久光製薬赤字決算を受けた経皮吸収型製剤への経営資源集中

大衆薬のサロンパスで食べてきた会社が、なぜ総合路線を捨てて貼り薬一本に絞り込んだのか

時期 1981年5月
意思決定者(推定) 中冨博隆 社長
論点 収益構造の立て直しと事業領域の絞り込み
概要
1980年の赤字決算を受け、1981年5月に44歳で社長へ就いた中冨博隆氏が、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤へ経営資源を集中させた判断。総合製薬をめざす道を採らず、サロンパスに源を持つ製剤技術を一点で深める路線を選んだ。
背景
大衆薬市場が成熟し、テレビ広告に頼るサロンパス中心の収益構造は伸びしろを失っていた。1980年、久光製薬は赤字決算に陥る。中堅製薬として限られた研究開発費をどこへ投じるかという問いが、経営の前に置かれた。
内容
皮膚刺激を抑える技術と経皮吸収性を高める技術を組み合わせた経皮吸収治療システム(TTS)を会社の中核技術と定め、一般用貼付剤に加えて医療用の経皮吸収型製剤へ開発を寄せた。1988年5月に医療用消炎鎮痛剤「モーラス」を発売し、1987年に宇都宮工場、1990年に筑波研究所を整えている。
含意
採算のよい医療用が加わったことで収益の性格が変わり、1999年12月時点で経常利益は8期連続、当期利益は17期連続の増益となった。1999年2月期の売上高491億円のうち鎮痛消炎貼付剤が90%を占める、専業に近い会社ができあがった。
筆者の見解

総合製薬にならないと決めた年

1981年の絞り込みで捨てられたのは、売れない商品ではなく、総合製薬になるという道であった。前年に赤字を出した会社が普通に採るのは不採算品の整理か別分野への進出であり、同年5月に44歳で社長へ就いた中冨博隆氏はどちらも主眼に置いていない。1934年発売のサロンパスは看板のまま残し、その中にある皮膚刺激を抑える技術と経皮吸収性を高める技術だけを抜き出す。二つを合わせて経皮吸収治療システムと名づけ、会社の中核技術に据えた。

サロンパスに源を持つ製剤技術、という定義の仕方が、行き先と行き止まりを同時に決めたとみることができる。皮膚から薬を通す技術と定めたからこそ、売り先を薬局の店頭から医師の処方へ移すことができ、1988年5月の医療用消炎鎮痛剤モーラスが成立する。同じ定義を持つかぎり、飲み薬にも注射剤にも出ていけない。数字になるまでには二十年近くを要し、1999年2月期には売上高491億円の90%を鎮痛消炎貼付剤が占めた。絞り込んだ会社にできる拡大は、市場を選び直すことではなく、選んだ市場の物差しを書き替えることであった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

大衆薬の成熟と1980年の赤字決算

1972年7月に東京・大阪・名古屋の各証券取引所で市場第一部へ指定替えを果たすまで、久光製薬の歩みは順調であった。収益の柱は一般用のサロンパス群であり、テレビ広告を主戦場とする大衆薬各社との競争のなかで、知名度の高さが売上を支えていた。ところが大衆薬市場そのものの伸びが鈍ると、この構造の限界が表に出る。1980年、同社は赤字決算に陥った[1][2]

製品面では1968年に「サロンパスE」、1971年に水分を含む湿布剤「サロンシップ」を出し、1971年5月には創業の地に鳥栖研究所を構えていた。品ぞろえも研究拠点も一般用の延長線上にあり、医療用の柱は育っていない。中堅製薬として使える研究開発費は限られ、どの領域に賭けるかを決めないまま総合路線を追えば体力が尽きる、という位置に会社は立っていた[3]

