服部兼三郎氏は1870年11月29日、名古屋近郊の丹羽郡北野村に堀尾伸右衛門氏の長男として生まれ[1]、地元の赤童子学校を13歳で卒業したのち、家業の農業を手伝うかたわら村役場へ見習いに通った[2]。1885年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛氏から奉公に誘われ、反対する両親を説得して名古屋へ出た[3]。奉公先の『糸屋祖父江重兵衛』は、瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称された名古屋の四大繊維問屋に数えられる[4]。丁稚から手代、番頭へと引き立てられ、入店4年後の1889年には主人の女婿に配された[5]。その2年前の1887年には服部鐵次郎氏の養子に入って服部姓に改めており、徴兵を避けるための入籍だったとみられる[6]。ただし酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを黙認できなくなった祖父江重兵衛氏は、1894年に服部兼三郎氏を離縁・解雇した[7]。
服部兼三郎氏が独立営業を始めたのは解雇と同じ1894年の12月25日、店を構えたのは名古屋市八百屋町で[8]、開業資金には祖父江重兵衛商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた[9]。扱ったのは鳴海・有松の絞と知多木綿の集荷で、使用人は2、3人、自ら店主兼番頭として県下を歩き回る規模にとどまったが[10]、開業と同じ年の8月に始まった日清戦争が追い風になった[11]。1895年4月の下関条約で日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得[12]、綿糸輸出税は1894年、綿花輸入税は1896年に撤廃された[13]。1897年には綿糸の輸出が輸入を上回り[14]、服部兼三郎商店も八百屋町から下長者町へ店を移した[15]。
独立まもない時期に、服部兼三郎氏は名古屋へ出てきた豊田佐吉氏と知り合った[16]。1896年に完成した木製小幅動力織機を自らの賃織機屋へ大量に入れ、まだ無名だった豊田佐吉氏の発明資金を融資し続けた[17]。1901年7月7日に下長者町の店が火事で全焼したのを機に、20日後の同月27日には宮町一丁目の新店舗へ移転を終え[18]、この宮町本店が以後およそ半世紀にわたる拠点になった[19]。1899年に13歳で入店した三輪常次郎氏は、1906年から1912年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張し、大連から営口・奉天・鉄嶺まで単身で大尺布を売り歩いた[20]。1910年度の『名古屋商工案内』に載る服部兼三郎商店の営業税額は1,046円25銭で、白木綿卸の第1位、繊維商全体でも10位以内に入った[21]。
1912年10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会が開かれた[22]。資本の総額は100万円、払込資本金50万円で、本店を名古屋市東区宮町一丁目に、支店を大阪市東区南久宝寺町に置いた[23]。株主161名のうち服部兼三郎氏が8,000株、三輪常次郎氏が1,250株を持ち、ほかの取締役6名は社外の人で持株は各100株から300株にとどまった[24]。11月1日の業務開始に先立つ第1回取締役会は服部兼三郎氏を専務に選んでおり[25]、この『専務』は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称として使われた[26]。創立総会の2日前には、大阪の綿布問屋・平林甚助商店の商権と資産・負債を引き受ける契約を、仲介した三井物産大阪支店を交えて結び[27]、その累積欠損は服部兼三郎氏が暖簾代として負担した[28]。
改組と同じ1912年、株式会社服部商店は名古屋市中区松原二丁目に服部サイジング工場を開き、三重紡績の糸の糊付を糊付機3台・従業員約50名で請け負った[29]。紡績ほど資本を食わず、紡績と織布の中間にあたる工程を選んだうえで[30]、1914年3月には名古屋市南区熱田東町に桜田工場を設け、糊付機4台・織機308台で織布を始めた[31]。その桜田工場を別会社にして自分たちに経営させてほしいと工場長の豊田平吉氏ら3名が願い出たとき、三輪常次郎氏は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を3月15日に提出した[32]。服部兼三郎氏は折れ、桜田工場は直営に決まった[33]。同じ年の8月、第一次大戦の勃発で明治銀行ほか名古屋の3行に取り付けが起き、和歌山の取引先の倒産で売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した[34]。9月12日、服部兼三郎氏は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた[35]。
