興和 の歴史

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創業 1894年
創業者 服部兼三郎
創業地 愛知県名古屋市
祖業 絞と知多木綿の集荷卸
創業
1894年12月25日、服部兼三郎氏が名古屋市八百屋町で服部兼三郎商店を創業した。奉公先の繊維問屋を解雇された年で、在勤中の積立金1200余円を元手に、鳴海・有松の絞と知多木綿の集荷を扱う使用人2、3人の店として出発している。日清戦争後の綿業拡大が追い風となり、1910年度の『名古屋商工案内』に載る営業税額は白木綿卸の第1位となった。1912年10月に資本金100万円の株式会社服部商店へ改組し、同じ年に糊付、1914年には桜田工場で織布へ入って問屋から製造へ広げている。1939年8月には商工省の指導で商と工を分け、商業部門を継いだ新会社が1940年に服部商店を名乗り、旧法人は興亜紡績となった。商事側は1943年に興服産業、1960年に興和へと商号を改めている。
決断・現況・競合について
決断
敗戦の10日後、採れる人材の側から次の事業を決めた。1945年8月25日、興服産業社長の川崎音三氏と三輪常次郎氏は名古屋の本店で、陸軍衛生材料廠から人を得て製薬を、豊川海軍工廠から人を得て光学ガラス製品を始めることを小一時間で決めた。同年12月に旧豊川海軍工廠光学部の9名が、翌1946年1月には山内忠重氏と勅使河原巍氏が入社している。医薬は公定書品では先発に劣位となり、新薬へ転じて1948年11月に日本初の抗ヒスタミン剤レスタミンコーワ注、1949年12月に風邪薬コルゲンコーワを発売した。光学では1962年末に出した眼底カメラが手持式で世界の90%超を占める。商事部門に占める非繊維売上の比率は、1961年度の6.7%から1970年度の33.4%へ上がった。
現況
研究開発費の99.4%が医薬へ向かい、その原資は商社事業が出している。2025年3月期の研究開発費230億円のうち、228億円は医薬事業に投じられた。2026年3月期の連結売上高5322億円では産業関連事業が2319億円で最大、医薬事業は1640億円で続くが、その医薬は14億円のセグメント損失を出した。ホスピタリティ事業の67億円の損失と合わせ、全社の営業利益は35億円、当期は3億円の純損失に終わっている。高コレステロール血症治療剤リバロを世界で売るため、2006年に日研化学を、2008年に米ProEthicを取得してMR約1000人と米国の販売会社をそろえた経緯が、この費用構造を作った。1960年代に医薬の利益が非繊維事業の開拓を支えた関係は、現在は逆になった。
競合
創薬へ投じ続けられるのは、株式を市場に置いていないからである。興和の株式は非上場で、譲渡には定款により取締役会の承認が要る。2025年3月末の株主は581名、発行済株式の28.22%は自己株式で、興和紡が27.54%、三輪家が全株を持つ大栄産興が3.98%を占める。同じ大衆薬を扱う上場の同業は、市場の評価に合わせて事業を組み替えてきた。武田薬品工業が2020年に大衆薬事業を投資ファンドへ売却したのは負債の圧縮のためであり、ロート製薬が再生医療へ参入したのは成熟した棚の外へ収益源を移すためである。興和は有価証券報告書で100年後・200年後の事業継承を掲げ、リバロの後継となる新薬の開発費を商社事業の稼ぎから出している。上場していれば毎期の説明を求められる医薬事業の損失を、581名の株主の中で処理している。
長期業績の推移 1950〜2026年
興和:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2013年3月期2026年3月期

創業ストーリー 綿布問屋が紡機3万錘を持ち、番頭が創業者を継ぐまで (1894年〜)

創業ストーリー(1)

服部兼三郎商店の開業と、白木綿卸で営業税1位

服部兼三郎氏は1870年11月29日、名古屋近郊の丹羽郡北野村に堀尾伸右衛門氏の長男として生まれ[1]、地元の赤童子学校を13歳で卒業したのち、家業の農業を手伝うかたわら村役場へ見習いに通った[2]。1885年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛氏から奉公に誘われ、反対する両親を説得して名古屋へ出た[3]。奉公先の『糸屋祖父江重兵衛』は、瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称された名古屋の四大繊維問屋に数えられる[4]。丁稚から手代、番頭へと引き立てられ、入店4年後の1889年には主人の女婿に配された[5]。その2年前の1887年には服部鐵次郎氏の養子に入って服部姓に改めており、徴兵を避けるための入籍だったとみられる[6]。ただし酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを黙認できなくなった祖父江重兵衛氏は、1894年に服部兼三郎氏を離縁・解雇した[7]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
    • [1]服部兼三郎は明治3年11月29日(旧暦)、名古屋近郊の丹羽郡北野村(現愛知県江南市北野)に堀尾伸右衛門の長男として生まれた
    • [2]地元の赤童子学校を13歳で卒業後、家業の農業を助ける傍ら村役場へ見習い勤めに通った
    • [3]明治18年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛から奉公の誘いを受け、不賛成の両親を説得して名古屋へ出た。兼三郎15歳の秋
    • [4]「糸屋祖父江重兵衛」は瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称される名古屋の四大繊維問屋の一つだった
    • [5]丁稚・手代・番頭と昇進し、入店4年後の明治22年に主人重兵衛の女婿に配された
    • [6]明治20年に服部鐵次郎の養子となった。真相は徴兵を避けるための入籍とされる
    • [7]酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを許せなくなった重兵衛は明治27年に兼三郎を離縁・解雇した

服部兼三郎氏が独立営業を始めたのは解雇と同じ1894年の12月25日、店を構えたのは名古屋市八百屋町で[8]、開業資金には祖父江重兵衛商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた[9]。扱ったのは鳴海・有松の絞と知多木綿の集荷で、使用人は2、3人、自ら店主兼番頭として県下を歩き回る規模にとどまったが[10]、開業と同じ年の8月に始まった日清戦争が追い風になった[11]。1895年4月の下関条約で日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得[12]、綿糸輸出税は1894年、綿花輸入税は1896年に撤廃された[13]。1897年には綿糸の輸出が輸入を上回り[14]、服部兼三郎商店も八百屋町から下長者町へ店を移した[15]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
    • [8]文献に「その年の十二月二十五日に、同市(名古屋市)内八百屋町で独立営業を始めた」とある。明治27年12月25日
    • [9]開業時の資金には祖父江商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた
    • [10]最初に手がけたのは鳴海・有松あたりの絞や知多木綿の集荷。使用人は2、3人で、自らは店主兼番頭として県下を歩き回った
    • [11]明治27年8月に日清戦争が起こり、翌28年4月の日清講和条約(下関条約)の締結をもって終わった
    • [12]明治28年4月の下関条約により日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得た
    • [13]綿糸輸出税は明治27年、綿花輸入税は明治29年に撤廃された
    • [14]明治30年、綿糸の輸出が輸入を上回った
    • [15]八百屋町の店は下長者町へ移り、店構えもより本格的なものになった

