中外製薬 の歴史

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創業 1925年
創業者 上野十蔵
創業地 東京都
創業
1925年3月、上野十蔵氏が東京で中外新薬商会を個人事業として創業した。関東大震災の後、貿易会社に勤めていた上野十蔵氏が医薬品需要の持続性に着目したもので、ドイツのゲーへ社から輸入代理を始め、製造設備を持たないまま市場へ入る手法を選んでいる。1927年には池袋に工場を建てて注射薬ザルソブロカノンの製造に移り、輸入代理から製造業へ転じた。上野十蔵氏はザルブロ一点で通すと語り、品目を増やさずに製造と販売の効率を上げる運営を続けている。1943年に株式会社へ改組し、1951年には東京大学の石館守三教授によるグルクロン酸研究をもとに解毒剤グロンサンを発売した。自前の研究所を持たないまま製造業へ移った出発点が、次の代の課題をそのまま決めている。
決断
資本の過半を渡す代わりに、創薬と初期開発だけを手元に残した。1966年3月期の無配転落と420名の早期退職は、外部の学術成果を製品化する運営の限界を示している。1970年代半ばから収益化の時期が見えない遺伝子組換え製剤ノイトロジンの研究が始まり、上市は1991年と着手から十数年を要した。その間の1987年には米アムジェン社からEPO特許訴訟を受け、1品目数百億円の後期臨床試験と海外の販売網を国内中堅では抱えられないことがはっきりする。2001年12月、スイスのロシュと戦略的アライアンスの基本契約を結んで株式の過半を渡し、2003年3月末の保有比率は50.13%に達した。上場と創薬の自律性を保つ条件と引き換えに後期開発と海外販売を相手へ委ねた分担が、この会社の現在の利益率を生んでいる。
現況
売上の半分近くが、そのまま営業利益として残る。2025年12月期の売上収益1兆2579億円に対し、営業利益は5983億円、当期純利益は4340億円で、営業利益率は47.6%に達した。後期臨床試験と海外での販売をロシュが担うため、販売費及び一般管理費は1165億円と売上の1割に満たない。製品の側では、2005年に発売した国産初の抗体医薬アクテムラに続き、血友病Aのエミシズマブも自社で創製している。研究の拠点は2023年3月に富士御殿場と鎌倉の2カ所を閉鎖し、同年4月に稼働した中外ライフサイエンスパーク横浜へ集約した。創薬と初期開発だけを担う分業が、連結従業員7872人で1兆円超の売上を立てる構成を作っている。
競合
創った薬は世界で売れているが、売る相手を選ぶのは親会社である。国内中堅が海外の販売網をどう得るかという同じ問いに、同業は別の答えを出した。第一三共がアストラゼネカと製品ごとに利益と費用を折半したのに対し、経営権は自社に残している。塩野義製薬が英ViiV Healthcareの株式を持ってHIV薬のロイヤリティを受け取るのは、販売そのものを他社へ預ける形である。中外製薬はその中間にあたり、株式の過半を渡す代わりにロシュ導入品の国内独占販売権を得た。1987年のEPO特許訴訟で露呈した資本規模の制約は、これで解けている。競争の焦点は国内の売り場でも薬価でもなく、ロシュが世界で売りたいと考える薬を横浜の研究所が出し続けられるかにある。
中外製薬:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1996年3月期2025年12月期

創業ストーリー 「ザルブロ一点張り」が築いた単一製品依存 (1923年〜)

輸入代理から注射薬製造への踏み出し

1923年の関東大震災後[1]、貿易会社に勤めていた上野十蔵氏は医薬品需要の持続性に着目し、1925年3月に個人事業として中外新薬商会を創業した[2]。ドイツのゲーへ社から医薬品の輸入代理を開始し、製造設備を持たずに市場参入する手法を選んだ。1927年には池袋に工場を新設して医療用注射薬[3]『ザルソブロカノン』の製造を始め、輸入代理から製造業への転換を果たした。上野氏は自らザルブロ一点で通すと語り[4]、単一製品へ経営資源を集中させ、多角化よりも既存製品の製造と販売の効率化を選び続けた。ゲーへ社との輸入契約が途絶えるリスクと、少数製品への集中投資という選択が、戦前の中外製薬の骨格を決めた。

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は上野十蔵
    • [2]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
    • [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った

1936年に高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年に株式会社へ組織変更して資本調達の基盤を整えた[5]。戦前の中外製薬は研究開発投資を限定的にとどめ、少数製品への集中投資と供給能力の積み上げで事業を運営した。上野氏は『書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です』[引用元]と述懐しており[6]、研究開発力と人材の制約が製品範囲を規定していたことを本人も認めていた。輸入代理の延長線上にある事業モデルは、自前の研究基盤を持たないまま製造業へ移行するという構造的な弱さを抱えていた。戦後、上野氏が『日本の復興にはまず薬屋が必要』[引用元]と語ったように、事業拡張の原動力は需要予測であり、自社の研究力ではなかった。

