大正製薬ホールディングス の歴史

創業

1912年

創業者

石井絹治郎

創業地

東京市牛込区市谷佐内町(現・東京都新宿区)

直近売上高(2023/3)

3,014億円

長期業績と転換点(1994/3〜2023/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1928年に、卸を通さない直販の仕組みを株式会社化と同時に作ったのか
A 薬品業界では卸商と問屋が販路を握り、そこを通さなければ商売が成り立たなかったためである。上原正吉氏は関東大震災後の地方回りでこの実態に突き当たり、会社を株式会社に改めて取引先の小売店に株を持ってもらう構想を立てた。小売店は株主として配当を受け、販売実績に応じた割戻金も得る。会社の側は安定した資本を確保しながら小売店と密接な関係を結べる。1928年5月、資本金100万円で株式会社大正製薬所が設立された
Q なぜ1962年に発売したリポビタンDが、その後の利益構造を長く決めたのか
A 従来20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を、100ml入りのドリンク剤へ剤形を変えた製品だったためである。発想は上原正吉社長自身によるもので、薬に水を加えて量を増やせば苦味が薄まると考えた。1963年3月期には品目別売上構成の10.0%を占め、2006年時点でもリポビタンシリーズはセルフメディケーション事業の半分以上、総売上高の3割を占めていた。粗利益への貢献度は4割超と推定されている。
Q なぜ2023年に創業家は約7,100億円を投じて市場から退いたのか
A 医薬事業がジェネリック薬の参入と薬価引き下げで直近2期赤字となり、市販薬事業の利益も2019年度からの3年間で4〜5割減に落ち込んでいたためである。会社はネット販売への対応や海外事業の拡大に迅速に投資するためと説明した。2023年11月24日に発表したTOBは1株8,620円、買収総額は約7,100億円で、国内のMBOでは当時過去最大とみられた。株式の約4割を保有する創業家一族が応募契約を結んでいる

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1912年〜 薬局が生んだ一製品から始まり、小売店を株主に迎える直販の仕組みを作るまで

  1. 1912年 石井絹治郎氏が個人企業の大正製薬所を創業
  2. 1928年 特約株主制度による株式会社化と、取引先小売店を株主とする直販網の構築 卸・問屋に販路を委ねるか、小売店を株主にするか——資本と販路を一枚の株主名簿に重ねた設計
  3. 1929年 大阪支店を開設
  4. 1930年 朝鮮支店を開設
  5. 1943年 石井絹治郎社長の死去により石井輝司氏が社長に就任
  6. 1944年 陸海軍の協力工場として公用医薬品を製造
  7. 1945年 医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併

輸入品の国産化から出発した売薬製造

石井絹治郎氏は1888年2月14日[1]、香川県三野郡比地二村の農家に生まれた。小学校を卒業すると上京し、薬品卸の商店に勤めながら神田薬学校に学んで、1906年に18歳で卒業し薬剤師試験にも合格した[2]。ただし法により開業免許は20歳に達するまで与えられず[3]、宮内庁侍医寮薬局などに勤めて研鑽を積んでいる。免許を得た1908年2月[4]、石井絹治郎氏は東京・牛込区市谷佐内坂町に個人経営の泰山堂薬局[5]を開いた。ドイツなどの製薬業界と比べると、日本では薬局を起源とする製薬会社は数少ない[6]といわれる。大正製薬は、近代薬学教育を受けた薬剤師の店から出発するという、業界では異例の出自[7]を持つ会社だった。

    • [1]石井絹治郎は1888年2月14日、香川県三野郡比地二村の農家に生まれた
    • [2]1906年に18歳で神田薬学校を卒業し、薬剤師試験に合格した
    • [3]法により開業免許は20歳に達するまで与えられなかった
    • [4]1908年2月に開業免許を得て泰山堂薬局を開業した
    • [5]泰山堂薬局は牛込区市谷佐内坂町の個人経営だった
    • [6]日本では薬局起源の製薬会社は数少なく、大正製薬は異例に属する
    • [7]わが国では異例に属する薬局起源の製薬会社として発展を遂げた

石井絹治郎氏は薬局の経営のかたわら、当時輸入に頼っていた滋養強壮剤のヘモグロビン末が牛の血液から製造できることに着目[8]し、錠剤とシロップ剤を試作した。輸入品と比べても遜色がないとの評判を得たため、叔父の石井殷太郎氏ら3名の出資[9]を仰いで、1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業[10]した。創業の地は東京市牛込区市谷佐内町38番地[11]であり、二つの剤形はそれぞれ「体素」[12]と名づけて売り出したものの、ヘモグロビン製剤に特有の吸湿性への対策が足りず、発売早々に苦情と返品が相次いだ[13]。出資者たちはいち早く出資金を回収して去り、ひとり残された石井絹治郎氏が容器の改良と乾燥剤の投入で吸湿を抑え、三共合資会社と貿易商ミクミヤへの販売委託[14]をまとめて再び製品化にこぎつけた。

    • [8]輸入に依存していたヘモグロビン末が牛血から製造できることに着目した
    • [9]叔父の石井殷太郎、薬剤師の若林亀吉、大塚浩一の出資を得た
    • [10]1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業した
    • [11]創業地は東京市牛込区市谷佐内町38番地と確定されている
    • [12]錠剤とシロップ剤をそれぞれ「体素」と命名して発売した
    • [13]吸湿性への対策が不十分で苦情と返品が相次いだ
    • [14]錠剤は三共合資会社、シロップ剤は貿易商ミクミヤに販売委託した
    • [1]石井絹治郎は1888年2月14日、香川県三野郡比地二村の農家に生まれた
    • [2]1906年に18歳で神田薬学校を卒業し、薬剤師試験に合格した
    • [3]法により開業免許は20歳に達するまで与えられなかった
    • [4]1908年2月に開業免許を得て泰山堂薬局を開業した
    • [5]泰山堂薬局は牛込区市谷佐内坂町の個人経営だった
    • [6]日本では薬局起源の製薬会社は数少なく、大正製薬は異例に属する
    • [7]わが国では異例に属する薬局起源の製薬会社として発展を遂げた
    • [8]輸入に依存していたヘモグロビン末が牛血から製造できることに着目した
    • [9]叔父の石井殷太郎、薬剤師の若林亀吉、大塚浩一の出資を得た
    • [10]1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業した
    • [11]創業地は東京市牛込区市谷佐内町38番地と確定されている
    • [12]錠剤とシロップ剤をそれぞれ「体素」と命名して発売した
    • [13]吸湿性への対策が不十分で苦情と返品が相次いだ
    • [14]錠剤は三共合資会社、シロップ剤は貿易商ミクミヤに販売委託した

卸に握られた販路を迂回するための特約株主制度

事業が軌道に乗ると経理事務のできる者が要り、大正製薬所は縁故採用に頼らない一般公募[15]を試みた。1916年春のこの公募で入社したのが上原正吉氏[16]で、1897年12月26日に埼玉県北葛飾郡田宮村の農家に生まれ、錦城商業学校を出た[17]ばかりの青年は、初任給15円の経理担当[18]として帳簿記入や計算にあたったが、1年後には外回りの営業を志願して認められた。当時の従業員は住込みの男子5名と通勤の女子工員2名[19]にすぎない。上原正吉氏は後年、この時期を「私は着物に角帯をしめ、その上に前掛けを垂らした姿で自転車に乗り[20]」(商売は戦い 1964年7月)回ったと記した。1923年9月の関東大震災では営業所も工場も被害を免れ[21]、同業他社の被災もあって注文が殺到し、従業員は約80人まで増えた[22]