独立まもない時期に、服部兼三郎氏は名古屋へ出てきた豊田佐吉氏と知り合った[16]。1896年に完成した木製小幅動力織機を自らの賃織機屋へ大量に入れ、まだ無名だった豊田佐吉氏の発明資金を融資し続けた[17]。1901年7月7日に下長者町の店が火事で全焼したのを機に、20日後の同月27日には宮町一丁目の新店舗へ移転を終え[18]、この宮町本店が以後およそ半世紀にわたる拠点になった[19]。1899年に13歳で入店した三輪常次郎氏は、1906年から1912年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張し、大連から営口・奉天・鉄嶺まで単身で大尺布を売り歩いた[20]。1910年度の『名古屋商工案内』に載る服部兼三郎商店の営業税額は1,046円25銭で、白木綿卸の第1位、繊維商全体でも10位以内に入った[21]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
    • [16]明治27年に糸繰返機を発明した豊田佐吉が名古屋へ進出し、そこで服部兼三郎と知り合った。兼三郎より3つ年上
    • [17]明治29年に豊田佐吉が完成させた木製小幅動力織機を兼三郎は自分の抱える賃織機屋に大量導入し、佐吉の発明資金を惜しげもなく融資し続けた
    • [18]明治34年7月7日、下長者町の店が火事で全焼。同月27日に宮町一丁目(現錦三丁目十番)の新店舗へ移転を完了した
    • [19]宮町旧本店はその後約半世紀にわたり活動の拠点となった
    • [20]三輪常次郎は明治19年5月9日生まれ。明治32年に13歳で名古屋市立第三小学校を卒業すると同時に奉公に上がり、明治39年から45年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張・駐在し、大連・営口・奉天・鉄嶺で大尺布を商った
    • [21]名古屋商業会議所刊「名古屋商工案内」明治43年度版で、服部兼三郎商店は業種「白木綿卸」・営業税1,046円25銭。白木綿卸で第1位、繊維商全体でも8位でベスト10入り
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
    • [1]服部兼三郎は明治3年11月29日(旧暦)、名古屋近郊の丹羽郡北野村(現愛知県江南市北野)に堀尾伸右衛門の長男として生まれた
    • [2]地元の赤童子学校を13歳で卒業後、家業の農業を助ける傍ら村役場へ見習い勤めに通った
    • [3]明治18年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛から奉公の誘いを受け、不賛成の両親を説得して名古屋へ出た。兼三郎15歳の秋
    • [4]「糸屋祖父江重兵衛」は瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称される名古屋の四大繊維問屋の一つだった
    • [5]丁稚・手代・番頭と昇進し、入店4年後の明治22年に主人重兵衛の女婿に配された
    • [6]明治20年に服部鐵次郎の養子となった。真相は徴兵を避けるための入籍とされる
    • [7]酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを許せなくなった重兵衛は明治27年に兼三郎を離縁・解雇した
    • [8]文献に「その年の十二月二十五日に、同市(名古屋市)内八百屋町で独立営業を始めた」とある。明治27年12月25日
    • [9]開業時の資金には祖父江商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた
    • [10]最初に手がけたのは鳴海・有松あたりの絞や知多木綿の集荷。使用人は2、3人で、自らは店主兼番頭として県下を歩き回った
    • [11]明治27年8月に日清戦争が起こり、翌28年4月の日清講和条約(下関条約)の締結をもって終わった
    • [12]明治28年4月の下関条約により日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得た
    • [13]綿糸輸出税は明治27年、綿花輸入税は明治29年に撤廃された
    • [14]明治30年、綿糸の輸出が輸入を上回った
    • [15]八百屋町の店は下長者町へ移り、店構えもより本格的なものになった
    • [16]明治27年に糸繰返機を発明した豊田佐吉が名古屋へ進出し、そこで服部兼三郎と知り合った。兼三郎より3つ年上
    • [17]明治29年に豊田佐吉が完成させた木製小幅動力織機を兼三郎は自分の抱える賃織機屋に大量導入し、佐吉の発明資金を惜しげもなく融資し続けた
    • [18]明治34年7月7日、下長者町の店が火事で全焼。同月27日に宮町一丁目(現錦三丁目十番)の新店舗へ移転を完了した
    • [19]宮町旧本店はその後約半世紀にわたり活動の拠点となった
    • [20]三輪常次郎は明治19年5月9日生まれ。明治32年に13歳で名古屋市立第三小学校を卒業すると同時に奉公に上がり、明治39年から45年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張・駐在し、大連・営口・奉天・鉄嶺で大尺布を商った
    • [21]名古屋商業会議所刊「名古屋商工案内」明治43年度版で、服部兼三郎商店は業種「白木綿卸」・営業税1,046円25銭。白木綿卸で第1位、繊維商全体でも8位でベスト10入り
創業ストーリー(2)

株式会社服部商店の設立と、桜田工場を直営とした決定

1912年10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会が開かれた[22]。資本の総額は100万円、払込資本金50万円で、本店を名古屋市東区宮町一丁目に、支店を大阪市東区南久宝寺町に置いた[23]。株主161名のうち服部兼三郎氏が8,000株、三輪常次郎氏が1,250株を持ち、ほかの取締役6名は社外の人で持株は各100株から300株にとどまった[24]。11月1日の業務開始に先立つ第1回取締役会は服部兼三郎氏を専務に選んでおり[25]、この『専務』は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称として使われた[26]。創立総会の2日前には、大阪の綿布問屋・平林甚助商店の商権と資産・負債を引き受ける契約を、仲介した三井物産大阪支店を交えて結び[27]、その累積欠損は服部兼三郎氏が暖簾代として負担した[28]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [22]1912年(大正元)10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会。午前11時開会、午後1時半閉会
    • [23]資本の総額100万円・払込資本金50万円。本店は名古屋市東区宮町一丁目十一番地、支店は大阪市東区南久宝寺町二丁目六十六番地
    • [24]株主161名(創立総会出席32名)。兼三郎8,000株、三輪常次郎1,250株が第2位。取締役7名のうち兼三郎以外は全員社外の人で持株は各100〜300株
    • [25]創立総会後の第1回取締役会で兼三郎を専務に選任、業務開始日を11月1日と決定した
    • [26]「専務」は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称だった
    • [27]1912年10月23日、服部=平林、服部=三井物産の二契約を締結。持ち込んだのは平林の取引先・三井物産大阪支店(支店長 藤野龜之助)
    • [28]平林の累積損を兼三郎が「暖簾代」として負担する代わりに商権・資産・負債を引き継ぐ条件だった