1914年の失敗を経て、株式会社服部商店は大戦景気のもとで生産部門を積み増した[36]。1916年5月に嘉久正商店から小牧工場を買収し[37]、1917年3月12日の臨時株主総会で紡績業を営むため定款第二条を変更し[38]、同年4月には初の紡績兼営となる熱田工場を完成させた[39]。1918年5月の古知野工場、1919年10月の横浜工場、1920年4月の福井紡織株式会社の合併による福井工場を加え、1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台を数えた[40]。一方の服部兼三郎氏は1919年から綿糸の定期相場と仲間間の先物取引に再び踏み込み、1920年3月からの暴落で行き詰まった[41]。6月3日、自宅の庭で自死[42]。享年51、対外的には『病没』と発表された[43]。1920年9月期は留保100万円を充ててなお当期損失339万0,873円を計上し、うち約6割を東京での綿糸定期買付による相場損が占めた[44]。
1920年6月4日の緊急重役会で、取締役の三輪常次郎氏が服部兼三郎氏の遺言に従って専務に互選され[45]、6月18日には日本銀行・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を集めて財務の実態を示した[46]。手持商品・有価証券・不動産を時価の5割から7割で評価し、債権債務を決済してなお正味資産は1,000万円を超えると説き、再建策の承認を得た[47]。承認の中身は既往の貸付金を引き上げないという消極的なものにとどまったため、三輪常次郎専務は明治銀行の生駒重彦常務に無担保の追加融資を求め、124万4,450円を引き出した[48]。6月中には、専務就任の決意と財務の実態、当面は守成と整理に徹する方針を記したB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』を印刷し、全社員へ配った[49]。自身は子供の貯金まで会社債務の担保に差し出し、日清紡績株300株の運用で生計を立てて報酬を辞退した[50]。
1920年9月29日の第16期定時株主総会で、株式会社服部商店は社外取締役4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新たに取締役に選んだ[51]。既に役員の三輪常次郎専務と長谷川直麿氏を加え、全役員が生え抜きの実務派となり、同日の重役会では支配人に山田亮三氏が就いた[52]。続いて三輪常次郎専務は責任の所在を部署ごとに切り分ける独立採算制を敷き、予算超過分を部署と個人へ還元する制度と引き換えに、社員が個人で相場を張る『手張り』を禁じた[53]。1921年3月31日の第17期定時株主総会では定款第二条を全面改定し、営業目的を繊維工業とその附帯事業、繊維工産品の売買・委託売買・加工、関連事業への投資の3項に分けた[54]。1923年9月1日の関東大震災では横浜工場が全壊して死者16名・重傷5名を出し、東京出張所も全焼したため[55]、借地で拡張の余地もない横浜工場は震災を機に廃止し、修理できる機械を熱田工場へ移した[56]。
1927年の金融恐慌のさなか、三輪常次郎専務は原綿の大量買いつけに出た[57]。紡績業者として大日本紡績聯合会に属しながら綿布問屋として機業界と組む株式会社服部商店は、自社の織布部門と傘下機業の操業を確保するため紡聯の操短にたびたび反対しており、原綿の確保はその方針を裏づけた[58]。ストリクト・ミッドリング1ピクルは年初の44円見当から6月58円、9月74円へ上がり[59]、三輪常次郎専務はこの利益で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した[60]。株式会社服部商店の同年の年売上高は1億円で、本邦綿布総輸出額の4分の1を占め[61]、1928年11月に設立された日本輸出綿織物工業組合聯合会では三輪常次郎専務が初代理事長に就き、1938年4月まで約10年間その職にあった[62]。もっとも1937年9月の輸出入品等臨時措置法から1938年6月の商工省令3本まで統制は矢継ぎ早に降り、輸出品と特免品を除く綿製品の製造が全面的に禁じられた[63]。
1939年8月17日、株式会社服部商店は大蔵・商工両大臣に宛てて会社設立認可申請書を提出した[64]。申請書が挙げた分離の理由は、商工両部門を兼営した結果として機構が複雑になり経営の統率に不便が少なくない、という一文にとどまる[65]。同年11月15日、名古屋市東区宮町の本店で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、資本金200万円の新会社が商業部門を引き継いだ[66]。総発行4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残る2,000株は三輪常次郎氏ら役員と社員数名が個人で持った[67]。分離を発意したのは服部商店ではなく、統制の実務を抱える商工省が会社を商と工に割るよう指導した[68][69]。