    • [15]従来の縁故採用に頼らない一般公募を試みることとした
    • [16]1916年春の一般公募で上原正吉が入社した
    • [17]上原正吉は1897年12月26日、埼玉県北葛飾郡田宮村に生まれ錦城商業学校を卒業した
    • [18]初任給15円の経理担当として入社し、1年後に外回りの営業へ移った
    • [19]大正5年春の従業員は住込みの男子5名、通勤の女子工員2名だった
    • [21]1923年9月1日の関東大震災で営業所・工場とも被害を免れた
    • [22]震災後は注文が殺到し従業員を約80人まで増やして増産体制を敷いた
    • [20]上原正吉は『商売は戦い』で当時の得意先回りをこう記した

震災後の販路拡張で地方を回った上原正吉氏が痛感したのは、販路網を卸商と問屋筋が握っており[23]、そこを通さなければ商売が成り立たないという実態だった。卸に頼れば経費と手間は省けるが、不況が深まれば代金の回収が難しくなる[24]。1925年ごろ[25]、石井絹治郎氏は加盟金を預かって看板を付け割戻しをする「特約店連盟」[26]を発案し、上原正吉氏はこれをさらに進めた案を提示した。会社を株式会社に改め、取引先の小売店に株を持ってもらうという構想[27]である。小売店は株主として配当を受け、販売実績に応じた割戻金も得る[28]。会社の側は安定した資本を確保[29]しながら小売店と密接な関係を結べる。卸売制度の強固な薬品業界にあって、直販制度と株式会社化を結びつけたこの方策は大胆な挑戦[30]として注目を集めた。

    • [23]地方では販路網を卸商・問屋が握り、通さなければ商売が不可能な実態だった
    • [24]問屋・卸に頼ると経費は節約できるが不況時の代金回収が困難になる
    • [25]大正14年ごろ石井絹治郎が「特約店連盟」制度を発案した
    • [26]特約店連盟は加盟金100円を預かり点滅灯看板を付け特別の割戻をする制度だった
    • [27]上原正吉は株式会社化して取引先小売店に株を持たせる「特約株主」を構想した
    • [28]小売店は配当と販売実績に応じた割戻金を受け取る仕組みだった
    • [29]会社は安定した資本を確保すると同時に小売店とより密接な関係を結べる構想だった
    • [30]直販制度と株式会社化を結合した方策は業界で大胆な挑戦として注目された
    • [15]従来の縁故採用に頼らない一般公募を試みることとした
    • [16]1916年春の一般公募で上原正吉が入社した
    • [17]上原正吉は1897年12月26日、埼玉県北葛飾郡田宮村に生まれ錦城商業学校を卒業した
    • [18]初任給15円の経理担当として入社し、1年後に外回りの営業へ移った
    • [19]大正5年春の従業員は住込みの男子5名、通勤の女子工員2名だった
    • [21]1923年9月1日の関東大震災で営業所・工場とも被害を免れた
    • [22]震災後は注文が殺到し従業員を約80人まで増やして増産体制を敷いた
    • [23]地方では販路網を卸商・問屋が握り、通さなければ商売が不可能な実態だった
    • [24]問屋・卸に頼ると経費は節約できるが不況時の代金回収が困難になる
    • [25]大正14年ごろ石井絹治郎が「特約店連盟」制度を発案した
    • [26]特約店連盟は加盟金100円を預かり点滅灯看板を付け特別の割戻をする制度だった
    • [27]上原正吉は株式会社化して取引先小売店に株を持たせる「特約株主」を構想した
    • [28]小売店は配当と販売実績に応じた割戻金を受け取る仕組みだった
    • [29]会社は安定した資本を確保すると同時に小売店とより密接な関係を結べる構想だった
    • [30]直販制度と株式会社化を結合した方策は業界で大胆な挑戦として注目された
    • [20]上原正吉は『商売は戦い』で当時の得意先回りをこう記した

統制経済下での吸収合併と創業者の急死

上原正吉氏の構想に基づく株式会社化は1928年5月に実現し、資本金100万円[31]で株式会社大正製薬所が設立された。本社は文京区、工場は文京区と豊島区[32]に置き、翌1929年11月には大阪支店を、1930年には朝鮮支店を開設[33]した。特約株主を束ねる販売組織は共成会と呼ばれ、戦前の最盛期には全国で5,500店を擁する医薬品業界最大の販売・生産チェーン[34]に育った。加盟する薬局・薬店には多品種の優良品を安く供給するだけでなく、割戻し・支部交付金・特売といったサービスで会員店の利益を守る[35]仕組みだった。1937年4月[36]に本社を東京都中央区へ移した。しかし1939年、日中戦争の進展にともなう物資統制の強化[37]で民需品の製造販売が困難になり、朝鮮支店は廃止された。

  • 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
    • [31]1928年5月に資本金100万円で株式会社大正製薬所を設立した
    • [32]本社は東京都文京区、工場は文京区および豊島区に置かれた
    • [36]1937年4月に本社を東京都中央区へ移転した
    • [33]1929年11月に大阪支店、1930年に朝鮮支店を開設した
    • [37]1939年に物資統制の強化で朝鮮支店を廃止した
    • [34]共成会は戦前の最盛期に全国5,500店を擁する業界最大の販売・生産チェーンだった
    • [35]共成会は割戻し・支部交付金・特売などで会員店の利益を擁護した

1943年、創業者の石井絹治郎氏が死去し、石井輝司氏が取締役社長[38]に就いた。同じ年の7月[39]に本社を豊島区へ移した。翌1944年には陸軍および海軍の協力工場[40]となり、公用医薬品を製造した。戦争末期の1945年6月、医薬品製造業整備要項の趣旨に従って明治製薬を吸収合併[41]し、資本金は119万円[42]となった。国が医薬品メーカーの整理統合を進めるなか[43]での合併である。終戦を挟んで大正製薬所が置かれた立場は同業他社に比べて有利で、戦争による施設の被害が少なかったため、会社経理応急措置法に基づく特別経理会社の指定を免れた[44]。同業他社の多くが1948年夏ごろまで同法の制約下で新しい施設の施工を規制された[45]のに対し、大正製薬所はこの期間にも自由に工場を拡張できた。