改組と同じ1912年、株式会社服部商店は名古屋市中区松原二丁目に服部サイジング工場を開き、三重紡績の糸の糊付を糊付機3台・従業員約50名で請け負った[29]。紡績ほど資本を食わず、紡績と織布の中間にあたる工程を選んだうえで[30]、1914年3月には名古屋市南区熱田東町に桜田工場を設け、糊付機4台・織機308台で織布を始めた[31]。その桜田工場を別会社にして自分たちに経営させてほしいと工場長の豊田平吉氏ら3名が願い出たとき、三輪常次郎氏は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を3月15日に提出した[32]。服部兼三郎氏は折れ、桜田工場は直営に決まった[33]。同じ年の8月、第一次大戦の勃発で明治銀行ほか名古屋の3行に取り付けが起き、和歌山の取引先の倒産で売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した[34]。9月12日、服部兼三郎氏は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた[35]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [29]最初の工場は1912年(大正元)操業の服部サイジング工場。名古屋市中区松原二丁目、従業員約50名、糊付機3台。三重紡績(後の東洋紡績)の糸の糊付を請け負い、工場長は豊田佐吉の次弟・豊田平吉
    • [30]サイジングから入ったのは、紡績ほど資本を食わず、工程上「紡績」と「織布」の中間にあたりノウハウ習得の場になるためだった
    • [31]桜田工場は1914年3月設立、名古屋市南区熱田東町。当初 糊付機4台・織機308台。開設時の名称は「服部商店ウヰーヴヰング工場」
    • [32]工場長の豊田平吉が糊付部長・山田利吉、織布部長・村瀬巌と共に桜田工場の別会社化を願い出たのに対し、三輪常次郎は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を1914年3月15日に提出して反対した
    • [33]兼三郎は折れ、桜田工場は直営となった
    • [34]1914年8月19日に北浜銀行支払停止、20日には服部商店のメインバンク明治銀行はじめ在名3行に取り付け。和歌山の取引先が倒産して売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した
    • [35]1914年9月12日、兼三郎は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた

1914年の失敗を経て、株式会社服部商店は大戦景気のもとで生産部門を積み増した[36]。1916年5月に嘉久正商店から小牧工場を買収し[37]、1917年3月12日の臨時株主総会で紡績業を営むため定款第二条を変更し[38]、同年4月には初の紡績兼営となる熱田工場を完成させた[39]。1918年5月の古知野工場、1919年10月の横浜工場、1920年4月の福井紡織株式会社の合併による福井工場を加え、1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台を数えた[40]。一方の服部兼三郎氏は1919年から綿糸の定期相場と仲間間の先物取引に再び踏み込み、1920年3月からの暴落で行き詰まった[41]。6月3日、自宅の庭で自死[42]。享年51、対外的には『病没』と発表された[43]。1920年9月期は留保100万円を充ててなお当期損失339万0,873円を計上し、うち約6割を東京での綿糸定期買付による相場損が占めた[44]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [36]1915年後半からの大戦景気に乗り、前年の教訓もあって生産部門を集中的に拡充した
    • [37]小牧工場は1916年5月、嘉久正商店より買収。広幅織機112台・小幅織機68台
    • [38]1917年3月12日の臨時株主総会で、紡績業を営むため定款第二条を変更した
    • [39]熱田工場は1917年4月完成、服部商店初の紡績兼営工場。当初は織機72台で出発し豊田式612台に置換、中古紡機4,000錘を導入
    • [40]古知野工場1918年5月(丹羽郡古知野町北野)、横浜工場1919年10月(栗原紡織より買収)、福井工場は1920年4月20日の臨時株主総会で福井紡織㈱の吸収合併を承認。1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台
    • [41]兼三郎は大戦景気の盛り上がりで再び「先物買い」「現物売り」の定期相場に臨み、証拠金の要らない仲間間の先物取引にも強気で取り組んだ。1920年3月15日の東京株式市場大暴落、4月7日の増田ビルブローカー銀行支払停止で行き詰まった
    • [42]1920年6月3日、服部兼三郎は自宅の庭で首をつって死去した
    • [43]享年51(満49)。死は「病没」と発表され、真相を知るのはごく内輪の幹部・知人に限られた
    • [44]1920年9月期は実際の損失439万余円、内部留保100万円を補填して当期損失金339万0,873円。内訳は東京における綿糸定期買付分274万余円、綿糸値下がりほか営業上の損失165万円で、損失の約6割が相場の損
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [22]1912年(大正元)10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会。午前11時開会、午後1時半閉会
    • [23]資本の総額100万円・払込資本金50万円。本店は名古屋市東区宮町一丁目十一番地、支店は大阪市東区南久宝寺町二丁目六十六番地
    • [24]株主161名(創立総会出席32名)。兼三郎8,000株、三輪常次郎1,250株が第2位。取締役7名のうち兼三郎以外は全員社外の人で持株は各100〜300株
    • [25]創立総会後の第1回取締役会で兼三郎を専務に選任、業務開始日を11月1日と決定した
    • [26]「専務」は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称だった
    • [27]1912年10月23日、服部=平林、服部=三井物産の二契約を締結。持ち込んだのは平林の取引先・三井物産大阪支店(支店長 藤野龜之助)
    • [28]平林の累積損を兼三郎が「暖簾代」として負担する代わりに商権・資産・負債を引き継ぐ条件だった
    • [29]最初の工場は1912年(大正元)操業の服部サイジング工場。名古屋市中区松原二丁目、従業員約50名、糊付機3台。三重紡績(後の東洋紡績)の糸の糊付を請け負い、工場長は豊田佐吉の次弟・豊田平吉
    • [30]サイジングから入ったのは、紡績ほど資本を食わず、工程上「紡績」と「織布」の中間にあたりノウハウ習得の場になるためだった
    • [31]桜田工場は1914年3月設立、名古屋市南区熱田東町。当初 糊付機4台・織機308台。開設時の名称は「服部商店ウヰーヴヰング工場」
    • [32]工場長の豊田平吉が糊付部長・山田利吉、織布部長・村瀬巌と共に桜田工場の別会社化を願い出たのに対し、三輪常次郎は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を1914年3月15日に提出して反対した
    • [33]兼三郎は折れ、桜田工場は直営となった
    • [34]1914年8月19日に北浜銀行支払停止、20日には服部商店のメインバンク明治銀行はじめ在名3行に取り付け。和歌山の取引先が倒産して売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した
    • [35]1914年9月12日、兼三郎は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた
    • [36]1915年後半からの大戦景気に乗り、前年の教訓もあって生産部門を集中的に拡充した
    • [37]小牧工場は1916年5月、嘉久正商店より買収。広幅織機112台・小幅織機68台
    • [38]1917年3月12日の臨時株主総会で、紡績業を営むため定款第二条を変更した
    • [39]熱田工場は1917年4月完成、服部商店初の紡績兼営工場。当初は織機72台で出発し豊田式612台に置換、中古紡機4,000錘を導入
    • [40]古知野工場1918年5月(丹羽郡古知野町北野)、横浜工場1919年10月(栗原紡織より買収)、福井工場は1920年4月20日の臨時株主総会で福井紡織㈱の吸収合併を承認。1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台
    • [41]兼三郎は大戦景気の盛り上がりで再び「先物買い」「現物売り」の定期相場に臨み、証拠金の要らない仲間間の先物取引にも強気で取り組んだ。1920年3月15日の東京株式市場大暴落、4月7日の増田ビルブローカー銀行支払停止で行き詰まった
    • [42]1920年6月3日、服部兼三郎は自宅の庭で首をつって死去した
    • [43]享年51(満49)。死は「病没」と発表され、真相を知るのはごく内輪の幹部・知人に限られた
    • [44]1920年9月期は実際の損失439万余円、内部留保100万円を補填して当期損失金339万0,873円。内訳は東京における綿糸定期買付分274万余円、綿糸値下がりほか営業上の損失165万円で、損失の約6割が相場の損
創業ストーリー(3)

