田辺製薬 の歴史

創業

1678年

創業者

田邊屋五兵衞

創業地

大阪市

直近売上高(2007/3)

1,775億円

長期業績と転換点(1978/3〜2007/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ田辺製薬は1916年に工場を建て、薬を売る商いから作る商いへ移ったのか
A 田辺製薬は1678年に田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀で創業した薬種商を始まりとし、明治中ごろは海外の医薬品を輸入して紹介する商いを営んでいた。転換を起こしたのは自社の計画ではなく、供給の断絶である。1914年に第一次世界大戦が始まると海外薬品の輸入が途絶え、輸入して売る商いが成り立たなくなった。1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建てて各種薬品の国産化に乗り出し、1925年8月には小野田工場でサリチル酸の生産を始めている。1931年には本庄工場内に研究所を設けた。製剤の工場、原薬の工場、研究所の三つが15年で揃った。
Q なぜ2001年の大正製薬との経営統合は、合意から二か月半で白紙撤回されたのか
A 2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55で、事実上は大正による田辺の買収にあたる。ところが医療用医薬品の売上は、田辺製薬の1500億円に対し大正製薬が700億円強と逆を向いていた。同年12月3日の撤回会見で両社は持株会社の位置づけと企業風土の違いを挙げたが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かさなかった。新会社の利益は大衆薬から出て医療用へ注ぐ構造となり、配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった。
Q なぜ田辺製薬は2007年に三菱ウェルファーマとの統合を選び、上場を終えたのか
A 薬価は2年に一度引き下げられ、1996年から3年連続の改定が続いた。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、自社で値段を決められない収益源を毎回削られた。1998年1月に田中登志於社長が「非常事態」を宣言して構造改革委員会を設けたが、規模は動かせない。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2007年3月期の1775億円へ減り、経常利益は322億円から323億円で横ばいだった。2007年4月に三菱ウェルファーマとの合併契約を締結し、同年10月に田辺三菱製薬が発足して1949年以来の上場を終えた

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1678年〜 道修町の薬種商が、薬を作る会社になるまで

  1. 1678年 田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
  2. 1790年 田辺五兵衞商店として薬種問屋を開業
  3. 1916年 各種薬品の国産化に着手
  4. 1925年 サリチル酸の生産を開始
  5. 1933年 個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組
  6. 1941年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
  7. 1945年 戦災で中津工場が全焼し加島・本庄両工場も3割を焼失

創業年が二つある薬種商と、道修町への移転

創業年には二つの記録が残り、一つは延宝6年、すなわち1678年に田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀へ「たなべや薬」の看板を掲げた[1]とするもの、もう一つは享保年間の1720年ごろに第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大坂の地で薬種商を営んだ[2]とするものである。二つの年には40年あまりの開きがあるが、出発点が薬種商であった点は変わらず、以後は薬種問屋の田辺屋五兵衞として続き、寛政年間には店舗を道修町へ移して田辺五兵衞商店と称した[3]。明治の中ごろに日本でも西洋医学が盛んになると、海外の優秀な医薬品を輸入して紹介する仕事に力を入れ、そこからさらに進んで医薬品の国内生産へ移った[4]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
    • [2]享保年間(1720年ごろ)第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大阪で薬種商を営んだのが濫觴
    • [3]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
    • [4]明治中ごろの西洋医学の隆盛にともなう海外の優秀な医薬品の輸入紹介と国内生産への発展

薬を売る商いから作る商いへ移らせたのは自社の計画ではなく供給の断絶で、1914年に欧州大戦が起きて海外薬品の輸入が杜絶し、輸入して売るという商いが成り立たなくなった[5]。そこで国内製造の本格化を決め、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建て、各種薬品の国産化に乗り出した[6]。工場の所在地の記録は大阪市北区と大阪市東淀川区に分かれる[7]。大戦の終結にともなう反動と関東大震災による不況を経た1925年8月には、山口県小野田市へサリチル酸とその誘導体の製造工場を持った[8]。1931年には本庄工場内に研究所を置き、薬品の改良と新薬の合成に着手した[9]

    • [5]大正3年 欧州大戦の勃発により海外薬品の輸入が杜絶したため国内製造を本格化
    • [7]本庄工場の所在地を大阪市東淀川区とする記録
    • [8]大正14年 山口県小野田市にサリチル酸とその誘導体の製造工場を設置
    • [9]昭和6年 本庄工場内に研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を実施
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [6]大正5年5月 大阪市北区に本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出す
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
    • [6]大正5年5月 大阪市北区に本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出す
    • [2]享保年間(1720年ごろ)第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大阪で薬種商を営んだのが濫觴
    • [3]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
    • [4]明治中ごろの西洋医学の隆盛にともなう海外の優秀な医薬品の輸入紹介と国内生産への発展
    • [5]大正3年 欧州大戦の勃発により海外薬品の輸入が杜絶したため国内製造を本格化
    • [7]本庄工場の所在地を大阪市東淀川区とする記録
    • [8]大正14年 山口県小野田市にサリチル酸とその誘導体の製造工場を設置
    • [9]昭和6年 本庄工場内に研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を実施

株式会社への改組と、戦時下に増えた工場

1933年12月、個人組織の田邊五兵衞商店を資本金415万円の株式会社へ改組した[10]。以後の増資は工場の拡張と結びつき、1935年に資本金を460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と積み増して工場を広げ、東京世田谷には研究所を新設した[11]。1938年から1939年にかけては大阪の加島に本格的な工場を建て[12]、生産をここに集めた。翌1939年、東京日本橋本町に東京出張所を開いて関東方面の販路開拓に当たり[14]、1940年には加島工場内へ大阪研究所を新築して本庄工場内の研究所を移した[15]。1941年には大阪市内に十三工場と中津工場を新設している[16][13]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]昭和8年12月 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(資本金415万円)
    • [12]昭和14年7月 大阪市淀川区加島に加島工場(現在の大阪工場)を建設
    • [11]昭和10年460万円・11年500万円・12年550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設
    • [13]昭和13年 大阪東淀川加島町に本格的工場を建設し生産力を集中
    • [14]昭和14年 東京日本橋本町に東京出張所を開設し関東方面の販路開拓に当たる
    • [15]昭和15年 加島工場内に大阪研究所を新築し本庄工場内の研究所を移転
    • [16]昭和16年 大阪市内に十三・中津の両工場を新設

