田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年6月26日提出)【沿革】
- [1]延宝6年(1678年)田邊屋五兵衛、大阪土佐堀に「たなべや薬」を看板に創業
- [6]大正5年5月 大阪市北区に本庄工場を建設し各種薬品の国産化体制に乗り出す
- [10]昭和8年12月 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(資本金415万円)
- [12]昭和14年7月 大阪市淀川区加島に加島工場(現在の大阪工場)を建設
- [18]昭和18年8月 社名を田邊製薬株式会社と改称
- [26]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
- [35]昭和33年5月 本庄工場を閉鎖
- [36]昭和35年1月 埼玉県戸田市に東京工場・東京研究所を建設
- [37]昭和37年9月 台湾に台湾田辺製薬股份有限公司を設立、海外での生産・販売に乗り出す
- [38]昭和45年1月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベU.S.A.社を設立
- [39]昭和45年7月 インドネシア・バンドンにタナベ・アバディ社を設立
- [40]昭和47年12月 ベルギー・ブリュッセルにタナベ ヨーロッパ社を設立
- [41]昭和62年7月 台湾に台田薬品股份有限公司を設立
- [89]平成6年12月 東京工場を閉鎖
- [90]平成9年4月 東京都葛飾区の立石製薬株式会社を吸収合併し立石工場とする
- [91]平成11年6月 立石工場を閉鎖
- [92]平成5年10月 中国・天津市に天津田辺製薬有限公司を設立
- [93]平成12年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ホールディング アメリカ社を設立
- [94]平成2年11月 アメリカ・カリフォルニア州サンディエゴにタナベ リサーチ ラボラトリーズU.S.A.社を設立
- [118]平成14年11月 動物薬事業を大日本製薬株式会社に営業譲渡
- [119]タナベ・アバディ社は平成15年6月からタナベ インドネシア社に社名変更
- [120]平成15年12月 アメリカ・ニュージャージー州ハッケンサックにタナベ ファーマ デベロップメント アメリカ エルエルシーを設立
- [121]平成17年10月 小野田工場を会社分割し山口県山陽小野田市に山口田辺製薬株式会社を設立
- [127]平成19年4月 三菱ウェルファーマ株式会社と合併契約書を締結
- [129]昭和24年5月 当社株式を東京・大阪両証券取引所に上場
- [130]延宝6年(1678年)の創業から329年、昭和8年12月の株式会社改組から74年
- [2]享保年間(1720年ごろ)第十四代田辺五兵衞氏の祖先が大阪で薬種商を営んだのが濫觴
- [3]薬種問屋 田辺屋五兵衞として栄え、寛政年間に店舗を道修町へ移し田辺五兵衞商店として営む
- [4]明治中ごろの西洋医学の隆盛にともなう海外の優秀な医薬品の輸入紹介と国内生産への発展
- [5]大正3年 欧州大戦の勃発により海外薬品の輸入が杜絶したため国内製造を本格化
- [7]本庄工場の所在地を大阪市東淀川区とする記録
- [8]大正14年 山口県小野田市にサリチル酸とその誘導体の製造工場を設置
- [9]昭和6年 本庄工場内に研究所を設置し薬品の改良および新薬の合成を実施
- [11]昭和10年460万円・11年500万円・12年550万円へ増資し東京世田谷に研究所を新設
- [13]昭和13年 大阪東淀川加島町に本格的工場を建設し生産力を集中
- [14]昭和14年 東京日本橋本町に東京出張所を開設し関東方面の販路開拓に当たる
- [15]昭和15年 加島工場内に大阪研究所を新築し本庄工場内の研究所を移転
- [16]昭和16年 大阪市内に十三・中津の両工場を新設
- [17]昭和16年 第十四代田辺五兵衞氏が社長に就任
- [19]昭和18年 社章の五輪マークを制定し以後製品の商標として使用
- [20]昭和19年 企業整備により国産製薬研究所および日本注射薬品工業を買収し京都工場・柏原工場とする
- [21]昭和20年 戦災で中津工場が全焼、加島・本庄両工場も三割を焼失、本社社屋と大阪研究所も焼失
- [22]昭和20年代 本社工場内に大阪研究所を再建し生産力の回復に努める・昭和22年 本社新社屋竣工
- [23]昭和21年 特別経理会社の指定・昭和23年9月 再建整備計画認可により資本金3000万円へ増額・11月 指定解除
