エンハーツとアストラゼネカ提携——がん事業への転換

2019年実施

自社創製の抗体薬物複合体を、なぜ英大手と最大69億ドルで組んだのか

時期 2019年3月
意思決定者 眞鍋淳(社長)
論点 がん事業への転換と提携の設計
概要
2019年3月、第一三共は自社創製の抗体薬物複合体(ADC)「トラスツズマブ デルクステカン(DS-8201、後のエンハーツ)」について、英アストラゼネカと日本を除く全世界での共同開発・商業化で提携した。契約一時金13.5億米ドル、達成条件しだいで支払総額は最大69億米ドル(約7590億円)に上り、がん事業を次の柱に据える転換となった。
背景
2005年の三共・第一製薬の統合で生まれた第一三共は、次の収益の柱を探していた。自社のADC技術から創製したDS-8201はHER2を標的とし、がん細胞に薬物を直接届ける仕組みで高い有効性が期待された。ただ全世界での大規模な開発・商業化には巨額の投資とリスクを伴った。
内容
提携では、日本を除く全世界でエンハーツを共同開発・商業化し、利益と開発・販売費用を両社で折半、第一三共が製造・供給を担う。アストラゼネカのがん領域の開発・販売基盤を得る一方、単独保有なら総取りだった利益の半分を渡す設計で、リスクとリターンを分け合った。
含意
エンハーツは乳がんなどで適応を広げ、第一三共の業績を牽引した。2025年3月期は前期比17.8%の増収、当期純利益は47.3%の増益と好調だった。もっとも利益折半ゆえ成長の果実はアストラゼネカと分け合う構造で、続くADC群の育成が次の課題となる。
筆者の見解

自社の技術を、速さと引き換えに世界へ

この提携の核心は、第一三共が自社で創り出したエンハーツを、あえて単独で世界展開せず、利益を折半してでもアストラゼネカと組んだ点にある。がん領域での世界規模の開発と販売には、巨額の資金と、各国の当局対応や販売網が要る。経営統合の後に次の柱を探していた第一三共にとって、その負担とリスクを一社で抱えることは重かった。利益の半分と引き換えに、開発の速さと世界での到達範囲を買った判断だったといえる。

もっとも、リスクを分け合う設計は、成長の果実も同じように分け合う。エンハーツが世界で伸びるほど、その利益の半分はアストラゼネカへ渡り、販売の拡大に伴う費用の折半も第一三共の利益率を抑える。次の課題は、エンハーツに続くダトロウェイなどのADC群を、より自社の取り分が大きい形で育てられるかにある。自社の技術を世界へ届ける速さと、その果実をどれだけ手元に残せるか——エンハーツの提携は、その二つの間で交わした取り引きだった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

経営統合後の第一三共と自社創製ADC

第一三共は、2005年に三共と第一製薬が株式移転で発足させた大手製薬会社である。循環器・生活習慣病領域などに基盤を持つ一方、経営統合の後は次の収益の柱を欠いていた。同社が自社の研究から育てたのが、独自の抗体薬物複合体(ADC)技術で創製したトラスツズマブ デルクステカン(DS-8201)である。DS-8201は、乳がんなどで多くみられるHER2というたんぱく質を標的とし、社内でがん事業の主力候補と目されていた[1]

ADCの仕組みとDS-8201への期待

抗体薬物複合体は、がん細胞の目印に結びつく抗体に、細胞を殺す薬物を連結した薬剤である。DS-8201はHER2を目印に、独自のリンカーで新規のトポイソメラーゼI阻害剤を抗体につないだ。薬物をがん細胞へ直接届けることで、高い有効性を保ちつつ全身への曝露を抑え、副作用の低減を見込める点に特徴がある。乳がんなどでの効果が早くから注目を集め、大型化への期待が高まっていた[2][3]

決断

アストラゼネカとの世界提携

2019年3月、第一三共は英アストラゼネカと、DS-8201について日本を除く全世界で共同開発・商業化する提携を締結した。第一三共が日本での独占的権利を保つ一方、それ以外の全地域で両社が単剤療法と併用療法をともに開発し、売り出す枠組みである。記者会見は中山讓治会長兼CEOが開き、同年6月に社長兼CEOへ就く眞鍋淳のもとで、がん事業を次の柱とする転換が本格化した[4]

契約の規模は、単独開発とは異なる資金の裏づけを第一三共にもたらした。アストラゼネカは契約一時金として13.5億米ドルを支払い、開発の進捗に応じて最大38億米ドル、販売の実績に応じて最大17.5億米ドルを追加で支払う。すべての条件が満たされれば支払総額は最大69億米ドル、日本円で約7590億円に達する。会見の時点で、製薬業界でも有数の規模の提携となった[5][6]

リスクとリターンを折半する設計

提携は、資金だけでなく、負担と果実の分け方も定めた。日本を除く全世界でのエンハーツの利益と、開発・販売にかかる費用は、両社で折半する。製造と供給の責任は第一三共が負う。単独で世界展開すれば利益をすべて手にできた半面、巨額の開発費と販売網の構築を一手に抱える。第一三共は利益の半分を手放す代わりに、アストラゼネカのがん領域の開発・販売基盤と資金を取り込み、リスクとリターンを分け合う道を選んだ[7]

結果

エンハーツの適応拡大と過去最高業績

提携から数年で、エンハーツは乳がんを中心に適応を広げた。2025年1月には、米国当局の一部変更承認で対象となる乳がん患者がさらに広がり、第一三共は開発マイルストンとして1億7500万ドル(約270億円)をアストラゼネカから受領した。海外での承認や販売の進捗の一つひとつが対価の受領につながる設計で、適応拡大がそのまま両社の収益に結びついた[8]

エンハーツの拡大は、第一三共の業績を押し上げた。2025年3月期の連結決算は、抗体薬物複合体エンハーツと抗凝固薬リクシアナが牽引し、売上収益は前期比17.8%の増収、当期純利益は47.3%の増益となった。奥澤宏幸社長は2025年6月、エンハーツをより早期のがん治療で使えるようにする方針を示し、一次治療への適応拡大の申請へ各国の規制当局との協議に入ると表明した[9][10]

出典・参考