    • [38]1943年に石井絹治郎社長が死去し石井輝司が取締役社長となった
    • [40]1944年に陸軍・海軍の協力工場となり公用医薬品を製造した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
    • [39]1943年7月に本社を東京都豊島区へ移転した
    • [41]1945年6月に医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併した
    • [42]明治製薬の合併により資本金は119万円となった
    • [43]医薬品製造業整備要項に基づく戦時下の企業整備による合併だった
    • [44]戦災の被害が少なく会社経理応急措置法の特別経理会社指定を免れた
    • [45]同業他社の多くは1948年夏ごろまで同法の制約下にあった
  • 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
    • [31]1928年5月に資本金100万円で株式会社大正製薬所を設立した
    • [32]本社は東京都文京区、工場は文京区および豊島区に置かれた
    • [36]1937年4月に本社を東京都中央区へ移転した
    • [39]1943年7月に本社を東京都豊島区へ移転した
    • [41]1945年6月に医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併した
    • [42]明治製薬の合併により資本金は119万円となった
    • [43]医薬品製造業整備要項に基づく戦時下の企業整備による合併だった
    • [33]1929年11月に大阪支店、1930年に朝鮮支店を開設した
    • [37]1939年に物資統制の強化で朝鮮支店を廃止した
    • [38]1943年に石井絹治郎社長が死去し石井輝司が取締役社長となった
    • [40]1944年に陸軍・海軍の協力工場となり公用医薬品を製造した
    • [34]共成会は戦前の最盛期に全国5,500店を擁する業界最大の販売・生産チェーンだった
    • [35]共成会は割戻し・支部交付金・特売などで会員店の利益を擁護した
    • [44]戦災の被害が少なく会社経理応急措置法の特別経理会社指定を免れた
    • [45]同業他社の多くは1948年夏ごろまで同法の制約下にあった

1946年〜 特約株主に推された三代目が、電波広告とリポビタンDで大衆薬の首位を取るまで

  1. 1946年 石井輝司社長の辞任により上原正吉氏が社長に就任
  2. 1947年 第二工場を建設
  3. 1948年 商号を大正製薬に変更
  4. 1955年 本社新社屋を建設し目白製薬の設備を買収
  5. 1958年 医家向け医薬品の製造を開始
  6. 1962年 20mlアンプル剤から100mlドリンク剤への剤形変更と、リポビタンDの発売 薬の中身を変えるか、飲み方を変えるか——アンプルを瓶に替えた1962年3月の製品判断
  7. 1965年 上原正吉社長の国務大臣就任にともなう一時辞任

特約株主の支持で決まった三代目社長の交代

1946年6月、石井輝司社長の辞任[46]にともない、事実上の経営責任者だった上原正吉氏が第3代社長に選任された。この交代を支えたのは株主の大部分を占める特約株主で、第35回株主総会の直前にあたる同年3月31日現在の株主名簿では、株主総数4,005名[47]に対し、筆頭の上原正吉氏の持株は1,787株で全2万3,800株の1割にも満たなかった[48]。一方、特約株主とみられる50株未満の株主は3,953名を数え、その持株合計1万1,654株は株式総数の5割に近い[49]。制度の生みの親に寄せる小売店の期待が、社長就任の原動力[50]となった。株主総会の数日前には進駐軍の兵士と警官が工場に乗り込み、貯蔵していたカフェインを麻薬として押収[51]して上原正吉氏を連行する事件も起きたが、悪質な密告と判明して3日で釈放[52]された。

    • [46]1946年6月に石井輝司社長の辞任により上原正吉が第3代社長となった
    • [47]1946年3月31日現在の株主総数は4,005名だった
    • [48]筆頭株主の上原正吉の持株は1,787株で全2万3,800株の1割未満だった
    • [49]50株未満の特約株主は3,953名、持株合計1万1,654株で総数の5割近くを占めた
    • [50]特約株主制度の生みの親である上原に寄せる期待が社長就任への大きな原動力となった
    • [51]株主総会の数日前に進駐軍と警官が工場のカフェインを麻薬として押収した
    • [52]悪質な密告と判明し留置3日間で釈放され株主総会に出席した

戦時中に機能を止めていた共成会[53]の再建は、戦前の特約株主制度をそのまま復元する形では行われなかった。上原正吉社長は、加入者の総意で運営される協同組合主義によって再建[54]すべきだと決断し、1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会[55]を開いて自ら理事長に就いた。従来のチェーンがメーカーに従属していたのに対し、新しい共成会はメーカーから人格的にも経済的にも独立した薬局・薬店[56]と製造業者とで組織される。加盟メーカーの製品を共同仕入れし、会員だけに販売する専売品を指定[57]する仕組みである。創立総会での加入会員は都内199店、都外を合わせて204店[58]にすぎなかった。1948年5月29日[59]、会社は商号を大正製薬株式会社に改めた。

    • [53]共成会は戦時経済の進展に伴い中断していた
    • [54]上原正吉は協同組合主義によって共成会を再建すべきと決断した
    • [55]1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会が開かれ上原正吉が理事長に就いた
    • [56]新共成会はメーカーから人格的・経済的に独立した薬局薬店と製造業者で組織された
    • [57]加盟メーカーの製品を共同仕入れし会員のみの専売品を指定した
    • [58]創立総会時の加入会員は都内199店、都外を含め204店だった
    • [59]1948年5月29日付で商号を大正製薬株式会社に改めた
    • [46]1946年6月に石井輝司社長の辞任により上原正吉が第3代社長となった
    • [47]1946年3月31日現在の株主総数は4,005名だった
    • [48]筆頭株主の上原正吉の持株は1,787株で全2万3,800株の1割未満だった
    • [49]50株未満の特約株主は3,953名、持株合計1万1,654株で総数の5割近くを占めた
    • [50]特約株主制度の生みの親である上原に寄せる期待が社長就任への大きな原動力となった
    • [51]株主総会の数日前に進駐軍と警官が工場のカフェインを麻薬として押収した
    • [52]悪質な密告と判明し留置3日間で釈放され株主総会に出席した
    • [53]共成会は戦時経済の進展に伴い中断していた
    • [54]上原正吉は協同組合主義によって共成会を再建すべきと決断した
    • [55]1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会が開かれ上原正吉が理事長に就いた
    • [56]新共成会はメーカーから人格的・経済的に独立した薬局薬店と製造業者で組織された
    • [57]加盟メーカーの製品を共同仕入れし会員のみの専売品を指定した
    • [58]創立総会時の加入会員は都内199店、都外を含め204店だった
    • [59]1948年5月29日付で商号を大正製薬株式会社に改めた

民放の電波に投じた広告費と大量販売の体制

1950年6月4日の第2回参議院議員選挙[60]で、上原正吉社長は埼玉地方区から立候補して初当選した。政界に進んだ理由について、上原正吉氏は戦争末期から戦後にかけて政治の力を借りなければ原料も材料も電気もガスも来ない状態[61]だったと自著で説明した。翌1951年12月には物価政務次官[62]に就任し、以後は経済調査政務次官、首都建設政務次官、郵政委員長を歴任した。社長の政界進出にともない、1951年1月6日付で養子の上原昭二氏が代表取締役に就任[63]して社長代理を務めた。上原昭二氏は後に第6代社長に就く[64]人物である。従業員数も増え、1951年度の営業報告書は1,000名に達しようとしている[65]と記した。

    • [60]1950年6月4日の参議院議員選挙で上原正吉が埼玉地方区から初当選した
    • [61]政治の力を借りなければ原料・材料・電気・ガスが来ない状態だったと述べている
    • [62]1951年12月に物価政務次官に就任し以後複数の役職を歴任した
    • [63]1951年1月6日付で上原昭二が代表取締役に就任し社長代理を務めた
    • [64]上原昭二は後に第6代社長に就任した
    • [65]1951年度の営業報告書は従業員数が1,000名に達しようとしていると記した

