大正製薬所の最初の20年は、薬を作る力ではなく、売る場所を自前で持てるかどうかの勝負だった。ヘモグロビン製剤の体素は薬局の店先から生まれた製品でありながら、売るときには三共合資会社と貿易商ミクミヤへ委託するほかなく、地方では卸商と問屋が握る販路を通さなければ商売にならなかった。石井絹治郎氏は東京朝日新聞へ全面広告を打ち、平和記念東京博覧会では拳闘と柔道の興行まで仕立てて名前を売ったが、その出費で経営はかえって細っている。新聞広告で客の指名は作れても、客が立つ店の棚までは押さえられない。棚が他人のものである限り、売れば売るほど卸への依存が深まるという関係から抜けられなかった。
上原正吉氏が提案した特約株主は、その棚を資本で押さえ直す案だった。加盟金100円を預かって看板を掛ける特約店連盟は資金集めの域を出なかったが、預かった金を株式に読み替えれば、小売店は配当と割戻という二つの取り分を持ち、会社は資本と販路を同時に手に入れる。1928年の株式会社化で生まれたこの仕組みは、戦前の最盛期に全国5,500店の共成会へ育った。体素もネオネオギーもやがて主力の座を降り、戦時には共成会の棚を埋める品としてサルファ剤と理研化粧品が上位に並ぶ。製品は入れ替わっても、小売店を株主として抱えた構造だけは統制経済を越えて残った。
ドイツなどの製薬業界と違って日本では薬局を起こりとする製薬会社は少ないが、大正製薬は近代薬学教育を受けた薬剤師の店を出発点とする、業界でも珍しい出自を持っていた。その店を開いた石井絹治郎氏は1888年2月14日、香川県三野郡比地二村の農家で生まれた。小学校を出て上京し、薬品卸の商店で働きつつ神田薬学校で学び、1906年に18歳で卒業して薬剤師試験にも受かった。もっとも開業の免許は法の定めで20歳になるまで下りず、その間は宮内庁侍医寮薬局などで経験を重ねた。免許を手にした1908年2月、東京・牛込区市谷佐内坂町に個人経営の泰山堂薬局を開いている。
石井絹治郎氏は薬局の経営のかたわら、当時輸入に頼っていた滋養強壮剤のヘモグロビン末が牛の血液から製造できることに着目し、錠剤とシロップ剤を試作した。輸入品と比べても遜色がないとの評判を得たため、叔父の石井殷太郎氏ら3名の出資を仰いで、1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業した。創業の地は東京市牛込区市谷佐内町38番地であり、二つの剤形はそれぞれ"体素"と名づけて売り出したものの、ヘモグロビン製剤に特有の吸湿性への対策が足りず、発売早々に苦情と返品が相次いだ。出資者たちはいち早く出資金を回収して去り、ひとり残された石井絹治郎氏が容器の改良と乾燥剤の投入で吸湿を抑え、三共合資会社と貿易商ミクミヤへの販売委託をまとめて再び製品化にこぎつけた。
1914年3月公布の売薬法で、それまで届出だけで済んだ売薬の製造販売は専門教育を受けた薬剤師しか担えなくなり、売薬は社会からいっそう高く評価されるようになった。第1次世界大戦が同年7月に始まってドイツが敵国になると、同国からの医薬品の輸入は途絶え、政府は染料医薬品製造奨励法などを公布して国内の製薬業を後押しした。東京市内では1915年から製薬会社が急に増えており、石井絹治郎氏が体素の立て直しに取り組んだのは、国産の売薬が制度と戦争の双方から追い風を受けたこうした時期だった。大正製薬所は1918年春、小石川区関口町に新社屋を完成させて移転し、翌年に隣の染物工場を買い取ると、従業員は約30名になった。もっとも経営の実情は順調とはいいがたく、その主因は石井絹治郎氏が体素の広告に投じた出費だった。1922年に上野公園の平和記念東京博覧会へ出した拳闘と柔道の興行施設も、失敗に終わっている。
上原正吉氏は1897年12月26日、埼玉県北葛飾郡田宮村の農家に生まれ、錦城商業学校を出たばかりで大正製薬所に入った。事業が軌道に乗り経理事務のできる人が要るようになった同社が、縁故に頼らない一般公募を試みた1916年春のことで、上原正吉氏はこの公募で採用された。初任給15円の経理担当として帳簿の記入や計算を受け持ったが、1年たつと自ら外回りの営業に出たいと申し出て許された。当時、従業員は住込みの男子5名と通勤の女子工員2名だけだった。後年の上原正吉氏は、この頃を『私は着物に角帯をしめ、その上に前掛けを垂らした姿で自転車に乗り』(商売は戦い 1964年7月)回ったと書き残している。1923年9月の関東大震災でも営業所と工場は無事で、同業他社が被災したこともあって注文が押し寄せ、従業員は約80人に膨らんだ。
