田辺製薬 の歴史

創業

1678年

創業者

田邊屋五兵衞

創業地

大阪市

直近売上高(2007/3)

1,775億円

長期業績と転換点(1978/3〜2007/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ田辺製薬は1916年に工場を建て、薬を売る商いから作る商いへ移ったのか
A 田辺製薬は1678年に田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀で創業した薬種商を始まりとし、明治中ごろは海外の医薬品を輸入して紹介する商いを営んでいた。転換を起こしたのは自社の計画ではなく、供給の断絶である。1914年に第一次世界大戦が始まると海外薬品の輸入が途絶え、輸入して売る商いが成り立たなくなった。1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建てて各種薬品の国産化に乗り出し、1925年8月には小野田工場でサリチル酸の生産を始めている。1931年には本庄工場内に研究所を設けた。製剤の工場、原薬の工場、研究所の三つが15年で揃った。
Q なぜ2001年の大正製薬との経営統合は、合意から二か月半で白紙撤回されたのか
A 2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55で、事実上は大正による田辺の買収にあたる。ところが医療用医薬品の売上は、田辺製薬の1500億円に対し大正製薬が700億円強と逆を向いていた。同年12月3日の撤回会見で両社は持株会社の位置づけと企業風土の違いを挙げたが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かさなかった。新会社の利益は大衆薬から出て医療用へ注ぐ構造となり、配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった。
Q なぜ田辺製薬は2007年に三菱ウェルファーマとの統合を選び、上場を終えたのか
A 薬価は2年に一度引き下げられ、1996年から3年連続の改定が続いた。医療機関向け薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、自社で値段を決められない収益源を毎回削られた。1998年1月に田中登志於社長が「非常事態」を宣言して構造改革委員会を設けたが、規模は動かせない。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2007年3月期の1775億円へ減り、経常利益は322億円から323億円で横ばいだった。2007年4月に三菱ウェルファーマとの合併契約を締結し、同年10月に田辺三菱製薬が発足して1949年以来の上場を終えた

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1678年〜 たなべや薬 ── 大坂の薬種商が、薬を作る側に回るまで

  1. 1678年田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
  2. 1890年海外の医薬品の輸入紹介に注力
  3. 1916年本庄工場を新設
  4. 1916年各種薬品の国産化に着手
  5. 1925年小野田工場を新設
  6. 1925年サリチル酸の生産を開始
  7. 1931年本庄工場内に研究所を新設

田辺製薬の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

創業年が二つある ── 有報の1678年と、八十年史の1720年ごろ

田辺製薬が最後に出した有価証券報告書は、沿革の一行目を延宝6年から書き起こしている。1678年、田邊屋五兵衞が大坂・土佐堀に「たなべや薬」の看板を掲げた、という一行である。ところが1955年に刊行された『会社銀行八十年史』は、同じ会社の始まりを「享保年間(西暦一七二〇年ごろ)に現社長(第十四代)田辺五兵衞氏の祖先が大阪の地に薬種商を営んだ」と書いている。両者には40年あまりの開きがある。会社が自ら記した最後の公式記録は1678年を採り、戦後まもない時期の第三者の記述は1720年ごろを採った。どちらが正しいかを本稿で決める材料は無い。ただし2001年に大正製薬との経営統合が破談したとき、週刊東洋経済は破談の背景として「創業は一六七八年で、大阪の製薬会社では名門とされる」と書いた。1678年という数字は、遅くとも2000年代には社外でも通用する自己紹介になっていた。 [1][2][3]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]有価証券報告書【沿革】は延宝6年(1678年)に田邊屋五兵衛が大阪土佐堀で「たなべや薬」を看板に創業したと記す
    • [2]会社銀行八十年史(1955年)は享保年間(1720年ごろ)に第十四代田辺五兵衞の祖先が大阪で薬種商を営んだのが始まりとする
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [3]2001年時点の報道は田辺製薬の創業を1678年とし、大阪の製薬会社では名門とされると書いた

