創業年には二つの記録が残り、一つは延宝6年、すなわち1678年に田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀へ"たなべや薬"の看板を掲げたとするもの、もう一つは享保年間の1720年ごろに第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大坂の地で薬種商を営んだとするものである。二つの年には40年あまりの開きがあるが、出発点が薬種商であった点は変わらず、以後は薬種問屋の田辺屋五兵衞として続き、寛政年間には店舗を道修町へ移して田辺五兵衞商店と称した。明治の中ごろに日本でも西洋医学が盛んになると、海外の優秀な医薬品を輸入して紹介する仕事に力を入れ、そこからさらに進んで医薬品の国内生産へ移った。
薬を売る商いから作る商いへ移らせたのは自社の計画ではなく供給の断絶で、1914年に欧州大戦が起きて海外薬品の輸入が杜絶し、輸入して売るという商いが成り立たなくなった。そこで国内製造の本格化を決め、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建設し、各種薬品の国産化に乗り出した。工場の所在地の記録は大阪市北区と大阪市東淀川区に分かれる。大戦の終結にともなう反動と関東大震災による不況を経た1925年8月には、山口県小野田市へサリチル酸とその誘導体の製造工場を持った。1931年には本庄工場内に研究所を置き、薬品の改良と新薬の合成に着手した。
1933年12月、個人組織の田邊五兵衞商店を資本金415万円の株式会社へ改組した。以後の増資は工場の拡張と結びつき、1935年に資本金を460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と積み増して工場を広げ、東京世田谷には研究所を新設した。1938年から1939年にかけては大阪の加島に本格的な工場を建て、生産をここに集めた。翌1939年、東京日本橋本町に東京出張所を開設して関東方面の販路開拓に当たり、1940年には加島工場内へ大阪研究所を新築して本庄工場内の研究所を移した。1941年には大阪市内に13工場と中津工場を新設している。
1941年、第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任した。株式会社へ改組したのちも社長の名は初代からの襲名で通したが、社名のほうが先に変わり、1943年8月には屋号に由来する家名を残したまま社名を田邊製薬株式会社と改め、あわせて社章の五輪マークを制定した。翌1944年には企業整備によって国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収し、前者を京都工場、後者を柏原工場とした。1945年の戦災で中津工場は全焼して放棄し、加島・本庄の両工場も3割を焼失、まもなく本社社屋と大阪研究所も焼けて、生産設備と本社と研究所を同時に失った。
復旧は本社工場内に大阪研究所を建て直すところから始め、1947年には本社の新社屋が竣工した。財務の整理も並行し、1946年に特別経理会社の指定を受けたのち、1948年9月に再建整備計画の申請が認可されて資本金を法人改組時の415万円から3000万円へ増額し、11月に指定を解除された。整理を終えた同じ1948年には東京と福岡へ支店を開設して販売網の拡充を図り、あわせて経営の合理化として京都工場を閉鎖して加島工場へ移し、1949年には13工場と柏原工場も閉めて生産力を加島工場に集中させた。
1949年5月、田辺製薬の株式は東京・大阪の両証券取引所に上場した。資本金はその後も積み上がり、1950年に6000万円、1951年に1億5000万円、1953年に2億3900万円、1954年8月には4億4760万円となった。販売網も戦前からの東京・福岡に加え、1949年に名古屋、1951年に札幌、1954年には仙台と広島へ出張所を開設して全国に及んだ。本社は大阪市東区道修町3の21に置いたままで、薬種問屋として店を構えた町から動かなかった。1955年時点の事業は医薬品と工業薬品の二つで、社長の座は第十四代田辺五兵衞氏が続けていた。
1953年、米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンをそこで生産した。当時の主製品はニッパス、テラマイシン、ベナ・ネストン、ネストンパール、ナイプレン、ロメジン、ラボナールと多岐にわたり、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった。組んだ相手は外資だけではなく、1943年2月には臓器系医薬品の全国販売にあたる栄研化学と販売契約を締結して自社の販売力と卸問屋の流通網を使わせ、同年5月には第三者割当増資を引き受けて資本参加し、戦後の一時期を除いて子会社として抱えた。
国産化のために建てた本庄工場は1958年5月に閉鎖し、1960年1月には埼玉県戸田市へ東京工場と東京研究所を建設して、研究の拠点を大阪と東京の二つにした。1962年9月、台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立し、海外での生産・販売に乗り出した。以後の拠点は10年足らずのあいだに集まり、1970年1月に米カリフォルニア州サンディエゴへタナベU.S.A.社、同年7月にインドネシア・バンドンへタナベ・アバディ社、1972年12月にベルギー・ブリュッセルへタナベ ヨーロッパ社を設立して、米欧亜に足場を並べた。1987年7月には台湾で二社目となる台田薬品股份有限公司を設けており、最初の台湾拠点から25年が経っていた。
1979年3月、平林忠雄社長が肺炎で急逝し、その遺志により松原一郎氏が専務・上格常務7人を跳び越して社長へ昇格した。1916年10月に島根県で生まれ、1939年に京城薬学専門学校を卒業して入社し、1951年5月から田辺製薬労働組合の組合長を20年務め、1971年12月に調査広報室主任調査員、1972年8月に総務室付室長、1974年5月に総務室長、1975年7月に取締役、1977年7月に総務担当の常務を経ての就任である。本人は『自分の能力では無理だとも思ったが、経営に空白は許されないと考え引き受けた。難しい時期だけに若さを見込まれたんでしょう』と語った。
