石井絹治郎氏は1888年2月14日[1]、香川県三野郡比地二村の農家に生まれた。小学校を卒業すると上京し、薬品卸の商店に勤めながら神田薬学校に学んで、1906年に18歳で卒業し薬剤師試験にも合格した[2]。ただし法により開業免許は20歳に達するまで与えられず[3]、宮内庁侍医寮薬局などに勤めて研鑽を積んでいる。免許を得た1908年2月[4]、石井絹治郎氏は東京・牛込区市谷佐内坂町に個人経営の泰山堂薬局[5]を開いた。ドイツなどの製薬業界と比べると、日本では薬局を起源とする製薬会社は数少ない[6]といわれる。大正製薬は、近代薬学教育を受けた薬剤師の店から出発するという、業界では異例の出自[7]を持つ会社だった。
石井絹治郎氏は薬局の経営のかたわら、当時輸入に頼っていた滋養強壮剤のヘモグロビン末が牛の血液から製造できることに着目[8]し、錠剤とシロップ剤を試作した。輸入品と比べても遜色がないとの評判を得たため、叔父の石井殷太郎氏ら3名の出資[9]を仰いで、1912年10月に匿名組合・大正製薬所を創業[10]した。創業の地は東京市牛込区市谷佐内町38番地[11]であり、二つの剤形はそれぞれ『体素』[12]と名づけて売り出したものの、ヘモグロビン製剤に特有の吸湿性への対策が足りず、発売早々に苦情と返品が相次いだ[13]。出資者たちはいち早く出資金を回収して去り、ひとり残された石井絹治郎氏が容器の改良と乾燥剤の投入で吸湿を抑え、三共合資会社と貿易商ミクミヤへの販売委託[14]をまとめて再び製品化にこぎつけた。
事業が軌道に乗ると経理事務のできる者が要り、大正製薬所は縁故採用に頼らない一般公募[15]を試みた。1916年春のこの公募で入社したのが上原正吉氏[16]で、1897年12月26日に埼玉県北葛飾郡田宮村の農家に生まれ、錦城商業学校を出た[17]ばかりの青年は、初任給15円の経理担当[18]として帳簿記入や計算にあたったが、1年後には外回りの営業を志願して認められた。当時の従業員は住込みの男子5名と通勤の女子工員2名[19]にすぎない。上原正吉氏は後年、この時期を『私は着物に角帯をしめ、その上に前掛けを垂らした姿で自転車に乗り』[引用元](商売は戦い 1964年7月)回ったと記した。1923年9月の関東大震災では営業所も工場も被害を免れ[20]、同業他社の被災もあって注文が殺到し、従業員は約80人まで増えた[21]。
震災後の販路拡張で地方を回った上原正吉氏が痛感したのは、販路網を卸商と問屋筋が握っており[22]、そこを通さなければ商売が成り立たないという実態だった。卸に頼れば経費と手間は省けるが、不況が深まれば代金の回収が難しくなる[23]。1925年ごろ[24]、石井絹治郎氏は加盟金を預かって看板を付け割戻しをする『特約店連盟』[25]を発案し、上原正吉氏はこれをさらに進めた案を提示した。会社を株式会社に改め、取引先の小売店に株を持ってもらうという構想[26]である。小売店は株主として配当を受け、販売実績に応じた割戻金も得る[27]。会社の側は安定した資本を確保[28]しながら小売店と密接な関係を結べる。卸売制度の強固な薬品業界にあって、直販制度と株式会社化を結びつけたこの方策は大胆な挑戦[29]として注目を集めた。
上原正吉氏の構想に基づく株式会社化は1928年5月に実現し、資本金100万円[30]で株式会社大正製薬所が設立された。本社は文京区、工場は文京区と豊島区[31]に置き、翌1929年11月には大阪支店を、1930年には朝鮮支店を開設[32]した。特約株主を束ねる販売組織は共成会と呼ばれ、戦前の最盛期には全国で5,500店を擁する医薬品業界最大の販売・生産チェーン[33]に育った。加盟する薬局・薬店には多品種の優良品を安く供給するだけでなく、割戻し・支部交付金・特売といったサービスで会員店の利益を守る[34]仕組みだった。1937年4月[35]に本社を東京都中央区へ移した。しかし1939年、日中戦争の進展にともなう物資統制の強化[36]で民需品の製造販売が困難になり、朝鮮支店は廃止された。
