{"title":"山之内製薬の歴史概略","sections":[{"start_year":1923,"end_year":1949,"main_title":"道修町に三十年遅れた後発として ── 輸入薬の代替を国産の合成薬で果たす","subsections":[{"title":"薬種商からではなく、研究から始めた創業","text":"山之内製薬の母体である山之内薬品商会は、1923年4月、創業者の山内健二氏が大阪市に創立した。日本の製薬会社の多くは、江戸期以来の薬種商が輸入薬を扱ううちに自ら精製へ手を伸ばして生まれている。日露戦争後の大阪について、ある産業史は「大阪の問屋仲間でとりわけ伸びたのは輸入薬品を扱っていた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などだった。彼らは当時から小工場で薬品の精製をしており、自家の商標をつけて売り出し、商人から製薬業兼業への道を歩んでいった」と記している。道修町のその系譜に対し、山之内薬品商会は問屋の看板を持たずに出発し、最初から「医薬品の製造、主として新薬類の研究、創製に力を注いだ」。最初の製品は神経痛・リウマチ治療剤のカンポリジン注射薬だった。\n\n後発が新薬で先発に並ぶには、輸入品が押さえている領域を国産で置き換えるしかない。1927年に東京市向島へ工場と営業所を構えたあと、山之内薬品商会は「輸入医薬品の防遏、国産医薬品の進歩」を掲げて品目を広げ、1937年にわが国最初のスルファミン製剤ゲリゾンとアルバジルの製造に成功した。化膿性疾患の治療剤として全国的に知られ、のちにスルファミン製剤の全国生産量の約30%を占めるまでになる。創業前後の日本の製薬業は、ドイツ人が特許を持つ新薬の国産化に手こずっていた。合成薬で国産化を果たしたことが、山之内薬品商会を薬種商出身の各社と分けた。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史「山之内製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"戦時下の合併と、大阪から東京への本拠移転","text":"1939年3月、山之内薬品商会は資本金18万円で株式会社に改組し、翌1940年10月に商号を山之内製薬株式会社へ改めた。1942年には同系5社を合併して資本金80万円とした。この間に東京の蒲田工場と本郷の東京研究所、大阪の大和田工場、京都の山科工場を建てて増産にあたっている。同じ年、本社を東京市日本橋区小舟町へ移した。大阪で生まれた会社が、東京の薬問屋街に本拠を置き直した。翌1943年には資本金を160万円に増やし、板橋区に蓮根工場を設けてクロールスルフォン酸や工業用アセトアニリードの製造設備を整え、主要原料の自給態勢を作った。\n\n事業の版図は外地にも及んだ。日華事変のあと、奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立して現地生産を始め、北京・マニラ・広東・シンガポール・台北に営業所を置いている。原料から製剤までを国内で完結させる態勢と、外地での現地生産を、同じ時期に並行して進めた。国内では資本金が1945年9月に356万円まで積み上がった。同年11月、山内健二社長が会長に退き、専務の松島武夫氏が社長に就いている。創業者が一度経営の第一線を離れたこの交代は、外地の拠点をすべて失ったあとの再建を、別の人間の手で始めることを意味した。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史「山之内製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"防疫薬剤で稼ぎ、製剤会社を吸って上場へ","text":"戦後の再建は、販売網の張り直しと製剤部門の切り出しから始まった。1946年に福岡支店と札幌支店を開き、1947年5月には姉妹会社の日本医薬工業を設立して製剤部門を担わせている。同社の許可品目は駆虫薬ホモトニンなどを含めて約150種に達した。加えて山之内製薬は防疫薬剤に進出し、GHQの慫慂で防疫薬剤が全国配給されたとき、政府から一手配給の指定を受けている。防疫薬剤は治療薬ではないが、伝染病の抑制が占領期の課題であり、需要は安定していた。医薬品以外の領域で得た戦後の収益が、次の設備と品目の原資になった。\n\n1949年3月、山之内製薬は日本医薬工業を合併して資本金6356万円となり、同年10月にはこれを1億円へ増資した。製剤の会社を外に置いてから2年で吸い戻した。原薬の合成から製剤、販売までを一つの法人に収めた。合併から2か月後の1949年5月、東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場した。