無担保融資124万4,450円から始まった再建

1920年6月4日の緊急重役会で、取締役の三輪常次郎氏が服部兼三郎氏の遺言に従って専務に互選され[45]、6月18日には日本銀行・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を集めて財務の実態を示した[46]。手持商品・有価証券・不動産を時価の5割から7割で評価し、債権債務を決済してなお正味資産は1,000万円を超えると説き、再建策の承認を得た[47]。承認の中身は既往の貸付金を引き上げないという消極的なものにとどまったため、三輪常次郎専務は明治銀行の生駒重彦常務に無担保の追加融資を求め、124万4,450円を引き出した[48]。6月中には、専務就任の決意と財務の実態、当面は守成と整理に徹する方針を記したB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』を印刷し、全社員へ配った[49]。自身は子供の貯金まで会社債務の担保に差し出し、日清紡績株300株の運用で生計を立てて報酬を辞退した[50]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [45]1920年6月4日の緊急重役会で社葬執行を決め、取締役三輪常次郎を専務に互選した。兼三郎の遺言に従ったもの
    • [46]6月18日、日銀・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を招いて数字を示し、再建策の承認を得た
    • [47]常次郎の説明では、手持商品・有価証券・不動産を時価の5〜7掛で評価し債権債務を決済してなお正味資産は優に1,000万円あった
    • [48]銀行団の承認は「既往の貸付金を引き上げない」という消極的な内容にとどまったため、常次郎は明治銀行の生駒重彦常務に無担保での追加融資を求め、救済融資が決定した。1920年9月期BSの無担保借入金124万4,450円がこれにあたる
    • [49]常次郎は自らの所信をB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』に印刷し、1920年6月中に全社員へ配った。専務就任の決意、財務の実態、当面は守成・整理に徹する方針などを説いた
    • [50]常次郎は自分の財産を子供の貯金まで会社債務の担保に投げ出し、生計は日清紡株300株の運用だけでまかなって会社からの報酬を一切辞退した

1920年9月29日の第16期定時株主総会で、株式会社服部商店は社外取締役4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新たに取締役に選んだ[51]。既に役員の三輪常次郎専務と長谷川直麿氏を加え、全役員が生え抜きの実務派となり、同日の重役会では支配人に山田亮三氏が就いた[52]。続いて三輪常次郎専務は責任の所在を部署ごとに切り分ける独立採算制を敷き、予算超過分を部署と個人へ還元する制度と引き換えに、社員が個人で相場を張る『手張り』を禁じた[53]。1921年3月31日の第17期定時株主総会では定款第二条を全面改定し、営業目的を繊維工業とその附帯事業、繊維工産品の売買・委託売買・加工、関連事業への投資の3項に分けた[54]。1923年9月1日の関東大震災では横浜工場が全壊して死者16名・重傷5名を出し、東京出張所も全焼したため[55]、借地で拡張の余地もない横浜工場は震災を機に廃止し、修理できる機械を熱田工場へ移した[56]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [51]1920年9月29日の第16期定時株主総会で社外4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新取締役に選んだ
    • [52]既に役員だった常次郎・長谷川直麿と合わせ全重役が社内生え抜きの実務派となった。同日の重役会で常次郎の支配人を解き山田亮三を支配人に選任した
    • [53]責任所在の明確化として事業部制に近い仕組みを作り、独立採算制とリンクさせて予算超過分を部署・個人に還元する制度を体系化。同時に社員の「手張り」(個人での相場張り)を禁止した
    • [54]1921年3月31日の第17期定時株主総会で定款第二条を全面改定し、目的を①繊維工業並ニ其附帯事業 ②繊維工産品ノ売買及委託売買並ニ加工 ③同種又ハ類似若ハ関連スル事業ニ対シテノ投資 の3項に分けた
    • [55]1923年9月1日の関東大震災で横浜工場は建物が全壊し死者16名・重傷5名。東京出張所は店舗・倉庫とも全焼して在庫を全て失った
    • [56]横浜工場は借地で拡張余地もないため震災を機に廃止し、修理可能な機械は熱田工場へ移した