1943年、創業者の石井絹治郎氏が死去し、石井輝司氏が取締役社長[37]に就いた。同じ年の7月[38]に本社を豊島区へ移した。翌1944年には陸軍および海軍の協力工場[39]となり、公用医薬品を製造した。戦争末期の1945年6月、医薬品製造業整備要項の趣旨に従って明治製薬を吸収合併[40]し、資本金は119万円[41]となった。国が医薬品メーカーの整理統合を進めるなか[42]での合併である。終戦を挟んで大正製薬所が置かれた立場は同業他社に比べて有利で、戦争による施設の被害が少なかったため、会社経理応急措置法に基づく特別経理会社の指定を免れた[43]。同業他社の多くが1948年夏ごろまで同法の制約下で新しい施設の施工を規制された[44]のに対し、大正製薬所はこの期間にも自由に工場を拡張できた。
1946年6月、石井輝司社長の辞任[45]にともない、事実上の経営責任者だった上原正吉氏が第3代社長に選任された。この交代を支えたのは株主の大部分を占める特約株主で、第35回株主総会の直前にあたる同年3月31日現在の株主名簿では、株主総数4,005名[46]に対し、筆頭の上原正吉氏の持株は1,787株で全2万3,800株の1割にも満たなかった[47]。一方、特約株主とみられる50株未満の株主は3,953名を数え、その持株合計1万1,654株は株式総数の5割に近い[48]。制度の生みの親に寄せる小売店の期待が、社長就任の原動力[49]となった。株主総会の数日前には進駐軍の兵士と警官が工場に乗り込み、貯蔵していたカフェインを麻薬として押収[50]して上原正吉氏を連行する事件も起きたが、悪質な密告と判明して3日で釈放[51]された。
戦時中に機能を止めていた共成会[52]の再建は、戦前の特約株主制度をそのまま復元する形では行われなかった。上原正吉社長は、加入者の総意で運営される協同組合主義によって再建[53]すべきだと決断し、1946年9月18日に協同組合共成会の創立総会[54]を開いて自ら理事長に就いた。従来のチェーンがメーカーに従属していたのに対し、新しい共成会はメーカーから人格的にも経済的にも独立した薬局・薬店[55]と製造業者とで組織される。加盟メーカーの製品を共同仕入れし、会員だけに販売する専売品を指定[56]する仕組みである。創立総会での加入会員は都内199店、都外を合わせて204店[57]にすぎなかった。1948年5月29日[58]、会社は商号を大正製薬株式会社に改めた。
1950年6月4日の第2回参議院議員選挙[59]で、上原正吉社長は埼玉地方区から立候補して初当選した。政界に進んだ理由について、上原正吉氏は戦争末期から戦後にかけて政治の力を借りなければ原料も材料も電気もガスも来ない状態[60]だったと自著で説明した。翌1951年12月には物価政務次官[61]に就任し、以後は経済調査政務次官、首都建設政務次官、郵政委員長を歴任した。社長の政界進出にともない、1951年1月6日付で養子の上原昭二氏が代表取締役に就任[62]して社長代理を務めた。上原昭二氏は後に第6代社長に就く[63]人物である。従業員数も増え、1951年度の営業報告書は1,000名に達しようとしている[64]と記した。
この時期の大正製薬は電波媒体へ集中的に投資し、1955年秋に売り出した総合保健剤サモン[65]の広告は、論語の一節を下敷きに『40才にして惑わず、惑わずサモンをのむ』[引用元][66]と謳い、テレビで繰り返し流された。広告宣伝費は1952年度の4,438万円から1961年度には13億6,593万円[67]へと、9年間で約30倍に増えた。1955年度と1960年度の広告量上位10社を見ると、大正製薬は1955年度は新聞とラジオ、1960年度はテレビでも上位[68]に入っていた。販売の現場では、1963年5月に薬局・薬店向けの販促ツールとしてスライド『サウンド・リポート』[69]が導入され、担当外商員がプロジェクターとテープレコーダーを持参して陳列やPOP照明の方法を説明[70]して回った。
1950年代の後半[71]、大正製薬は医療用医薬品の研究開発に本格的に取り組み始めた。健康保険制度の普及を踏まえ[72]、この分野への進出が欠かせないと判断したためである。社内の大勢は未知の分野への進出を危ぶみ、一部には反対の声もあったが、上原昭二副社長が製薬業界の状況と将来の見通しを説いて役員会を説得[73]した。医家向け医薬品の製造は1958年8月[74]に始まった。一方、大衆薬では剤形を変えた商品[75]が生まれた。1962年3月に発売したリポビタンD[76]は、従来20ml入りのアンプル剤だったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に改めた[77]もので、発想は上原正吉社長自身[78]によるものである。容量100mlは前年7月発売のタウローゼCの実績を踏まえ、アンプルに代えて瓶とポンキャップを採用[79]し、味付けにはパインの風味を加えた。