- [24]昭和23年 東京・福岡に支店を設置し販売網を拡充、京都工場を閉鎖し加島工場へ移転
- [25]昭和24年 十三工場および柏原工場を閉鎖し生産力を加島工場へ集中
- [27]資本金は昭和25年6000万円、26年1億5000万円、28年2億3900万円、29年8月4億4760万円
- [28]昭和24年名古屋、26年札幌、29年仙台・広島に出張所を開設し販売網が全国的に拡大
- [29]本社所在地 大阪市東区道修町3の21
- [30]昭和30年時点 事業=医薬品・工業薬品、社長=田辺五兵衞
- [31]昭和28年 米国チャールスファイザー社との同額共同出資でファイザー田辺を設立しテラマイシンを生産
- [32]主製品はニッパス・テラマイシン・ベナネストン・ネストンパール・ナイプレン・ロメジン・ラボナール等、昭和30年4月期売上高15億6000万円
- [122]大正14年 山口県小野田市のサリチル酸製造工場が起源
- [133]田辺製薬の本社は大阪市東区道修町3の21、東京田辺製薬の本社は東京都中央区日本橋本町2の7
- [33]昭和18年2月 栄研化学が臓器系医薬品の全国販売にあたり田辺製薬と販売契約を締結し、田辺製薬の販売力および流通網(卸問屋)を利用
- [34]昭和18年5月 第三者割当増資により田辺製薬が資本参加、戦後の一時期を除き栄研化学は田辺製薬の子会社
日経ビジネス 1979年5月21日号「新社長登場 松原一郎氏(田辺製薬)長い組合経験生かし「スモン」乗り切りへ」
- [42]肺炎で急逝した平林忠雄前社長の遺志により並み居る先輩を跳び越して社長へ昇格
- [43]松原一郎氏 大正5年10月11日島根県生まれ、昭和14年京城薬学専門学校卒業後に入社、26年5月組合長、46年12月調査広報室主任調査員、47年8月総務室付室長、49年5月総務室長、50年7月取締役、52年7月常務、54年3月社長就任
- [44]松原一郎氏の社長就任時の弁
- [45]最大の課題であったスモン問題
- [46]同社だけがかたくななまでに「キノホルム原因説」を否定し続けたが、事実上これを撤回し和解するなど新路線を打ち出した
- [47]松原一郎氏は組合長時代に独自の調査のうえスモン問題で会社側に近い立場をとり、上部組織の合化労連と対立した
- [48]労働組合の組合長を20年間務めた、社長としては異色の経歴
- [49]松原一郎氏 会社の存続と患者救済をめぐる発言
- [50]製薬業界には健康保険法の改正や薬価の大幅引き下げなど難問が多かった
- [51]松原一郎氏 研究開発の成果と輸出をめぐる発言
- [52]松原一郎氏 経営協議会での組合への説明方針とチームワーク重視
日経ビジネス 1992年7月6日号「編集長インタビュー 千畑一郎氏[田辺製薬社長]薬価の引き下げもう限界 苦境打開は国際的な新薬で」
- [53]千畑一郎氏 1926年8月大阪府生まれ、48年3月京都大学農学部卒業・4月田辺製薬入社、81年7月取締役、89年6月社長就任
- [54]千畑一郎氏は酵素工学・固定化生体触媒などの研究で多くの受賞歴を持ち、59年9月に「アミノ酸の酵素的分割」の研究で京大から農学博士号
- [55]千畑一郎氏 嫌いな言葉としてのYKK
- [56]YKKの内訳 Yは薬害、Kは薬づけと薬九層倍
- [57]千畑一郎氏 患者を診て能書きを守れば薬害はあり得ず、薬九層倍は死語で、問題は薬づけにあるとの説明
- [58]千畑一郎氏 薬を作る目的についての発言
- [59]千畑一郎氏 研究開発が止まれば先はないとの発言
- [60]ヘルベッサーは心臓病薬として海外からも評価され101カ国で販売、輸出比率19%は業界トップ
- [61]海外大手の輸出比率は米国企業で平均40%、欧州企業で80%
- [62]欧米の大手10社と日本の大手10社の比較では売上高が日本の5〜6倍、利益率は日本企業平均10%に対し欧米企業20%
- [63]新薬開発は10年・100億円の時代から15年・200億円の時代へ入り国内市場だけでは投資回収が困難
- [64]日本企業の研究開発費は営業利益の1.3倍、欧米企業は6倍の研究費を使いつつ営業利益の6割に収まる
- [65]3年前に基礎生物研究所を設立し免疫と神経関係の研究を実施、前年1月に米国へ免疫・アレルギー関係の基礎研究所を設置
- [66]1992年4月の薬価改定は業界平均8.1%の引き下げ、田辺製薬は抗生物質の比重が低く5.9%
- [67]既存薬の利益がその分減るため業績に与える影響は決して小さくない
- [68]千畑一郎氏 10年で平均薬価は50%以下、米英では2倍以上との発言