  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1943年に株式会社へ組織変更した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
    • [1]創業者は上野十蔵
    • [2]1925年3月に上野十蔵が個人事業として中外新薬商会を創業した
    • [3]1927年に池袋に工場を新設し医薬品(注射薬「ザルソブロカノン」)の製造に着手した
    • [5]1943年に株式会社へ組織変更した
  • 月刊経済 1965年6月号
    • [4]上野十蔵が自ら経営方針を「ザルブロ一点張り」と語った
    • [6]上野十蔵が「書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です」と述懐した

グロンサン依存が招いた無配転落の帰結

戦後、肝機能薬への医療需要が拡大するなか、東京大学の石館守三教授によるグルクロン酸研究を工業化する機会が生まれた。1950年に特許権を取得し、1951年に注射液として解毒剤『グロンサン』を発売。月産1トンへの増産を進めるさい、社内には反対論もあったが、上野氏は『私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する』[引用元]と言い切って押し切った。[7]1954年には澱粉と希硝酸による合成法が確立され、医療用から大衆薬へと市場が広がった。自社研究所からの新薬創出ではなく、外部の学術成果を製品化する手法は、戦前の輸入代理モデルを国内発の学術基盤へ置き換えたもので、研究開発投資の規模と人材の制約をそのまま抱えた選択だった。

  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
    • [7]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った

グロンサンは中外製薬の売上の柱に育ったが、単一製品依存の高さは経営リスクとして跳ね返った。1965年には後発の田辺製薬『アスパラ』が好調な一方、対抗で投入した『オルパ』は『鳴かず飛ばず』[引用元]と報じられ、『どこに『オルカ』と皮肉を言いたくなる』[引用元]とまで評された。1964年9月には薬局向医薬品の安定需要を確保するため『中外会』制度を発足[8]させたが、過当競争に加え保健薬の買い控え傾向やカゼ薬禍事件などの悪環境が重なり、薬局向製品の売り上げが落ち込んだ。[9]その結果、1966年3月期にはグロンサンの販売不振[10]もあって業績が悪化し、無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた。この経験が研究開発の多様化と事業ポートフォリオの再考を促し、1960年に総合研究所を新設、1971年に臨床検査薬へ参入するなど製品の幅を広げる動きが始まった。ザルソブロカノンから続いた『一点張り』の運営が限界を迎え、次の軸を自前の研究から生み出す必要に迫られた時期だった。翌1970年代半ばに着手するバイオ研究は、この反省を出発点とし、無配転落の記憶が未成熟な技術領域への長期投資を支える原資となった。

  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
    • [9]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
    • [10]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた
  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
    • [7]上野十蔵が「私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する」と言い切った
  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
    • [8]1964年9月に薬局向医薬品の安定需要確保のため「中外会」制度を発足した
    • [9]「中外会」制度発足後の過当競争・保健薬の買い控え・カゼ薬禍事件などにより薬局向製品の売り上げが大きく減少した
    • [10]1966年3月期にグロンサンの販売不振などで無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた

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中外製薬の沿革1925〜2023年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1923〜1971年「ザルブロ一点張り」が築いた単一製品依存中外新薬商会を創業
医薬品製造に着手★★
上野十蔵株式会社化と「中外製薬」に商号変更
上野十蔵松永製薬所を吸収合併・松永工場を新設
上野十蔵解毒剤「グロンサン」の発売★★
上野十蔵東京証券取引所に株式上場
上野十蔵総合研究所を新設
上野十蔵無配転落・早期退職者を募集★★
上野公夫臨床検査薬に参入
1972〜2001年収益化の見えないバイオ研究に賭けた20年上野公夫Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得
佐野肇EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ
佐野肇富士御殿場研究所を新設
佐野肇ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬)
佐野肇ローヌ・プーランと合弁・中外ローヌ・プーラン設立★★
佐野肇宇都宮工場を新設
佐野肇バイオ製剤「ノイトロジン」を発売★★
永山治永山治氏が代表取締役社長に就任
永山治中外ファーマ・ユーケーを設立
永山治スイス・ロシュとの資本業務提携と経営権の過半譲渡

2001年12月、中外製薬はスイスの製薬大手ロシュと戦略的アライアンスの基本契約を結び、2002年10月に日本ロシュを吸収合併した。ロシュは公開買付けと第三者割当増資を通じて中外株の約50.1%を握り、中外はロシュ・グループの連結子会社となった。一方で上場・社名・経営陣は保たれ、中外は経営の独立を維持した。永山治社長が主導した判断である。

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★★★
2002〜2026年資本の過半をロシュへ委ねて守った創薬の自律性永山治ジェン・プローブをスピンオフ★★
永山治一般用医薬品事業をライオンに譲渡
永山治国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売
永山治鏡石工場と東北中外製薬をニプロに譲渡★★
永山治中外製薬工業 鎌倉工場を閉鎖
永山治研究子会社を設立
小坂達朗日健中外製薬を設立
小坂達朗海外子会社を再編
小坂達朗抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ)
奥田修中国における開発・販売機能を統合
奥田修富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖
奥田修中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働
出典・参考
  • 中外製薬 有価証券報告書【沿革】
  • '企業の歴史 : 明治百年'(経済春秋社編, 1968)
  • ダイヤモンド 1963年3月25日号
  • 月刊経済 1965年6月号

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