この時期の大正製薬は電波媒体へ集中的に投資し、1955年秋に売り出した総合保健剤サモン[66]の広告は、論語の一節を下敷きに「40才にして惑わず、惑わずサモンをのむ」[67]と謳い、テレビで繰り返し流された。広告宣伝費は1952年度の4,438万円から1961年度には13億6,593万円[68]へと、9年間で約30倍に増えた。1955年度と1960年度の広告量上位10社を見ると、大正製薬は1955年度は新聞とラジオ、1960年度はテレビでも上位[69]に入っていた。販売の現場では、1963年5月に薬局・薬店向けの販促ツールとしてスライド「サウンド・リポート」[70]が導入され、担当外商員がプロジェクターとテープレコーダーを持参して陳列やPOP照明の方法を説明[71]して回った。

    • [66]1955年秋に総合保健剤サモンを発売した
    • [67]サモンの広告コピーは論語を下敷きにした生活感覚広告の代表例とされた
    • [68]広告宣伝費は1952年度4,438万円から1961年度13億6,593万円へ約30倍に増えた
    • [69]新聞・ラジオ・テレビの広告量上位10社に大正製薬が入っていた
    • [70]1963年5月に販促ツールのスライド「サウンド・リポート」を導入した
    • [71]外商員がプロジェクターと録音機を持参し陳列やPOP照明を説明した
    • [60]1950年6月4日の参議院議員選挙で上原正吉が埼玉地方区から初当選した
    • [61]政治の力を借りなければ原料・材料・電気・ガスが来ない状態だったと述べている
    • [62]1951年12月に物価政務次官に就任し以後複数の役職を歴任した
    • [63]1951年1月6日付で上原昭二が代表取締役に就任し社長代理を務めた
    • [64]上原昭二は後に第6代社長に就任した
    • [65]1951年度の営業報告書は従業員数が1,000名に達しようとしていると記した
    • [66]1955年秋に総合保健剤サモンを発売した
    • [67]サモンの広告コピーは論語を下敷きにした生活感覚広告の代表例とされた
    • [68]広告宣伝費は1952年度4,438万円から1961年度13億6,593万円へ約30倍に増えた
    • [69]新聞・ラジオ・テレビの広告量上位10社に大正製薬が入っていた
    • [70]1963年5月に販促ツールのスライド「サウンド・リポート」を導入した
    • [71]外商員がプロジェクターと録音機を持参し陳列やPOP照明を説明した

リポビタンDの発売と、上場の年に起きた薬害

1950年代の後半[72]、大正製薬は医療用医薬品の研究開発に本格的に取り組み始めた。健康保険制度の普及を踏まえ[73]、この分野への進出が欠かせないと判断したためである。社内の大勢は未知の分野への進出を危ぶみ、一部には反対の声もあったが、上原昭二副社長が製薬業界の状況と将来の見通しを説いて役員会を説得[74]した。医家向け医薬品の製造は1958年8月[75]に始まった。一方、大衆薬では剤形を変えた商品[76]が生まれた。1962年3月に発売したリポビタンD[77]は、従来20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に改めた[78]もので、発想は上原正吉社長自身[79]によるものである。容量100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、アンプルに代えて瓶とポンキャップを採用[80]し、味付けにはパインの風味を加えた。

    • [72]昭和30年代の初頭に医療用医薬品の研究・開発への本格的な取組みを開始した
    • [73]健康保険制度の普及を踏まえ医療用医薬品への進出が不可欠と判断した
    • [74]社内に反対がある中で上原昭二副社長が役員会を説得した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
    • [75]医家向け医薬品の製造は1958年8月に開始した
    • [76]リポビタンDはアンプル剤を大型化してドリンク剤へ剤形を変えた製品だった
    • [77]リポビタンDの発売は1962年3月である
    • [78]20ml入りアンプル剤のリポビタン液を100ml入りドリンク剤にしたものだった
    • [79]リポビタンDの発想は上原正吉社長自身によるものと本人が記している
    • [80]100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、瓶とポンキャップを採用した

1963年9月16日[81]、大正製薬は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。額面50円の株の公開価格は2,000円[82]で、当時としては史上最高だと連日話題になった。上原正吉社長は記者団に「実力からいって高いとは思わない[83]」(現代の眼 1965年)と答えた。上場時点の資本金は4億円、従業員は3,536名、取引店は約28,000店[84]を数えた。1963年3月期の売上構成は品目別にパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%[85]、ワイパア7.2%と続き、上位5〜6品目で売上高のおよそ半分[86]を占めた。販売はチェーンシステムによる直売方式[87]で、全国の取引店にパトロールセールスマンを派遣し、新製品の発売や業界状況に応じた販売方法を徹底させる体制だった。

    • [81]1963年9月16日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [84]上場時の資本金4億円、従業員3,536名、取引店約28,000店だった
    • [85]1963年3月期の品目別売上構成はパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%だった
    • [86]上位5〜6品目で全売上高の約半分を占めた
    • [87]チェーンシステムによる直売方式でパトロールセールスマンを派遣していた
    • [82]額面50円の株を2,000円で公開し史上最高と話題になった
    • [83]上原正吉は公開株価について実力からいって高いとは思わないと答えた

上場の2年後、アンプル入りの風邪薬を飲んだ人が急性薬物中毒で死亡する事例が続き、1965年に社会問題[88]となった。メーカーの損失総額は62億8,228万円、薬局の売上げは平均で3割減った[89]と報じられた。当事者の一社であった大正製薬の上原正吉氏は「もし本当に毒だったらあの程度の事故では済まなかったはず」[90](現代の眼 1965年)と述べ、死者への責任にはふれなかった。同じ1965年、上原正吉氏は年間所得5億4,872万円で個人所得の日本一[91]となり、6月に科学技術庁長官へ就任して社長を一時退いた[92]。後任には妻の上原小枝氏が第4代社長[93]として就いている。1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉氏が社長へ復帰[94]した。

    • [72]昭和30年代の初頭に医療用医薬品の研究・開発への本格的な取組みを開始した
    • [73]健康保険制度の普及を踏まえ医療用医薬品への進出が不可欠と判断した
    • [74]社内に反対がある中で上原昭二副社長が役員会を説得した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第97期・2006年6月提出)【沿革】
    • [75]医家向け医薬品の製造は1958年8月に開始した
    • [76]リポビタンDはアンプル剤を大型化してドリンク剤へ剤形を変えた製品だった
    • [77]リポビタンDの発売は1962年3月である
    • [78]20ml入りアンプル剤のリポビタン液を100ml入りドリンク剤にしたものだった
    • [79]リポビタンDの発想は上原正吉社長自身によるものと本人が記している
    • [80]100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、瓶とポンキャップを採用した
    • [93]1965年6月3日に上原正吉が社長を辞し、上原小枝副社長が第4代社長に就任した
    • [81]1963年9月16日に東京証券取引所市場第二部へ上場した
    • [84]上場時の資本金4億円、従業員3,536名、取引店約28,000店だった
    • [85]1963年3月期の品目別売上構成はパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%だった
    • [86]上位5〜6品目で全売上高の約半分を占めた
    • [87]チェーンシステムによる直売方式でパトロールセールスマンを派遣していた
    • [82]額面50円の株を2,000円で公開し史上最高と話題になった
    • [83]上原正吉は公開株価について実力からいって高いとは思わないと答えた
    • [88]1965年にアンプル入り風邪薬による急性薬物中毒死が社会問題となった
    • [89]メーカーの損失総額62億8,228万円、薬局の売上げ平均3割減と報じられた
    • [90]上原正吉は事故について毒であればこの程度では済まないはずだと述べた
    • [91]1965年の上原正吉の年間所得は5億4,872万円で個人所得日本一だった
    • [92]1965年6月に国務大臣就任にともない社長を一時辞任した
    • [94]1966年8月に東証一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉が社長へ復帰した