就任時に最大の課題であったのがスモン問題である。キノホルムによる薬害をめぐり、田辺製薬はかたくななまでに同社だけが"キノホルム原因説"を否定し続けてきたが、1979年までに事実上これを撤回し、和解するなどの新路線を打ち出した。松原氏は組合長の時代に独自の調査を踏まえてスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立して硬骨漢ぶりを発揮した経緯を持つ。20年におよぶ組合長の経験は社長としては異色の経歴にあたり、原因説の否定から和解へ切り替えた田辺製薬を、その経歴の持ち主が率いた。
松原氏は救済と収益を並べて語り、『会社が倒れてしまってはなにもならない。患者救済を進めるためにも収益向上を図らねば』と述べた。製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問も多かったが、『研究開発が実ってきて優秀な新製品が出てきており、心配はない。外国にもどんどん出していきますよ』と自信をみせている。社内の運営では『会社が決めたことは経営協議会の場で組合にも詳しく説明して、全社一丸となって経営を前進させていく』方針を掲げ、最も重視するものとしてチームワークを挙げた。
1989年6月に社長へ就任した千畑一郎氏は、1926年8月に大阪府で生まれ、1948年3月に京都大学農学部を卒業して同年4月に入社し、1981年7月に取締役となった研究畑の人物である。酵素工学や固定化生体触媒の研究で多くの受賞歴を持ち、1959年9月には"アミノ酸の酵素的分割"の研究で京都大学から農学博士号を受けている。就任から3年後の取材では『私の嫌いな言葉はYKK』と語った。Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍を指す。患者をよく診て能書きを守れば薬害はあり得ず、巨額の研究開発費を考えれば薬九層倍も今や死語で、問題は薬づけにあるという説明である。『私たちは捨てられるために薬を作っているのではない』とも述べ、研究開発については『製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです』と語った。
当時の看板は心臓病薬ヘルベッサーで、海外からも評価されて101カ国で販売され、輸出比率は19%と業界で最も高かったが、米国企業の平均40%、欧州企業の80%と比べれば低い水準にとどまる。欧米の大手10社と日本の大手10社を並べると売上高で5〜6倍、利益率でも欧米の20%に対し日本は平均10%の開きがあった。新薬の開発は10年と100億円の時代から『15年、200億円』の時代に入り、国内市場だけでは投資費用の回収が難しくなった。日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍に膨らみ、欧米企業が日本企業の6倍の研究費を使いながら営業利益の6割に収めているのとは開きがある。千畑氏は病気の発症メカニズムを先に解明して見合う化合物を探す方向を掲げ、1989年に基礎生物研究所を新設して免疫と神経関係の研究に入り、1991年1月には米国にも免疫とアレルギー関係の基礎研究所を置いた。
医療機関向け医薬品の公定価格である薬価は2年に一度引き下げられ、1992年4月の改定では業界平均の下げ幅が8.1%に達し、下げ率の大きかった抗生物質の比重が低い田辺製薬は5.9%にとどまったが、既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は小さくない。この10年間で平均的な薬価は50%以下になり、米国や英国では2倍以上になっていると千畑氏は述べ、『値段が下がり続けているのは日本だけです』と言い切った。医療機関の経営は年間1兆3000億円の薬価差益に依存し、政府が差益の解消を目指して薬価を引き下げるたびに、医療機関はそれを上回る値引きを要求する。千畑氏はこれを"アリ地獄"と呼び、1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし、医療機関との価格交渉をすべて卸が行う形に改めて、値引補償という名でメーカーが卸のマージンを補填する慣行を廃止した。
1997年6月に社長へ就任した田中登志於氏は、1935年6月に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社し、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である。自ら開発を手がけた製品には1991年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオがある。薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本で初めての製品となり、厚生省の認可に時間がかかって一時は発売が難しいとみられたが、田中氏自身が厚生省と原料の供給元である中国の企業を飛び回り、年間15億円を売り上げる製品に育てた。
就任から2か月後の取材で、田中氏は『この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている』と述べた。厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、1998年4月には3年連続となる引き下げが約10%の幅で予想された。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、このまま何も手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にいた。1998年1月、田中氏は全社員に向けて"非常事態"を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。
国内では工場を減らし、1994年12月に東京工場を閉じ、1997年4月には東京都葛飾区の立石製薬を吸収合併して立石工場としたが、その立石工場そのものも二年後に閉鎖している。海外では逆に拠点が増え、1993年10月に中国・天津市へ天津田辺製薬有限公司を設立し、2000年12月には米ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を置いた。1990年11月にサンディエゴへ設立したタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社は、1970年に同じ都市へ置いたタナベU.S.A.社が販売の会社であったのに対し、研究の会社にあたる。