1941年、第十四代田辺五兵衞氏が社長に就いた[17]。株式会社へ改組したのちも社長の名は初代からの襲名で通したが、社名のほうが先に変わり、1943年8月には屋号に由来する家名を残したまま社名を田邊製薬株式会社と改め[18]、あわせて社章の五輪マークを制定した[19]。翌1944年には企業整備によって国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収し、前者を京都工場、後者を柏原工場とした[20]。1945年の戦災で中津工場は全焼して放棄し、加島・本庄の両工場も三割を焼失、まもなく本社社屋と大阪研究所も焼けて[21]、生産設備と本社と研究所を同時に失った。

    • [17]昭和16年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
    • [19]昭和18年 社章の五輪マークを制定し以後製品の商標として使用
    • [20]昭和19年 企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とする
    • [21]昭和20年 戦災で中津工場が全焼、加島・本庄両工場も三割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [18]昭和18年8月 社名を田邊製薬株式会社と改称
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]昭和8年12月 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(資本金415万円)
    • [12]昭和14年7月 大阪市淀川区加島に加島工場(現在の大阪工場)を建設
    • [18]昭和18年8月 社名を田邊製薬株式会社と改称
    • [11]昭和10年460万円・11年500万円・12年550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設
    • [13]昭和13年 大阪東淀川加島町に本格的工場を建設し生産力を集中
    • [14]昭和14年 東京日本橋本町に東京出張所を開設し関東方面の販路開拓に当たる
    • [15]昭和15年 加島工場内に大阪研究所を新築し本庄工場内の研究所を移転
    • [16]昭和16年 大阪市内に十三・中津の両工場を新設
    • [17]昭和16年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
    • [19]昭和18年 社章の五輪マークを制定し以後製品の商標として使用
    • [20]昭和19年 企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とする
    • [21]昭和20年 戦災で中津工場が全焼、加島・本庄両工場も三割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失

1946年〜 戦後の再建と上場、海外子会社、そしてスモン

  1. 1946年 特別経理会社の指定を受ける(1948年9月に再建整備計画が認可され、11月に指定解除)
  2. 1949年 東京・大阪両証券取引所に株式を上場
  3. 1953年 チャールス・ファイザーとの折半出資でファイザー田辺を設立
  4. 1953年 「テラマイシン」を生産
  5. 1958年 本庄工場を閉鎖
  6. 1960年 東京工場・東京研究所を新設
  7. 1962年 台湾田辺製薬股份有限公司を設立

特別経理会社の指定から、東京・大阪への上場まで

復旧は本社工場内に大阪研究所を建て直すところから始め、1947年には本社の新社屋が竣工した[22]。財務の整理も並行し、1946年に特別経理会社の指定を受けたのち、1948年9月に再建整備計画の申請が認可されて資本金を法人改組時の415万円から3000万円へ増額し、11月に指定を解除された[23]。整理を終えた同じ1948年には東京と福岡へ支店を置いて販売網の拡充を図り[24]、あわせて経営の合理化として京都工場を閉鎖して加島工場へ移し、1949年には十三工場と柏原工場も閉めて生産力を加島工場に集中させた[25]

    • [22]昭和20年代 本社工場内に大阪研究所を再建し生産力の回復に努める・昭和22年 本社新社屋竣工
    • [23]昭和21年 特別経理会社の指定・昭和23年9月 再建整備計画認可により資本金3000万円へ増額・11月 指定解除
    • [24]昭和23年 東京・福岡に支店を設置し販売網を拡充、京都工場を閉鎖し加島工場へ移転
    • [25]昭和24年 十三工場および柏原工場を閉鎖し生産力を加島工場へ集中

1949年5月、田辺製薬の株式は東京・大阪の両証券取引所に上場した[26]。資本金はその後も積み上がり、1950年に6000万円、1951年に1億5000万円、1953年に2億3900万円、1954年8月には4億4760万円となった[27]。販売網も戦前からの東京・福岡に加え、1949年に名古屋、1951年に札幌、1954年には仙台と広島へ出張所を開いて全国に及んだ[28]。本社は大阪市東区道修町3の21に置いたままで[29]、薬種問屋として店を構えた町から動かなかった。1955年時点の事業は医薬品と工業薬品の二つで、社長の座は第十四代田辺五兵衞氏が続けていた[30]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [26]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
    • [27]資本金は昭和25年6000万円、26年1億5000万円、28年2億3900万円、29年8月4億4760万円
    • [28]昭和24年名古屋、26年札幌、29年仙台・広島に出張所を開設し販売網が全国的に拡大
    • [29]本社所在地 大阪市東区道修町3の21
    • [30]昭和30年時点 事業=医薬品・工業薬品、社長=田辺五兵衞
    • [22]昭和20年代 本社工場内に大阪研究所を再建し生産力の回復に努める・昭和22年 本社新社屋竣工
    • [23]昭和21年 特別経理会社の指定・昭和23年9月 再建整備計画認可により資本金3000万円へ増額・11月 指定解除
    • [24]昭和23年 東京・福岡に支店を設置し販売網を拡充、京都工場を閉鎖し加島工場へ移転
    • [25]昭和24年 十三工場および柏原工場を閉鎖し生産力を加島工場へ集中
    • [27]資本金は昭和25年6000万円、26年1億5000万円、28年2億3900万円、29年8月4億4760万円
    • [28]昭和24年名古屋、26年札幌、29年仙台・広島に出張所を開設し販売網が全国的に拡大
    • [29]本社所在地 大阪市東区道修町3の21
    • [30]昭和30年時点 事業=医薬品・工業薬品、社長=田辺五兵衞
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [26]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場

ファイザー田辺と栄研化学、そして海外に並べた拠点

1953年、米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンをそこで生産した[31]。当時の主製品はニッパス、テラマイシン、ベナ・ネストン、ネストンパール、ナイプレン、ロメジン、ラボナールと多岐にわたり、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった[32]。組んだ相手は外資だけではなく、1943年2月には臓器系医薬品の全国販売にあたる栄研化学と販売契約を結んで自社の販売力と卸問屋の流通網を使わせ[33]、同年5月には第三者割当増資を引き受けて資本参加し、戦後の一時期を除いて子会社として抱えた[34]