1963年9月16日[80]、大正製薬は東京証券取引所市場第二部に株式を上場した。額面50円の株の公開価格は2,000円[81]で、当時としては史上最高だと連日話題になった。上原正吉社長は記者団に『実力からいって高いとは思わない』[引用元](現代の眼 1965年)と答えた。上場時点の資本金は4億円、従業員は3,536名、取引店は約28,000店[82]を数えた。1963年3月期の売上構成は品目別にパブロン15.4%、サモン14.6%、リポビタン10.0%[83]、ワイパア7.2%と続き、上位5〜6品目で売上高のおよそ半分[84]を占めた。販売はチェーンシステムによる直売方式[85]で、全国の取引店にパトロールセールスマンを派遣し、新製品の発売や業界状況に応じた販売方法を徹底させる体制だった。
上場の2年後、アンプル入りの風邪薬を飲んだ人が急性薬物中毒で死亡する事例が続き、1965年に社会問題[86]となった。メーカーの損失総額は62億8,228万円、薬局の売上げは平均で3割減った[87]と報じられた。当事者の一社であった大正製薬の上原正吉氏は『もし本当に毒だったらあの程度の事故では済まなかったはず』[引用元][88](現代の眼 1965年)と述べ、死者への責任にはふれなかった。同じ1965年、上原正吉氏は年間所得5億4,872万円で個人所得の日本一[89]となり、6月に科学技術庁長官へ就任して社長を一時退いた[90]。後任には妻の上原小枝氏が第4代社長[91]として就いている。1966年8月に東京証券取引所市場第一部へ指定替えとなり、9月に上原正吉氏が社長へ復帰[92]した。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1945年薬局が生んだ一製品から始まり、小売店を株主に迎える直販の仕組みを作るまで | 石井絹治郎氏が個人企業の大正製薬所を創業 | ★★★ | ||
| 特約株主制度による株式会社化と、取引先小売店を株主とする直販網の構築 1928年、個人経営であった大正製薬所が株式会社大正製薬所として法人化し、取引先の小売販売店に自社株を持たせる『特約株主』制度を発足させた経営判断。資本金は100万円、うち払込資本金は25万円であった。上原正吉氏が石井絹治郎社長に提案し、卸・問屋を通さない直接取引の販路を、株主名簿と重ねる形で組み立てた。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 大阪支店を開設 | ★ | |||
| 朝鮮支店を開設 | ★ | |||
| 本社を東京都中央区へ移転 | ★ | |||
| 物資統制の強化にともなう朝鮮支店の廃止 | ★ | |||
| 石井絹治郎社長の死去により石井輝司氏が社長に就任 | ★★ | |||
| 本社を東京都豊島区へ移転 | ★ | |||
| 陸海軍の協力工場として公用医薬品を製造 | ★★ | |||
| 医薬品製造業整備要項により明治製薬を吸収合併 | ★★ | |||
| 1946〜1965年特約株主に推された三代目が、電波広告とリポビタンDで大衆薬の首位を取るまで | 石井輝司社長の辞任により上原正吉氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 第二工場を建設 | ★ | |||
| 商号を大正製薬に変更 | ★★ | |||
| 本社新社屋を建設し目白製薬の設備を買収 | ★ | |||
| 絆創膏工場を増設 | ★ | |||
| 医家向け医薬品の製造を開始 | ★★ | |||
| 秋艸衛材の設備と営業の全部を譲受 | ★ | |||
| 浦和工場を建設 | ★ | |||
| 20mlアンプル剤から100mlドリンク剤への剤形変更と、リポビタンDの発売 1962年3月、大正製薬が20ml入りアンプル剤『リポビタン液』を100ml入りのドリンク剤に改め、リポビタンDとして定価150円で発売した経営判断。発想は上原正吉社長自身のもので、社長は自著『商売は戦い』に着想の経緯を記している。 詳細を読む | ★★★ | |||
