1923年〜 道修町に三十年遅れた後発として ── 輸入薬の代替を国産の合成薬で果たす
- 1923年山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立
- 1937年日本初のスルファミン製剤ゲリゾン・アルバジルの製造に成功
- 1939年山之内薬品商会を組織に改組
- 1940年商号を山之内製薬に商号変更
- 1942年同系5社を吸収合併
- 1942年本社を東京・日本橋へ移転
- 1949年製剤部門を担う姉妹会社・日本医薬工業を合併
山之内製薬の業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
薬種商からではなく、研究から始めた創業
山之内製薬の母体である山之内薬品商会は、1923年4月、創業者の山内健二氏が大阪市に創立した。日本の製薬会社の多くは、江戸期以来の薬種商が輸入薬を扱ううちに自ら精製へ手を伸ばして生まれている。日露戦争後の大阪について、ある産業史は「大阪の問屋仲間でとりわけ伸びたのは輸入薬品を扱っていた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などだった。彼らは当時から小工場で薬品の精製をしており、自家の商標をつけて売り出し、商人から製薬業兼業への道を歩んでいった」と記している。道修町のその系譜に対し、山之内薬品商会は問屋の看板を持たずに出発し、最初から「医薬品の製造、主として新薬類の研究、創製に力を注いだ」。最初の製品は神経痛・リウマチ治療剤のカンポリジン注射薬だった。 [1][2][3][4][5]
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [1]1923年4月に山之内薬品商会が創立された
- [2]創業者は山内健二である
- [3]創業地は大阪市である
- [5]創業時から新薬の研究・創製に注力し、最初の製品はカンポリジン注射薬だった
- [4]道修町の武田・田辺・塩野義は輸入薬の取扱から製薬業へ転じた
後発が新薬で先発に並ぶには、輸入品が押さえている領域を国産で置き換えるしかない。1927年に東京市向島へ工場と営業所を構えたあと、山之内薬品商会は「輸入医薬品の防遏、国産医薬品の進歩」を掲げて品目を広げ、1937年にわが国最初のスルファミン製剤ゲリゾンとアルバジルの製造に成功した。化膿性疾患の治療剤として全国的に知られ、のちにスルファミン製剤の全国生産量の約30%を占めるまでになる。創業前後の日本の製薬業は、ドイツ人が特許を持つ新薬の国産化に手こずっていた。合成薬で国産化を果たしたことが、山之内薬品商会を薬種商出身の各社と分けた。 [6][7][8][9]
- [6]1927年に東京市向島へ工場と営業所を設置した
- [7]1937年に日本初のスルファミン製剤ゲリゾン・アルバジルの製造に成功した
- [8]スルファミン製剤の全国生産量の約30%を確保した
- [9]当時の新薬はドイツ人が特許権を持つものが多く国産化が困難だった
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [1]1923年4月に山之内薬品商会が創立された
- [2]創業者は山内健二である
- [3]創業地は大阪市である
- [5]創業時から新薬の研究・創製に注力し、最初の製品はカンポリジン注射薬だった
- [6]1927年に東京市向島へ工場と営業所を設置した
- [7]1937年に日本初のスルファミン製剤ゲリゾン・アルバジルの製造に成功した
- [8]スルファミン製剤の全国生産量の約30%を確保した
- [4]道修町の武田・田辺・塩野義は輸入薬の取扱から製薬業へ転じた
- [9]当時の新薬はドイツ人が特許権を持つものが多く国産化が困難だった
戦時下の合併と、大阪から東京への本拠移転
1939年3月、山之内薬品商会は資本金18万円で株式会社に改組し、翌1940年10月に商号を山之内製薬株式会社へ改めた。1942年には同系5社を合併して資本金80万円とした。この間に東京の蒲田工場と本郷の東京研究所、大阪の大和田工場、京都の山科工場を建てて増産にあたっている。同じ年、本社を東京市日本橋区小舟町へ移した。大阪で生まれた会社が、東京の薬問屋街に本拠を置き直した。翌1943年には資本金を160万円に増やし、板橋区に蓮根工場を設けてクロールスルフォン酸や工業用アセトアニリードの製造設備を整え、主要原料の自給態勢を作った。 [10][11][12][13]
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [10]1939年3月に株式会社へ改組し資本金は18万円だった
- [11]1940年10月に商号を山之内製薬株式会社へ改称した