44歳の社長交代

1981年5月、中冨正義氏が取締役会長に退き、中冨博隆氏が代表取締役社長に就いた。1966年2月の入社から15年、1979年5月に常務取締役となってからの昇格であり、1937年2月生まれの新社長は就任時44歳であった。中冨社長はまず「お客様第一主義」を企業哲学として掲げる。後年の説明でも、これに徹することが株主に報いる道でもあるという信念で経営に当たってきた、と語っている[4][5][6]

決断

選んだのは、貼り薬という一点

中冨博隆社長が採った道は、事業領域を広げて赤字を薄める方向ではなかった。自社の強みを問い直したうえで、蓄積のある貼付剤、なかでも薬効成分を皮膚から吸収させる経皮吸収型製剤へ経営資源を集中させる。後年、中冨社長はこの時期の判断を「自社の強み、技術力、ブランド力を検討して、経皮吸収型製剤に経営資源を集中させてきた結果だ[7]」と説明している。

集中の対象になった技術には名前が与えられた。経皮吸収治療システム(TTS)で、皮膚に貼った薬剤が皮膚を通じて患部あるいは全身へ持続的に作用させる仕組みを指す。同社はこれを、皮膚刺激性を少なくする技術と経皮吸収性を高める技術を融合・進化させたもの、すなわち1934年発売のサロンパスに源を持つ製剤技術と位置づけた。看板商品を捨てるのではなく、看板の中身を技術として抽出し直す絞り込みであった[8]

医療用への越境と設備の裏づけ

絞り込みは、売り先の変更をともなった。1988年5月、同社は医療用の経皮吸収型消炎鎮痛剤「モーラス」を発売する。薬局の店頭で消費者に選ばれる大衆薬と、医師が処方する医療用医薬品では、必要な営業も承認手続きも別物であった。一般用に比べて採算のよい医療用へ足を踏み入れたことで、収益拡大が本格化した[9]

生産と研究の裏づけも、九州の外へ広がった。1987年6月に宇都宮工場、1990年6月に筑波研究所が竣工している。創業の地・鳥栖の研究所が改良と新製品の仕上げを担い、筑波が基礎と製剤設計を受け持つ分担が、この設備投資でできあがった。技術に賭けると決めた以上、その技術を作る場所を先に用意する必要があった[10][11]

結果

連続増益と、貼付剤90%の会社

集中の成果は、二十年近い時間をかけて数字に出た。1999年12月の会社説明によれば、経常利益は8期連続、当期利益は17期連続の増益を続け、株主資本利益率は1995年2月期の5.3%から1999年2月期の10.7%まで上がっていた。1999年2月期の売上高491億円のうち、鎮痛消炎貼付剤が90%を占めている。1980年の赤字から数えて、ほぼ一貫して利益を伸ばした計算になる[12]

収益の中身も入れ替わった。1999年2月期には医療用貼付剤が売上高の58%を占め、売上原価率は32%まで下がっている。週刊東洋経済は後年、1985年以降の増収・増益・増配の連続期数で全上場企業の首位に久光製薬を挙げ、そのきっかけを1988年のモーラス発売に求めた。サロンパスの会社という世間の見方と、稼ぎ頭の実態は、この時期すでに離れていた[13][14]

一点集中を世界標準へ延ばす

絞り込んだ技術は、次に国境の外へ向けられた。1999年から2000年にかけて中冨博隆社長が繰り返し語った基本方針は、貼付剤の技術と市場における優位性の維持、世界戦略の推進、TTS研究開発の重点的・集中的な推進の3点であった。当時すでに製品は50カ国へ輸出され、研究体制は筑波を主体に米カリフォルニアとロンドンへ分かれていた[15]

標準づくりにも手を伸ばした。貼付剤には世界標準がないとして、水分を含むパップ剤と含まないパッチ剤という自社の剤型分類を世界共通にすること、両剤の世界標準処方と包材の標準化を進めることを掲げ、厚生省への剤形分類の提案や米FDAへの技術データ提出を行っている。一社の絞り込みを、業界の物差しの側へ押し出そうとする動きであった[16]

出典・参考

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