山之内製薬の母体である[1]山之内薬品商会は、1923年4月[2]、創業者の山内健二氏が大阪市に創立した[3]。日本の製薬会社の多くは、江戸期以来の薬種商が輸入薬を扱ううちに自ら精製へ手を伸ばして生まれている。日露戦争後の大阪について、ある産業史は『大阪の問屋仲間でとりわけ伸びたのは輸入薬品を扱っていた武田長兵衛、田辺五兵衛、塩野義三郎などだった。彼らは当時から小工場で薬品の精製をしており、自家の商標をつけて売り出し、商人から製薬業兼業への道を歩んでいった』[引用元]と記している。[4]道修町のその系譜に対し、山之内薬品商会は問屋の看板を持たずに出発し、最初から『医薬品の製造、主として新薬類の研究、創製に力を注いだ』[引用元]。最初の製品は神経痛・リウマチ治療剤のカンポリジン注射薬[5]だった。
後発が新薬で先発に並ぶには、輸入品が押さえている領域を国産で置き換えるしかない。1927年に東京市向島へ工場と営業所を構えたあと[6]、山之内薬品商会は『輸入医薬品の防遏、国産医薬品の進歩』[引用元]を掲げて品目を広げ、1937年にわが国最初のスルファミン製剤ゲリゾンとアルバジルの製造に成功した[7]。化膿性疾患の治療剤として全国的に知られ、のちにスルファミン製剤の全国生産量の約30%を占めるまでになる[8]。創業前後の日本の製薬業は、ドイツ人が特許を持つ新薬の国産化に手こずっていた[9]。合成薬で国産化を果たしたことが、山之内薬品商会を薬種商出身の各社と分けた。
1939年3月、山之内薬品商会は資本金18万円で株式会社に改組し[10]、翌1940年10月に商号を山之内製薬株式会社へ改めた[11]。1942年には同系5社を合併して資本金80万円とした。この間に東京の蒲田工場と本郷の東京研究所、大阪の大和田工場、京都の山科工場を建てて増産にあたっている。[12]同じ年、本社を東京市日本橋区小舟町へ移した。大阪で生まれた会社が、東京の薬問屋街に本拠を置き直した。翌1943年には資本金を160万円に増やし、板橋区に蓮根工場[13]を設けてクロールスルフォン酸や工業用アセトアニリードの製造設備を整え、主要原料の自給態勢を作った。
事業の版図は外地にも及んだ。日華事変のあと、奉天に満洲山之内製薬、上海に上海山之内製薬を設立[14]して現地生産を始め、北京・マニラ・広東・シンガポール・台北に営業所を置いている。原料から製剤までを国内で完結させる態勢と、外地での現地生産を、同じ時期に並行して進めた。国内では資本金が1945年9月に356万円まで積み上がった[15]。同年11月、山内健二社長が会長に退き、専務の松島武夫氏[16]が社長に就いている。創業者が一度経営の第一線を離れたこの交代は、外地の拠点をすべて失ったあとの再建を、別の人間の手で始めることを意味した。
戦後の再建は、販売網の張り直しと製剤部門の切り出しから始まった。1946年に福岡支店と札幌支店を開き[17]、1947年5月には姉妹会社の日本医薬工業を設立[18]して製剤部門を担わせている。同社の許可品目は駆虫薬ホモトニンなどを含めて約150種に達した[19]。加えて山之内製薬は防疫薬剤に進出し、GHQの慫慂で防疫薬剤が全国配給されたとき、政府から一手配給の指定[20]を受けている。防疫薬剤は治療薬ではないが、伝染病の抑制が占領期の課題であり、需要は安定していた。医薬品以外の領域で得た戦後の収益が、次の設備と品目の原資になった。
1949年3月、山之内製薬は日本医薬工業を合併して資本金6356万円となり、同年10[21]月にはこれを1億円へ増資した。製剤の会社を外に置いてから2年で吸い戻した。原薬の合成から製剤、販売までを一つの法人に収めた。合併から2か月後の1949年5月、東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場した[22]。翌1950年6月には本社を日本橋本町の新社屋へ移し、1951年12月、会長の山内健二氏が再び社長に就いている[23]。創業から26年を経て、大阪で生まれた一商会は、東京に本社を構える上場製薬会社になった。
戦後の医薬品業界は新薬の発見が相次ぎ、日本の各社はその国産化で伸びた。山之内製薬も同じ道を通っている。1950年に米国ロシュ社と技術提携してスルファ剤サイアジンを発売し[24]、1954年8月には西独ベーリンガー社[25]と提携して抗生物質クロラムフェニコールをパラキシンの名で売り出した。パラキシンの工場は1955年3月に蓮根工場内へ建てている。1955年6月期の総売上高は8億5600万円、資本金は同年5月に2億円[26]となり、製造許可品目は約400種を数えた。スルファミン剤の会社は、この時期に各種医薬品のメーカーへ品揃えを広げている。