- [12]1942年に同系5社を合併して資本金80万円となり、本社を東京市日本橋区小舟町へ移転した
- [13]1943年に資本金を160万円へ増資し、板橋区に蓮根工場を建設して原料の自給態勢を整えた
事業の版図は外地にも及んだ。日華事変のあと、奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立して現地生産を始め、北京・マニラ・広東・シンガポール・台北に営業所を置いている。原料から製剤までを国内で完結させる態勢と、外地での現地生産を、同じ時期に並行して進めた。国内では資本金が1945年9月に356万円まで積み上がった。同年11月、山内健二社長が会長に退き、専務の松島武夫氏が社長に就いている。創業者が一度経営の第一線を離れたこの交代は、外地の拠点をすべて失ったあとの再建を、別の人間の手で始めることを意味した。 [14][15][16]
- [14]奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立し現地生産を開始した
- [15]資本金は1945年9月に356万円となった
- [16]1945年11月に山内健二社長が会長となり、専務の松島武夫が社長に就任した
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [10]1939年3月に株式会社へ改組し資本金は18万円だった
- [11]1940年10月に商号を山之内製薬株式会社へ改称した
- [12]1942年に同系5社を合併して資本金80万円となり、本社を東京市日本橋区小舟町へ移転した
- [13]1943年に資本金を160万円へ増資し、板橋区に蓮根工場を建設して原料の自給態勢を整えた
- [14]奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立し現地生産を開始した
- [15]資本金は1945年9月に356万円となった
- [16]1945年11月に山内健二社長が会長となり、専務の松島武夫が社長に就任した
防疫薬剤で稼ぎ、製剤会社を吸って上場へ
戦後の再建は、販売網の張り直しと製剤部門の切り出しから始まった。1946年に福岡支店と札幌支店を開き、1947年5月には姉妹会社の日本医薬工業を設立して製剤部門を担わせている。同社の許可品目は駆虫薬ホモトニンなどを含めて約150種に達した。加えて山之内製薬は防疫薬剤に進出し、GHQの慫慂で防疫薬剤が全国配給されたとき、政府から一手配給の指定を受けている。防疫薬剤は治療薬ではないが、伝染病の抑制が占領期の課題であり、需要は安定していた。医薬品以外の領域で得た戦後の収益が、次の設備と品目の原資になった。 [17][18][19][20]
- [17]1946年に福岡支店と札幌支店を開設した
- [18]1947年5月に姉妹会社の日本医薬工業を設立し製剤部門を担わせた
- [19]日本医薬工業の許可品目は約150種に達した
- [20]防疫薬剤の全国配給にあたり政府から一手配給の指定を受けた
1949年3月、山之内製薬は日本医薬工業を合併して資本金6356万円となり、同年10月にはこれを1億円へ増資した。製剤の会社を外に置いてから2年で吸い戻した。原薬の合成から製剤、販売までを一つの法人に収めた。合併から2か月後の1949年5月、東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場した。翌1950年6月には本社を日本橋本町の新社屋へ移し、1951年12月、会長の山内健二氏が再び社長に就いている。創業から26年を経て、大阪で生まれた一商会は、東京に本社を構える上場製薬会社になった。 [21][22][23]
- [21]1949年3月に日本医薬工業を合併し資本金6356万円となり、同年10月に1億円へ増資した
- [23]1951年12月に会長の山内健二が再び社長に就任した
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [22]1949年5月に東京証券取引所および大阪証券取引所へ上場した
- [17]1946年に福岡支店と札幌支店を開設した
- [18]1947年5月に姉妹会社の日本医薬工業を設立し製剤部門を担わせた
- [19]日本医薬工業の許可品目は約150種に達した
- [20]防疫薬剤の全国配給にあたり政府から一手配給の指定を受けた
- [21]1949年3月に日本医薬工業を合併し資本金6356万円となり、同年10月に1億円へ増資した
- [23]1951年12月に会長の山内健二が再び社長に就任した
- アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】
- [22]1949年5月に東京証券取引所および大阪証券取引所へ上場した