震災後の販路拡張で地方を回った上原正吉氏が痛感したのは、販路網を卸商と問屋筋が握っており、そこを通さなければ商売が成り立たないという実態だった。卸に頼れば経費と手間は省けるが、不況が深まれば代金の回収が難しくなる。1925年ごろ、石井絹治郎氏は加盟金を預かって看板を付け割戻しをする"特約店連盟"を発案し、上原正吉氏はこれをさらに進めた案を提示した。会社を株式会社に改め、取引先の小売店に株を持ってもらうという構想である。小売店は株主として配当を受け、販売実績に応じた割戻金も得る。会社の側は安定した資本を確保しながら小売店と密接な関係を結べる。卸売制度の強固な薬品業界にあって、直販制度と株式会社化を結びつけたこの方策は大胆な挑戦として注目を集めた。
特約店連盟の案をめぐっては、東京支店長の山竹が、名の知られていない売薬を扱わせるのに保証金を求めても受け入れられないと反対し、上原正吉氏は金を預かることには筋が通ると言い張って、夜を徹した議論の末に実施が決まった。会員から加盟金100円を預かり、20円ほどかかる行灯式の点滅灯看板を店頭に掲げ、特別の割戻を行うという中身が、資金を集める手立てであることは誰の目にも明らかだった。石井絹治郎氏が手本にしたとみられるのは、アメリカでドラッグチェーンを学んだ星一氏が1911年に興した星製薬の特約店制度である。株式会社にする際の細目は、資本金100万円、4分の1払込済の石井絹治郎氏の持株を取引先が買い受け、最低単位を5株、配当の上限を1割とし、それを上回る利益は販売実績に比例して取引先へ還元するというものだった。
上原正吉氏の構想に基づく株式会社化は1928年5月に実現し、資本金100万円で株式会社大正製薬所が設立された。本社は文京区、工場は文京区と豊島区に置き、翌1929年11月には大阪支店を、1930年には朝鮮支店を開設した。特約株主を統括する販売組織は共成会と呼ばれ、戦前の最盛期には全国で5,500店を擁する医薬品業界最大の販売・生産チェーンに育った。加盟する薬局・薬店には多品種の優良品を安く供給するだけでなく、割戻し・支部交付金・特売といったサービスで会員店の利益を守る仕組みだった。1937年4月に本社を東京都中央区へ移した。しかし1939年、日中戦争の進展にともなう物資統制の強化で民需品の製造販売が困難になり、朝鮮支店は廃止された。
1938年に常務となった上原正吉氏が着手したのは、生産と仕入れの規格整理だった。約140種類あった紙函を30種余へ整理し、それに合わせて瓶型とキャップも4分の1ほどに減らして在庫を圧縮し、1940年2月には各部門へ分散していた購買を仕入部へ一本化して自ら部長に就いた。製品の側では、原料不足と統制が深まるなかで入れ替えが進む。1939年にサルファ剤のスタヒロン錠とベサミール錠を商品化して共成会の専売品に加え、翌1940年からは理研化粧品の製品群を販売網へ導入した。1940年度から1942年度の主要製品の売上では、サルファ剤と理研化粧品がそれぞれ上位を占め、体素とネオネオギーに依存していた体質からは離れていた。共成会の店頭に並べる品目を絶やさないことが、統制下で販売網を保つ条件だった。
1943年、創業者の石井絹治郎氏が死去し、石井輝司氏が取締役社長に就任した。同じ年の7月に本社を豊島区へ移した。国による医薬品メーカーの整理統合が進むなか、戦争末期の1945年6月には医薬品製造業整備要項の趣旨に沿って明治製薬を吸収合併し、資本金は119万円になった。それに先立つ1944年には陸軍・海軍の協力工場となり、公用の医薬品を造っていた。終戦前後の大正製薬所は、戦災を受けた施設が少なく、会社経理応急措置法に基づく特別経理会社に指定されなかった点で同業他社より有利だった。同業の多くは1948年夏ごろまで同法に縛られて新しい施設の工事を制限されたが、大正製薬所はその間も工場を思うままに広げられた。