出発点が薬種商であったことは、両方の記録が一致している。田辺屋五兵衞の名で薬種問屋を営み、寛政年間に店舗を道修町へ移した。道修町は江戸期に幕府から薬種取引の特権を認められた問屋街で、武田・塩野義・田辺という後年の大手はいずれもこの数百メートルの町から出ている。明治の中ごろに日本でも西洋医学が広まると、田辺五兵衞商店は海外の医薬品を輸入して紹介する仕事に力を入れた。つまり19世紀の終わりまで、この会社は薬を作る会社ではなく、薬を運んで売る会社だった。『会社銀行八十年史』は輸入紹介の記述に続けて「その後さらに進んで医薬品の国内生産に発展し」と一行だけ書いている。輸入商と製薬会社を分ける境目は、この一行の前後にある。 [4][5]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [1]有価証券報告書【沿革】は延宝6年(1678年)に田邊屋五兵衛が大阪土佐堀で「たなべや薬」を看板に創業したと記す
    • [2]会社銀行八十年史(1955年)は享保年間(1720年ごろ)に第十四代田辺五兵衞の祖先が大阪で薬種商を営んだのが始まりとする
    • [4]寛政年間に店舗を道修町へ移し、田辺五兵衞商店として薬種問屋を営んだ
    • [5]明治中ごろに西洋医学が盛んになると海外の優秀な医薬品の輸入紹介に努めた
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [3]2001年時点の報道は田辺製薬の創業を1678年とし、大阪の製薬会社では名門とされると書いた

輸入が止まって、薬を作る側に回った15年

転換を起こしたのは自社の計画ではなく、戦争による供給の断絶だった。1914年に第一次世界大戦が始まると海外薬品の輸入が途絶え、輸入して売るという商いが成り立たなくなる。田辺五兵衞商店は国内製造の本格化を決め、1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建設して各種薬品の国産化に乗り出した。ここで会社の性格が変わっている。ただし工場の所在地については記録が割れており、有価証券報告書は大阪市北区、『会社銀行八十年史』は大阪市東淀川区と記す。区の境界が動いた可能性もあるが、確認できていない。 [6][7]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [6]1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出した
    • [7]1914年の欧州大戦勃発により海外薬品の輸入が途絶したため国内製造を本格化することとし、1916年に本庄工場を設置して医薬品の製造を開始した

製造業への移行は、工場を一つ建てて終わる話ではない。大戦の終結による反動と関東大震災を経た1925年8月、山口県小野田市に小野田工場を建設してサリチル酸の生産を始めた。サリチル酸は解熱鎮痛薬の原料にあたる基礎化学品で、ここで製剤だけでなく原薬まで自前で作る段階に進んだ。さらに1931年、本庄工場内に研究所を設けて薬品の改良と新薬の合成に着手した。製剤の工場、原薬の工場、研究所という三つが15年のあいだに揃っている。輸入商から製薬会社への転換は、この三段を踏んでようやく形になった。本庄工場の建設から数えて15年が経っている。 [8][9]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [6]1916年5月に大阪市北区へ本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出した
    • [8]1925年8月に山口県小野田市へ小野田工場を建設しサリチル酸の生産を開始した
    • [7]1914年の欧州大戦勃発により海外薬品の輸入が途絶したため国内製造を本格化することとし、1916年に本庄工場を設置して医薬品の製造を開始した
    • [9]1931年に本庄工場内へ研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を行った

1933年〜 田邊製薬株式会社 ── 法人化から焼失、そして上場

  1. 1933年個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組
  2. 1939年加島工場を新設
  3. 1941年第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
  4. 1943年田邊製薬に商号変更
  5. 1943年社章の五輪マークを制定
  6. 1944年国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収
  7. 1944年両社を京都工場・柏原工場に改組

田辺製薬の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

個人商店をやめ、社名から「屋号」が消えるまで

1933年12月、個人組織の田邊五兵衞商店を資本金415万円の株式会社へ改組した。以後の増資は工場の拡張と結びついている。1935年に460万円、1936年に500万円、1937年に550万円と続けて資本金を積み増し、東京・世田谷に研究所を新設した。1938年には大阪の加島町へ本格的な工場を建て、生産をここに集めている。有価証券報告書は加島工場の建設を1939年7月と記し、『会社銀行八十年史』は昭和13年すなわち1938年と書く。1年のずれがあるが、いずれにせよ1930年代後半に生産の中心が加島へ移った点は変わらない。翌1939年には東京・日本橋本町に出張所を開き、関東の販路を取りにいった。 [10][11][12]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]1933年12月に個人組織の田邊五兵衛商店を資本金415万円の株式会社へ改組した
    • [12]加島工場の建設時期は有報が1939年7月、会社銀行八十年史が昭和13年(1938年)と記して食い違う
    • [11]1935年に資本金460万円、1936年に500万円、1937年に550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設した