国産化のために建てた本庄工場は[35]1958年5月に閉鎖し、1960年1月には埼玉県戸田市へ東京工場と東京研究所を建てて[36]、研究の拠点を大阪と東京の二つにした。1962年9月、台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立し、海外での生産・販売に乗り出した[37]。以後の拠点は10年足らずのあいだに集まり、1970年1月に米カリフォルニア州サンディエゴへタナベU.S.A.社[38]、同年7月にインドネシア・バンドンへタナベ・アバディ社[39]、1972年12月にベルギー・ブリュッセルへタナベ ヨーロッパ社を設立して、米欧亜に足場を並べた[40]。1987年7月には台湾で二社目となる台田薬品股份有限公司を設けており[41]、最初の台湾拠点から25年が経っていた。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [35]昭和33年5月 本庄工場を閉鎖
    • [36]昭和35年1月 埼玉県戸田市に東京工場・東京研究所を建設
    • [37]昭和37年9月 台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立、海外での生産・販売に乗り出す
    • [38]昭和45年1月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
    • [39]昭和45年7月 インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社を設立
    • [40]昭和47年12月 ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
    • [41]昭和62年7月 台湾に台田薬品股份有限公司を設立
    • [31]昭和28年 米国チャールスファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立しテラマイシンを生産
    • [32]主製品はニッパス・テラマイシン・ベナネストン・ネストンパール・ナイプレン・ロメジン・ラボナール等、昭和30年4月期売上高15億6000万円
    • [33]昭和18年2月 栄研化学が臓器系医薬品の全国販売にあたり田辺製薬と販売契約を締結し、田辺製薬の販売力および流通網(卸問屋)を利用
    • [34]昭和18年5月 第三者割当増資により田辺製薬が資本参加、戦後の一時期を除き栄研化学は田辺製薬の子会社
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [35]昭和33年5月 本庄工場を閉鎖
    • [36]昭和35年1月 埼玉県戸田市に東京工場・東京研究所を建設
    • [37]昭和37年9月 台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立、海外での生産・販売に乗り出す
    • [38]昭和45年1月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
    • [39]昭和45年7月 インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社を設立
    • [40]昭和47年12月 ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
    • [41]昭和62年7月 台湾に台田薬品股份有限公司を設立

スモン ── 「キノホルム原因説」の撤回と和解

1979年3月、平林忠雄社長が肺炎で急逝し、その遺志により松原一郎氏が専務・上格常務7人を跳び越して社長へ昇格した[42]。1916年10月に島根県で生まれ、1939年に京城薬学専門学校を卒業して入社し、1951年5月から田辺製薬労働組合の組合長を20年務め、1971年12月に調査広報室主任調査員、1972年8月に総務室付室長、1974年5月に総務室長、1975年7月に取締役、1977年7月に総務担当の常務を経ての就任である[43]。本人は「自分の能力では無理だとも思ったが、経営に空白は許されないと考え引き受けた。難しい時期だけに若さを見込まれたんでしょう」と語った。 [44]

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
    • [42]肺炎で急逝した平林忠雄前社長の遺志により並み居る先輩を跳び越して社長へ昇格
    • [43]松原一郎氏 大正5年10月11日島根県生まれ、昭和14年京城薬学専門学校卒業後に入社、26年5月組合長、46年12月調査広報室主任調査員、47年8月総務室付室長、49年5月総務室長、50年7月取締役、52年7月常務、54年3月社長就任
    • [44]松原一郎氏の社長就任時の弁

就任時に最大の課題であったのがスモン問題である[45]。キノホルムによる薬害をめぐり、田辺製薬はかたくななまでに同社だけが「キノホルム原因説」を否定し続けてきたが、1979年までに事実上これを撤回し、和解するなどの新路線を打ち出した[46]。松原氏は組合長の時代に独自の調査を踏まえてスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立して硬骨漢ぶりを発揮した経緯を持つ[47]。20年におよぶ組合長の経験は社長としては異色の経歴にあたり[48]、原因説の否定から和解へ切り替えた田辺製薬を、その経歴の持ち主が率いた。

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
    • [45]最大の課題であったスモン問題
    • [46]同社だけがかたくななまでに「キノホルム原因説」を否定し続けたが、事実上これを撤回し和解するなど新路線を打ち出した
    • [47]松原一郎氏は組合長時代に独自の調査のうえスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立した
    • [48]労働組合の組合長を20年間務めた、社長としては異色の経歴

松原氏は救済と収益を並べて語り、「会社が倒れてしまってはなにもならない。患者救済を進めるためにも収益向上を図らねば」と述べた。製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問も多かった[50]が、「研究開発が実ってきて優秀な新製品が出てきており、心配はない。外国にもどんどん出していきますよ」と自信をみせている。社内の運営では「会社が決めたことは経営協議会の場で組合にも詳しく説明して、全社一丸となって経営を前進させていく[52]」方針を掲げ、最も重視するものとしてチームワークを挙げた。 [49][51]

  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
    • [49]松原一郎氏 会社の存続と患者救済をめぐる発言
    • [50]製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問が多かった
    • [51]松原一郎氏 研究開発の成果と輸出をめぐる発言
    • [52]松原一郎氏 経営協議会での組合への説明方針とチームワーク重視
  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
    • [42]肺炎で急逝した平林忠雄前社長の遺志により並み居る先輩を跳び越して社長へ昇格
    • [43]松原一郎氏 大正5年10月11日島根県生まれ、昭和14年京城薬学専門学校卒業後に入社、26年5月組合長、46年12月調査広報室主任調査員、47年8月総務室付室長、49年5月総務室長、50年7月取締役、52年7月常務、54年3月社長就任
    • [44]松原一郎氏の社長就任時の弁
    • [45]最大の課題であったスモン問題
    • [46]同社だけがかたくななまでに「キノホルム原因説」を否定し続けたが、事実上これを撤回し和解するなど新路線を打ち出した
    • [47]松原一郎氏は組合長時代に独自の調査のうえスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立した
    • [48]労働組合の組合長を20年間務めた、社長としては異色の経歴
    • [49]松原一郎氏 会社の存続と患者救済をめぐる発言
    • [50]製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問が多かった
    • [51]松原一郎氏 研究開発の成果と輸出をめぐる発言
    • [52]松原一郎氏 経営協議会での組合への説明方針とチームワーク重視