1966年〜 一本の主力品が利益を支えた反面、医療用医薬品を伸ばせなかった時代

大正製薬ホールディングスの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1978年 株主特約店制度を現行の形へ改定
  2. 1982年 上原明氏が社長に就任
  3. 1999年 発毛剤リアップを発売
  4. 1999年 規制緩和によるドリンク剤の医薬部外品への移行
  5. 2001年 田辺製薬との共同持株会社設立で合意
  6. 2001年 大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回 医療用で相手の2倍を売る会社が、資本では買われる側に置かれる——その比率をのむか、のまないか
  7. 2002年 富山化学工業へ出資し持分法適用関連会社化

創業家に集中した持株と、公開後も続いた直販の仕組み

株式を公開しても資本の構成は創業家に偏ったままで、1965年時点の株式総数2,000万株[95]のうち、上原正吉氏が1,020万株、養子の上原昭二氏が340万株、妻の上原小枝氏が100万株[96]を保有し、3名で全株式の73%以上にあたる1,460万株[97]を占めた。専務の持株は約1万5,000株[98]にとどまった。その上原小枝氏は1909年4月13日に静岡県加茂郡稲梓村で生まれ[99]、大正製薬所が1922年に払下げの材木で建てた40戸の住宅群[100]に住む建築請負業者土屋仁作氏[101]を父にもち、上原正吉氏と結婚し、大正製薬の第4代社長[102]を務めた。

販売の仕組みも創業期の延長にあり、大正製薬の株式1,000株を保有すれば特約店となり[103]、特別価格での商品供給に加え、サポートVANと呼ばれるPOSシステムの配備やデータ分析[104]といった経営支援を受けられる。前身の大正製薬所時代に導入された制度は時代に応じて姿を変え、1978年から当時の形になった[105]。全国の小売企業のうち7割が大正特約店であり、サポートVANは約3,000台[106]が稼働していた。卸を介さず自前のルート営業マンが商品配送から集金、保守運用サービスまで担う[107]体制である。1973年5月には上原昭二氏が第6代社長に就き[108]、1982年6月、上原明氏が代表取締役社長に就任[109]した。上原明氏は堀田庄三元住友銀行頭取の次男[110]で、1974年に上原昭二氏の長女正子氏と結婚して1976年に上原家へ入籍し、1977年に大正製薬へ入社[111]してから5年での就任だった。

  • 週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界 大正製薬 巨鷲のかくも長き沈黙」
    • [103]株式1,000株の保有で特約店となり特別価格の商品供給を受けられた
    • [104]サポートVANによるPOSシステム配備やデータ分析の経営支援があった
    • [105]制度は1978年から当時の形になった
    • [106]全国の小売企業の7割が大正特約店で、サポートVANは約3,000台が稼働していた
    • [107]卸を介さず自前のルート営業マンが配送から集金・保守運用まで担った
    • [108]1973年5月に上原昭二が第6代社長として就任した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【役員の状況】
    • [109]1982年6月に上原明が代表取締役社長に就任した
    • [111]上原明は1977年4月に大正製薬へ入社した
    • [110]上原明は堀田庄三元住友銀行頭取の次男で、1974年10月に上原昭二の長女正子と結婚し1976年6月に上原家へ入籍、1977年4月に入社した
    • [95]1965年時点の株式総数は2,000万株だった
    • [96]上原正吉1,020万株、上原昭二340万株、上原小枝100万株を保有していた
    • [97]一族3名で全株式の73%以上にあたる1,460万株を占めた
    • [98]専務の持株は約1万5,000株にとどまった
    • [102]上原小枝は1965年時点で社長を務め、第4代社長にあたる
    • [99]上原小枝は1909年4月13日、静岡県加茂郡稲梓村(現下田市)で父土屋仁作、母たつの長女として出生した
    • [100]平和記念東京博覧会の建物払下げの材木で高田町に40戸の住宅群を建て和光園と名付けた
    • [101]和光園に住む建築請負業の土屋仁作の長女が小枝で、後に上原正吉と結婚し第4代社長に就任した
  • 週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界 大正製薬 巨鷲のかくも長き沈黙」
    • [103]株式1,000株の保有で特約店となり特別価格の商品供給を受けられた
    • [104]サポートVANによるPOSシステム配備やデータ分析の経営支援があった
    • [105]制度は1978年から当時の形になった
    • [106]全国の小売企業の7割が大正特約店で、サポートVANは約3,000台が稼働していた
    • [107]卸を介さず自前のルート営業マンが配送から集金・保守運用まで担った
    • [108]1973年5月に上原昭二が第6代社長として就任した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【役員の状況】
    • [109]1982年6月に上原明が代表取締役社長に就任した
    • [111]上原明は1977年4月に大正製薬へ入社した
    • [110]上原明は堀田庄三元住友銀行頭取の次男で、1974年10月に上原昭二の長女正子と結婚し1976年6月に上原家へ入籍、1977年4月に入社した

田辺製薬との経営統合と、二か月半での白紙撤回

2001年9月、大正製薬と田辺製薬[112]は翌年4月に共同持株会社「大正田辺ファルマグループ」を設立して経営統合すると発表した。株式移転比率は大正1に対して田辺0.55[113]で、統合後の連結売上高は4,600億円[114]となり、国内の医薬品メーカーとして武田薬品工業、三共に次ぎ、3位の山之内製薬と並ぶ規模になる計算だった。両社が組む理由ははっきりしており、田辺製薬は医療用医薬品で単独の生き残りが難しいとみられて、外資系メーカーから買収の最右翼候補[115]と目されていた。一方の大正製薬は売上高2,700億円のうち7割をドリンク剤と大衆薬が占め、医療用医薬品は700億円強[116]の中堅規模にとどまり、その拡大が課題だった。ただし株式市場の反応は鈍く、発表後の両社の株価は下がった[117]

  • 週刊東洋経済 2001/10/6「製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [112]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社の設立による経営統合を発表した
    • [113]株式移転比率は大正1に対し田辺0.55だった
    • [114]統合後の連結売上高は4,600億円で国内3位グループに並ぶ規模だった
    • [115]田辺製薬は外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [116]大正製薬は売上高2,700億円の7割がドリンク剤と大衆薬、医療用は700億円強だった
    • [117]発表後の両社の株価は下がりアナリストは効果が小さいとみた

同年12月3日[118]、合意から二か月半[119]で両社は統合の白紙撤回を発表した。会見に立った大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長[120]は、持株会社の位置づけと機能について考え方の違いがあり[121]、人事や年金を含む企業風土の違いも早期には詰められなかったと説明したが、決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に最後まで明かさなかった[122]。実務を進める部会で田辺製薬は自社の制度にこだわり[123]、大正製薬側が戸惑う場面もあったと伝えられた。株式移転比率が事実上の買収を意味する一方、医療用では主導権を握る[124]という田辺製薬側の意識があった。新会社の利益はリポビタンDを軸とする大衆薬部門から出て、研究開発費のかさむ医療用へ回る設計[125]であり、その配分と主導権をめぐる溝が埋まらなかった。