商工省が分割を求めた背景には、配給統制の技術的な都合がある。1939年前後の2、3年で繊維の原材料と製品の配給統制は一段と細かくなり、生産者に対する原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構に対する製品の割当が、それぞれ別建ての統制へ組み込まれた[70]。割当は会社ごとの従来の生産実績と取扱実績に基づいて決まるため、商と工を併せ持つ服部商店では実績を二つに切り分ける算定が煩雑になり、当局の判断次第でどちらの部門も不利益をこうむりかねなかった[71]。割当を二本立てできれいに受けるには分けたほうが有利であり、服部商店の側にも行政の指導に応じる必然性が生じていた[72]。工業部門は固定資産の比重が高く、存続させるほうが経理の処理として便利だったため、切り出す先には商業部門を選んだ[73]。
1940年2月15日、二つの法人は同じ日に商号を入れ替え、午前9時の臨時株主総会で旧・服部商店が興亜紡績へ、続く10時の総会でカネカ服部商店が株式会社服部商店へと改めた[74]。同日、興亜紡績は松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社を吸収合併し、資本総額は640万円から1,000万円へ増えた[75]。両社の関係は一様ではなく、株式4万株のうち38,000株を興亜紡績が保有する95%出資でありながら、両社は互いを親会社とも子会社とも呼ばず、細胞分裂に比すべき分離独立と称した[76]。形式のうえでは商事側が興亜紡績の子会社にあたる[77]。その商事側は統制会社の代行業務へ業容を狭め、1943年8月に商号を興服産業へ改めたのち、同年11月の交易業整備で綿糸布の輸出業者が190社から19社へ絞られたなかに残った[78]。
1945年8月25日、興服産業社長の川崎音三氏が三輪常次郎氏を名古屋・宮町の本店に呼び、講和後の営業方針を打ち合わせた[79]。決まったのは、陸軍衛生材料廠から人を得て製薬を始めることと、豊川海軍工廠から人を得て光学ガラス製品を手がけることの二つで[80]、打ち合わせは小一時間で終わった[81]。玉音放送から10日、マッカーサーの厚木降立の5日前、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1か月以上前にあたる[82]。狙いは製品より人にあり、敗戦で職を失う軍の技術陣を招くことを、普段なら望めない俊英を大量に採用できる機会と見た[83]。
人集めは終戦の年のうちに動き、光学では川崎音三氏が旧知の豊川海軍工廠火工部長・戸塚武比古少将を頼って、紹介された前光学部長の出石寛二氏が入社を決めた[84]。1945年12月初めに出石寛二氏ら9名が入社して12月14日には蒲郡の工場予定地へ赴いており[85]、内訳は技術将校4名と技手5名、全員が同工廠光学部から移ってきた[86]。医薬では、廠長の清水寅次中将が推薦した勅使河原巍氏が、研究所長の山内忠重氏と一緒ならという条件を出して自ら山内忠重氏を説得し、1946年1月、川崎音三氏との面会の場で二人そろって入社を決めた[87]。両事業を抱えていたのはこの時点ではなお興和紡績で、1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿には光学の9名への給与支給が発令された[88]。
1945年10月23日、興亜紡績は第67期定時株主総会で商号を興和紡績へ改め、『亜細亜を興す』から『平和を興す』へ転じた[89]。ところがその1か月半後の12月8日、興和紡績が制限会社に指定された[90]。財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が握っていたため、その子会社の扱いを受けた[91]。制限会社令のもとで定款の重大な変更は大蔵大臣の認可事項となって光学と医薬を興和紡績で営む計画はここで崩れ[92]、光学部門は1946年春頃までに興服産業へ移ったものの、移管を示す書類が残らないため日付は特定できない[93]。医薬は1947年6月のGHQ査察で、制限会社である興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されないと判断され、6月30日付、約414万円で興服産業へ有償譲渡された[94]。現在の興和が医薬品と光学機器の双方を持つ法人になったのは、この二度の移管による[95]。
新設の医薬部門は、まず日本薬局方に載る注射薬を選んで塩酸プロカインほか5種類に着手したものの、山内忠重氏ら幹部は研究者として一流でも製造の経験に乏しく、思わしい製品ができなかった[96]。続いて取り組んだ塩化カルシウム液やリンゲル液も量産段階で失敗が重なり、成分の単純な公定書医薬品では戦前から続く著名メーカー品に販売で負けた[97]。そこで公定書外医薬品、すなわち新薬へ転じ[98]、山内忠重氏が以前から続けていた胎盤製剤の研究を足がかりに、1948年6月、滋養強壮剤『スメニン注コーワ』を発売した[99]。合成にあたったのは入社まもない加納宏一郎氏で[100]、販売は直販をやめ、吉野金三郎氏の判断で東京の薬品問屋・株式会社中村瀧商店を通す方式に切り替えた[101]。
