発売年度に37億円だった一つの抗生物質が、6年後には薬効構成の40.9%を占めるに至った。藤沢薬品工業が選んだのは、品目を広く分散させて危険を薄める1960年代の型を捨て、セファメジンという単一製品の伸びに全体を委ねることであった。販売高の6%以上を研究開発へ投じ、新製品比率を40%以上に保ってきた蓄積があったからこそ、一製品への傾斜を怖れずに済んだとみられる。
ただし、経常利益で武田薬品工業を抜いても、売上高では武田を100として34.8にとどまった。逆転は収益性の一点で起きたもので、規模の差は縮まっていない。しかもその収益性は、抗生物質と神経系薬剤の2区分で66.6%という偏りの裏返しでもあった。"下剋上"と呼ばれた決算は、開発力次第で順位が動くという見方を業界に残した一方、同じ偏りが大型新薬の寿命とともに逆向きへ働く危うさも抱えていた。1978年1月、49歳で社長へ就任した藤澤友吉郎氏が引き継いだのは、その両面であった。