1989年〜 ヘルベッサーと薬価 ── 大手八社最下位からの非常事態宣言

  1. 1989年 千畑一郎氏が社長に就任
  2. 1991年 卸への仕切価格を全国統一
  3. 1994年 東京工場を閉鎖
  4. 1997年 立石製薬を吸収合併
  5. 1997年 田中登志於氏が社長に就任
  6. 1998年 全社員への「非常事態」宣言と構造改革委員会の設置 3年連続の薬価引き下げに、売上の7割を医療用に置く会社はどう構えたか

「値段が下がり続けているのは日本だけです」

1989年6月に社長へ就いた千畑一郎氏は、1926年8月に大阪府で生まれ、1948年3月に京都大学農学部を卒業して同年4月に入社し、1981年7月に取締役となった[53]研究畑の人物である。酵素工学や固定化生体触媒の研究で多くの受賞歴を持ち、1959年9月には「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京都大学から農学博士号[54]を受けている。就任から3年後の取材では「私の嫌いな言葉はYKK[55]」と語った。Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍[56]を指す。患者をよく診て能書きを守れば薬害はあり得ず、巨額の研究開発費を考えれば薬九層倍も今や死語で、問題は薬づけにある[57]という説明である。「私たちは捨てられるために薬を作っているのではない[58]」とも述べ、研究開発については「製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです[59]」と語った。

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [53]千畑一郎氏 1926年8月大阪府生まれ、48年3月京都大学農学部卒業・4月田辺製薬入社、81年7月取締役、89年6月社長就任
    • [54]千畑一郎氏は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、59年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号
    • [55]千畑一郎氏 嫌いな言葉としてのYKK
    • [56]YKKの内訳 Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍
    • [57]千畑一郎氏 患者を診て能書きを守れば薬害はあり得ず、薬九層倍は死語で、問題は薬づけにあるとの説明
    • [58]千畑一郎氏 薬を作る目的についての発言
    • [59]千畑一郎氏 研究開発が止まれば先はないとの発言

当時の看板は心臓病薬ヘルベッサーで、海外からも評価されて101カ国で販売され、輸出比率は19%と業界で最も高かった[60]が、米国企業の平均40%、欧州企業の80%と比べれば低い水準にとどまる[61]。欧米の大手10社と日本の大手10社を並べると売上高で5〜6倍、利益率でも欧米の20%に対し日本は平均10%の開き[62]があった。新薬の開発は10年と100億円といわれた時代から「15年、200億円」の時代に入り、国内市場だけでは投資費用の回収が難しくなった[63]。日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍に膨らみ、欧米企業が日本企業の6倍の研究費を使いながら営業利益の6割に収めている[64]のとは開きがある。千畑氏は病気の発症メカニズムを先に解明して見合う化合物を探す方向を掲げ、1989年に基礎生物研究所を設けて免疫と神経関係の研究に入り、1991年1月には米国にも免疫とアレルギー関係の基礎研究所を置いた[65]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [60]ヘルベッサーは心臓病薬として海外からも評価され101カ国で販売、輸出比率19%は業界トップ
    • [61]海外大手の輸出比率は米国企業で平均40%、欧州企業で80%
    • [62]欧米の大手10社と日本の大手10社の比較では売上高が日本の5〜6倍、利益率は日本企業平均10%に対し欧米企業20%
    • [63]新薬開発は10年・100億円の時代から15年・200億円の時代へ入り国内市場だけでは投資回収が困難
    • [64]日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍、欧米企業は6倍の研究費を使いつつ営業利益の6割に収まる
    • [65]3年前に基礎生物研究所を設立し免疫と神経関係の研究を実施、前年1月に米国へ免疫・アレルギー関係の基礎研究所を設置

医療機関向け医薬品の公定価格である薬価は2年に一度引き下げられ、1992年4月の改定では業界平均の下げ幅が8.1%に達し、下げ率の大きかった抗生物質の比重が低い田辺製薬は5.9%にとどまった[66]が、既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は小さくない[67]。この10年間で平均的な薬価は50%以下になり、米国や英国では2倍以上になっている[68]と千畑氏は述べ、「値段が下がり続けているのは日本だけです[69]」と言い切った。医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に依存し[70]、政府が差益の解消を目指して薬価を引き下げるたびに、医療機関はそれを上回る値引きを要求する。千畑氏はこれを「アリ地獄[71]」と呼び、1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし、医療機関との価格交渉をすべて卸が行う形に改めて、値引補償という名でメーカーが卸のマージンを補填する慣行を廃止した[72]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [66]1992年4月の薬価改定は業界平均8.1%の引き下げ、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%
    • [67]既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は決して小さくない
    • [68]千畑一郎氏 10年で平均薬価は50%以下、米英では2倍以上との発言
    • [69]千畑一郎氏 値下がりが続くのは日本だけとの発言
    • [70]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存
    • [71]千畑一郎氏 薬価引き下げと値引き要求の循環をアリ地獄と表現
    • [72]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一し価格交渉を卸へ一本化、値引補償によるマージン補填を廃止
  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [53]千畑一郎氏 1926年8月大阪府生まれ、48年3月京都大学農学部卒業・4月田辺製薬入社、81年7月取締役、89年6月社長就任
    • [54]千畑一郎氏は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、59年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号
    • [55]千畑一郎氏 嫌いな言葉としてのYKK
    • [56]YKKの内訳 Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍
    • [57]千畑一郎氏 患者を診て能書きを守れば薬害はあり得ず、薬九層倍は死語で、問題は薬づけにあるとの説明
    • [58]千畑一郎氏 薬を作る目的についての発言
    • [59]千畑一郎氏 研究開発が止まれば先はないとの発言
    • [60]ヘルベッサーは心臓病薬として海外からも評価され101カ国で販売、輸出比率19%は業界トップ
    • [61]海外大手の輸出比率は米国企業で平均40%、欧州企業で80%
    • [62]欧米の大手10社と日本の大手10社の比較では売上高が日本の5〜6倍、利益率は日本企業平均10%に対し欧米企業20%
    • [63]新薬開発は10年・100億円の時代から15年・200億円の時代へ入り国内市場だけでは投資回収が困難
    • [64]日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍、欧米企業は6倍の研究費を使いつつ営業利益の6割に収まる
    • [65]3年前に基礎生物研究所を設立し免疫と神経関係の研究を実施、前年1月に米国へ免疫・アレルギー関係の基礎研究所を設置
    • [66]1992年4月の薬価改定は業界平均8.1%の引き下げ、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%
    • [67]既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は決して小さくない
    • [68]千畑一郎氏 10年で平均薬価は50%以下、米英では2倍以上との発言
    • [69]千畑一郎氏 値下がりが続くのは日本だけとの発言
    • [70]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存
    • [71]千畑一郎氏 薬価引き下げと値引き要求の循環をアリ地獄と表現
    • [72]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一し価格交渉を卸へ一本化、値引補償によるマージン補填を廃止