翌1950年6月には本社を日本橋本町の新社屋へ移し、1951年12月、会長の山内健二氏が再び社長に就いている。創業から26年を経て、大阪で生まれた一商会は、東京に本社を構える上場製薬会社になった。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史「山之内製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日本産業史 第1巻 化学（日本経済新聞社、1994年）「化学－製薬に近代化の波」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1950,"end_year":1979,"main_title":"導入品が育てた三十年 ── ロシュとベーリンガーから受け取ったもの","subsections":[{"title":"技術提携で伸びた戦後 ── サイアジンとパラキシン","text":"戦後の医薬品業界は新薬の発見が相次ぎ、日本の各社はその国産化で伸びた。山之内製薬も同じ道を通っている。1950年に米国ロシュ社と技術提携してスルファ剤サイアジンを発売し、1954年8月には西独ベーリンガー社と提携して抗生物質クロラムフェニコールをパラキシンの名で売り出した。パラキシンの工場は1955年3月に蓮根工場内へ建てている。1955年6月期の総売上高は8億5600万円、資本金は同年5月に2億円となり、製造許可品目は約400種を数えた。スルファミン剤の会社は、この時期に各種医薬品のメーカーへ品揃えを広げている。\n\nこの伸び方は山之内製薬に固有のものではなく、業界の構造そのものだった。当時の記述は「薬種問屋的形態から発達したわが国製薬業は、海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化という経路をとつている」と整理し、その帰結として特許係争が頻発したと述べている。実際、米国パークデヴィス社と提携する三共のクロロマイセチンに対し、西独ベーリンガー社と提携する山之内・藤沢のパラキシンが争った。後に合併する2社は、このとき同じ提携先の側に並んで立っていた。導入した特許で戦う限り、争いの構図も相手も海外の提携先が決める。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史「山之内製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"製剤と合成を分けて建てた工場の系譜","text":"1960年代後半から、山之内製薬は工程ごとに工場を建て分けている。1968年11月に焼津工場が製剤工場として完成し、1974年11月には高萩工場が合成工場として立ち上がった。原薬を合成する設備と、それを錠剤や注射剤に仕上げる設備を別々の場所に置いた。合成は化学プラントに近い工程であり、製剤は無菌環境と包装の管理を要する。求められる設備も技能も異なるため、工程ごとに建て分けた。1987年5月の西根工場も製剤工場だった。導入品で品目を増やしながら、その裏では自前で原薬を作る設備を積んでいた。\n\nもっとも、この時期の山之内製薬がどれだけの規模だったかを年ごとにたどれる資料は残っていない。連結の業績が数字で追えるのは1992年3月期からで、その期の売上高は3575億円、経常利益は676億円、当期純利益は328億円である。1955年6月期の総売上高8億5600万円との間には37年の開きがあり、その間の軌跡は工場の完成年と品目の増加でしか輪郭を描けない。焼津工場と高萩工場が完成したのも、この記録の空白に含まれる期間である。導入品で伸びた時代の到達点だけが、1990年代初頭の数字として残っている。","references":[{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史「山之内製薬」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"会社銀行八十年史（1955年）第2篇 日本会社史 24_医薬品 概説","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]}]},{"start_year":1980,"end_year":1991,"main_title":"ガスターと「世界150位」の技術輸出 ── 導入する側から導出する側へ","subsections":[{"title":"「モノマネ商品」と呼ばれた第二世代","text":"1980年代、消化性潰瘍の治療は薬で完結するようになった。それまでの薬は「分泌された胃酸を中和する」ものだったが、英スミスクライン社のタガメットは「H2受容体と呼ばれる胃壁の胃酸分泌部分にフタをしてしまう仕組み」で、胃酸そのものを出させない。