1941年、第十四代田辺五兵衞が社長に就いた。屋号を名乗る個人商店から株式会社へ移ったあとも、社長の名は初代からの襲名で通している。社名のほうが先に変わった。1943年8月、商号を田邊製薬株式会社と改め、社章の五輪マークを制定している。屋号「田邊屋」に由来する家名を残しつつ、業種を名乗る社名へ切り替えた形にあたる。翌1944年には企業整備によって国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収し、それぞれ京都工場・柏原工場とした。戦時の統制下では、買収は自社の意思だけで起きるものではない。 [13][14][15]

    • [13]1941年に第十四代田辺五兵衞が社長に就任した
    • [15]1944年に企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とした
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [14]1943年8月に社名を田邊製薬株式会社と改称し社章の五輪マークを制定した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [10]1933年12月に個人組織の田邊五兵衛商店を資本金415万円の株式会社へ改組した
    • [12]加島工場の建設時期は有報が1939年7月、会社銀行八十年史が昭和13年(1938年)と記して食い違う
    • [14]1943年8月に社名を田邊製薬株式会社と改称し社章の五輪マークを制定した
    • [11]1935年に資本金460万円、1936年に500万円、1937年に550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設した
    • [13]1941年に第十四代田辺五兵衞が社長に就任した
    • [15]1944年に企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とした

焼けた工場を畳み、生産を加島へ一つに寄せた

1945年の戦災で中津工場は全焼して放棄され、加島・本庄の両工場も三割を焼き、本社社屋と大阪研究所も焼失した。生産設備と本社と研究所を同時に失った状態から復旧が始まる。本社工場内に大阪研究所を建て直すところから手をつけ、1947年には本社の新社屋が竣工した。1946年には特別経理会社の指定を受け、1948年9月に再建整備計画が認可されて資本金を3000万円へ増額し、11月に指定を解除された。法人改組時の415万円と比べれば7倍を超える増資にあたる。財務の整理が済んだところで販売網の再建に入り、同じ1948年に東京・福岡へ支店を置いている。 [16][17]

復旧と同時に進めたのが工場の整理だった。1948年に京都工場を閉じて加島へ移し、1949年には十三工場と柏原工場も閉鎖して生産を加島に集中させた。戦時中に買収で増えた拠点を、戦後に自ら畳んでいる。同じ1949年5月、田辺製薬の株式は東京・大阪の両証券取引所に上場した。資本金は1950年に6000万円、1951年に1億5000万円、1953年に2億3900万円、1954年8月に4億4760万円へと積み上がり、1949年に名古屋、1951年に札幌、1954年に仙台と広島へ出張所を開いて、販売網は全国へ広がった。 [18][19][20]

    • [18]1948年に京都工場を閉鎖して加島工場へ移し、1949年に十三工場と柏原工場を閉鎖して生産を加島工場へ集中させた
    • [20]資本金は1950年6000万円、1951年1億5000万円、1953年2億3900万円、1954年8月4億4760万円へ増加した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [19]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式を上場した

1953年、米チャールス・ファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立し、抗生物質テラマイシンの生産を引き受けた。当時の主製品はニッパス、テラマイシン、ベナ・ネストン、ナイプレン、ロメジン、ラボナールと多岐にわたり、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった。自社で合成する製品と、外資と組んで国内生産する製品を並べる形が、この時点ですでに現れている。テラマイシンは自社で合成した製品ではなく、ファイザーの技術による製品にあたる。半世紀後に外資からの買収候補と見なされる会社が、戦後の再建期には外資と折半出資で組む側にいた。 [21][22]

    • [16]1945年の戦災で中津工場が全焼し、加島・本庄両工場も三割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失した
    • [17]1946年に特別経理会社の指定を受け、1948年9月に再建整備計画が認可されて資本金を3000万円に増額、11月に指定解除された
    • [18]1948年に京都工場を閉鎖して加島工場へ移し、1949年に十三工場と柏原工場を閉鎖して生産を加島工場へ集中させた
    • [20]資本金は1950年6000万円、1951年1億5000万円、1953年2億3900万円、1954年8月4億4760万円へ増加した
    • [21]1953年に米チャールスファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立しテラマイシンを生産した
    • [22]主製品はニッパス・テラマイシン・ベナネストン・ナイプレン・ロメジン・ラボナール等で、1955年4月期の売上高は15億6000万円だった
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [19]1949年5月に東京・大阪両証券取引所へ株式を上場した

1960年〜 海外拠点と、研究者の社長 ── 薬価に削られる本業

  1. 1960年東京工場・東京研究所を新設
  2. 1962年台湾田辺製薬股份有限公司を設立
  3. 1970年米カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
  4. 1989年千畑一郎氏が社長に就任
  5. 1991年卸への仕切価格を全国統一
  6. 1991年医療機関との価格交渉を卸に一本化
  7. 1991年値引補償によるマージン補填を廃止