大手八社で最下位の収益力と、「非常事態」宣言

1996年3月期の一人当たり売上高は、大手八社の首位である山之内製薬の7462万円に対し、田辺製薬は3897万円で八社の最下位だった[73]。一人当たり経常利益では差がさらに開き、山之内製薬1530万円、三共1272万円、第一製薬1107万円に対して、藤沢薬品412万円、塩野義製薬329万円、田辺製薬は210万円と山之内製薬の七分の一以下にとどまる[74]。藤沢薬品は1999年をめどに従業員300人、塩野義製薬は2001年までに1700人の削減方針を掲げた[75]が、田辺製薬は具体的な削減案を立てないまま人員が減少していた[76]。研究開発費を年100億円以上つぎ込める会社は大手八社を含む15社しかなく[77]、田辺製薬はその一角にいたものの、発売年次の古い主力品を1993年発売の降圧剤タナトリルの成長で補おうとして苦戦していた[78]

  • 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編 再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
    • [73]96年3月期の一人当たり売上高は山之内製薬7462万円に対し田辺製薬3897万円で大手八社最下位
    • [74]一人当たり経常利益は山之内製薬1530万円・三共1272万円・第一製薬1107万円に対し藤沢薬品412万円・塩野義製薬329万円・田辺製薬210万円
    • [75]藤沢薬品は99年をメドに従業員300人、塩野義製薬は2001年までに1700人を削減する方針
    • [76]田辺製薬は具体的な削減案こそ立てていないが人員は減少傾向
    • [77]研究開発費100億円超を投じられるのは大手八社を含む15社のみ
    • [78]田辺製薬は発売年次の古い主力品を93年発売の降圧剤タナトリルの成長で補おうとするが苦戦

1997年6月に社長へ就いた田中登志於氏は、1935年6月に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社し、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である[79]。前任の千畑氏と同じく京大農学部から入り、入社以来は製品企画畑を歩んで高血圧治療剤タナトリルと胃潰瘍治療剤ガストロームをはじめとする主力製品の開発に携わった[80]。自ら開発を手がけた製品には1991年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオ[81]がある。薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本で初めての製品となり[82]、厚生省の認可に時間がかかって一時は発売が難しいとみられたが、田中氏自身が厚生省と原料の供給元である中国の企業を飛び回り、年間15億円を売り上げる製品に育てた[83]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [79]田中登志於氏 1935年6月2日福井県生まれ、59年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、90年開発統括センター所長、91年取締役、94年常務、95年専務、97年6月社長就任
    • [81]田中登志於氏は59年の入社以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、自ら開発した91年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオを持つ
    • [82]ナンパオは薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本初の製品
    • [83]厚生省の認可に時間がかかり一時は発売困難とみられたが、田中登志於氏が厚生省と中国の原料供給元を飛び回り年間15億円を売り上げるまでに成長
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [80]田中登志於氏は入社以来 製品企画畑を歩み、高血圧治療剤タナトリル・胃潰瘍治療剤ガストロームをはじめとする主力製品の開発に携わった

就任から2か月後の取材で、田中氏は「この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」と述べた。厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、1998年4月には3年連続となる引き下げが約10%の幅で予想された[85]。1997年9月にはサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、80社近くが林立する新薬業界は遠くない将来に半分以下へ淘汰されるという見方も出ている[86]。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、このまま何も手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる[87]位置にいた。1998年1月、田中氏は全社員に向けて「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した[88][84]

  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [84]田中登志於氏 一年の変化は過去十年に匹敵し、七十年近くの体質強化を三年で総仕上げするとの発言
    • [86]1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げ、80社近い新薬業界が半分以下に淘汰されるとの見方
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [85]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、98年4月には3年連続で約10%の引き下げが予想された
    • [87]医療機関向け薬品が売上の7割を占め、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にあった
    • [88]1998年1月に全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針
  • 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編 再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
    • [73]96年3月期の一人当たり売上高は山之内製薬7462万円に対し田辺製薬3897万円で大手八社最下位
    • [74]一人当たり経常利益は山之内製薬1530万円・三共1272万円・第一製薬1107万円に対し藤沢薬品412万円・塩野義製薬329万円・田辺製薬210万円
    • [75]藤沢薬品は99年をメドに従業員300人、塩野義製薬は2001年までに1700人を削減する方針
    • [76]田辺製薬は具体的な削減案こそ立てていないが人員は減少傾向
    • [77]研究開発費100億円超を投じられるのは大手八社を含む15社のみ
    • [78]田辺製薬は発売年次の古い主力品を93年発売の降圧剤タナトリルの成長で補おうとするが苦戦
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [79]田中登志於氏 1935年6月2日福井県生まれ、59年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、90年開発統括センター所長、91年取締役、94年常務、95年専務、97年6月社長就任
    • [81]田中登志於氏は59年の入社以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、自ら開発した91年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオを持つ
    • [82]ナンパオは薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本初の製品
    • [83]厚生省の認可に時間がかかり一時は発売困難とみられたが、田中登志於氏が厚生省と中国の原料供給元を飛び回り年間15億円を売り上げるまでに成長
    • [85]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、98年4月には3年連続で約10%の引き下げが予想された
    • [87]医療機関向け薬品が売上の7割を占め、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にあった
    • [88]1998年1月に全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [80]田中登志於氏は入社以来 製品企画畑を歩み、高血圧治療剤タナトリル・胃潰瘍治療剤ガストロームをはじめとする主力製品の開発に携わった
    • [84]田中登志於氏 一年の変化は過去十年に匹敵し、七十年近くの体質強化を三年で総仕上げするとの発言
    • [86]1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げ、80社近い新薬業界が半分以下に淘汰されるとの見方