日経ビジネスはその衝撃を「世界中の医者の熱狂的な反響はもはや伝説的」と書き、「それまでのどんな治療方法よりも治癒率が高いため、薬を飲むだけで治ってしまい、消化器外科医が失業するという話すらあった」と伝えている。山之内製薬が1985年に発売したガスターは、このH2ブロッカーの第二世代にあたる。\n\n開発の出発点は先行品の特許だった。「タガメットの特許を見てから」始めた仕事であり、「モノマネ商品」という評も同時代についている。ただしガスターには先行品と違う点があった。「効果に対する副作用の割合が低い」ことである。1985年12月の時点で、山之内製薬はこの薬を米メルク社へ導出していた。メルクは「かつて山之内のライバルであった万有製薬を買収し、日本市場にも進出しているこの巨大企業」であり、山之内製薬は「資本力、技術力、過去の実績など何をとっても格下とみられる」側だった。日経ビジネスはこれを「\"世界150位\"の中堅企業、山之内が技術輸出をおこなった」と記している。\n\n導入した特許で国産化する側にいた会社が、自社で創った化合物を海外の巨大企業へ渡す側に回った。三共と争ったパラキシンの特許係争から30年、争いの構図を海外の提携先が決める立場から、山之内製薬はようやく外れた。導入した薬で稼ぐ限り、利益の一部は特許料として提携先へ流れ、売る地域も相手との契約が決まる。自社で創った化合物には、その制約がない。もっとも、当の経営者はガスターの成長を読み切っていたわけではない。森岡茂夫社長は7年後に「いい薬だという自負はあったが、これほど育つとは思わなかった」と振り返っている。","references":[{"title":"日経ビジネス 1985年12月19日号「特集・医薬品市場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経産業新聞 1992年3月3日「医薬・バイオこれに賭ける」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月2日号「編集長インタビュー 森岡茂夫［山之内製薬会長］倫理性を人事評価の対象に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年4月8日号「山之内製薬。欧州の生産販売網が完成 新薬テコに、攻勢強める」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経産業新聞 1989年4月14日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社／医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"森岡茂夫","role":"山之内製薬社長","date":"1992-03-03","text":"いい薬だという自負はあったが、これほど育つとは思わなかった。まさに結果は『神のみぞ知る』ですな\n国内だけでなく、海外でも、新薬を切れ目なく発売できるようにしたい","source":"日経産業新聞「医薬・バイオこれに賭ける」","paragraph":3}]},{"title":"筑波に研究を集め、欧州に自前の販売網を張る","text":"技術輸出は相手の販売力に依存する取引でもある。導出した先の営業が強ければ売れるが、その市場で自社の名は残らない。山之内製薬は並行して自前の海外拠点を築いた。導出した相手に売ってもらうだけでなく、自社の名で売る場所を欧州に持とうとした。1986年4月、アイルランドに山之内アイルランドCo., Ltd.を設立している。国内の製薬メーカーとして初の海外生産拠点にあたり、週刊東洋経済はのちに「海外展開では業界のパイオニアだ」と書いている。1991年4月には欧州の生産販売網が完成し、日経ビジネスは「新薬テコに、攻勢強める」と報じている。\n\n1989年3月、筑波研究センターが完成した。ガスターに続く新薬を自社で創り続けるには、分散した研究機能を一箇所に集め、化学合成だけでなくバイオテクノロジーによる医薬品まで手を伸ばす必要があった。導入品の国産化であれば、化合物そのものは提携先が持ってくる。自社で創るとなると、探索から薬効の評価までを自前で回さねばならず、そのための人と装置を一箇所に集める意味は大きかった。山之内製薬の野口照久副社長が「バイオ型医薬開発結実へ」と題する誌面に登場するのは、センター完成の3年後にあたる。\n\n一方で、新薬に頼る収益構造そのものを均そうとする動きもあった。1989年4月、山之内製薬は米シャクリーを傘下に収めて栄養補助食品事業に入っている。当時の同社は「病院・開業医向けの医療用医薬品の比重が売上比率99％と他社に比べて高い」会社であり、「厚生省の認可手続きや、臨床実験の推移によって新薬の発売が集中する年と、新薬が発売できない年ができ、売り上げの変動が大きくなってしまう」。