1946年の社長交代は、持株の多さではなく取引先の数で決まった。上原正吉氏の持株は全2万3,800株のうち1,787株にすぎず、4,005名の株主の大半は50株未満しか持たない小売店である。特約株主という制度を作った人物を、制度に加わった店の側が選んだ形だった。会社の意思決定が小売店へ開かれていたことは、戦後の再建が薬を作り直すことからではなく、販売組織を作り直すことから始まった理由でもある。上原正吉氏は共成会を協同組合として建て直し、加盟204店から出直した。会社が製品を押し込む連鎖ではなく、独立した薬局と製造業者が共同で仕入れる組合として作り直した点に、この時期の構えが表れている。
だが、小売店を囲い込む仕組みは戦後の法制とは相容れなかった。協同組合共成会は商工協同組合法の趣旨に合わず、株式会社へ改めた共成チェーンは独占禁止法に抵触し、残ったのは会社が自ら持つ大正チェーンだけである。公正取引委員会が取引約定書の廃棄まで命じると、会社は店を縛る手段を連鎖から再販売価格維持契約へ移した。店を縛る力が弱まったぶん、客を呼ぶ役は電波が引き受ける。広告宣伝費が1952年度の4,438万円から1961年度の13億6,593万円へ膨らんだのは、指名を作る側へ重心が移った結果だった。1962年のリポビタンDは、その重心の先に置かれた製品である。
1946年6月、石井輝司社長の辞任にともない、事実上の経営責任者だった上原正吉氏が第3代社長に選任された。特約株主とみられる50株未満の株主は3,953名で、その持株は合わせて1万1,654株と株式総数の5割近くに及んだ。第35回株主総会を控えた同年3月31日現在の株主名簿を見ると、株主総数は4,005名で、筆頭株主の上原正吉氏でさえ持株は1,787株と、全2万3,800株の1割に届かなかった。この交代を支えたのは株主の大半を占める特約株主であり、制度をつくった人物に小売店が寄せた期待が、社長就任を後押しした。株主総会の数日前には、進駐軍の兵士と警官が工場に踏み込み、貯蔵中のカフェインが麻薬に当たるとして押収し、上原正吉氏を連れ去る事件もあった。悪質な密告によるものとわかり、3日で釈放されている。
協同組合主義、つまり加入者の総意で運営を決める形での再建を、上原正吉社長は選んだ。戦時中に機能を止めていた共成会を、戦前の特約株主制度のまま戻すことはしなかったのである。1946年9月18日に開いた協同組合共成会の創立総会で上原正吉社長自身が理事長に就いたが、このとき加入した会員は都内199店、都外を合わせても204店にすぎなかった。従来のチェーンがメーカーに従属していたのと違い、新しい共成会は人格と経済の両面でメーカーから独立した薬局・薬店と製造業者とで組織され、加盟メーカーの製品を共同で仕入れて、会員だけが売れる専売品を指定した。会社は1948年5月29日、商号を大正製薬株式会社へ改めた。
協同組合として出した共成会の再建案は、法制の側から二度はねられた。1946年12月に商工協同組合法が施行されると、地区ごとに1組合を認める同法と、特定のメーカーと結んだ全国組織である共成会とは趣旨が合わず、設立認可は困難との内示を受けた。そこで1947年4月に共成チェーン株式会社へ改組し、加盟金を2,000円から5,000円へ引き上げて営業を始め、同年7月末には全国1,246店を数えた。ところが同年7月に施行された独占禁止法は一手販売の子会社や競争会社の役員兼任を禁じており、共成チェーンは4点で抵触するとされて業務を休止した。残された道は会社が自ら連鎖を持つことで、1947年10月1日に直営の大正チェーンが発足し、従来の専売品は特選品と呼ばれることになった。加盟店は発足直後の2,500店余から1951年3月には4,500店余へ増えている。
1950年6月4日の第2回参議院議員選挙で、上原正吉社長は埼玉地方区から立候補して初当選した。政界に進んだ理由について、上原正吉氏は戦争末期から戦後にかけて政治の力を借りなければ原料も材料も電気もガスも来ない状態だったと自著で説明した。翌1951年12月には物価政務次官に就任し、以後は経済調査政務次官、首都建設政務次官、郵政委員長を歴任した。社長の政界進出にともない、1951年1月6日付で養子の上原昭二氏が代表取締役に就任して社長代理を務めた。上原昭二氏は後に第6代社長に就任する人物である。従業員数も増え、1951年度には1,000名に達しようとしていた。