  • 週刊東洋経済 2001/12/15「主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [118]2001年12月3日に統合の白紙撤回を発表した
    • [119]9月の合意から二か月半での解消だった
    • [120]会見は大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長が行った
    • [121]持株会社の位置づけと機能、人事や年金を含む企業風土の違いを理由に挙げた
    • [122]決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かされなかった
    • [123]統合準備委員会の部会で田辺は自社の制度にこだわり大正側が戸惑う場面もあった
    • [124]田辺には医療用では主導権はこちらが握るという意識があった
    • [125]新会社の利益は大衆薬部門から医療用へ回る設計で配分と主導権の溝が埋まらなかった
  • 週刊東洋経済 2001/10/6「製薬再編の第一幕 大正・田辺の意外な合併に株式市場が冷淡な理由」
    • [112]2001年9月に大正製薬と田辺製薬が共同持株会社の設立による経営統合を発表した
    • [113]株式移転比率は大正1に対し田辺0.55だった
    • [114]統合後の連結売上高は4,600億円で国内3位グループに並ぶ規模だった
    • [115]田辺製薬は外資系メーカーから買収の最右翼候補と目されていた
    • [116]大正製薬は売上高2,700億円の7割がドリンク剤と大衆薬、医療用は700億円強だった
    • [117]発表後の両社の株価は下がりアナリストは効果が小さいとみた
  • 週刊東洋経済 2001/12/15「主導権争いで溝深め 大正・田辺が婚約解消」
    • [118]2001年12月3日に統合の白紙撤回を発表した
    • [119]9月の合意から二か月半での解消だった
    • [120]会見は大正製薬の大平明副社長と田辺製薬の葉山夏樹副社長が行った
    • [121]持株会社の位置づけと機能、人事や年金を含む企業風土の違いを理由に挙げた
    • [122]決裂の最大の要因は秘密保持契約を理由に明かされなかった
    • [123]統合準備委員会の部会で田辺は自社の制度にこだわり大正側が戸惑う場面もあった
    • [124]田辺には医療用では主導権はこちらが握るという意識があった
    • [125]新会社の利益は大衆薬部門から医療用へ回る設計で配分と主導権の溝が埋まらなかった

主力品の停滞と、持株会社体制への移行

統合が流れた後、大正製薬は単独で医療用の拡大を図り、2002年9月に富山化学工業の新株を引き受けて持分法適用関連会社[126]とし、翌10月には合弁で大正富山医薬品を設立[127]した。2006年4月には養命酒製造を持分法適用関連会社[128]とし、2008年3月にはビオフェルミン製薬を子会社化[129]した。それでも売上の構成は変わらず、リポビタンシリーズはセルフメディケーション事業の半分以上、総売上高でも3割[130]を占め、粗利益への貢献度は4割超[131]と推定されていた。そのリポビタンシリーズが2006年3月期に4%減る[132]と、会社は同年7月末の第1四半期決算発表と同時に2007年3月期の業績予想を下方修正した。続く4月から9月は天候不順もあって8%減[133]とさらに落ち込んだ。

  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【沿革】
    • [126]2002年9月に富山化学工業の新株引受けにより持分法適用関連会社とした
    • [127]2002年10月に合弁で大正富山医薬品を設立した
    • [128]2006年4月に養命酒製造を持分法適用関連会社とした
    • [129]2008年3月にビオフェルミン製薬を子会社化した
  • 週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界 大正製薬 巨鷲のかくも長き沈黙」
    • [130]リポビタンシリーズはセルフメディケーション事業の半分以上、総売上高の3割を占めた
    • [131]粗利益への貢献度は4割超と推定されていた
    • [132]リポビタンシリーズは前期4%減、4〜9月は8%減と落ち込んだ
    • [133]リポビタンシリーズは4〜9月に天候不順もあって8%減と落ち込んだ

主力の停滞に対して打った手も実らず、1999年に発売した発毛剤リアップは初年度こそ300億円を売り上げたが、女性用のリアップレディを含めても120億円程度[134]に落ちた。2003年から売り出した生活習慣病対策の食品シリーズであるリビタも、狙う機能性食品市場が1.5兆円と大衆薬の1.2兆円を上回るにもかかわらず、年商は30億円程度[135]にとどまった。2000年前後に取り組んだ海外バイオベンチャーとの共同開発は、ピーク時で案件数が10を超えたものの一つも実を結ばず[136]、2004年3月期に8.7億円の特別投資損失[137]を計上してほぼ清算した。2011年10月3日、大正製薬は単独株式移転により大正製薬ホールディングスを設立[138]し、持株会社体制へ移行した。大正製薬の株式は同年9月に上場廃止[139]となった。

  • 週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界 大正製薬 巨鷲のかくも長き沈黙」
    • [134]1999年発売のリアップは初年度300億円を売り上げたが120億円程度に落ちた
    • [135]リビタは機能性食品市場1.5兆円に対し年商30億円程度にとどまった
    • [136]海外バイオベンチャーとの共同開発はピーク時10件超だが一つも実を結ばなかった
    • [137]2004年3月期に8.7億円の特別投資損失を計上してほぼ清算した
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【沿革】
    • [138]2011年10月3日に単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立した
    • [139]大正製薬の株式は2011年9月に上場廃止となった
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【沿革】
    • [126]2002年9月に富山化学工業の新株引受けにより持分法適用関連会社とした
    • [127]2002年10月に合弁で大正富山医薬品を設立した
    • [128]2006年4月に養命酒製造を持分法適用関連会社とした
    • [129]2008年3月にビオフェルミン製薬を子会社化した
    • [138]2011年10月3日に単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立した
    • [139]大正製薬の株式は2011年9月に上場廃止となった
  • 週刊東洋経済 2006/9/2「「リポビタンD」頼みの限界 大正製薬 巨鷲のかくも長き沈黙」
    • [130]リポビタンシリーズはセルフメディケーション事業の半分以上、総売上高の3割を占めた
    • [131]粗利益への貢献度は4割超と推定されていた
    • [132]リポビタンシリーズは前期4%減、4〜9月は8%減と落ち込んだ
    • [133]リポビタンシリーズは4〜9月に天候不順もあって8%減と落ち込んだ
    • [134]1999年発売のリアップは初年度300億円を売り上げたが120億円程度に落ちた
    • [135]リビタは機能性食品市場1.5兆円に対し年商30億円程度にとどまった
    • [136]海外バイオベンチャーとの共同開発はピーク時10件超だが一つも実を結ばなかった
    • [137]2004年3月期に8.7億円の特別投資損失を計上してほぼ清算した

2012年〜 創業家出身の社長が人員を削って構造を変えようとし、最後は上場廃止に至るまで

大正製薬ホールディングスの業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2012年 上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬(株)社長に就任(HD社長は引き続き上原明)
  2. 2018年 創業以来初の早期退職優遇制度を導入
  3. 2018年 富山化学工業の全株式を富士フイルムへ売却
  4. 2018年 早期退職優遇制度に対象者の3割にあたる943名が応募
  5. 2019年 フランスの大衆薬会社UPSAを子会社化
  6. 2023年 創業家による総額7,100億円のMBOと上場廃止 非公開下での事業転換か、少数株主への公正な対価か——国内最大のMBOをめぐる攻防
  7. 2024年 臨時株主総会で株式併合を可決