年間を通じて平準に売れる商品を持つことが「永年の課題だった」と、当時の紙面は伝えている。研究への集約と、研究に依存しない収益源の確保が、同じ時期に並んで進んだ。","references":[{"title":"日経ビジネス 1985年12月19日号「特集・医薬品市場」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経産業新聞 1992年3月3日「医薬・バイオこれに賭ける」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1993年8月2日号「編集長インタビュー 森岡茂夫［山之内製薬会長］倫理性を人事評価の対象に」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1991年4月8日号「山之内製薬。欧州の生産販売網が完成 新薬テコに、攻勢強める」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経産業新聞 1989年4月14日","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社／医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"アステラス製薬 有価証券報告書【沿革】","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"森岡茂夫","role":"山之内製薬会長","date":"1993-08-02","text":"”ジリ貧”の悪循環を断つには独創技術の開発しかない。本当の独自技術の勝負を問われる時代はすぐそこに迫っている。わが国の企業にとって残された時間は刻々と減っていく。リスクは大きい。しかし、1990年代に来る医薬品の黄金時代に企業繁栄を約束するには、今、どうしても独創的な研究開発へ翔ばざる得ないのだ","source":"日経ビジネス「編集長インタビュー 倫理性を人事評価の対象に」","paragraph":3}]}]},{"start_year":1992,"end_year":2005,"main_title":"一人当たり利益で業界首位に立った会社が、単独では続けなかった理由","subsections":[{"title":"大手8社でもっとも効率のよい会社","text":"1990年代半ばの山之内製薬は、規模ではなく効率で大手8社の先頭に立っていた。1996年3月期の一人当たり売上高は7462万円で、大手8社の最下位である田辺製薬の3897万円のほぼ2倍にあたる。一人当たり経常利益はさらに開き、山之内製薬の1530万円に対し、三共が1272万円、第一製薬が1107万円で、エーザイ以下は一桁違った。藤沢薬品は412万円、塩野義製薬は329万円、田辺製薬は210万円にとどまる。主力のガスターを含む上位5品目で年商1600億円を計上し、開発中の新薬の在庫も厚かった。\n\n連結の業績も総じて伸びた。1992年3月期に売上高3575億円・経常利益676億円だったものが、2004年3月期には売上高5112億円・経常利益984億円になっている。当期純利益は328億円から601億円へ増えた。ただし一本調子ではない。1998年3月期は売上高4774億円・経常利益1004億円と数字を伸ばしながら、当期純利益だけが61億円へ落ちている。前期の419億円から7分の1である。経常利益が過去最高を更新した年に最終損益がこれだけ削られた以上、その期に特別損失として処理すべきものを抱えていたと見られる。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社／医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年8月14日号「Lineup／産業・企業 細菌胃潰瘍よサヨウナラ！？「ピロリ」除菌法上陸で3000億円市場激震」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年6月10日号「トップの履歴書 山之内製薬社長 竹中登一」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年10月13日号「小野田正愛氏［山之内製薬社長］薬も「護送船団行政」終わった」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年9月2日号「森岡茂夫氏［日本製薬団体連合会会長・山之内製薬会長］薬剤費だけの抑制論に反対」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"山之内製薬 長期業績（会社年鑑・有価証券報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"ガスターの退潮と、護送船団行政の終わり","text":"最大の収益源であったガスターは、発売から14年で市場そのものの入れ替わりに直面した。