国内の工場を減らし、中国と米国に拠点を置いた

国内では工場を減らし、1994年12月に東京工場を閉じ[89]、1997年4月には東京都葛飾区の立石製薬を吸収合併して立石工場とした[90]が、その立石工場そのものも二年後に閉鎖している[91]。海外では逆に拠点が増え、1993年10月に中国・天津市へ天津田辺製薬有限公司を設立し[92]、2000年12月には米ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を置いた[93]。1990年11月にサンディエゴへ設立したタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社[94]は、1970年に同じ都市へ置いたタナベU.S.A.社が販売の会社であったのに対し、研究の会社にあたる。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [89]平成6年12月 東京工場を閉鎖
    • [90]平成9年4月 東京都葛飾区の立石製薬株式会社を吸収合併し立石工場とする
    • [91]平成11年6月 立石工場を閉鎖
    • [92]平成5年10月 中国・天津市に天津田辺製薬有限公司を設立
    • [93]平成12年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を設立
    • [94]平成2年11月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立

1998年5月19日、中央薬事審議会の臨時常任部会は脳代謝改善薬を有効性なしと判断し、武田薬品工業のアバンや山之内製薬のエレンなど四成分・一四品目の販売中止と回収が決まった[95]。同時に再評価が行われていた田辺製薬のサアミオンは、プラセボに対して有用性が認められたため継続審査となった[96]。脳代謝改善剤の市場はアバンなどの有力新薬が出そろった1987年ごろから拡大し、1991年には1500億円近くに達していた[97]。主力品を残した田辺製薬の側でも、降圧剤ヘルベッサーはすでにピークアウトし、1998年春に発売を予定する高脂血症治療薬が次の柱の候補だった[98]

  • 週刊東洋経済 1998年6月20日号「[特別レポート]ローカル・ドラッグ天国(効かない薬が売れる)・日本の現実 見直しが必要なのは脳代謝改善剤だけではない」
    • [95]1998年5月19日の中央薬事審議会臨時常任部会で脳代謝改善薬が有効性なしと判断され、武田薬品工業のアバン、山之内製薬のエレンなど四成分一四品目の販売中止・回収が決定
    • [96]同時に再評価された田辺製薬のサアミオンはプラセボに対して有用性が認められ継続審査となった
    • [97]脳代謝改善剤市場はアバンなど有力新薬が出そろった87年ごろから拡大し91年には1500億円近くに達した
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「[特集]2000年に勝つ会社、負ける会社 医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
    • [98]田辺製薬は主力の降圧剤ヘルベッサーがピークアウトし、98年春発売予定の大型新薬(高脂血症治療薬)が控える
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [89]平成6年12月 東京工場を閉鎖
    • [90]平成9年4月 東京都葛飾区の立石製薬株式会社を吸収合併し立石工場とする
    • [91]平成11年6月 立石工場を閉鎖
    • [92]平成5年10月 中国・天津市に天津田辺製薬有限公司を設立
    • [93]平成12年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を設立
    • [94]平成2年11月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立
  • 週刊東洋経済 1998年6月20日号「[特別レポート]ローカル・ドラッグ天国(効かない薬が売れる)・日本の現実 見直しが必要なのは脳代謝改善剤だけではない」
    • [95]1998年5月19日の中央薬事審議会臨時常任部会で脳代謝改善薬が有効性なしと判断され、武田薬品工業のアバン、山之内製薬のエレンなど四成分一四品目の販売中止・回収が決定
    • [96]同時に再評価された田辺製薬のサアミオンはプラセボに対して有用性が認められ継続審査となった
    • [97]脳代謝改善剤市場はアバンなど有力新薬が出そろった87年ごろから拡大し91年には1500億円近くに達した
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「[特集]2000年に勝つ会社、負ける会社 医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
    • [98]田辺製薬は主力の降圧剤ヘルベッサーがピークアウトし、98年春発売予定の大型新薬(高脂血症治療薬)が控える

2001年〜 大正製薬との破談と、三菱ウェルファーマとの合併

田辺製薬の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2001年 大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回 医療用で相手の2倍を売る会社が、資本では買われる側に置かれる——その比率をのむか、のまないか
  2. 2002年 葉山夏樹氏が社長に就任
  3. 2002年 動物薬事業を大日本製薬に営業譲渡
  4. 2007年 三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足

大正田辺ファルマグループという統合案と、その解消

田中氏は1997年の取材で買収への構えも公にしており、「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」と述べていた。2001年9月、大正製薬と田辺製薬は共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55、統合後の連結売上高は4600億円で、武田薬品工業・三共に次ぎ山之内製薬と並ぶ規模になる計算である。2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺へ、大衆薬とドリンク剤を大正へ寄せる設計だった[101][99][100]

  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [99]田中登志於氏 外資による買収をめぐる発言
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [100]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立し経営統合すると発表、株式移転比率は大正1に対し田辺0.55、統合後連結売上高4600億円
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [101]2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺に、大衆薬・ドリンク剤を大正に統合する計画

売上高は大正の2700億円が田辺の1900億円を上回るが、大正の7割はリポビタンDに代表されるドリンク剤と大衆薬で、医療用は700億円強にとどまる。田辺の医療用1500億円と足せば医療用の規模は一気に増える。田辺は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーからは買収の最右翼候補と目されていた[103]。市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった。統合しても国内系の医療用で7〜8位に上がるにすぎず、新薬候補の数が双方とも十分でないためシナジー効果は小さいとアナリストは見た。大正製薬社長の上原明氏は「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須[105]」と述べている。 [102][104]

  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [102]大正製薬の売上高2700億円の7割はドリンク剤・大衆薬で医療用は700億円強、田辺製薬は売上高1900億円で医療用1500億円
    • [103]田辺製薬は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [104]発表後の両社株価は下落し、統合しても国内系の医療用で7〜8位、新薬候補が双方とも不足しシナジー効果は小さいとアナリストが評価
    • [105]大正製薬社長 上原明氏 規模拡大の必要をめぐる発言

同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表した。合意から二か月半での解消である。会見に出た大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と説明したが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった[108]。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、研究開発費のかさむ医療用へ回る設計になっており、その利益配分と主導権をめぐって溝が埋まらなかった[109][106][107]