この伸び方は山之内製薬に固有のものではなく、業界の構造そのものだった。当時の記述は『薬種問屋的形態から発達したわが国製薬業は、海外からの新薬輸入販売、技術特許を買つての国産化という経路をとつている』[引用元]と整理し、その帰結として特許係争が頻発したと述べている。実際、米国パークデヴィス社と提携する三共のクロロマイセチンに対し、西独ベーリンガー社と提携する山之内・藤沢のパラキシンが争った[27]。後に合併する2社は、このとき同じ提携先の側に並んで立っていた。導入した特許で戦う限り、争いの構図も相手も海外の提携先が決める。
1960年代後半から、山之内製薬は工程ごとに工場を建て分けている。1968年11月に焼津工場が製剤工場として完成し[28]、1974年11月には高萩工場が合成工場として立ち上がった[29]。原薬を合成する設備と、それを錠剤や注射剤に仕上げる設備を別々の場所に置いた。合成は化学プラントに近い工程であり、製剤は無菌環境と包装の管理を要する。求められる設備も技能も異なるため、工程ごとに建て分けた。1987年5月の西根工場も製剤工場[30]だった。導入品で品目を増やしながら、その裏では自前で原薬を作る設備を積んでいた。
もっとも、この時期の山之内製薬がどれだけの規模だったかを年ごとにたどれる資料は残っていない。連結の業績が数字で追えるのは1992年3月期からで、その期の売上高は3575億円、経常利益は676億円、当期純利益は328億円である。1955年6月期の総売上高8億5600万円[31]との間には37年の開きがあり、その間の軌跡は工場の完成年と品目の増加でしか輪郭を描けない。焼津工場と高萩工場が完成したのも、この記録の空白に含まれる期間である。導入品で伸びた時代の到達点だけが、1990年代初頭の数字として残っている。
1980年代、消化性潰瘍の治療は薬で完結するようになった。それまでの薬は『分泌された胃酸を中和する』ものだったが、英スミスクライン社のタガメットは『H2受容体と呼ばれる胃壁の胃酸分泌部分にフタをしてしまう仕組み』[引用元]で、胃酸そのものを出させない。日経ビジネスはその衝撃を『世界中の医者の熱狂的な反響はもはや伝説的』[引用元]と書き、『それまでのどんな治療方法よりも治癒率が高いため、薬を飲むだけで治ってしまい、消化器外科医が失業するという話すらあった』[引用元]と伝えている。山之内製薬が1985年に発売したガスターは[32]、このH2ブロッカーの第二世代にあたる。
開発の出発点は先行品の特許だった。『タガメットの特許を見てから』[引用元]始めた仕事であり、『モノマネ商品[33]』という評も同時代についている。ただしガスターには先行品と違う点があった。『効果に対する副作用の割合が低い』[引用元]ことである。1985年12月の時点で、山之内製薬はこの薬を米メルク社へ導出していた。メルクは『かつて山之内のライバルであった万有製薬を買収し、日本市場にも進出しているこの巨大企業』[引用元]であり、山之内製薬は『資本力、技術力、過去の実績など何をとっても格下とみられる』[引用元]側だった。日経ビジネスはこれを『"世界150位"の中堅企業、山之内が技術輸出をおこなった』[引用元]と記している。
導入した特許で国産化する側にいた会社が、自社で創った化合物を海外の巨大企業へ渡す側に回った。三共と争ったパラキシンの特許係争から30年、争いの構図を海外の提携先が決める立場から、山之内製薬はようやく外れた。導入した薬で稼ぐ限り、利益の一部は特許料として提携先へ流れ、売る地域も相手との契約が決まる。自社で創った化合物には、その制約がない。もっとも、当の経営者はガスターの成長を読み切っていたわけではない。森岡茂夫社長は7年後に『いい薬だという自負はあったが、これほど育つとは思わなかった』[引用元]と振り返っている。
技術輸出は相手の販売力に依存する取引でもある。導出した先の営業が強ければ売れるが、その市場で自社の名は残らない。山之内製薬は並行して自前の海外拠点を築いた。導出した相手に売ってもらうだけでなく、自社の名で売る場所を欧州に持とうとした。1986年4月、アイルランドに山之内アイルランドCo., Ltd.を設立している[34]。1991年4月には欧州の生産販売網が完成し[35]、日経ビジネスは『新薬テコに、攻勢強める』[引用元]と報じている。