胃潰瘍などの消化性潰瘍薬は「国内では抗ガン剤さえ上回る三〇〇〇億円市場」である。その市場で「これまで、国内の消化性潰瘍薬市場は、山之内製薬『ガスター』を頂点とする『Ｈ２ブロッカー』剤が主流だった。が、欧米ではピロリ除菌需要もあり、効き目が強いＰＰＩ剤に主軸が移っている」と、1999年8月の週刊東洋経済は書いている。胃潰瘍の原因がヘリコバクター・ピロリ菌にあると分かり、抗生物質を併用して菌を除く治療が普及すれば、酸を抑え続ける薬の位置は下がる。日本の市場でも同じ置き換わりが始まった。\n\n制度の側からも収益は削られた。厚生省は4200億円にのぼる医療費削減策を進め、1998年4月にも薬価の大幅引き下げが予定されていた。市場の成長率は2%まで鈍り、業界からは「近い将来一％になってしまうのではないか」という声が出ている。山之内製薬会長の森岡茂夫氏は日本製薬団体連合会の会長として「薬剤費だけの抑制論に反対」と唱え、その翌年には社長の小野田正愛氏が「薬も『護送船団行政』終わった」と語った。薬価という価格を国が決める以上、値決めの権限を持たない産業が、値下げだけを引き受ける構図になっていた。\n\n研究開発費の絶対額は、国内の効率競争とは別の水準を要求した。当時のアナリストは「研究開発費がミニマムでも一〇〇億円は必要」と述べ、それを賄えるのは国内15社にすぎないと見ていた。だが世界の水準は違う。「チバガイギー社とサンド社が合併したノバルティスファーマ社が研究開発費二〇〇〇億円を誇るのに対し、武田薬品は六二九億円、三共が四九五億円と遠く及ばない」。国内首位の武田でさえ3分の1に届かず、武田と三共に次ぐ第三位にいた山之内製薬は、さらに下に位置した。一人当たり利益で業界の頂点にいたことと、世界で新薬を出し続けられることは、別の問題だった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社／医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年8月14日号「Lineup／産業・企業 細菌胃潰瘍よサヨウナラ！？「ピロリ」除菌法上陸で3000億円市場激震」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年6月10日号「トップの履歴書 山之内製薬社長 竹中登一」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年10月13日号「小野田正愛氏［山之内製薬社長］薬も「護送船団行政」終わった」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年9月2日号「森岡茂夫氏［日本製薬団体連合会会長・山之内製薬会長］薬剤費だけの抑制論に反対」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"山之内製薬 長期業績（会社年鑑・有価証券報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}]},{"title":"存続会社として残り、社名として消える","text":"2000年4月、研究出身の竹中登一氏が社長に就いた。1964年に入社して以来、中央研究所・開発部・創薬研究本部を歩んだ人である。就任時点の業績は良く、前期は単独で最高益、連結もそれに近づいていた。同年5月には高コレステロール治療薬を発売している。掲げた目標は「五年以内に先頭グループに仲間入りする」ことだった。裏返せば、この時点で武田薬品・三共との間には、5年かけて詰めるべき差があると社長自身が認めていた。海外ではガスターに続いて排尿障害改善剤ハルナールの欧州展開が進み、稼ぐ品目は入れ替わりつつあった。\n\n相手方から見たとき、山之内製薬は補完の相手として釣り合っていた。藤沢薬品工業は「国際評価の高い免疫抑制剤プログラフ」を持ち、移植医療という独自の領域を押さえていたが、一人当たり経常利益は412万円で山之内製薬の3分の1に満たず、1999年をめどに従業員300人の削減を決めていた。山之内製薬の側は循環器と泌尿器に強く、欧州には自前の生産販売網がある。移植医療と泌尿器・循環器では、処方する医師も、営業が回る診療科も重ならない。どちらか一方だけでは、世界の研究開発競争に必要な規模には届かなかった。\n\n2005年4月1日、山之内製薬は藤沢薬品工業と合併し、アステラス製薬が発足した。法律上、消えたのは藤沢薬品工業のほうである。山之内製薬は存続会社として法人格を保ち、商号だけをアステラス製薬へ改めた。