1927年の金融恐慌のさなか、三輪常次郎専務は原綿の大量買いつけに出た[57]。紡績業者として大日本紡績聯合会に属しながら綿布問屋として機業界と組む株式会社服部商店は、自社の織布部門と傘下機業の操業を確保するため紡聯の操短にたびたび反対しており、原綿の確保はその方針を裏づけた[58]。ストリクト・ミッドリング1ピクルは年初の44円見当から6月58円、9月74円へ上がり[59]、三輪常次郎専務はこの利益で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した[60]。株式会社服部商店の同年の年売上高は1億円で、本邦綿布総輸出額の4分の1を占め[61]、1928年11月に設立された日本輸出綿織物工業組合聯合会では三輪常次郎専務が初代理事長に就き、1938年4月まで約10年間その職にあった[62]。もっとも1937年9月の輸出入品等臨時措置法から1938年6月の商工省令3本まで統制は矢継ぎ早に降り、輸出品と特免品を除く綿製品の製造が全面的に禁じられた[63]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [57]1927年(昭和2)の金融恐慌に際し、常次郎が打った手は原綿の大量買いつけだった
    • [58]服部商店は紡績メーカーとして紡聯に加入しつつ繊維商社として機業界と命運を共にする立場にあり、生産した綿糸を自社織布部門と傘下織布業者で消化できる見込みがあったため紡聯の操短にしばしば反対した。1927年も操短に反対しており、原綿買いは自社織布部門と取引先機業の操業を確保するための措置でもあった
    • [59]原棉相場はストリクト・ミッドリング1ピクルが年初44円見当、3月に47円前後、6月58円、9月74円へ上がった
    • [60]常次郎はこの利で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した
    • [61]名古屋市の記録は1927年の服部商店について年売上高1億円、本邦綿布総輸出額の四分の一を占めると記す
    • [62]1928年11月に名古屋で日本輸出綿織物工業組合聯合会(綿工聯)が設立され、三輪常次郎が初代理事長に就任。1938年4月に辞任するまで約10年間理事長を務めた
    • [63]1937年9月10日に輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法が公布即日施行。1938年6月28〜29日に「綿製品ノ製造制限ニ関スル件」ほか商工省令3本が公布施行され、輸出品と特免品を除き綿製品の製造が一切禁止された(俗称「禁綿令」)
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
    • [45]1920年6月4日の緊急重役会で社葬執行を決め、取締役三輪常次郎を専務に互選した。兼三郎の遺言に従ったもの
    • [46]6月18日、日銀・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を招いて数字を示し、再建策の承認を得た
    • [47]常次郎の説明では、手持商品・有価証券・不動産を時価の5〜7掛で評価し債権債務を決済してなお正味資産は優に1,000万円あった
    • [48]銀行団の承認は「既往の貸付金を引き上げない」という消極的な内容にとどまったため、常次郎は明治銀行の生駒重彦常務に無担保での追加融資を求め、救済融資が決定した。1920年9月期BSの無担保借入金124万4,450円がこれにあたる
    • [49]常次郎は自らの所信をB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』に印刷し、1920年6月中に全社員へ配った。専務就任の決意、財務の実態、当面は守成・整理に徹する方針などを説いた
    • [50]常次郎は自分の財産を子供の貯金まで会社債務の担保に投げ出し、生計は日清紡株300株の運用だけでまかなって会社からの報酬を一切辞退した
    • [51]1920年9月29日の第16期定時株主総会で社外4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新取締役に選んだ
    • [52]既に役員だった常次郎・長谷川直麿と合わせ全重役が社内生え抜きの実務派となった。同日の重役会で常次郎の支配人を解き山田亮三を支配人に選任した
    • [53]責任所在の明確化として事業部制に近い仕組みを作り、独立採算制とリンクさせて予算超過分を部署・個人に還元する制度を体系化。同時に社員の「手張り」(個人での相場張り)を禁止した
    • [54]1921年3月31日の第17期定時株主総会で定款第二条を全面改定し、目的を①繊維工業並ニ其附帯事業 ②繊維工産品ノ売買及委託売買並ニ加工 ③同種又ハ類似若ハ関連スル事業ニ対シテノ投資 の3項に分けた
    • [55]1923年9月1日の関東大震災で横浜工場は建物が全壊し死者16名・重傷5名。東京出張所は店舗・倉庫とも全焼して在庫を全て失った
    • [56]横浜工場は借地で拡張余地もないため震災を機に廃止し、修理可能な機械は熱田工場へ移した
    • [57]1927年(昭和2)の金融恐慌に際し、常次郎が打った手は原綿の大量買いつけだった
    • [58]服部商店は紡績メーカーとして紡聯に加入しつつ繊維商社として機業界と命運を共にする立場にあり、生産した綿糸を自社織布部門と傘下織布業者で消化できる見込みがあったため紡聯の操短にしばしば反対した。1927年も操短に反対しており、原綿買いは自社織布部門と取引先機業の操業を確保するための措置でもあった
    • [59]原棉相場はストリクト・ミッドリング1ピクルが年初44円見当、3月に47円前後、6月58円、9月74円へ上がった
    • [60]常次郎はこの利で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した
    • [61]名古屋市の記録は1927年の服部商店について年売上高1億円、本邦綿布総輸出額の四分の一を占めると記す
    • [62]1928年11月に名古屋で日本輸出綿織物工業組合聯合会(綿工聯)が設立され、三輪常次郎が初代理事長に就任。1938年4月に辞任するまで約10年間理事長を務めた
    • [63]1937年9月10日に輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法が公布即日施行。1938年6月28〜29日に「綿製品ノ製造制限ニ関スル件」ほか商工省令3本が公布施行され、輸出品と特免品を除き綿製品の製造が一切禁止された(俗称「禁綿令」)
創業ストーリー(4)