田辺製薬の業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

売る拠点から研究する拠点へ、海外の置き方が変わった

1960年1月に埼玉県戸田市へ東京工場と東京研究所を建て、1962年9月には台湾に台湾田辺製薬を設立して海外での生産・販売を始めた。以後の海外展開は、その置き方が10年ごとに変わっている。1970年にサンディエゴのタナベU.S.A.社とインドネシア・バンドンのタナベ・アバディ社、1972年にブリュッセルのタナベ ヨーロッパ社と、1970年代前半に米欧亜へ販売の足場を並べた。1987年に台湾で二社目となる台田薬品を設けたのは、最初の台湾拠点から25年が経った時点にあたる。1993年には天津田辺製薬を置いて中国に入っている。 [23][24]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [23]1962年9月に台湾へ台湾田辺製薬股份有限公司を設立し海外での生産・販売に乗り出した
    • [24]1970年にタナベU.S.A.社とタナベ・アバディ社、1972年にタナベ ヨーロッパ社を設立した

拠点の性格が変わったのは1990年である。同年11月、サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立した。1970年に同じサンディエゴへ置いたのは販売の会社で、20年後に同じ都市へ置いたのは研究の会社にあたる。国内では逆に工場を減らしている。1958年に本庄工場、1994年12月に東京工場を閉じ、1997年4月に立石製薬を吸収合併して得た立石工場も1999年6月には閉鎖した。作る場所を国内で絞り、研究の場所を米国に増やす。1990年代の田辺製薬が拠点に対して取った態度は、この二つの向きで説明できる。 [25][26]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [25]1990年11月に米カリフォルニア州サンディエゴへタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立した
    • [26]1994年12月に東京工場を閉鎖し、1997年4月に立石製薬を吸収合併して立石工場としたのち1999年6月に閉鎖した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [23]1962年9月に台湾へ台湾田辺製薬股份有限公司を設立し海外での生産・販売に乗り出した
    • [24]1970年にタナベU.S.A.社とタナベ・アバディ社、1972年にタナベ ヨーロッパ社を設立した
    • [25]1990年11月に米カリフォルニア州サンディエゴへタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立した
    • [26]1994年12月に東京工場を閉鎖し、1997年4月に立石製薬を吸収合併して立石工場としたのち1999年6月に閉鎖した

「値段が下がり続けているのは日本だけです」

1989年6月、千畑一郎が社長に就いた。1926年に大阪府で生まれ、1948年に京都大学農学部を卒業して同年4月に入社した研究畑の人物で、酵素工学や固定化生体触媒の研究で受賞歴を持ち、1959年には「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京都大学から農学博士号を受けている。研究者が社長になる会社であったことは、この時期の製品の顔ぶれとも合う。心臓薬ヘルベッサーは世界に名が通り、田中登志於が開発に携わった高血圧治療剤タナトリルと胃潰瘍治療剤ガストロームが主力に並んだ。1991年に発売した疲労回復用カプセル剤ナンパオは、薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向け製品として日本で初めて認可され、年商15億円まで育った。 [27][28][29][30]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [27]千畑一郎は1926年8月大阪府生まれ、1948年3月京都大学農学部卒業・4月に田辺製薬入社、1981年7月取締役、1989年6月社長就任
    • [28]千畑一郎は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、1959年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号を受けた
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [29]田辺製薬は心臓薬ヘルベッサーで世界に名を馳せ、田中登志於は高血圧治療剤タナトリル・胃潰瘍治療剤ガストロームの開発に携わった
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [30]1991年発売のカプセル剤ナンパオは天然素材のみを配合した薬局向け製品として日本初の認可を受け年間15億円を売り上げた

研究の成果を出しても、値段は会社が決められない。医療機関向け医薬品の公定価格である薬価は2年に一度引き下げられ、1992年4月の改定では業界平均の下げ幅が8.1%に達した。田辺製薬は下げ率の大きかった抗生物質の比重が低く5.9%にとどまったが、既存薬の利益が減る点は変わらない。千畑は同年のインタビューで「この10年間で平均的な薬価は50%以下になっています。一方、米国や英国では2倍以上になっている」と述べ、フランスも国が値決めに関与しながらインフレ率に応じた値上げは認めていると比べたうえで、「値段が下がり続けているのは日本だけです」と言い切った。そして「製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです」と続けている。 [31][32][33]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [31]1992年4月の薬価改定の下げ幅は業界平均8.1%で、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%にとどまった
    • [32]千畑一郎は10年間で平均薬価が50%以下になった一方、米英では2倍以上になっていると述べた
    • [33]千畑一郎は「値段が下がり続けているのは日本だけです」「製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです」と語った