大正製薬が戦後に初めて本格的な広告へ出たのは、開局したばかりの民間ラジオ放送だった。1951年9月に中部日本放送と新日本放送が初の民間放送局として開局し、東京でも同年12月にラジオ東京、翌1952年3月に日本文化放送が開局している。大正製薬は1952年7月、日本文化放送で毎週火曜夜の連続ラジオドラマ「丘は花ざかり」の提供広告主となり、同年10月にはラジオ東京で日曜を除く毎朝15分の帯番組「名作アルバム」を提供した。後者は全国36局へネットされ、番組名と社名が並べて語られるほど社名が知れわたる契機になった。ラジオの広告主という役回りの利用価値がまだ定まらない時期に大型番組の提供を決めたのは上原正吉社長で、提供番組のCMコピーは自ら考案している。上原正吉氏は後年、1952年ごろに始めた大宣伝について『世間が驚くほどの大宣伝を、なんらの危険も感ずることなく、敢行しうるほどの実力を備えていた』と書き残している。
知名度が上がるほど、連鎖加盟店にだけ出荷するという仕組みは軋みを生じた。1954年に博報堂が都内の男女3,900人へ尋ねた調査では、知っている製薬会社として挙げられた社名は大正製薬が63.1%で首位に立っていたが、宣伝でなじんだ製品を求める客に応えようと、加盟店から製品を回してもらう店が現れた。会社は製品に秘密の記号を付けて流出元を突き止め、一時は加盟4,500店のうち700店近くへ出荷を停止したが、横流しは絶えなかった。加えて公正取引委員会は1955年12月、連鎖加盟店との取引約定書そのものを独占禁止法違反として廃棄すべしとする審決を下した。価格を保つ道は連鎖から契約へ移すほかなく、1953年の独占禁止法改正で設けられた再販売価格維持契約制度に会社は全面的に乗り、1955年1月に対象品目を届け出た。
この時期の大正製薬は電波媒体へ集中的に投資し、1955年秋に売り出した総合保健剤サモンの広告は、論語の一節を下敷きに『40才にして惑わず、惑わずサモンをのむ』と謳い、テレビで繰り返し流された。広告宣伝費は1952年度の4,438万円から1961年度には13億6,593万円へと、9年間で約30倍に増えた。1955年度と1960年度の広告量上位10社を見ると、大正製薬は1955年度は新聞とラジオ、1960年度はテレビでも上位に入っていた。販売の現場では、1963年5月に薬局・薬店向けの販促ツールとしてスライド"サウンド・リポート"が導入され、担当外商員がプロジェクターとテープレコーダーを持参して陳列やPOP照明の方法を説明して回った。
健康保険制度が広まったことを踏まえ、大正製薬は医療用医薬品の分野に入らなければならないと判断し、1950年代の後半からその研究開発に本腰を入れた。社内の多くは経験のない領域に踏み出すことを不安視し、反対意見さえ出たものの、上原昭二副社長が業界の現状と先行きを説明して役員会を説き伏せた。医家向け医薬品の製造開始は1958年8月である。大衆薬の側では、剤形を改めた商品が出た。1962年3月発売のリポビタンDがそれで、20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に替えたものであり、着想は上原正吉社長自身による。容量100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、アンプルに代えて瓶とポンキャップを採用し、味付けにはパインの風味を加えた。
1963年9月16日、大正製薬は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。額面50円の株の公開価格は2,000円で、当時としては史上最高だと連日話題になった。上原正吉社長は記者団に『実力からいって高いとは思わない』(現代の眼 1965年)と答えた。上場時点の資本金は4億円、従業員は3,536名、取引店は約28,000店を数えた。1963年3月期の売上構成は品目別にパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%、ワイパア7.2%と続き、上位5〜6品目で売上高のおよそ半分を占めた。販売はチェーンシステムによる直売方式で、全国の取引店にパトロールセールスマンを派遣し、新製品の発売や業界状況に応じた販売方法を徹底させる体制だった。