証券コード4503はそのまま引き継がれ、有価証券報告書の期も切れずに続いている。数字で追える最後の2004年3月期で、連結売上高5112億円、従業員は9062人だった。ガスターもハルナールも製品として残り、筑波の研究所も欧州の販売網も新会社へ渡っている。残らなかったのは、1923年に大阪で始まり82年続いた山之内製薬という社名だけだった。","references":[{"title":"週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1998年1月3日号「特集 2000年に勝つ会社、負ける会社／医薬品 海外販売で格差が鮮明化」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 1999年8月14日号「Lineup／産業・企業 細菌胃潰瘍よサヨウナラ！？「ピロリ」除菌法上陸で3000億円市場激震」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"週刊東洋経済 2000年6月10日号「トップの履歴書 山之内製薬社長 竹中登一」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1997年10月13日号「小野田正愛氏［山之内製薬社長］薬も「護送船団行政」終わった」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"日経ビジネス 1996年9月2日号「森岡茂夫氏［日本製薬団体連合会会長・山之内製薬会長］薬剤費だけの抑制論に反対」","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]},{"title":"山之内製薬 長期業績（会社年鑑・有価証券報告書）","year":null,"month":null,"date":null,"url":null,"quotes":[]}],"quotes":[{"speaker":"竹中登一","role":"山之内製薬社長","date":"2000-06-10","text":"研究者でも、営業マンでも、そして企業であっても、どんな苦境でもめげないしたたかさが必要\n研究者でも常に複数のアプローチや課題を持つこと。一つがダメになっても他の攻め方、やり方があるはず","source":"週刊東洋経済「トップの履歴書」","paragraph":1}]}]}],"summary":{"title":"サマリー","text":"","qa":[{"q":"なぜ山之内製薬は、1950年代に技術導入で伸びた会社でありながら、1985年に自社創製のガスターへ賭けたのか","a":"戦後の日本の製薬業は、海外から新薬を輸入して売るか、技術特許を買って国産化する経路をとってきた。山之内製薬も1950年に米ロシュ社、1954年に西独ベーリンガー社と提携して伸びた会社である。導入品では特許料が提携先へ流れ、売る地域も契約が決まる。1985年に発売したH2ブロッカーのガスターは「タガメットの特許を見てから」開発した「モノマネ商品」と評されながら、副作用の少なさで先行品と差がつき、米メルク社へ導出された。日経ビジネスは「\"世界150位\"の中堅企業、山之内が技術輸出をおこなったわけだ」と書いている。"},{"q":"なぜ1996年に一人当たり利益で業界首位に立っていた山之内製薬は、2005年に単独での存続をやめたのか","a":"1996年3月期の山之内製薬は、一人当たり経常利益1530万円で大手8社の首位に立っていた。藤沢薬品工業は412万円、田辺製薬は210万円である。それでも単独で続けなかった理由は規模にある。当時のアナリストは研究開発費が最低でも100億円は要ると述べ、世界ではノバルティスファーマが2000億円を投じていた。国内首位の武田薬品でさえ629億円で、武田と三共に次ぐ第三位の山之内製薬はさらに下に位置した。効率で国内の頂点にいることと、世界で新薬を出し続けられることは別の問題だった。"},{"q":"なぜ山之内製薬は1985年の技術輸出が成功したのちに、1991年までかけて欧州へ自前の生産販売網を築いたのか","a":"技術輸出は相手の販売力に依存する取引で、導出した先の営業が強ければ売れるが、その市場に自社の名は残らない。山之内製薬は1986年4月、アイルランドに山之内アイルランドCo., Ltd.を設立した。国内の製薬メーカーとして初の海外生産拠点である。1991年4月には欧州の生産販売網が完成した。週刊東洋経済は同社を「海外展開では業界のパイオニアだ」と書き、ガスターに続いて排尿障害改善剤ハルナールの欧州展開も順調と伝えている。1996年3月期には、アイルランドで生産するガスターを含む主要5品目で年商1600億円を計上した。"}]}}