薬価が下がる仕組みには、メーカーの外側にもう一段の構造があった。医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に依存し、政府が薬価差益の解消を目指して薬価を引き下げるたびに、医療機関はそれを上回る値引きをメーカーへ要求する。千畑はこれを「アリ地獄」と呼んだ。田辺製薬は1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし、医療機関との価格交渉をすべて卸が行う形に改め、値引補償という名でメーカーが卸のマージンを補填する慣行を廃止した。過度な値引きに応じれば卸が損をする建て付けに変え、薬価基準の算定方式が市場実勢を反映しやすくなったことも重なって、値引きは減る方向へ向かった。値決めの権限を取り戻せない以上、取引の経路を変えるほかに打つ手が無かったと見るのが妥当であろう。 [34][35]

  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [34]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存していた
    • [35]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし医療機関との価格交渉を卸に一本化、値引補償によるマージン補填を廃止した
  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
    • [27]千畑一郎は1926年8月大阪府生まれ、1948年3月京都大学農学部卒業・4月に田辺製薬入社、1981年7月取締役、1989年6月社長就任
    • [28]千畑一郎は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、1959年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号を受けた
    • [31]1992年4月の薬価改定の下げ幅は業界平均8.1%で、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%にとどまった
    • [32]千畑一郎は10年間で平均薬価が50%以下になった一方、米英では2倍以上になっていると述べた
    • [33]千畑一郎は「値段が下がり続けているのは日本だけです」「製薬会社は研究開発がストップしたら、もう先はないのです」と語った
    • [34]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存していた
    • [35]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一とし医療機関との価格交渉を卸に一本化、値引補償によるマージン補填を廃止した
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [29]田辺製薬は心臓薬ヘルベッサーで世界に名を馳せ、田中登志於は高血圧治療剤タナトリル・胃潰瘍治療剤ガストロームの開発に携わった
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [30]1991年発売のカプセル剤ナンパオは天然素材のみを配合した薬局向け製品として日本初の認可を受け年間15億円を売り上げた

1997年〜 三年で総仕上げ ── 非常事態宣言から統合まで

  1. 1997年田中登志於氏が社長に就任
  2. 1998年全社員に向けて「非常事態」を宣言
  3. 1998年3月末までに構造改革委員会を発足させる方針
  4. 2001年大正製薬との経営統合を白紙撤回すると発表
  5. 2001年大正製薬と共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」の設立を発表
  6. 2007年三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足
  7. 2007年上場廃止

田辺製薬の業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

「七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げする」

1997年6月、田中登志於が社長に就いた。1935年に福井県で生まれ、1959年3月に京都大学農学部を卒業して同月に入社し、1990年に開発統括センター所長、1991年に取締役、1994年に常務、1995年に専務を経ての就任である。前任の千畑と同じく京大農学部から入った研究・開発畑にあたる。就任から2か月後の取材で、田中は環境を「強烈に厳しい」と表し、「この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」と述べた。1933年の法人改組から数えて64年、創業から数えれば319年の会社が、残された時間を三年と見積もった。 [36][37]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [36]田中登志於は1935年6月福井県生まれ、1959年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、1990年開発統括センター所長、1991年取締役、1994年常務、1995年専務、1997年6月社長就任
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [37]田中登志於は「この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」と述べた

危機感は田辺製薬だけのものではなかった。厚生省は医療費を抑えるため1996年と1997年に2年続けて薬価を引き下げ、藤沢薬品工業を含む大手にも1998年3月期に減収を見込む会社が並んだ。1997年9月にはサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、高額な薬の投与を拒む患者が医療現場に現れている。1998年4月には3年連続となる引き下げが約10%の幅で予想され、80社近くが林立する新薬業界は遠くない将来に半分以下へ淘汰されるという見方も出ていた。医療機関向け医薬品が売上の7割を占める田辺製薬は、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にいた。 [38][39][40]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [38]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、田辺製薬や藤沢薬品工業などの大手には1998年3月期に前期比減収を見込む企業が多かった
    • [39]1998年4月に3年連続の薬価引き下げが予定され下げ幅は約10%と予想された。田辺製薬は医療機関向け薬品が売上の7割を占めた
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [40]1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、80社近い新薬業界が半分以下に淘汰される可能性が指摘された

