大正製薬HDの歴史
沿革
1912年に石井絹治郎氏が東京・市谷で興した大正製薬所が起源。
小売店を株主に迎えた特約店網を築き、1962年にアンプル剤を100mlへ大型化したリポビタンDを全国の店頭へ流した。大衆薬を主力とする大手だったが、2024年に創業家のMBOで上場を廃止した。
創業期
1912年〜石井絹治郎の大正製薬所創業と小売店株主による直販網
- 石井絹治郎氏が個人企業の大正製薬所を創業[1]
- 鎮咳去痰薬「パブロン」を発売[2]
- 特約株主制度での法人化[3]
- 大阪支店を開設[4]
- 朝鮮支店を開設[5]
- 本社を東京都中央区へ移転[3]
- 物資統制の強化にともなう朝鮮支店の廃止[5]
- 石井絹治郎社長の死去により石井輝司氏が社長に就任[5]
- 本社を東京都豊島区へ移転[3]
- 陸海軍の協力工場として公用医薬品を製造[5]
- 医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併[6]
売上高
- 売上高
大正製薬ホールディングス売上高—
成長期
1946年〜上原正吉の社長就任とリポビタンDによる大衆薬首位
- 石井輝司社長の辞任により上原正吉氏が社長に就任[7]
- 協同組合共成会の創立総会で上原正吉氏が理事長に就任[7]
- 第二工場を建設[5]
- 直営の大正チェーンが発足[7]
- 商号を大正製薬に変更[3]
- 乗り物酔い薬「センパア」を発売[2]
- シンボルマークとしてワシのマークを制定[2]
- 本社新社屋を建設し目白製薬の設備を買収[1][5]
- 絆創膏工場を増設[5]
- 医療用医薬品の販売を開始[3]
- 医家向け医薬品の製造を開始[6]
- 秋艸衛材の設備と営業の全部を譲受[5]
- 鎮痛剤「ナロン」を発売[2]
- 浦和工場を建設[1]
- リポビタンDの発売[8]
- 大宮工場の建設に着手[9]
- 「リポビタンD」の台湾への輸出を開始[2]
- 東京証券取引所市場第二部に上場[3]
- 大宮工場の第1期工事が完了[1]
- 上原正吉社長の科学技術庁長官就任により上原小枝氏が社長に就任[10]
成熟期
1966年〜株主特約店制度の改定と発毛剤リアップの発売
- 東京証券取引所市場第一部に指定[3]
- 上原正吉氏が社長に再就任[5]
- 消炎鎮痛剤「オパイリン錠」を発売[2]
- 浦和工場を閉鎖し大宮工場へ統合[1]
- 上原正吉社長の退任により上原昭二氏が社長に就任[11]
- 大宮工場敷地内に総合研究所を建設[3]
- 胃腸薬「大正漢方胃腸薬」を発売[2]
- 上原明氏が社長に就任[12]
- 胃潰瘍治療薬「ソロン」を発売[2]
- 上原記念生命科学財団を設立[2]
- 岡山工場を新設[1]
- 末梢循環改善薬「パルクス」を発売[2]
- 加州大正製薬を設立[1]
- 抗生物質「クラリス」を発売[2]
- 合弁でオソサパ大正を設立[3]
- 羽生工場を新設[1]
- 合弁で上海冠生園大正有限公司を設立[3]
- 発毛剤リアップを発売[2]
転換期
2001年〜田辺製薬統合の撤回から創業家MBOによる非公開化まで
- 大正製薬との統合破談
- 富山化学工業へ出資し持分法適用関連会社化[3]
- 合弁で大正富山医薬品を設立[3]
- 養命酒製造を持分法適用関連会社化[3]
- ビオフェルミン製薬を子会社化[3]
- インドネシアの製薬会社を買収し子会社化[3]
- シンガポール大正製薬を設立[3]
- ホウ製薬ホールディングスを連結子会社化[3]
- 単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立[3]
- 現物配当で大正富山医薬品・富山化学工業・養命酒製造の株式を取得[3]
- 株式交換によりトクホンを子会社化[3]
- 現物配当でビオフェルミン製薬を直接の子会社化[3]
- 大正製薬がハウザン製薬を持分法適用会社化[3]
- 富山化学工業の全株式を富士フイルムへ売却[3]
- ハウザン製薬を連結子会社化[3]
- フランスの大衆薬会社UPSAを子会社化[13]
- 株式交換によりビオフェルミン製薬を完全子会社化[3]
- 東京証券取引所スタンダード市場へ移行[3]
- 上原家のMBOによる上場廃止