配給割当の実績算出が生んだカネカ服部商店

1939年8月17日、株式会社服部商店は大蔵・商工両大臣に宛てて会社設立認可申請書を提出した[64]。申請書が挙げた分離の理由は、商工両部門を兼営した結果として機構が複雑になり経営の統率に不便が少なくない、という一文にとどまる[65]。同年11月15日、名古屋市東区宮町の本店で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、資本金200万円の新会社が商業部門を引き継いだ[66]。総発行4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残る2,000株は三輪常次郎氏ら役員と社員数名が個人で持った[67]。分離を発意したのは服部商店ではなく、統制の実務を抱える商工省が会社を商と工に割るよう指導した[68][69]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [64]1939年8月17日、株式会社服部商店が大蔵・商工両大臣宛に「会社設立認可申請書」を提出した
    • [65]申請書は商工分離の理由を『(商工両部門を)兼営セル結果ハ其機構複雑化シ経営統率上不便少カラザル為メ‥』とだけ簡単に触れている
    • [66]1939年11月15日、服部商店本店(名古屋市東区宮町一丁目五番地)で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、同日設立された。資本の総額200万円、全額払込
    • [67]カネカ服部商店の総発行株数4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残り2,000株を三輪常次郎ら役員・社員数名が個人で引き受けた
    • [68]社史は分離の実態について「社内に伝えられるところと、当時の情勢から見て、そこに国の強力な指導があったことは間違いない」と断定し、商工省から会社分割の指導がなされたと明記している
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」
    • [69]「昭和十四年十一月商工省の指示により、商事部門を分離し、新しく設立した資本金二百万円のカネカ服部商店に同部門を継承させ、今日の興服産業の基を作つた」

商工省が分割を求めた背景には、配給統制の技術的な都合がある。1939年前後の2、3年で繊維の原材料と製品の配給統制は一段と細かくなり、生産者に対する原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構に対する製品の割当が、それぞれ別建ての統制へ組み込まれた[70]。割当は会社ごとの従来の生産実績と取扱実績に基づいて決まるため、商と工を併せ持つ服部商店では実績を二つに切り分ける算定が煩雑になり、当局の判断次第でどちらの部門も不利益をこうむりかねなかった[71]。割当を二本立てできれいに受けるには分けたほうが有利であり、服部商店の側にも行政の指導に応じる必然性が生じていた[72]。工業部門は固定資産の比重が高く、存続させるほうが経理の処理として便利だったため、切り出す先には商業部門を選んだ[73]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [70]1939年前後の2〜3年は繊維原材料・製品の配給統制が一段と強化された時期で、生産者への原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構への製品の割当がそれぞれ別建ての細密な統制に組み込まれた
    • [71]配給割当は会社ごとの従来の生産・取扱い実績に基づいて決まるため、商工を併せ持つ服部商店では商と工に分けて実績を算出することが煩雑かつ不明確にならざるを得ず、「当局の判断次第では、商業部門にとっても工業部門にとっても、不利益をこうむる可能性が生じる」状態にあった
    • [72]社史は「当社サイドから見ても、行政の指導に応じる必然性はあったのである」と書いている
    • [73]申請書に『尚株式会社服部商店ガ商業部門ヲ分離シ工業部門ヲ存続セントスル理由ハ当社資産ノ構成ガ工業部門ヲ存続スルヲ便利トスル為メナリ』とあり、工業部門は固定資産中心で資産額が大きく動かすと経理処理が面倒だったため、軽いほうの商業部門を新会社に出した

1940年2月15日、二つの法人は同じ日に商号を入れ替え、午前9時の臨時株主総会で旧・服部商店が興亜紡績へ、続く10時の総会でカネカ服部商店が株式会社服部商店へと改めた[74]。同日、興亜紡績は松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社を吸収合併し、資本総額は640万円から1,000万円へ増えた[75]。両社の関係は一様ではなく、株式4万株のうち38,000株を興亜紡績が保有する95%出資でありながら、両社は互いを親会社とも子会社とも呼ばず、細胞分裂に比すべき分離独立と称した[76]。形式のうえでは商事側が興亜紡績の子会社にあたる[77]。その商事側は統制会社の代行業務へ業容を狭め、1943年8月に商号を興服産業へ改めたのち、同年11月の交易業整備で綿糸布の輸出業者が190社から19社へ絞られたなかに残った[78]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [74]1940年2月15日、3社合併を登記。同日9時に(旧)服部商店の臨時総会で商号を「興亜紡績株式会社」へ、続く10時にカネカ服部商店の臨時総会で商号を「株式会社服部商店」へ変更した
    • [75]1939年12月2日の臨時株主総会で松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社合併仮契約を承認し、資本総額を640万円から1,000万円に増額。1940年2月15日に合併を登記した
    • [76]社史は「服部商店とカネカ服部商店は、いずれを親会社または子会社とするものではなく、むしろ細胞分裂に比喩すべき意図と経緯を伴って、ここに分離独立したのであった」と規定する。株式は4万株中38,000株(95%)を(旧)服部商店=興亜紡績が保有した
    • [77]社史は脚注で「商事部門の服部商店も形式的には興亜紡の子会社であるから」と記している
    • [78]1943年11月8日の「交易業整備要綱」による第2次整備で綿糸布の輸出業者は190社から19社に絞られ、興服産業(服部商店の新商号)はこの19社に残った。商号変更は1943年8月
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [64]1939年8月17日、株式会社服部商店が大蔵・商工両大臣宛に「会社設立認可申請書」を提出した
    • [65]申請書は商工分離の理由を『(商工両部門を)兼営セル結果ハ其機構複雑化シ経営統率上不便少カラザル為メ‥』とだけ簡単に触れている
    • [66]1939年11月15日、服部商店本店(名古屋市東区宮町一丁目五番地)で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、同日設立された。資本の総額200万円、全額払込
    • [67]カネカ服部商店の総発行株数4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残り2,000株を三輪常次郎ら役員・社員数名が個人で引き受けた
    • [68]社史は分離の実態について「社内に伝えられるところと、当時の情勢から見て、そこに国の強力な指導があったことは間違いない」と断定し、商工省から会社分割の指導がなされたと明記している
    • [70]1939年前後の2〜3年は繊維原材料・製品の配給統制が一段と強化された時期で、生産者への原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構への製品の割当がそれぞれ別建ての細密な統制に組み込まれた
    • [71]配給割当は会社ごとの従来の生産・取扱い実績に基づいて決まるため、商工を併せ持つ服部商店では商と工に分けて実績を算出することが煩雑かつ不明確にならざるを得ず、「当局の判断次第では、商業部門にとっても工業部門にとっても、不利益をこうむる可能性が生じる」状態にあった
    • [72]社史は「当社サイドから見ても、行政の指導に応じる必然性はあったのである」と書いている
    • [73]申請書に『尚株式会社服部商店ガ商業部門ヲ分離シ工業部門ヲ存続セントスル理由ハ当社資産ノ構成ガ工業部門ヲ存続スルヲ便利トスル為メナリ』とあり、工業部門は固定資産中心で資産額が大きく動かすと経理処理が面倒だったため、軽いほうの商業部門を新会社に出した
    • [74]1940年2月15日、3社合併を登記。同日9時に(旧)服部商店の臨時総会で商号を「興亜紡績株式会社」へ、続く10時にカネカ服部商店の臨時総会で商号を「株式会社服部商店」へ変更した
    • [75]1939年12月2日の臨時株主総会で松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社合併仮契約を承認し、資本総額を640万円から1,000万円に増額。1940年2月15日に合併を登記した
    • [76]社史は「服部商店とカネカ服部商店は、いずれを親会社または子会社とするものではなく、むしろ細胞分裂に比喩すべき意図と経緯を伴って、ここに分離独立したのであった」と規定する。株式は4万株中38,000株(95%)を(旧)服部商店=興亜紡績が保有した
    • [77]社史は脚注で「商事部門の服部商店も形式的には興亜紡の子会社であるから」と記している
    • [78]1943年11月8日の「交易業整備要綱」による第2次整備で綿糸布の輸出業者は190社から19社に絞られ、興服産業(服部商店の新商号)はこの19社に残った。商号変更は1943年8月
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」
    • [69]「昭和十四年十一月商工省の指示により、商事部門を分離し、新しく設立した資本金二百万円のカネカ服部商店に同部門を継承させ、今日の興服産業の基を作つた」
創業ストーリー(5)