1998年1月、田中は全社員に向けて「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させて研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化に入る方針を示した。買収への構えも公にしている。「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」。買われないことではなく、買いたいと思われる会社であることを生き残りの条件に置いた発言にあたる。この一手は、三年後に大正製薬との統合が持ち上がったときの田辺側の立ち位置を先に説明している。 [41][42]

  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [41]1998年1月に田中登志於は全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針を示した
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [42]田中登志於は「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」と述べた
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
    • [36]田中登志於は1935年6月福井県生まれ、1959年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、1990年開発統括センター所長、1991年取締役、1994年常務、1995年専務、1997年6月社長就任
    • [38]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、田辺製薬や藤沢薬品工業などの大手には1998年3月期に前期比減収を見込む企業が多かった
    • [39]1998年4月に3年連続の薬価引き下げが予定され下げ幅は約10%と予想された。田辺製薬は医療機関向け薬品が売上の7割を占めた
    • [41]1998年1月に田中登志於は全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針を示した
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
    • [37]田中登志於は「この一年の変化は過去一〇年の変化に匹敵する。七〇年近くかけてやってきた体質強化を、この三年で総仕上げすることが迫られている」と述べた
    • [40]1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げられ、80社近い新薬業界が半分以下に淘汰される可能性が指摘された
    • [42]田中登志於は「外資に買収されたらイヤだ、なんてとんでもない間違い。存在意義もなく自立もできない会社など、外資は目もくれませんよ」と述べた

大正製薬との統合発表と、二か月半での白紙撤回

2001年9月、大正製薬と田辺製薬は共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55、統合後の連結売上高は4600億円で、武田薬品工業・三共に次ぎ山之内製薬と並ぶ規模になる計算である。2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺へ、大衆薬とドリンク剤を大正へ寄せる設計だった。売上高は大正の2700億円が田辺の1900億円を上回るが、大正の7割はリポビタンDに代表されるドリンク剤と大衆薬で、医療用は700億円強にとどまる。田辺の医療用1500億円と足せば医療用の規模が一気に増える。相互に欠けたものを補う組み合わせに見えた。 [43][44][45]

  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [43]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立し経営統合すると発表、株式移転比率は大正1に対し田辺0.55、統合後連結売上高は4600億円
    • [44]大正製薬の売上高2700億円の7割はドリンク剤・大衆薬で医療用は700億円強、田辺製薬は売上高1900億円で医療用1500億円だった
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [45]2002年10月をめどに医療用医薬品は田辺に、大衆薬・ドリンク剤は大正に統合する計画だった

相手が大正であったことは、業界にはやや意外に受け止められた。田辺は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていたからである。海外企業の軍門に下るよりは、発言権を確保しながら医療用の規模を広げられる相手のほうが望ましい。田辺側の計算はそう説明できる。ただし市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった。統合しても国内系の医療用で7〜8位に上がるにすぎず、新薬候補の数が双方とも十分でないため「シナジー効果が小さい」とアナリストは見た。「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須」という大正製薬社長・上原明の言葉に対して、増える規模がそれほど大きくないという指摘にあたる。 [46][47]

  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [46]田辺製薬は医療用医薬品で単独での生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系医薬品メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [47]大正製薬社長の上原明は「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須」と述べたが、発表後の両社株価は下落しアナリストはシナジー効果が小さいと見た

12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表した。会見に出た大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と説明したが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった。株式移転比率0.55は事実上の大正による田辺買収にあたるのに対し、医療用では「主導権はこちらが握る」という意識が田辺側にあった。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、それを研究開発費のかさむ医療用へ回す設計になる。その利益配分と主導権をめぐって溝が埋まらなかった。医療用で相手の2倍の売上を持ちながら資本では買われる側に置かれるという、事業の重みと資本の重みのねじれである。同じねじれを抱えた統合は、どちらの経営陣であっても同じところで詰まったであろう。 [48][49][50]