  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [106]2001年12月3日に大正製薬と田辺製薬が経営統合の白紙撤回を発表、合意から二か月半での解消
    • [107]大平明副社長・葉山夏樹副社長 持株会社の位置づけと企業風土の違いをめぐる説明
    • [108]決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かされなかった
    • [109]新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て医療用へ回る構造で、利益配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [99]田中登志於氏 外資による買収をめぐる発言
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [100]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立し経営統合すると発表、株式移転比率は大正1に対し田辺0.55、統合後連結売上高4600億円
    • [102]大正製薬の売上高2700億円の7割はドリンク剤・大衆薬で医療用は700億円強、田辺製薬は売上高1900億円で医療用1500億円
    • [103]田辺製薬は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [104]発表後の両社株価は下落し、統合しても国内系の医療用で7〜8位、新薬候補が双方とも不足しシナジー効果は小さいとアナリストが評価
    • [105]大正製薬社長 上原明氏 規模拡大の必要をめぐる発言
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [101]2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺に、大衆薬・ドリンク剤を大正に統合する計画
    • [106]2001年12月3日に大正製薬と田辺製薬が経営統合の白紙撤回を発表、合意から二か月半での解消
    • [107]大平明副社長・葉山夏樹副社長 持株会社の位置づけと企業風土の違いをめぐる説明
    • [108]決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かされなかった
    • [109]新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て医療用へ回る構造で、利益配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった

制度を組み替えた5年と、最後の決算

2002年6月に社長へ就いた葉山夏樹氏は、1939年6月に長野県で生まれ、1962年3月に富山大学経済学部を卒業して4月に入社し、1993年10月に営業企画センター所長、1996年6月に取締役、1998年6月に常務営業本部長、1999年6月に専務営業総括、2001年6月に副社長を経ての就任である[110]。医薬品営業と卸の担当を長く務め、副社長として大正製薬との統合にもかかわった[111]。破談について葉山氏は「両社が固有の制度を持つなかで難しかった[112]」と振り返り、そのうえで「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と述べた。会社の仕組みを普遍化して再構築する必要があるとして、確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手している[114][113]

  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
    • [110]葉山夏樹氏 1939年6月28日長野県生まれ、62年3月富山大学経済学部卒業・4月田辺製薬入社、93年10月営業企画センター所長、96年6月取締役、98年6月常務営業本部長、99年6月専務営業総括、2001年6月副社長、2002年6月社長就任
    • [111]葉山夏樹氏は医薬品営業・卸の担当を長年務め、副社長として大正製薬との合併にかかわった
    • [112]葉山夏樹氏 大正製薬との統合撤回をめぐる発言
    • [113]葉山夏樹氏 統合の方向性と今後の対応をめぐる発言
    • [114]会社の仕組みを普遍化して再構築するとして確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手

人員の整理は統合の破談と前後して動き、2002年2月には430人が希望退職に応募して3月末付で退職した[115]。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2004年3月期に1736億円まで落ち、2007年3月期には1775億円へ戻した[116]。経常利益は322億円から323億円とほぼ横ばいを保ち、当期純利益は125億円から202億円へ増えている[117]。事業と拠点の切り出しも進み、2002年11月に動物薬事業を大日本製薬へ営業譲渡し[118]、2003年6月にはタナベ・アバディ社をタナベ インドネシア社へ改称[119]、同年12月に米ニュージャージー州へタナベ ファーマ デベロップメント アメリカ エルエルシーを設けた[120]。2005年10月には小野田工場を会社分割して山口県山陽小野田市に山口田辺製薬を設立し[121]、サリチル酸の生産を始めた工場は80年後に別会社となった[122]

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第102期・2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [115]第98期の従業員数には平成14年2月1日から2月28日までの希望退職に応募した430名(平成14年3月31日付で退職)を含む
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [116]連結売上高は2002年3月期1897億円、2004年3月期1736億円、2007年3月期1775億円
    • [117]経常利益は2002年3月期322億円から2007年3月期323億円、当期純利益は125億円から202億円
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [118]平成14年11月 動物薬事業を大日本製薬株式会社に営業譲渡
    • [119]タナベ・アバディ社は平成15年6月からタナベ インドネシア社に社名変更
    • [120]平成15年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ファーマ デベロップメント アメリカ エルエルシーを設立
    • [121]平成17年10月 小野田工場を会社分割し山口県山陽小野田市に山口田辺製薬株式会社を設立
    • [122]大正14年 山口県小野田市のサリチル酸製造工場が起源
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
    • [110]葉山夏樹氏 1939年6月28日長野県生まれ、62年3月富山大学経済学部卒業・4月田辺製薬入社、93年10月営業企画センター所長、96年6月取締役、98年6月常務営業本部長、99年6月専務営業総括、2001年6月副社長、2002年6月社長就任
    • [111]葉山夏樹氏は医薬品営業・卸の担当を長年務め、副社長として大正製薬との合併にかかわった
    • [112]葉山夏樹氏 大正製薬との統合撤回をめぐる発言
    • [113]葉山夏樹氏 統合の方向性と今後の対応をめぐる発言
    • [114]会社の仕組みを普遍化して再構築するとして確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第102期・2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [115]第98期の従業員数には平成14年2月1日から2月28日までの希望退職に応募した430名(平成14年3月31日付で退職)を含む
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年3月期)【主要な経営指標等の推移】
    • [116]連結売上高は2002年3月期1897億円、2004年3月期1736億円、2007年3月期1775億円
    • [117]経常利益は2002年3月期322億円から2007年3月期323億円、当期純利益は125億円から202億円
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [118]平成14年11月 動物薬事業を大日本製薬株式会社に営業譲渡
    • [119]タナベ・アバディ社は平成15年6月からタナベ インドネシア社に社名変更
    • [120]平成15年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ファーマ デベロップメント アメリカ エルエルシーを設立
    • [121]平成17年10月 小野田工場を会社分割し山口県山陽小野田市に山口田辺製薬株式会社を設立
    • [122]大正14年 山口県小野田市のサリチル酸製造工場が起源

三菱ウェルファーマとの合併と、58年の上場の終わり

2007年1月18日、三菱ウェルファーマは田辺製薬と合併の可能性について協議・検討を行っていると公表した[123]。相手は吉富製薬・ミドリ十字・三菱化学の医薬事業・東京田辺製薬という四つの流れが合わさった会社で、三菱化学は1981年に東京田辺製薬へ資本参加して24%を持ち、1999年1月に合併を発表している[124]。親会社の三菱ケミカルホールディングスには、2005年度で連結売上高の約45%を占めながら連結営業利益の約25%しか稼げない石油化学の利益変動を、連結営業利益の約27%を稼いだ医薬品の拡大で補うという事情があった[125]。合併が成立すれば売上高5000億円、売上高研究開発費比率20%で研究開発費1000億円となる計算である[126]