1948年11月、わが国初の抗ヒスタミン剤『レスタミンコーワ注』を発売した[102]。東京大学の落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏氏が同年に入社したことで開発は短期間で片づいたが[103]、売れ行きを押し上げた要因は、薬効の説明よりも紙面の作り方にあった。臨床治験にあたった東京大学病院皮膚科の川村太郎助教授が新聞記者の取材に応じ、その記事が1948年11月29日付の東京新聞第2面に載る際、取材に立ち会っていた吉野金三郎氏が同じ紙面に広告を手配した[104]。翌日、中村瀧商店の店頭にレスタミンを求める客が何百人と列をなし、同店は半日通常の業務ができなかった[105]。1949年12月、風邪薬『コルゲンコーワ』を発売[106]。勅使河原巍氏の発想により、風邪薬に抗ヒスタミン剤を配合した日本で最初の製品となった[107]。
医薬品は繊維の穴を埋める収益源になり、1952年3月の第23期営業報告書で興服産業は、繊維業界の不況のなか他の製品の売上がその損失を補ったと総括した[108]。生産と研究の拠点も相次いで整え、1951年10月には興和紡績の矢田川工場に間借りしていた興和化学名古屋工場が、名古屋市北区金田町の旧・野々垣毛織の織布工場跡地へ新築移転を終えた[109]。東京研究所は上野の東京薬学専門学校女子部の一室で約4年を過ごしたのち、1953年10月12日、杉並区下高井戸に敷地3,400坪・研究棟延580坪の施設を構えた[110]。そして1954年7月、興服産業は資本金5,000万円の興和新薬を設立し、医薬品の販売を担わせた[111]。出資は興服産業が99%、興和紡績が1%、社長には三輪隆康氏が就いた[112]。
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|---|---|---|---|---|
| 1894〜1938年綿布問屋が紡機3万錘を持ち、番頭が創業者を継ぐまで | 名古屋市中区に綿布問屋の服部兼三郎商店を創立 | ★★★ | ||
| 服部商店の設立による法人化 | ★★ | |||
| 桜田工場の新設による織布業の開始 | ★★ | |||
| 古知野工場の新設による紡績業の開始 | ★ | |||
| 1939〜1954年商工省が割った服部商店と、GHQが動かした光学と医薬 | 商事部門と紡績部門を分離してカネカ服部商店を設立 | ★★ | ||
| 服部商店に商号変更 | ★ | |||
| 興服産業に商号変更 | ★ | |||
| 蒲郡工場の新設による光学部門の創設 | ★★ | |||
| 名古屋工場の新設による医薬品部門の創設 | ★★★ | |||
| 名古屋市中区錦に本店を移転 | ★ | |||
| 興和新薬を設立 | ★★ | |||
| 1955〜1974年商号を興和に統一し、非繊維売上を6.7%から33.4%へ | 東京都板橋区に電機機器部門を創設 | ★★ | ||
| 調布工場の新設による電機機器の製造開始 | ★ | |||
| 興和に商号変更 | ★★ | |||
| 東京都東村山市に東京研究所を創設 | ★★ | |||
| 静岡県富士市に富士工場を新設 | ★ | |||
| シンガポールに Kowa Trading Company (S) Pte. Ltd. を設立 | ★ | |||
| 1975〜2026年研究開発費の99.4%を医薬に投じる、非上場の複合企業 | 光研の株式取得による子会社化 | ★★ | ||
| 浜松工場の新設による医療機器の製造開始 | ★★ | |||
| 三輪芳弘 | 名古屋観光ホテルを株式公開買付により子会社化 | ★★ | ||
| 三輪芳弘 | 日研化学の株式取得による子会社化 | ★★★ | ||
| 三輪芳弘 | 興和創薬から真岡工場を譲受 | ★ | ||
| 三輪芳弘 | ProEthic Pharmaceutical の買収による米国での自社販売体制の確立 | ★★★ | ||
| 三輪芳弘 | 丸栄を第三者割当増資の引受により子会社化 | ★★ | ||
| 三輪芳弘 | 興和紡績のヘルスケアー・精密機器・不動産事業の一部を吸収分割で承継 | ★★ | ||
| 三輪芳弘 | ナゴヤキャッスルの株式取得による子会社化 | ★ | ||
| 三輪芳弘 | 興和白元古河ファクトリーの株式取得による子会社化 | ★ | ||
| 三輪芳弘 | 江守商事の株式取得による子会社化 | ★★ | ||
| 三輪芳弘 | 興和新薬および興和創薬を吸収合併 | ★★ | ||
| 三輪芳弘 | ワタベウェディングを第三者割当増資の引受により子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(興和)