創業以来初の早期退職募集と、海外大衆薬会社の買収

2012年、上原明氏の長男である上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬株式会社の社長に就任した。持株会社の大正製薬ホールディングス社長は引き続き上原明氏が務めた。慶応義塾大学を出て米国のケロッグ経営大学院で学んだ[141]人物で、次のグループ総帥となることがほぼ確実視されていた。就任後は研究開発から営業担当への異動[142]といった大胆な配置転換を役員・幹部級で実施した。2018年5月、大正製薬ホールディングスは早期退職優遇制度の実施を発表[143]した。10年以上勤務し40歳以上の従業員約3,000名が対象で、8月末に公表された応募者は943名[144]、対象のおよそ3割にあたる。退職の呼びかけは1912年の創業以来はじめて[145]のことで、割り増し退職金と再就職支援費用として特別損失122億円を計上したが、1人当たりでは約1,290万円[146]にとどまる。 [140]

  • 週刊東洋経済 2018/9/15「早期退職に3割応募 大正製薬で人員大削減の波紋」
    • [140]2012年に上原茂が36歳で事業子会社・大正製薬(株)の社長に就任し、持株会社(大正製薬HD)社長は引き続き上原明が務めた
    • [141]上原茂は慶応大学卒業後に米ケロッグ経営大学院で学んだ
    • [142]上原茂は役員・幹部級社員の人事で研究開発から営業担当への異動など大胆な配置転換を実施した
    • [143]2018年5月に早期退職優遇制度の実施を発表した
    • [144]10年以上勤務・40歳以上の約3,000名が対象で943名が応募し約3割にあたる
    • [145]退職の呼びかけは1912年の創業以来はじめてだった
    • [146]特別損失122億円を計上し1人当たり約1,290万円だった

この人員削減は業績の急変を受けたものではなく、2018年3月期の営業利益は前期比16%増の369億円[147]だった。ただし長い目で見れば、利益のピークは18年も前にあり、その間も従業員は増え続けて1人当たり利益は半分以下[148]になった。弱点は医療用医薬品にあり、2000年代から進めたM&Aや提携は実を結ばず、2018年7月には保有していた富山化学工業株34%の全部を富士フイルムホールディングスへ売却[149]した。翌2019年7月、大正製薬はフランスの大衆薬会社UPSAの株式を取得[150]して子会社とした。2021年7月には株式交換でビオフェルミン製薬を完全子会社[151]とした。2022年4月、東京証券取引所の市場区分見直しに際して、大正製薬ホールディングスはプライム市場の条件を満たしながらスタンダード市場を選んだ[152]

  • 週刊東洋経済 2018/9/15「早期退職に3割応募 大正製薬で人員大削減の波紋」
    • [147]2018年3月期の営業利益は前期比16%増の369億円だった
    • [148]利益のピークは18年前で、従業員は増え続け1人当たり利益は半分以下になった
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【沿革】
    • [149]2018年7月に富山化学工業株34%の全部を富士フイルムホールディングスへ売却した
    • [150]2019年7月にフランスのUPSAを子会社化した
    • [151]2021年7月に株式交換でビオフェルミン製薬を完全子会社とした
  • 週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO 買収価格が不興を買う必然」
    • [152]2022年4月の市場区分見直しでプライムの条件を満たしながらスタンダードを選んだ
  • 週刊東洋経済 2018/9/15「早期退職に3割応募 大正製薬で人員大削減の波紋」
    • [140]2012年に上原茂が36歳で事業子会社・大正製薬(株)の社長に就任し、持株会社(大正製薬HD)社長は引き続き上原明が務めた
    • [141]上原茂は慶応大学卒業後に米ケロッグ経営大学院で学んだ
    • [142]上原茂は役員・幹部級社員の人事で研究開発から営業担当への異動など大胆な配置転換を実施した
    • [143]2018年5月に早期退職優遇制度の実施を発表した
    • [144]10年以上勤務・40歳以上の約3,000名が対象で943名が応募し約3割にあたる
    • [145]退職の呼びかけは1912年の創業以来はじめてだった
    • [146]特別損失122億円を計上し1人当たり約1,290万円だった
    • [147]2018年3月期の営業利益は前期比16%増の369億円だった
    • [148]利益のピークは18年前で、従業員は増え続け1人当たり利益は半分以下になった
  • 大正製薬 有価証券報告書(第12期・2023年6月提出)【沿革】
    • [149]2018年7月に富山化学工業株34%の全部を富士フイルムホールディングスへ売却した
    • [150]2019年7月にフランスのUPSAを子会社化した
    • [151]2021年7月に株式交換でビオフェルミン製薬を完全子会社とした
  • 週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO 買収価格が不興を買う必然」
    • [152]2022年4月の市場区分見直しでプライムの条件を満たしながらスタンダードを選んだ

PBR1倍割れのまま選んだ非公開化と、少数株主の異議

2023年11月24日[153]、大正製薬ホールディングスはMBOを実施すると発表した。創業家出身の上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社[154]が、11月27日から翌年1月15日までTOBを行う。買付価格は発表前日の終値を約5割上回る1株8,620円、買収総額は約7,100億円[155]に達する見込みだった。株式の約4割を保有する創業家一族はTOBへの応募契約[156]を結んだ。同年11月上旬に発表されたベネッセの総額最大2,079億円を上回り[157]、国内のMBOでは過去最大規模とみられた。背景には業績の変化があり、医薬事業はジェネリック薬の参入と薬価引き下げで直近2期が赤字となり、市販薬事業も2018年度以前は安定して300億円以上の利益[158]を上げていたのに、2019年度からの3年間はその4〜5割減に落ち込んでいた。

  • 週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO 買収価格が不興を買う必然」
    • [153]2023年11月24日にMBOの実施を発表した
    • [154]上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社がTOBの買い手となった
    • [155]買付価格は前日終値を約5割上回る1株8,620円、買収総額は約7,100億円だった
    • [156]創業家一族が約4割の株式を保有しTOBへの応募契約を結んだ
    • [157]ベネッセの最大2,079億円を上回り国内MBOで過去最大規模とみられた
    • [158]医薬事業は直近2期が赤字、市販薬事業も利益が4〜5割減に落ち込んだ

2023年9月末時点のPBRは0.60倍で、5割超のプレミアムを乗せた買付価格でもPBRは0.85倍[159]にとどまり、買付価格には異論が出た。12月1日、マネックスグループのカタリスト投資顧問[160]はこのMBOを少数株主を軽視した判断であると表明した。マネックスグループの松本大会長は「少数株主に純資産価格以下でのエグジットを半ば強制する」[161](週刊東洋経済 2023/12/16)ことは合理的でないと述べた。会社側は中長期の成長にはネット販売への対応や海外事業の拡大といった事業構造の転換[162]が必要で、その投資を迅速に行うために非公開化を決断したと説明した。TOB後に創業家側は発行済み株式の約73%[163]を握り、2024年3月18日の臨時株主総会で株式併合などの議案はすべて可決され、4月9日に上場廃止[164]となった。