1989年3月、筑波研究センターが完成[36]した。ガスターに続く新薬を自社で創り続けるには、分散した研究機能を一箇所に集め、化学合成だけでなくバイオテクノロジーによる医薬品まで手を伸ばす必要があった。導入品の国産化であれば、化合物そのものは提携先が持ってくる。自社で創るとなると、探索から薬効の評価までを自前で回さねばならず、そのための人と装置を一箇所に集める意味は大きかった。山之内製薬の野口照久副社長が『バイオ型医薬開発結実へ』[引用元]と題する誌面に登場するのは[37]、センター完成の3年後にあたる。
一方で、新薬に頼る収益構造そのものを均そうとする動きもあった。1989年4月、山之内製薬は米シャクリーを傘下[38]に収めて栄養補助食品事業に入っている。当時の同社は『病院・開業医向けの医療用医薬品の比重が売上比率99%と他社に比べて高い』[引用元]会社であり、『厚生省の認可手続きや、臨床実験の推移によって新薬の発売が集中する年と、新薬が発売できない年ができ、売り上げの変動が大きくなってしまう』[引用元]。年間を通じて平準に売れる商品を持つことが『永年の課題だった』と、当時の紙面は伝えている。研究への集約と、研究に依存しない収益源の確保が、同じ時期に並んで進んだ。
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|---|---|---|---|---|
| 1923〜1949年道修町に三十年遅れた後発として ── 輸入薬の代替を国産の合成薬で果たす | 山内健二が大阪市で山之内薬品商会を創立 | ★★ | ||
| 日本初のスルファミン製剤ゲリゾン・アルバジルの製造に成功 | ★★ | |||
| 山之内薬品商会を組織に改組 | ★ | |||
| 商号を山之内製薬に商号変更 | ★ | |||
| 同系5社を吸収合併 | ★ | |||
| 本社を東京・日本橋へ移転 | ★ | |||
| 製剤部門を担う姉妹会社・日本医薬工業を合併 | ★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| 1950〜1979年導入品が育てた三十年 ── ロシュとベーリンガーから受け取ったもの | ロシュと業務提携 | ★★ | ||
| スルファ剤「サイアジン」を発売 | ★ | |||
| 西独ベーリンガーと業務提携 | ★ | |||
| 抗生物質「パラキシン」を発売 | ★ | |||
| 焼津工場(製剤工場)が完成 | ★ | |||
| 高萩工場(合成工場)が完成 | ★ | |||
| 1980〜1991年ガスターと「世界150位」の技術輸出 ── 導入する側から導出する側へ | 自社創製のH2ブロッカー「ガスター」の発売と、米メルク社への技術輸出 1985年、山之内製薬が自社で創製したH2ブロッカーの消化性潰瘍薬ガスターを発売し、あわせて米メルク社へ技術輸出した経営判断。森岡茂夫社長のもとで、導入した特許で稼ぐ会社から、自社の化合物を海外へ渡す会社へ立場を移した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 「ガスター」を欧米へ技術輸出 | ★★ | |||
| アイルランドに山之内アイルランドCo., Ltd.を設立 | ★ | |||
| 西根工場(製剤工場)が完成 | ★ | |||
| 筑波研究センターの開設と、バイオテクノロジーを用いた医薬品への投資 1989年3月、山之内製薬は茨城県つくば市に筑波研究センターを完成させ、研究の拠点を新たに構えた。有価証券報告書の沿革に建設が記された施設として、工場以外では唯一のものにあたる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| シャクリーを子会社化 | ★★ | |||
| 栄養補助食品事業に参入 | ★ | |||
| アイルランドへの生産拠点設置と、欧州の生産販売網の自前構築 1986年4月にアイルランドへ山之内アイルランドCo., Ltd.を設立し、1991年4月に欧州の生産販売網が完成したと報じられるまで、生産から販売までを自前で築いた経営判断。国内の製薬メーカーとして初の海外生産拠点にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 1992〜2005年一人当たり利益で業界首位に立った会社が、単独では続けなかった理由 | 竹中登一氏が社長に就任 | ★ | ||
| 山之内製薬と藤沢薬品工業の合併によるアステラス製薬の誕生(2005年成立) 2005年4月、山之内製薬と藤沢薬品工業が合併し、新社名アステラス製薬として発足した案件。武田薬品に次ぐ国内第2位の製薬企業が誕生した。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(山之内製薬)