  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [48]2001年12月3日に大正製薬と田辺製薬は経営統合の白紙撤回を発表した
    • [49]大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と語り、決裂の最大要因は秘密保持契約を理由に明かさなかった
    • [50]新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て医療用部門へ回る構造となり、その利益配分と主導権をめぐって両社の溝が埋まらなかった
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [43]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立し経営統合すると発表、株式移転比率は大正1に対し田辺0.55、統合後連結売上高は4600億円
    • [44]大正製薬の売上高2700億円の7割はドリンク剤・大衆薬で医療用は700億円強、田辺製薬は売上高1900億円で医療用1500億円だった
    • [46]田辺製薬は医療用医薬品で単独での生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系医薬品メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [47]大正製薬社長の上原明は「グローバル企業としての競争に耐えるには、規模の拡大が必須」と述べたが、発表後の両社株価は下落しアナリストはシナジー効果が小さいと見た
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [45]2002年10月をめどに医療用医薬品は田辺に、大衆薬・ドリンク剤は大正に統合する計画だった
    • [48]2001年12月3日に大正製薬と田辺製薬は経営統合の白紙撤回を発表した
    • [49]大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長は「持株会社の位置づけ、機能の違いについて考え方の違いがあった。人事や年金を含めた企業風土の違いも早期には詰められなかった」と語り、決裂の最大要因は秘密保持契約を理由に明かさなかった
    • [50]新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て医療用部門へ回る構造となり、その利益配分と主導権をめぐって両社の溝が埋まらなかった

制度を組み替えたのち、三菱ウェルファーマとの統合で幕

2002年6月、葉山夏樹が社長に就いた。1939年に長野県で生まれ、1962年に富山大学経済学部を出て入社した営業畑の人物で、副社長として大正製薬との統合にかかわっている。破談について葉山は「両社が固有の制度を持つなかで難しかった」と振り返り、そのうえで「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と述べた。会社の仕組みを普遍化して再構築する必要があるとして、確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手している。制度の違いで統合が流れた会社が、次の統合に備えて制度そのものを組み替えにかかったと読める。 [51][52]

  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
    • [51]葉山夏樹は1939年6月長野県生まれ、1962年3月富山大学経済学部卒業・4月田辺製薬入社、2001年6月副社長、2002年6月社長就任
    • [52]葉山夏樹は大正製薬との統合撤回を「両社が固有の制度を持つなかで難しかった」「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と語り、確定拠出型年金や職種別賃金体系の導入に着手した

最後の6年間の数字は、成長ではなく耐久を示している。連結売上高は2002年3月期の1897億円から2004年3月期に1736億円まで落ち、2007年3月期に1775億円へ戻した。5年かけて売上は減っている。一方で経常利益は322億円から323億円とほぼ横ばいを保ち、親会社株主に帰属する当期純利益は125億円から202億円へ増えた。動物薬事業を2002年11月に大日本製薬へ譲渡し、2005年10月には小野田工場を会社分割して山口田辺製薬とするなど、事業と拠点の切り出しも進めている。売上を伸ばせない環境で利益を守る経営としては成功しているが、規模の問題は何ひとつ解けていない。 [53][54][55]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【主要な経営指標等の推移】
    • [53]連結売上高は2002年3月期1897億円、2004年3月期1736億円、2007年3月期1775億円と推移した
    • [54]経常利益は2002年3月期322億円から2007年3月期323億円、親会社株主に帰属する当期純利益は125億円から202億円へ推移した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [55]2002年11月に動物薬事業を大日本製薬へ営業譲渡し、2005年10月に小野田工場を会社分割して山口田辺製薬を設立した

2007年4月、田辺製薬は三菱ウェルファーマとの合併契約書を締結した。相手は吉富製薬・ミドリ十字・三菱化学の医薬事業・東京田辺製薬という四つの流れが2001年に合わさってできた会社で、三菱ケミカルホールディングスの傘下にある。石油化学の利益変動を医薬品の拡大で補うという親会社側の狙いに、単独では規模が足りない田辺側の事情が噛み合った。同年10月、合併により田辺三菱製薬が発足し、田辺製薬は1949年5月から58年続いた上場を終えた。大坂・土佐堀に「たなべや薬」の看板が掛かってから329年、株式会社になってから74年である。田中登志於が1997年に語った「目をつけられる会社であること」は達成された。ただし目をつけたのは外資ではなく、同じ道修町の系譜を持たない三菱の資本だった。 [56][57][58]