終戦10日後の決定と、制限会社指定による事業移管

1945年8月25日、興服産業社長の川崎音三氏が三輪常次郎氏を名古屋・宮町の本店に呼び、講和後の営業方針を打ち合わせた[79]。決まったのは、陸軍衛生材料廠から人を得て製薬を始めることと、豊川海軍工廠から人を得て光学ガラス製品を手がけることの二つで[80]、打ち合わせは小一時間で終わった[81]。玉音放送から10日、マッカーサーの厚木降立の5日前、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1か月以上前にあたる[82]。狙いは製品より人にあり、敗戦で職を失う軍の技術陣を招くことを、普段なら望めない俊英を大量に採用できる機会と見た[83]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [79]1945年8月25日、興服産業社長・川崎音三が宮町本店に三輪常次郎を呼び出し、「平和講和後ノ営業方針」を打ち合わせた
    • [80]三輪常次郎の日記に『製薬業ヲ初メル為メニ衛材ヨリ人ヲモラウコト。光学ガラス製品ノ為メ豊川ヨリ人ヲモラウコト。コノ二ツハ紡績、織布ト共ニテ進ムコトヲ研究スルコトニ打合セタ。』とある。「衛材」は陸軍衛生材料廠、「豊川」は豊川海軍工廠を指す
    • [81]「日記によればこのときの打ち合わせは小一時間で終わっている。新規事業の進出を検討する会議にしては、異例に短い時間である。即断即決といってもよい」
    • [82]この決定はマッカーサーの厚木降立の5日前であり、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1カ月以上前のことである
    • [83]川崎音三の提案の趣旨は「敗戦により職を失おうとしている技術陣を招き、彼らを核に光学と薬それぞれに新事業を興してはどうか」であり、「貴重な人材と技術の散逸を防ぐことになるし、当社にとっても、普段なら望めない俊英たちを大量採用する絶好の機会でもある」とされた

人集めは終戦の年のうちに動き、光学では川崎音三氏が旧知の豊川海軍工廠火工部長・戸塚武比古少将を頼って、紹介された前光学部長の出石寛二氏が入社を決めた[84]。1945年12月初めに出石寛二氏ら9名が入社して12月14日には蒲郡の工場予定地へ赴いており[85]、内訳は技術将校4名と技手5名、全員が同工廠光学部から移ってきた[86]。医薬では、廠長の清水寅次中将が推薦した勅使河原巍氏が、研究所長の山内忠重氏と一緒ならという条件を出して自ら山内忠重氏を説得し、1946年1月、川崎音三氏との面会の場で二人そろって入社を決めた[87]。両事業を抱えていたのはこの時点ではなお興和紡績で、1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿には光学の9名への給与支給が発令された[88]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [84]川崎音三が旧知の戸塚武比古少将(豊川海軍工廠 火工部長)を頼り、紹介された出石寛二大佐(前・光学部長)が「川崎の語る理念と将来展望に共感し、入社を決意」した
    • [85]1945年12月初め、出石寛二・成松明壽ほか総勢9名が入社。12月14日に9名が蒲郡の工場予定地に赴任し、これが興和光器製作所の実質的な設立となった
    • [86]入社した9名の内訳は技術将校4名、技手5名で、全員が豊川海軍工廠光学部の出身である
    • [87]川崎の依頼で陸軍衛生材料廠廠長・清水寅次中将が勅使河原巍を推薦し、勅使河原が「先輩の山内と一緒ならこれに応じてもよい」と条件を出して研究所長の山内忠重を自ら説得。2人揃って川崎音三に面会し、その場で入社が決定した(1946年1月)
    • [88]当初この事業は興和紡績の経営で始まった。1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿に出石・成松ら9名の給与支給が発令されており、社史はこれを「唯一の書面上の証拠」としている

