純利益は17期連続の増益を続けていた[25]。1980年の赤字転落から数えれば、中冨博隆社長の下でほぼ一貫して利益を伸ばし続けた計算であり、貼付剤への集中という選択の正しさを裏付ける実績となった。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [24]1986年1月にブラジル、1987年4月に米国、1994年9月にベトナムへ子会社を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 2000年1月号
    • [25]1999年12月時点で経常利益は8期連続、当期利益は17期連続の増益であった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1987年6月に宇都宮工場、1990年6月に筑波研究所が竣工した
    • [24]1986年1月にブラジル、1987年4月に米国、1994年9月にベトナムへ子会社を設立した
  • 証券アナリストジャーナル 2000年1月号
    • [25]1999年12月時点で経常利益は8期連続、当期利益は17期連続の増益であった

モーラステープの大ヒットと「貼る文化」の世界戦略──エスエス事業取得からノーベン買収へ

世代交代とコロナ禍を越えて──全身作用型貼付剤で挑むグローバル展開

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久光製薬の沿革1903〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1847〜1964年田代売薬の小松屋から国民薬サロンパスへ──九州の配置薬業に生まれた貼り薬の原点久光兄弟合名会社を設立
三養基製薬を設立
田代鉱機工業を設立
久光兄弟合名・三養基製薬・田代鉱機工業の三社合併による株式会社化

1951年2月、久光兄弟合名会社が三養基製薬株式会社と田代鉱機工業株式会社を合併し、商号を久光兄弟株式会社へ改めた。1903年から続いた合名会社の形をここで畳み、株式会社として再出発した判断であり、現在の久光製薬へ直接つながる会社組織の出発点となった。新会社の社長には中冨正義氏が就いた。

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★★★
久光兄弟に商号変更
大阪出張所を開設
東京出張所を開設
合弁会社の久光製薬股份有限公司を設立
東京証券取引所市場第二部・福岡証券取引所に上場
大阪証券取引所市場第二部に上場
1965〜1994年久光製薬への改称と赤字転落──貼付剤特化への決断とモーラスの誕生商号を久光製薬に変更
名古屋出張所を開設
札幌出張所を開設
鳥栖研究所が竣工
名古屋証券取引所市場第二部に上場
東京証券取引所・大阪、名古屋証券取引所市場第一部に指定替え
合弁会社のP.T.サロンパスインドネシアを設立
中冨博隆赤字決算を受けた経皮吸収型製剤への経営資源集中

1980年の赤字決算を受け、1981年5月に44歳で社長へ就いた中冨博隆氏が、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤へ経営資源を集中させた判断。総合製薬をめざす道を採らず、サロンパスに源を持つ製剤技術を一点で深める路線を選んだ。

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★★★
中冨博隆経皮吸収型製剤(TTS)へ経営資源を集中★★
中冨博隆ヒサミツ ファルマセウティカ ド ブラジル リミターダを設立
中冨博隆連結子会社のヒサミツ アメリカ インコーポレイテッドを設立
中冨博隆宇都宮工場が竣工
中冨博隆筑波研究所が竣工
中冨博隆東京支店を品川区西五反田へ移転
中冨博隆東京本社を開設
中冨博隆ヒサミツ ベトナム ファーマシューティカル カンパニーリミテッドを設立
1995〜2009年モーラステープの大ヒットと「貼る文化」の世界戦略──エスエス事業取得からノーベン買収へ中冨博隆ヒサミツ ファルマセウティカ デ マナウス リミターダを設立
中冨博隆連結子会社のヒサミツ ユーケー リミテッドを設立
中冨博隆エスエス製薬の医療用医薬品事業を吸収分割で譲り受け、医療用の品ぞろえを広げる

2004年5月21日、久光製薬とエスエス製薬は、エスエス製薬の医療用医薬品事業を分割して2005年4月1日付で久光製薬へ譲渡することで合意した。休眠会社の株式会社バイオメディクスへ事業を移し、久光製薬がその全株式を取得する吸収分割方式で、譲受後に同社は久光メディカル株式会社へ商号を改めた。

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★★★
中冨博隆連結子会社のヒサミツ ユーエス インコーポレイテッドを設立
中冨博隆米ノーベン・ファーマシューティカルズの株式公開買付けによる完全子会社化

2009年7月14日、久光製薬は米フロリダ州の医薬品会社ノーベン・ファーマシューティカルズを株式公開買付けにより完全子会社化すると発表した。買付価格は1株16.50ドル、既に取得していた4.8%を含めた買収総額は約430百万ドル(約400億円)で、同年8月に買収を完了した。

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★★★
2010〜2025年世代交代とコロナ禍を越えて──全身作用型貼付剤で挑むグローバル展開中冨博隆大阪証券取引所を上場廃止
中冨博隆連結子会社の久光製薬技術諮詢(北京)有限公司を設立
中冨一榮連結子会社の久光製葯有限公司を設立
中冨一榮連結子会社の久光製藥有限公司を設立
中冨一榮連結子会社のヒサミツ イタリア S.r.l.を設立
中冨一榮ヒサミツ ファーマシューティカル マレーシア Sdn.Bhd.を設立
中冨一榮通信販売事業を吸収分割により連結子会社の久光ウエルネスへ承継★★
中冨一榮中冨一榮氏の資産管理会社・大洋興産がMBOを決議★★
中冨一榮MBOのTOBが成立(2026年2月20日)。5月ごろ上場廃止の見込み★★
出典・参考

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