  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [56]2007年4月に三菱ウェルファーマと合併契約書を締結し、同年10月の合併により田辺三菱製薬が発足した
  • 週刊東洋経済 2002年11月9日号「トップの履歴書 三菱ウェルファーマ社長 小堀暉男 極限を生き抜く精神力で医薬品業界に挑む」
    • [57]三菱ウェルファーマは吉富製薬・ミドリ十字・三菱化学の医薬事業・東京田辺製薬の四社が合併してできた会社である
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
    • [58]三菱ケミカルホールディングスは利益変動の激しい石油化学を医薬品の拡大で補う成長戦略を掲げていた
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
    • [51]葉山夏樹は1939年6月長野県生まれ、1962年3月富山大学経済学部卒業・4月田辺製薬入社、2001年6月副社長、2002年6月社長就任
    • [52]葉山夏樹は大正製薬との統合撤回を「両社が固有の制度を持つなかで難しかった」「方向は間違っていない。この先もいろいろな対応はありうる」と語り、確定拠出型年金や職種別賃金体系の導入に着手した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【主要な経営指標等の推移】
    • [53]連結売上高は2002年3月期1897億円、2004年3月期1736億円、2007年3月期1775億円と推移した
    • [54]経常利益は2002年3月期322億円から2007年3月期323億円、親会社株主に帰属する当期純利益は125億円から202億円へ推移した
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
    • [55]2002年11月に動物薬事業を大日本製薬へ営業譲渡し、2005年10月に小野田工場を会社分割して山口田辺製薬を設立した
    • [56]2007年4月に三菱ウェルファーマと合併契約書を締結し、同年10月の合併により田辺三菱製薬が発足した
  • 週刊東洋経済 2002年11月9日号「トップの履歴書 三菱ウェルファーマ社長 小堀暉男 極限を生き抜く精神力で医薬品業界に挑む」
    • [57]三菱ウェルファーマは吉富製薬・ミドリ十字・三菱化学の医薬事業・東京田辺製薬の四社が合併してできた会社である
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
    • [58]三菱ケミカルホールディングスは利益変動の激しい石油化学を医薬品の拡大で補う成長戦略を掲げていた

田辺製薬の沿革1678〜2007年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
田邊屋五兵衞、大坂・土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業★★★
店舗を道修町へ移転
田辺五兵衞商店として薬種問屋を開業
海外の医薬品の輸入紹介に注力★★
本庄工場を新設★★★
各種薬品の国産化に着手★★★
小野田工場を新設★★
サリチル酸の生産を開始★★
本庄工場内に研究所を新設★★
薬品の改良と新薬の合成に着手★★
個人組織の田邊五兵衞商店を株式会社に改組★★
東京・世田谷に研究所を新設
加島工場を新設★★
第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任★★
加島工場内に大阪研究所を新設
田邊製薬に商号変更★★
社章の五輪マークを制定★★
国産製薬研究所と日本注射薬品工業を買収★★
両社を京都工場・柏原工場に改組★★
戦災で中津工場が全焼し加島・本庄両工場も3割を焼失★★
本社社屋と大阪研究所も焼失★★
特別経理会社の指定を受ける(1948年9月に再建整備計画が認可され、11月に指定解除)★★
十三工場と柏原工場を閉鎖
生産を加島工場に集中
東京・大阪両証券取引所に株式を上場
米チャールス・ファイザーとの折半出資でファイザー田辺を設立★★
「テラマイシン」を生産★★
本庄工場を閉鎖
東京工場・東京研究所を新設
台湾田辺製薬股份有限公司を設立★★
米カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社(のちタナベ インドネシア社)を設立
ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
台田薬品股份有限公司を設立
千畑一郎氏が社長に就任★★
米カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立
卸への仕切価格を全国統一★★
医療機関との価格交渉を卸に一本化★★
値引補償によるマージン補填を廃止★★
天津田辺製薬有限公司を設立
東京工場を閉鎖
立石製薬を吸収合併
田中登志於氏が社長に就任★★
全社員に向けて「非常事態」を宣言★★★
3月末までに構造改革委員会を発足させる方針★★★
立石工場を閉鎖
米ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ HD アメリカ社を設立
大正製薬と共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」の設立を発表★★
大正製薬との経営統合を白紙撤回すると発表★★★
葉山夏樹氏が社長に就任★★
確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手★★
動物薬事業を大日本製薬に営業譲渡
タナベ ファーマ デベロップメント アメリカを設立
小野田工場を会社分割し山口田辺製薬を設立
三菱ウェルファーマと合併契約書を締結★★
三菱ウェルファーマとの合併により田辺三菱製薬が発足★★★
上場廃止★★★
出典・参考
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(1955年)第2篇 日本会社史 24_医薬品「田辺製薬」
  • 週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
  • 日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
  • 週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
  • 日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
  • 週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
  • 週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
  • 有価証券報告書(田辺製薬・第103期、2007年6月26日提出)【主要な経営指標等の推移】
  • 週刊東洋経済 2002年11月9日号「トップの履歴書 三菱ウェルファーマ社長 小堀暉男 極限を生き抜く精神力で医薬品業界に挑む」
  • 週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」

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