1923年の関東大震災後[1]、貿易会社に勤めていた上野十蔵氏は医薬品需要の持続性に着目し、1925年3月に個人事業として中外新薬商会を創業した[2]。ドイツのゲーへ社から医薬品の輸入代理を開始し、製造設備を持たずに市場参入する手法を選んだ。1927年には池袋に工場を新設して医療用注射薬[3]『ザルソブロカノン』の製造を始め、輸入代理から製造業への転換を果たした。上野氏は自らザルブロ一点で通すと語り[4]、単一製品へ経営資源を集中させ、多角化よりも既存製品の製造と販売の効率化を選び続けた。ゲーへ社との輸入契約が途絶えるリスクと、少数製品への集中投資という選択が、戦前の中外製薬の骨格を決めた。
1936年に高田工場を新設して生産規模を拡大し、1943年に株式会社へ組織変更して資本調達の基盤を整えた[5]。戦前の中外製薬は研究開発投資を限定的にとどめ、少数製品への集中投資と供給能力の積み上げで事業を運営した。上野氏は『書くことのできない薬は、心臓と肝臓の治療薬です』[引用元]と述懐しており[6]、研究開発力と人材の制約が製品範囲を規定していたことを本人も認めていた。輸入代理の延長線上にある事業モデルは、自前の研究基盤を持たないまま製造業へ移行するという構造的な弱さを抱えていた。戦後、上野氏が『日本の復興にはまず薬屋が必要』[引用元]と語ったように、事業拡張の原動力は需要予測であり、自社の研究力ではなかった。
戦後、肝機能薬への医療需要が拡大するなか、東京大学の石館守三教授によるグルクロン酸研究を工業化する機会が生まれた。1950年に特許権を取得し、1951年に注射液として解毒剤『グロンサン』を発売。月産1トンへの増産を進めるさい、社内には反対論もあったが、上野氏は『私は確信をもっている。しかし万が一、失敗したら、私はそのおわびに私の家、屋敷を借金のカタに提供する』[引用元]と言い切って押し切った。[7]1954年には澱粉と希硝酸による合成法が確立され、医療用から大衆薬へと市場が広がった。自社研究所からの新薬創出ではなく、外部の学術成果を製品化する手法は、戦前の輸入代理モデルを国内発の学術基盤へ置き換えたもので、研究開発投資の規模と人材の制約をそのまま抱えた選択だった。
グロンサンは中外製薬の売上の柱に育ったが、単一製品依存の高さは経営リスクとして跳ね返った。1965年には後発の田辺製薬『アスパラ』が好調な一方、対抗で投入した『オルパ』は『鳴かず飛ばず』[引用元]と報じられ、『どこに『オルカ』と皮肉を言いたくなる』[引用元]とまで評された。1964年9月には薬局向医薬品の安定需要を確保するため『中外会』制度を発足[8]させたが、過当競争に加え保健薬の買い控え傾向やカゼ薬禍事件などの悪環境が重なり、薬局向製品の売り上げが落ち込んだ。[9]その結果、1966年3月期にはグロンサンの販売不振[10]もあって業績が悪化し、無配転落と早期退職者420名の募集に追い込まれた。この経験が研究開発の多様化と事業ポートフォリオの再考を促し、1960年に総合研究所を新設、1971年に臨床検査薬へ参入するなど製品の幅を広げる動きが始まった。ザルソブロカノンから続いた『一点張り』の運営が限界を迎え、次の軸を自前の研究から生み出す必要に迫られた時期だった。翌1970年代半ばに着手するバイオ研究は、この反省を出発点とし、無配転落の記憶が未成熟な技術領域への長期投資を支える原資となった。
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|---|---|---|---|---|
| 1923〜1971年「ザルブロ一点張り」が築いた単一製品依存 | 中外新薬商会を創業 | ★ | ||
| 医薬品製造に着手 | ★★ | |||
| 上野十蔵 | 株式会社化と「中外製薬」に商号変更 | ★ | ||
| 上野十蔵 | 松永製薬所を吸収合併・松永工場を新設 | ★ | ||
| 上野十蔵 | 解毒剤「グロンサン」の発売 | ★★ | ||
| 上野十蔵 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | ||
| 上野十蔵 | 総合研究所を新設 | ★ | ||
| 上野十蔵 | 無配転落・早期退職者を募集 | ★★ | ||
| 上野公夫 | 臨床検査薬に参入 | ★ | ||
| 1972〜2001年収益化の見えないバイオ研究に賭けた20年 | 上野公夫 | Genetics Instituteに資本参加・EPOの製造販売権を取得 | ★ | |
| 佐野肇 | EPOを巡り競合の米アムジェン社から提訴・特許係争へ | ★ | ||
| 佐野肇 | 富士御殿場研究所を新設 | ★ | ||
| 佐野肇 | ジェンブローブ社を買収(DNA診断薬) | ★ | ||
| 佐野肇 | ローヌ・プーランと合弁・中外ローヌ・プーラン設立 | ★★ | ||
| 佐野肇 | 宇都宮工場を新設 | ★ | ||
| 佐野肇 | バイオ製剤「ノイトロジン」を発売 | ★★ | ||
| 永山治 | 永山治氏が代表取締役社長に就任 | ★ | ||
| 永山治 | 中外ファーマ・ユーケーを設立 | ★ | ||
| 永山治 | スイス・ロシュとの資本業務提携と経営権の過半譲渡 2001年12月、中外製薬はスイスの製薬大手ロシュと戦略的アライアンスの基本契約を結び、2002年10月に日本ロシュを吸収合併した。ロシュは公開買付けと第三者割当増資を通じて中外株の約50.1%を握り、中外はロシュ・グループの連結子会社となった。一方で上場・社名・経営陣は保たれ、中外は経営の独立を維持した。永山治社長が主導した判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 2002〜2026年資本の過半をロシュへ委ねて守った創薬の自律性 | 永山治 | ジェン・プローブをスピンオフ | ★★ | |
| 永山治 | 戦略的アライアンスに基づき日本ロシュと合併、ロシュが株式過半(約50.1%)を取得 | ★★★ | ||
| 永山治 | 一般用医薬品事業をライオンに譲渡 | ★ | ||
| 永山治 | 国産初の抗体医薬品「アクテムラ」を発売 | ★ | ||
| 永山治 | 鏡石工場と東北中外製薬をニプロに譲渡 | ★★ | ||
| 永山治 | 中外製薬工業 鎌倉工場を閉鎖 | ★ | ||
| 永山治 | 研究子会社を設立 | ★ | ||
| 小坂達朗 | 日健中外製薬を設立 | ★ | ||
| 小坂達朗 | 海外子会社を再編 | ★ | ||
| 小坂達朗 | 抗体医薬品・血友病A治療薬「ヘムライブラ」を発売(エミシズマブ) | ★ | ||
| 奥田修 | 中国における開発・販売機能を統合 | ★ | ||
| 奥田修 | 富士御殿場研究所と鎌倉研究所を閉鎖 | ★ | ||
| 奥田修 | 中外ライフサイエンスパーク横浜を稼働 | ★ |
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事実根拠:出所(中外製薬)