藤沢薬品工業抗生物質セファメジンへの集中と、主力薬効の抗生物質・神経系への絞り込み

品目の分散を保つか、大型新薬に寄せるか——経常利益で武田薬品工業を上回るまでの6年

時期 1977年3月
意思決定者(推定) 早川三郎 社長
論点 主力製品の集中と研究開発
概要
1971年8月に発売した抗生物質セファメジンを軸に薬効構成を組み替え、1977年3月期に経常利益191億円で武田薬品工業の168億円を上回った一連の経営判断。同期の売上高は1013億円で、5年前と比べて売上高2.4倍、経常利益2.8倍に伸びた。
背景
1961年3月期の事業別売上はビタミン剤・ホルモン剤28.7%、神経系薬剤23.6%、抗生物質・化学療法剤23.5%と分散し、抗生物質は3番手にとどまっていた。同社は販売高の6%以上を研究開発へ投じ、新製品比率40%以上を保っていた。
内容
セファメジンは発売年度に37億円を売り上げ、1976年度には年商300億円を超えた。最盛期の月商は27億円、ライセンス輸出は60カ国に及ぶ。1977年3月期の薬効分類別では抗生物質40.9%、神経系薬剤25.7%で、この2区分が66.6%を占めた。
含意
逆転は経常利益に限られ、売上高では武田を100として34.8にとどまった。序列の固まっていた医薬品業界に、開発力次第で下位が上位の収益を上回りうることを示した一方、単一製品への傾斜という課題も残した。
筆者の見解

一製品に構成の四割を託すということ

発売年度に37億円だった一つの抗生物質が、6年後には薬効構成の40.9%を占めるに至った。藤沢薬品工業が選んだのは、品目を広く分散させて危険を薄める1960年代の型を捨て、セファメジンという単一製品の伸びに全体を委ねることであった。販売高の6%以上を研究開発へ投じ、新製品比率を40%以上に保ってきた蓄積があったからこそ、一製品への傾斜を怖れずに済んだとみられる。

ただし、経常利益で武田薬品工業を抜いても、売上高では武田を100として34.8にとどまった。逆転は収益性の一点で起きたもので、規模の差は縮まっていない。しかもその収益性は、抗生物質と神経系薬剤の2区分で66.6%という偏りの裏返しでもあった。「下剋上」と呼ばれた決算は、開発力次第で順位が動くという見方を業界に残した一方、同じ偏りが大型新薬の寿命とともに逆向きへ働く危うさも抱えていた。1978年1月、49歳で社長へ就いた藤澤友吉郎氏が引き継いだのは、その両面であった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

品目を分散させていた1960年代の売上構成

1961年3月期の半期の事業別売上をみると、ビタミン剤・ホルモン剤が28.7%で首位に立ち、神経系薬剤が23.6%、抗生物質・化学療法剤が23.5%と続いた。残りは他社商品12.4%、自社製品その他5.7%、消化器系薬剤3.2%、循環器・呼吸器系薬剤2.9%へ細かく分かれる。藤沢薬品工業にとって抗生物質は、上位3区分が横並びで拮抗するなかの一つにすぎなかった[1]

品目を広く持つ構えは、1960年代を通じて同社の特徴に数えられた。1968年の時点でイルガピリン、キシロカイン、プリンペラン、トリコマイシンなど主要10品目群が全売上高の66%を占め、そのうち80%以上が医家向けの医薬であった。年間売上高は220億円、利益は14.5億円で、5年前のおよそ3倍に伸びていた。輸出もトリコマイシンを中心に60余カ国へ及んだ[2]

販売高の6%を研究へ回す型

分散した品目を支えたのは、新製品を絶えず入れ替える研究開発の型であった。同社は独創品を世に出すことを掲げ、販売高の6%以上を常に研究開発へ投じていた。成果を測る物差しには新製品比率——過去5年間に発売した製品が当該年度の売上高に占める割合——を置き、これを40%以上に保った。新薬が売上を押し上げる循環を、指標のかたちで自らに課していた[3]

もっとも、業界での藤沢の評判は研究よりも販売にあった。日経ビジネスは1973年9月、同社を「商売の藤沢」と呼び、その商売の会社が技術力をつけてきたらおそろしい会社になるという見方と、評判ほどでもないという見方が業界筋で分かれていると伝えた。記事はそのうえで、おそろしい会社になる可能性の方が強いと見立てている。根拠に置かれたのが、1971年夏に発売した抗生物質セファメジンの伸びであった[4]

決断

セファメジンへの傾斜

1971年8月に発売したセファメジンは、副作用が少ない強力な抗生物質として注目を集め、発売年度に37億円を売り上げた。当時の同社の年商は400億円規模で、単一の新製品としては異例の立ち上がりであった。開発中の新抗生物質ピシクロマイシンにも期待が寄せられ、抗生物質は一品目の当たりにとどまらない主力へ育った[5]

伸びは発売から数年たっても止まらなかった。セファメジンの売上高は1976年度に年商300億円を超え、最盛期の月商は27億円に達した。国内で売るだけでなく、製造技術をライセンス供与するかたちで60カ国へ輸出した。1961年3月期に半期23.5%の一区分だった抗生物質が、単一製品だけで会社の売上高の三分の一近くを生む規模へ変わった[6]

薬効構成の組み替えと、それを許した株主構成

セファメジンの伸びは、藤沢薬品工業の売上構成そのものを書き換えた。1977年3月期の薬効分類別では抗生物質が40.9%、神経系薬剤が25.7%を占め、この2区分だけで66.6%に達した。上位3区分が23〜28%で並んでいた1961年3月期の姿から、主力を2本に寄せた構成へ変わった。品目を分散させて危険を薄める型を捨て、大型新薬の伸びに全体を委ねる型へ入れ替えた[7]

集中を長く保てた背景には、動きの少ない株主構成があった。1975年3月期の大株主は三和銀行と東海銀行が各9.36%で並び、日本生命保険が7.91%、東洋信託銀行が3.59%と続く。上位10位までを銀行・生保・信託が占め、そこに従業員持株会が2.02%で加わった。目先の利益を問われにくいこの構成が、販売高の6%を研究へ回す経営を長期にわたって許したとみられる[8]

結果

経常利益での逆転と、その射程

1977年3月期、藤沢薬品工業の経常利益は191億円となり、武田薬品工業の168億円を上回った。売上高は1013億円で、5年前と比べて売上高は2.4倍、経常利益は2.8倍に伸びた。医薬品業界では武田を頂点とする序列が長く動かず、下位のメーカーが利益で盟主を抜くことは想定されていない。日経ビジネスはこの決算を「下剋上」と呼んだ[9]

ただし、逆転したのは経常利益だけであった。売上高では武田を100としたとき藤沢は34.8にとどまり、規模の差は3倍近く開いたままである。翌1978年1月、早川三郎社長の後任として、創業者の孫にあたる藤澤友吉郎氏が49歳で社長に就いた。1953年に東北大学理学部を出て入社し、東京支社長・常務・副社長を経ての昇格であった[10][11]

出典・参考
  • 株式会社年鑑 昭和37年版「藤沢薬品工業」
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)第3編 企業の歴史「藤沢薬品工業」
  • 日経ビジネス 1973年9月17日号「技術力つける“商売の藤沢薬品”」
  • 日本企業要覧 1975年版「藤沢薬品工業」
  • 日経ビジネス 1977年11月7日号「藤沢薬品工業。“盟主”武田抜いた下剋上経営の秘密」
  • 日経ビジネス 1979年3月26日号「藤澤友吉郎氏(藤沢薬品工業)登場」

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