  • 週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO 買収価格が不興を買う必然」
    • [159]2023年9月末時点のPBRは0.60倍、買付価格でも0.85倍にとどまった
    • [160]2023年12月1日にカタリスト投資顧問が少数株主を軽視した判断と表明した
    • [161]松本大会長は純資産価格以下での退出を強制するのは合理的でないと述べた
    • [162]会社はネット販売対応や海外事業拡大の投資を迅速に行うため非公開化を決断したと説明した
  • 週刊東洋経済 2024/3/30「大正製薬にローランドDG MBOに横やりが相次ぐ」
    • [163]TOB後に創業家側は発行済み株式の約73%を握った
    • [164]2024年3月18日の臨時株主総会で株式併合が可決され4月9日に上場廃止となった

上場廃止で決着がついたわけではなく、複数のファンド株主が法的手段を検討し、米投資ファンドのキュリRMBはすでに準備を進めていた[165]。念頭にあったのは2020年の伊藤忠商事によるファミリーマートへのTOB[166]で、価格が安すぎるとして株主が裁判所へ価格決定を申し立てた事例である。東京地方裁判所は株主側の主張を認め、TOB価格から300円増やした2,600円[167]が適正だと判断し、伊藤忠側の抗告により東京高等裁判所で議論が続いている。大正製薬ホールディングス株を保有するオアシス・マネジメントのセス・フィッシャー最高投資責任者は「プロセスに大きな問題がある」[168](週刊東洋経済 2024/3/30)として、価格を議論した特別委員会の独立性を疑問視した。会社側は多くの株主が応募し臨時株主総会でも多数の賛同を得たことからMBOは適正[169]であるとコメントした。

  • 週刊東洋経済 2024/3/30「大正製薬にローランドDG MBOに横やりが相次ぐ」
    • [165]複数のファンド株主が法的手段を検討し米キュリRMBは準備を進めていた
    • [166]2020年の伊藤忠商事によるファミリーマートTOBで価格決定の申し立てがあった
    • [167]東京地裁はTOB価格から300円増やした2,600円が適正と判断した
    • [168]オアシスのセス・フィッシャーは特別委員会の独立性など手続きを問題視した
    • [169]会社は多くの株主の応募と総会での賛同からMBOは適正であるとコメントした
  • 週刊東洋経済 2023/12/16「大正製薬が過去最大MBO 買収価格が不興を買う必然」
    • [153]2023年11月24日にMBOの実施を発表した
    • [154]上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社がTOBの買い手となった
    • [155]買付価格は前日終値を約5割上回る1株8,620円、買収総額は約7,100億円だった
    • [156]創業家一族が約4割の株式を保有しTOBへの応募契約を結んだ
    • [157]ベネッセの最大2,079億円を上回り国内MBOで過去最大規模とみられた
    • [158]医薬事業は直近2期が赤字、市販薬事業も利益が4〜5割減に落ち込んだ
    • [159]2023年9月末時点のPBRは0.60倍、買付価格でも0.85倍にとどまった
    • [160]2023年12月1日にカタリスト投資顧問が少数株主を軽視した判断と表明した
    • [161]松本大会長は純資産価格以下での退出を強制するのは合理的でないと述べた
    • [162]会社はネット販売対応や海外事業拡大の投資を迅速に行うため非公開化を決断したと説明した
  • 週刊東洋経済 2024/3/30「大正製薬にローランドDG MBOに横やりが相次ぐ」
    • [163]TOB後に創業家側は発行済み株式の約73%を握った
    • [164]2024年3月18日の臨時株主総会で株式併合が可決され4月9日に上場廃止となった
    • [165]複数のファンド株主が法的手段を検討し米キュリRMBは準備を進めていた
    • [166]2020年の伊藤忠商事によるファミリーマートTOBで価格決定の申し立てがあった
    • [167]東京地裁はTOB価格から300円増やした2,600円が適正と判断した
    • [168]オアシスのセス・フィッシャーは特別委員会の独立性など手続きを問題視した
    • [169]会社は多くの株主の応募と総会での賛同からMBOは適正であるとコメントした

大正製薬ホールディングスの沿革1912〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
石井絹治郎氏が個人企業の大正製薬所を創業★★★
特約株主制度による株式会社化と、取引先小売店を株主とする直販網の構築卸・問屋に販路を委ねるか、小売店を株主にするか——資本と販路を一枚の株主名簿に重ねた設計 詳細を読む★★★
大阪支店を開設
朝鮮支店を開設
本社を東京都中央区へ移転
物資統制の強化にともなう朝鮮支店の廃止
石井絹治郎社長の死去により石井輝司氏が社長に就任★★
本社を東京都豊島区へ移転
陸海軍の協力工場として公用医薬品を製造★★
医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併★★
石井輝司社長の辞任により上原正吉氏が社長に就任★★
第二工場を建設
商号を大正製薬に変更★★
本社新社屋を建設し目白製薬の設備を買収
絆創膏工場を増設
医家向け医薬品の製造を開始★★
秋艸衛材の設備と営業の全部を譲受
浦和工場を建設
20mlアンプル剤から100mlドリンク剤への剤形変更と、リポビタンDの発売薬の中身を変えるか、飲み方を変えるか——アンプルを瓶に替えた1962年3月の製品判断 詳細を読む★★★
大宮工場の建設に着手
東京証券取引所市場第二部に上場
大宮工場の第1期工事が完了
上原正吉社長の国務大臣就任にともなう一時辞任★★
東京証券取引所市場第一部に指定
上原正吉氏の社長復帰
浦和工場を閉鎖し大宮工場へ統合
大宮工場敷地内に総合研究所を建設
株主特約店制度を現行の形へ改定★★
上原明上原明氏が社長に就任★★
上原明岡山工場を新設
上原明加州大正製薬を設立
上原明羽生工場を新設
上原明発毛剤リアップを発売★★
上原明規制緩和によるドリンク剤の医薬部外品への移行★★
上原明田辺製薬との共同持株会社設立で合意★★
上原明大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回医療用で相手の2倍を売る会社が、資本では買われる側に置かれる——その比率をのむか、のまないか 詳細を読む★★★
上原明富山化学工業へ出資し持分法適用関連会社化★★
上原明合弁で大正富山医薬品を設立★★
上原明養命酒製造を持分法適用関連会社化
上原明ビオフェルミン製薬を子会社化★★
上原明インドネシアの製薬会社を買収し子会社化
上原明単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立★★
上原明上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬(株)社長に就任(HD社長は引き続き上原明)★★
上原明株式交換によりトクホンを子会社化
上原明創業以来初の早期退職優遇制度を導入★★
上原明富山化学工業の全株式を富士フイルムへ売却★★
上原明早期退職優遇制度に対象者の3割にあたる943名が応募★★
上原明フランスの大衆薬会社UPSAを子会社化★★
上原明株式交換によりビオフェルミン製薬を完全子会社化
上原明東京証券取引所スタンダード市場へ移行
創業家による総額7,100億円のMBOと上場廃止非公開下での事業転換か、少数株主への公正な対価か——国内最大のMBOをめぐる攻防 詳細を読む★★★
臨時株主総会で株式併合を可決★★
上場廃止により非公開化★★
出典・参考

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