- [69]千畑一郎氏 値下がりが続くのは日本だけとの発言
- [70]医療機関の経営は年間1兆3000億円といわれる薬価差益に大きく依存
- [71]千畑一郎氏 薬価引き下げと値引き要求の循環をアリ地獄と表現
- [72]1991年11月ごろから卸への仕切価格を全国統一し価格交渉を卸へ一本化、値引補償によるマージン補填を廃止
週刊東洋経済 1997年4月12日号「再編 再編すらできない今の医薬品業界 業界に合併ムードは漂うが」
- [73]96年3月期の一人当たり売上高は山之内製薬7462万円に対し田辺製薬3897万円で大手八社最下位
- [74]一人当たり経常利益は山之内製薬1530万円・三共1272万円・第一製薬1107万円に対し藤沢薬品412万円・塩野義製薬329万円・田辺製薬210万円
- [75]藤沢薬品は99年をメドに従業員300人、塩野義製薬は2001年までに1700人を削減する方針
- [76]田辺製薬は具体的な削減案こそ立てていないが人員は減少傾向
- [77]研究開発費100億円超を投じられるのは大手八社を含む15社のみ
- [78]田辺製薬は発売年次の古い主力品を93年発売の降圧剤タナトリルの成長で補おうとするが苦戦
日経ビジネス 1998年2月2日号「新社長登場 田中登志於氏[田辺製薬]薬価下げ、「非常事態」宣言し社内に布石」
- [79]田中登志於氏 1935年6月2日福井県生まれ、59年3月京都大学農学部卒業・同月田辺製薬入社、90年開発統括センター所長、91年取締役、94年常務、95年専務、97年6月社長就任
- [81]田中登志於氏は59年の入社以来ほぼ一貫して研究開発畑を歩み、自ら開発した91年発売の疲労回復用カプセル剤ナンパオを持つ
- [82]ナンパオは薬効成分を持つ天然素材のみを配合した薬局向けの薬として日本初の製品
- [83]厚生省の認可に時間がかかり一時は発売困難とみられたが、田中登志於氏が厚生省と中国の原料供給元を飛び回り年間15億円を売り上げるまでに成長
- [85]厚生省は1996年と1997年の2年連続で薬価を引き下げ、98年4月には3年連続で約10%の引き下げが予想された
- [87]医療機関向け薬品が売上の7割を占め、手を打たなければ翌期も減収に追い込まれる位置にあった
- [88]1998年1月に全社員へ「非常事態」を宣言し、3月末までに構造改革委員会を発足させ研究開発の期間短縮と営業・間接部門の効率化を進める方針
週刊東洋経済 1997年8月30日号「[ひと]田中登志於 田辺製薬社長 激動期入りした製薬業界で“目をつけられる”会社にする」
- [80]田中登志於氏は入社以来 製品企画畑を歩み、高血圧治療剤タナトリル・胃潰瘍治療剤ガストロームをはじめとする主力製品の開発に携わった
- [84]田中登志於氏 一年の変化は過去十年に匹敵し、七十年近くの体質強化を三年で総仕上げするとの発言
- [86]1997年9月からサラリーマンの薬剤費自己負担が2割へ引き上げ、80社近い新薬業界が半分以下に淘汰されるとの見方
- [99]田中登志於氏 外資による買収をめぐる発言
週刊東洋経済 1998年6月20日号「[特別レポート]ローカル・ドラッグ天国(効かない薬が売れる)・日本の現実 見直しが必要なのは脳代謝改善剤だけではない」
- [95]1998年5月19日の中央薬事審議会臨時常任部会で脳代謝改善薬が有効性なしと判断され、武田薬品工業のアバン、山之内製薬のエレンなど四成分一四品目の販売中止・回収が決定
- [96]同時に再評価された田辺製薬のサアミオンはプラセボに対して有用性が認められ継続審査となった
- [97]脳代謝改善剤市場はアバンなど有力新薬が出そろった87年ごろから拡大し91年には1500億円近くに達した
週刊東洋経済 1998年1月3日号「[特集]2000年に勝つ会社、負ける会社 医薬品 海外販売で格差が鮮明化」
- [98]田辺製薬は主力の降圧剤ヘルベッサーがピークアウトし、98年春発売予定の大型新薬(高脂血症治療薬)が控える
週刊東洋経済 2001年10月6日号「医薬品業界 製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
- [100]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を2002年4月に設立し経営統合すると発表、株式移転比率は大正1に対し田辺0.55、統合後連結売上高4600億円
- [102]大正製薬の売上高2700億円の7割はドリンク剤・大衆薬で医療用は700億円強、田辺製薬は売上高1900億円で医療用1500億円