  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
    • [123]2007年1月18日に三菱ウェルファーマが田辺製薬と合併の可能性について協議・検討を行っていると公表
    • [125]三菱ケミカルHDは05年度で連結売上高の約45%を占めながら連結営業利益の約25%しか稼げない石油化学の利益体質安定化が課題、医薬品事業は05年度で連結営業利益の約27%を稼いだ
    • [126]田辺製薬との合併が成立すれば売上高5000億円、売上高研究開発費比率20%で研究開発費1000億円
  • 週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」
    • [124]三菱化学は1981年に東京田辺製薬へ資本参加し24%を保有、1999年1月に合併と医薬新会社への合流を発表

2007年4月、田辺製薬は三菱ウェルファーマとの合併契約書を締結した[127]。同年10月の合併により田辺三菱製薬が発足し[128]、58年続いた上場を終えた[129]。大坂・土佐堀に「たなべや薬」の看板が掛かってから329年、株式会社になってから74年である[130]。合併相手に加わっていた東京田辺製薬は東京都中央区日本橋本町に本社を置く別の会社で、1963年4月1日に銘柄コード4532で市場第二部へ上場し[131]、のちに三菱化学の資本を受けて三菱側の流れに合流していた[132]。道修町の薬種商から出た会社と、日本橋本町から出た同名の会社[133]が、田辺三菱製薬という一つの社名に収まった。

  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [127]平成19年4月 三菱ウェルファーマ株式会社と合併契約書を締結
    • [129]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
    • [130]延宝6年(1678年)の創業から329年、昭和8年12月の株式会社改組から74年
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「深層リポート02 不振の子会社を“巨額買収” 三菱ケミカルHDの危機感」
    • [128]2007年に田辺製薬と三菱ケミカルHD傘下の三菱ウェルファーマが合併して田辺三菱製薬が誕生
    • [131]東京田辺製薬株式会社 本社=東京都中央区日本橋本町2の7、上場年月日=昭和38年4月1日、銘柄コード番号4532(第二部・化学工業)
  • 週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」
    • [132]三菱化成は昭和56年に東京田辺製薬へ資本参加し、平成11年1月に合併と医薬新会社への合流を発表
    • [133]田辺製薬の本社は大阪市東区道修町3の21、東京田辺製薬の本社は東京都中央区日本橋本町2の7
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
    • [123]2007年1月18日に三菱ウェルファーマが田辺製薬と合併の可能性について協議・検討を行っていると公表
    • [125]三菱ケミカルHDは05年度で連結売上高の約45%を占めながら連結営業利益の約25%しか稼げない石油化学の利益体質安定化が課題、医薬品事業は05年度で連結営業利益の約27%を稼いだ
    • [126]田辺製薬との合併が成立すれば売上高5000億円、売上高研究開発費比率20%で研究開発費1000億円
  • 週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」
    • [124]三菱化学は1981年に東京田辺製薬へ資本参加し24%を保有、1999年1月に合併と医薬新会社への合流を発表
    • [132]三菱化成は昭和56年に東京田辺製薬へ資本参加し、平成11年1月に合併と医薬新会社への合流を発表
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
    • [127]平成19年4月 三菱ウェルファーマ株式会社と合併契約書を締結
    • [129]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
    • [130]延宝6年(1678年)の創業から329年、昭和8年12月の株式会社改組から74年
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「深層リポート02 不振の子会社を“巨額買収” 三菱ケミカルHDの危機感」
    • [128]2007年に田辺製薬と三菱ケミカルHD傘下の三菱ウェルファーマが合併して田辺三菱製薬が誕生
    • [131]東京田辺製薬株式会社 本社=東京都中央区日本橋本町2の7、上場年月日=昭和38年4月1日、銘柄コード番号4532(第二部・化学工業)
    • [133]田辺製薬の本社は大阪市東区道修町3の21、東京田辺製薬の本社は東京都中央区日本橋本町2の7

田辺製薬の沿革1678〜2007年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
田辺五兵衞商店として薬種問屋を開業
各種薬品の国産化に着手★★
サリチル酸の生産を開始
個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組
第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
田邊製薬に商号変更
戦災で中津工場が全焼し加島・本庄両工場も3割を焼失★★
特別経理会社の指定を受ける(1948年9月に再建整備計画が認可され、11月に指定解除)★★
東京・大阪両証券取引所に株式を上場
チャールス・ファイザーとの折半出資でファイザー田辺を設立★★
「テラマイシン」を生産
本庄工場を閉鎖
東京工場・東京研究所を新設
台湾田辺製薬股份有限公司を設立
カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社(のちタナベ インドネシア社)を設立
ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
台田薬品股份有限公司を設立
千畑一郎氏が社長に就任
卸への仕切価格を全国統一★★
東京工場を閉鎖
立石製薬を吸収合併
田中登志於氏が社長に就任
全社員への「非常事態」宣言と構造改革委員会の設置3年連続の薬価引き下げに、売上の7割を医療用に置く会社はどう構えたか 詳細を読む★★★
大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回医療用で相手の2倍を売る会社が、資本では買われる側に置かれる——その比率をのむか、のまないか 詳細を読む★★★
葉山夏樹氏が社長に就任
動物薬事業を大日本製薬に営業譲渡
三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足★★
出典・参考
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
  • 証券 1990年42(3)(492)「新規上場会社紹介 栄研化学株式会社」
  • 日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
  • 週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編 再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
  • 週刊東洋経済 1998年6月20日号「[特別レポート]ローカル・ドラッグ天国(効かない薬が売れる)・日本の現実 見直しが必要なのは脳代謝改善剤だけではない」
  • 週刊東洋経済 1998年1月3日号「[特集]2000年に勝つ会社、負ける会社 医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第102期・2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年3月期)【主要な経営指標等の推移】
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
  • 週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」
  • 週刊東洋経済 2019年12月7日号「深層リポート02 不振の子会社を“巨額買収” 三菱ケミカルHDの危機感」
  • 証券 1963年15(5)(168)「新規上場会社紹介(第二部・化学工業)東京田辺製薬株式会社」

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