| 大宮工場の建設に着手 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | |||
| 大宮工場の第1期工事が完了 | ★ | |||
| 上原正吉社長の国務大臣就任にともなう一時辞任 | ★★ | |||
| 1966〜2011年一本の主力品が利益を支えた反面、医療用医薬品を伸ばせなかった時代 | 東京証券取引所市場第一部に指定 | ★ | ||
| 上原正吉氏の社長復帰 | ★ | |||
| 浦和工場を閉鎖し大宮工場へ統合 | ★ | |||
| 大宮工場敷地内に総合研究所を建設 | ★ | |||
| 株主特約店制度を現行の形へ改定 | ★★ | |||
| 上原明 | 上原明氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 上原明 | 岡山工場を新設 | ★ | ||
| 上原明 | 加州大正製薬を設立 | ★ | ||
| 上原明 | 羽生工場を新設 | ★ | ||
| 上原明 | 発毛剤リアップを発売 | ★★ | ||
| 上原明 | 規制緩和によるドリンク剤の医薬部外品への移行 | ★★ | ||
| 上原明 | 田辺製薬との共同持株会社設立で合意 | ★★ | ||
| 上原明 | 大正製薬との共同持株会社設立の合意と、二か月半での白紙撤回 2001年9月、田辺製薬は大正製薬と共同持株会社『大正田辺ファルマグループ』を2002年4月に設立して経営統合すると発表した。統合後の連結売上高は4600億円となり、武田薬品工業・三共に次ぐ規模になる計画であった。ところが同年12月3日、両社は統合の白紙撤回を発表する。合意から二か月半での解消であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上原明 | 富山化学工業へ出資し持分法適用関連会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | 合弁で大正富山医薬品を設立 | ★★ | ||
| 上原明 | 養命酒製造を持分法適用関連会社化 | ★ | ||
| 上原明 | ビオフェルミン製薬を子会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | インドネシアの製薬会社を買収し子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 単独株式移転で大正製薬ホールディングスを設立 | ★★ | ||
| 上原明 | 上原茂氏が36歳で事業子会社・大正製薬(株)社長に就任(HD社長は引き続き上原明) | ★★ | ||
| 上原明 | 株式交換によりトクホンを子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 創業以来初の早期退職優遇制度を導入 | ★★ | ||
| 上原明 | 富山化学工業の全株式を富士フイルムへ売却 | ★★ | ||
| 上原明 | 早期退職優遇制度に対象者の3割にあたる943名が応募 | ★★ | ||
| 上原明 | フランスの大衆薬会社UPSAを子会社化 | ★★ | ||
| 上原明 | 株式交換によりビオフェルミン製薬を完全子会社化 | ★ | ||
| 上原明 | 東京証券取引所スタンダード市場へ移行 | ★ | ||
| 上原明 | 創業家による総額7,100億円のMBOと上場廃止 2023年11月、大正製薬ホールディングスが創業家によるMBOを発表し、上原茂副社長が代表を務める大手門株式会社が1株8,620円・総額約7,100億円のTOBを実施した。国内のMBOでは当時過去最大で、2024年1月に成立し、同年4月9日に上場廃止となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 上原明 | 臨時株主総会で株式併合を可決 | ★★ | ||
| 上原明 | 上場廃止により非公開化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(大正製薬ホールディングス)