- [103]田辺製薬は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいと見られ、有力な販売網に着目する外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
- [104]発表後の両社株価は下落し、統合しても国内系の医療用で7〜8位、新薬候補が双方とも不足しシナジー効果は小さいとアナリストが評価
- [105]大正製薬社長 上原明氏 規模拡大の必要をめぐる発言
週刊東洋経済 2001年12月15日号「製薬業界 主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
- [101]2002年10月をめどに医療用医薬品を田辺に、大衆薬・ドリンク剤を大正に統合する計画
- [106]2001年12月3日に大正製薬と田辺製薬が経営統合の白紙撤回を発表、合意から二か月半での解消
- [107]大平明副社長・葉山夏樹副社長 持株会社の位置づけと企業風土の違いをめぐる説明
- [108]決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かされなかった
- [109]新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て医療用へ回る構造で、利益配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった
週刊東洋経済 2002年9月7日号「トップの履歴書 田辺製薬社長 葉山夏樹 仕組みの普遍化へ改革の旗振る」
- [110]葉山夏樹氏 1939年6月28日長野県生まれ、62年3月富山大学経済学部卒業・4月田辺製薬入社、93年10月営業企画センター所長、96年6月取締役、98年6月常務営業本部長、99年6月専務営業総括、2001年6月副社長、2002年6月社長就任
- [111]葉山夏樹氏は医薬品営業・卸の担当を長年務め、副社長として大正製薬との合併にかかわった
- [112]葉山夏樹氏 大正製薬との統合撤回をめぐる発言
- [113]葉山夏樹氏 統合の方向性と今後の対応をめぐる発言
- [114]会社の仕組みを普遍化して再構築するとして確定拠出型年金と職種別賃金体系の導入に着手
田辺製薬 有価証券報告書(第102期・2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- [115]第98期の従業員数には平成14年2月1日から2月28日までの希望退職に応募した430名(平成14年3月31日付で退職)を含む
田辺製薬 有価証券報告書(第103期・2007年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- [116]連結売上高は2002年3月期1897億円、2004年3月期1736億円、2007年3月期1775億円
- [117]経常利益は2002年3月期322億円から2007年3月期323億円、当期純利益は125億円から202億円
週刊東洋経済 2007年2月10日号「企業・産業 三菱ケミカルHD 小林次期社長の成長戦略 利益変動激しい石油化学 補うのは医薬品の拡大」
- [123]2007年1月18日に三菱ウェルファーマが田辺製薬と合併の可能性について協議・検討を行っていると公表
- [125]三菱ケミカルHDは05年度で連結売上高の約45%を占めながら連結営業利益の約25%しか稼げない石油化学の利益体質安定化が課題、医薬品事業は05年度で連結営業利益の約27%を稼いだ
- [126]田辺製薬との合併が成立すれば売上高5000億円、売上高研究開発費比率20%で研究開発費1000億円
週刊東洋経済 1999年2月27日号「三菱化学を呑んだ生命科学(ライフサイエンス)の怒濤 東京田辺製薬合併でも医薬生き残りにはまだ足りない」
- [124]三菱化学は1981年に東京田辺製薬へ資本参加し24%を保有、1999年1月に合併と医薬新会社への合流を発表
- [132]三菱化成は昭和56年に東京田辺製薬へ資本参加し、平成11年1月に合併と医薬新会社への合流を発表
週刊東洋経済 2019年12月7日号「深層リポート02 不振の子会社を“巨額買収” 三菱ケミカルHDの危機感」
- [128]2007年に田辺製薬と三菱ケミカルHD傘下の三菱ウェルファーマが合併して田辺三菱製薬が誕生
- [131]東京田辺製薬株式会社 本社=東京都中央区日本橋本町2の7、上場年月日=昭和38年4月1日、銘柄コード番号4532(第二部・化学工業)