田中氏は1997年の取材で買収への構えも公にしており、『外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ』と述べていた。2001年9月、大正製薬と田辺製薬は共同持株会社"大正田辺ファルマグループ"を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。
売上高は大正の2700億円が田辺の1900億円を上回るが、大正の7割はリポビタンDに代表されるドリンク剤と大衆薬で、医療用は700億円強にとどまる。市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった。大正製薬社長の上原明氏は『グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須』と述べている。
2001年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表した。
破談について葉山氏は『両社が固有の制度を持つなかで難しかった』と振り返り、そのうえで『方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる』と述べた。
人員の整理は統合の破談と前後して動き、2002年2月には430人が希望退職に応募して3月末付で退職した。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2004年3月期に1736億円まで落ち、2007年3月期には1775億円へ戻した。経常利益は322億円から323億円とほぼ横ばいを保ち、当期純利益は125億円から202億円へ増えている。事業と拠点の切り出しも進み、2002年11月に動物薬事業を大日本製薬へ営業譲渡し、2003年6月にはタナベ・アバディ社をタナベ インドネシア社へ改称、同年12月に米ニュージャージー州へタナベ ファーマ デベロップメント アメリカ エルエルシーを設けた。2005年10月には小野田工場を会社分割して山口県山陽小野田市に山口田辺製薬を設立し、サリチル酸の生産を開始した工場は80年後に別会社となった。
2007年4月、田辺製薬は三菱ウェルファーマとの合併契約書を締結した。この合併により、1949年5月から58年続いた上場を終えた。大坂・土佐堀に"たなべや薬"の看板が掛かってから329年、株式会社になってから74年である。なお東京都中央区日本橋本町には、同名の東京田辺製薬という別の会社があり、1963年4月1日に銘柄コード4532で市場第二部へ上場している。
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|---|---|---|---|---|
| 1678〜1945年道修町の薬種商が、薬を作る会社になるまで | 田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業 | ★ | ||
| 田辺五兵衞商店として薬種問屋を開業 | ★ | |||
| 各種薬品の国産化に着手 | ★★ | |||
| サリチル酸の生産を開始 | ★ | |||
| 個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組 | ★ | |||
| 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任 | ★ | |||
| 田邊製薬に商号変更 | ★ | |||
| 戦災で中津工場が全焼し加島・本庄両工場も3割を焼失 | ★★ | |||
| 1946〜1988年戦後の再建と上場、海外子会社、そしてスモン | 特別経理会社の指定を受ける(1948年9月に再建整備計画が認可され、11月に指定解除) | ★★ | ||
| 東京・大阪両証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| チャールス・ファイザーとの折半出資でファイザー田辺を設立 | ★★ | |||
| 「テラマイシン」を生産 | ★ | |||
| 本庄工場を閉鎖 | ★ | |||
| 東京工場・東京研究所を新設 | ★ | |||
| 台湾田辺製薬股份有限公司を設立 | ★ | |||
| カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立 | ★ | |||
| インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社(のちタナベ インドネシア社)を設立 | ★ | |||
| ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立 | ★ | |||
| 台田薬品股份有限公司を設立 | ★ | |||
| 1989〜2000年ヘルベッサーと薬価 ── 大手八社最下位からの非常事態宣言 | 千畑一郎氏が社長に就任 | ★ | ||
| 卸への仕切価格を全国統一 | ★★ | |||
| 東京工場を閉鎖 | ★ | |||
| 立石製薬を吸収合併 | ★ | |||
| 田中登志於氏が社長に就任 | ★ | |||
| 全社員に向けた危機認識の共有と、構造改革委員会の設置による立て直し 1998年1月、田辺製薬の田中登志於社長は全社員に向けて"非常事態"を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。就任から7か月での宣言であった。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 2001〜2007年大正製薬との破談と、三菱ウェルファーマとの合併 | 共同持株会社の設立で合意しながら二か月半で至った白紙撤回 2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社"大正田辺ファルマグループ"を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円となり、武田薬品工業・三共に次ぐ規模になる計画であった。ところが同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表する。合意から二か月半での解消であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 葉山夏樹氏が社長に就任 | ★ | |||
| 動物薬事業を大日本製薬に営業譲渡 | ★ | |||
| 三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(田辺製薬)