上場の2年後、アンプル入りの風邪薬を飲んだ人が急性薬物中毒で死亡する事例が続き、1965年に社会問題となった。メーカーの損失総額は62億8,228万円にのぼり、薬局の売上げは平均で3割減った。当事者の一社であった大正製薬の上原正吉氏が死者への責任にふれることはなかった——『もし本当に毒だったらあの程度の事故では済まなかったはず』(現代の眼 1965年)。同じ1965年、上原正吉氏は年間所得5億4,872万円で個人所得の日本一となり、6月に科学技術庁長官へ就任して社長を一時退任した。後任には妻の上原小枝氏が第4代社長として就任している。1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉氏が社長へ復帰した。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1945年薬局が生んだ一製品から始まり、小売店を株主に迎える直販の仕組みを作るまで | 石井絹治郎氏が個人企業の大正製薬所を創業 | ★★★ | ||
| 特約株主制度による株式会社化と、取引先小売店を株主とする直販網の構築 1928年、個人経営であった大正製薬所が株式会社大正製薬所として法人化し、取引先の小売販売店に自社株を持たせる"特約株主"制度を発足させた経営判断。資本金は100万円、うち払込資本金は25万円であった。上原正吉氏が石井絹治郎社長に提案し、卸・問屋を通さない直接取引の販路を、株主名簿と重ねる形で組み立てた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 大阪支店を開設 | ★ | |||
| 朝鮮支店を開設 | ★ | |||
| 本社を東京都中央区へ移転 | ★ | |||
| 物資統制の強化にともなう朝鮮支店の廃止 | ★ | |||
| 石井絹治郎社長の死去により石井輝司氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 本社を東京都豊島区へ移転 | ★ | |||
| 陸海軍の協力工場として公用医薬品を製造 | ★★ | |||
| 医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併 | ★★ | |||
| 1946〜1965年特約株主に推された三代目が、電波広告とリポビタンDで大衆薬の首位を取るまで | 上原正吉 | 石井輝司社長の辞任により上原正吉氏が社長に就任 | ★★ | |
| 上原正吉 | 第二工場を建設 | ★ | ||
| 上原正吉 | 商号を大正製薬に変更 | ★★ | ||
| 上原正吉 | 本社新社屋を建設し目白製薬の設備を買収 | ★ | ||
| 上原正吉 | 絆創膏工場を増設 | ★ | ||
| 上原正吉 | 医家向け医薬品の製造を開始 | ★★ | ||
| 上原正吉 | 秋艸衛材の設備と営業の全部を譲受 | ★ | ||
| 上原正吉 | 浦和工場を建設 | ★ | ||
| 上原正吉 | 20mlのアンプル剤から100mlのドリンク剤へ、飲み方ごとの作り替え 1962年3月、大正製薬が20ml入りアンプル剤"リポビタン液"を100ml入りのドリンク剤に改め、リポビタンDとして定価150円で発売した経営判断。発想は上原正吉社長自身のもので、社長は自著"商売は戦い"に着想の経緯を記している。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上原正吉 | 大宮工場の建設に着手 | ★ | ||
| 上原正吉 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 上原正吉 | 大宮工場の第1期工事が完了 | ★ | ||
| 上原小枝 | 上原正吉社長が科学技術庁長官(国務大臣)に転じて一時辞任し、上原小枝氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 1966〜2000年上原正吉・昭二・明の三代の経営と株主特約店制度、リアップの発売 | 上原小枝 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | |
| 上原正吉 | 上原正吉氏が社長に再就任 | ★ | ||
| 上原正吉 | 浦和工場を閉鎖し大宮工場へ統合 | ★ | ||
| 上原昭二 | 上原正吉社長の退任により上原昭二氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 上原昭二 | 大宮工場敷地内に総合研究所を建設 | ★ | ||
| 上原昭二 | 株主特約店制度を現行の形へ改定 | ★★ | ||
| 上原明 | 上原明氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 上原明 | 岡山工場を新設 | ★ | ||
| 上原明 | 加州大正製薬を設立 | ★ | ||
| 上原明 | 羽生工場を新設 | ★ | ||
| 上原明 | 発毛剤リアップを発売 | ★★ | ||
| 上原明 | 規制緩和によるドリンク剤の医薬部外品への移行 | ★★ | ||
| 2001〜2024年田辺製薬との統合撤回から持株会社化とUPSA買収、創業家MBOによる非公開化 | 上原明 | 田辺製薬との共同持株会社設立で合意 | ★★ | |
| 上原明 | 共同持株会社の設立で合意しながら二か月半で至った白紙撤回 2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社"大正田辺ファルマグループ"を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円となり、武田薬品工業・三共に次ぐ規模になる計画であった。ところが同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表する。合意から二か月半での解消であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上原明 | 富山化学工業へ出資し持分法適用関連会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | 合弁で大正富山医薬品を設立 | ★★ | ||
| 上原明 | 養命酒製造を持分法適用関連会社化 | ★ | ||
| 上原明 | ビオフェルミン製薬を子会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | インドネシアの製薬会社を買収し子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立 | ★★ | ||
| 上原明 | 上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬(株)社長に就任(HD社長は引き続き上原明) | ★★ | ||
| 上原明 | 株式交換によりトクホンを子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 創業以来初の早期退職優遇制度を導入 | ★★ | ||
| 上原明 | 富山化学工業の全株式を富士フイルムへ売却 | ★★ | ||
| 上原明 | 早期退職優遇制度に対象者の3割にあたる943名が応募 | ★★ | ||
| 上原明 | フランスの大衆薬会社UPSAを子会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | 株式交換によりビオフェルミン製薬を完全子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 東京証券取引所スタンダード市場へ移行 | ★ | ||
| 上原明 | 創業家による総額7,100億円のMBOと上場廃止 2023年11月、大正製薬ホールディングスが創業家によるMBOを発表し、上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社が1株8,620円・総額約7,100億円のTOBを実施した。国内のMBOでは当時過去最大で、2024年1月に成立し、同年4月9日に上場廃止となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上原明 | 臨時株主総会で株式併合を可決 | ★★ | ||
| 上原明 | 上場廃止により非公開化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大正製薬ホールディングス)