1945年10月23日、興亜紡績は第67期定時株主総会で商号を興和紡績へ改め、『亜細亜を興す』から『平和を興す』へ転じた[89]。ところがその1か月半後の12月8日、興和紡績が制限会社に指定された[90]。財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が握っていたため、その子会社の扱いを受けた[91]。制限会社令のもとで定款の重大な変更は大蔵大臣の認可事項となって光学と医薬を興和紡績で営む計画はここで崩れ[92]、光学部門は1946年春頃までに興服産業へ移ったものの、移管を示す書類が残らないため日付は特定できない[93]。医薬は1947年6月のGHQ査察で、制限会社である興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されないと判断され、6月30日付、約414万円で興服産業へ有償譲渡された[94]。現在の興和が医薬品と光学機器の双方を持つ法人になったのは、この二度の移管による[95]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [89]1945年10月8日の取締役会、10月23日の第67期定時株主総会で興亜紡績から興和紡績株式会社への商号変更が可決された。社史は「いうまでもなく『亜細亜を興す』から『平和を興す』への転換である」と書いている
    • [90]1945年12月8日、興和紡績が制限会社に指定された。制限会社令(1945年11月24日公布の勅令第657号)により1945年12月から1946年7月に約1,200社が指定された
    • [91]興和紡績は財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が所有していたため子会社と見なされ、制限会社に指定された
    • [92]制限会社令は事業譲渡・解散・資本金変更・定款の重大変更・利益処分を大蔵大臣認可下に置くもので、社史は「なかでも定款変更の制限に関しては、今日の興和グループの態様にまで影響を及ぼした重大な方向転換を余儀なくされた。すなわち、医薬、光学分野への進出を断念しなければならなかったのである」と書いている
    • [93]制限会社に指定されていなかった興服産業が光学部門を担当することになった。社史は「直接証拠となる書類が残っておらず、詳しい日付は不明」「おそらく二十一年の春には既に興服産業の管轄となっていたものと推測」と書いている
    • [94]1947年6月、矢田川工場にGHQの査察が入り「制限会社に該当する興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されない」と判断された。1947年6月30日付の譲渡契約で興和紡績の薬品製造事業の全部が興服産業に有償譲渡され、対価は建設期間中の設備費・人件費・資材費・諸費用を合わせ約414万円だった
    • [95]光学部門の興服産業への移管と医薬部門の有償譲渡により、興服産業(1960年5月に興和株式会社へ商号変更)が光学と医薬の両製造部門を抱えることになった
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [79]1945年8月25日、興服産業社長・川崎音三が宮町本店に三輪常次郎を呼び出し、「平和講和後ノ営業方針」を打ち合わせた
    • [80]三輪常次郎の日記に『製薬業ヲ初メル為メニ衛材ヨリ人ヲモラウコト。光学ガラス製品ノ為メ豊川ヨリ人ヲモラウコト。コノ二ツハ紡績、織布ト共ニテ進ムコトヲ研究スルコトニ打合セタ。』とある。「衛材」は陸軍衛生材料廠、「豊川」は豊川海軍工廠を指す
    • [81]「日記によればこのときの打ち合わせは小一時間で終わっている。新規事業の進出を検討する会議にしては、異例に短い時間である。即断即決といってもよい」
    • [82]この決定はマッカーサーの厚木降立の5日前であり、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1カ月以上前のことである
    • [83]川崎音三の提案の趣旨は「敗戦により職を失おうとしている技術陣を招き、彼らを核に光学と薬それぞれに新事業を興してはどうか」であり、「貴重な人材と技術の散逸を防ぐことになるし、当社にとっても、普段なら望めない俊英たちを大量採用する絶好の機会でもある」とされた
    • [84]川崎音三が旧知の戸塚武比古少将(豊川海軍工廠 火工部長)を頼り、紹介された出石寛二大佐(前・光学部長)が「川崎の語る理念と将来展望に共感し、入社を決意」した
    • [85]1945年12月初め、出石寛二・成松明壽ほか総勢9名が入社。12月14日に9名が蒲郡の工場予定地に赴任し、これが興和光器製作所の実質的な設立となった
    • [86]入社した9名の内訳は技術将校4名、技手5名で、全員が豊川海軍工廠光学部の出身である
    • [87]川崎の依頼で陸軍衛生材料廠廠長・清水寅次中将が勅使河原巍を推薦し、勅使河原が「先輩の山内と一緒ならこれに応じてもよい」と条件を出して研究所長の山内忠重を自ら説得。2人揃って川崎音三に面会し、その場で入社が決定した(1946年1月)
    • [88]当初この事業は興和紡績の経営で始まった。1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿に出石・成松ら9名の給与支給が発令されており、社史はこれを「唯一の書面上の証拠」としている
    • [89]1945年10月8日の取締役会、10月23日の第67期定時株主総会で興亜紡績から興和紡績株式会社への商号変更が可決された。社史は「いうまでもなく『亜細亜を興す』から『平和を興す』への転換である」と書いている
    • [90]1945年12月8日、興和紡績が制限会社に指定された。制限会社令(1945年11月24日公布の勅令第657号)により1945年12月から1946年7月に約1,200社が指定された
    • [91]興和紡績は財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が所有していたため子会社と見なされ、制限会社に指定された
    • [92]制限会社令は事業譲渡・解散・資本金変更・定款の重大変更・利益処分を大蔵大臣認可下に置くもので、社史は「なかでも定款変更の制限に関しては、今日の興和グループの態様にまで影響を及ぼした重大な方向転換を余儀なくされた。すなわち、医薬、光学分野への進出を断念しなければならなかったのである」と書いている
    • [93]制限会社に指定されていなかった興服産業が光学部門を担当することになった。社史は「直接証拠となる書類が残っておらず、詳しい日付は不明」「おそらく二十一年の春には既に興服産業の管轄となっていたものと推測」と書いている
    • [94]1947年6月、矢田川工場にGHQの査察が入り「制限会社に該当する興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されない」と判断された。1947年6月30日付の譲渡契約で興和紡績の薬品製造事業の全部が興服産業に有償譲渡され、対価は建設期間中の設備費・人件費・資材費・諸費用を合わせ約414万円だった
    • [95]光学部門の興服産業への移管と医薬部門の有償譲渡により、興服産業(1960年5月に興和株式会社へ商号変更)が光学と医薬の両製造部門を抱えることになった
創業ストーリー(6)

レスタミンとコルゲンを生んだ新薬への転換

新設の医薬部門は、まず日本薬局方に載る注射薬を選んで塩酸プロカインほか5種類に着手したものの、山内忠重氏ら幹部は研究者として一流でも製造の経験に乏しく、思わしい製品ができなかった[96]。続いて取り組んだ塩化カルシウム液やリンゲル液も量産段階で失敗が重なり、成分の単純な公定書医薬品では戦前から続く著名メーカー品に販売で負けた[97]。そこで公定書外医薬品、すなわち新薬へ転じ[98]、山内忠重氏が以前から続けていた胎盤製剤の研究を足がかりに、1948年6月、滋養強壮剤『スメニン注コーワ』を発売した[99]。合成にあたったのは入社まもない加納宏一郎氏で[100]、販売は直販をやめ、吉野金三郎氏の判断で東京の薬品問屋・株式会社中村瀧商店を通す方式に切り替えた[101]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [96]医薬部門は「新参会社であるから、能力的にも販売力の面でも、初めからいわゆる新薬に挑戦することは不可能」として日本薬局方医薬品の注射薬(塩酸プロカインほか5種類)に着手したが、「山内ら幹部は皆研究者としては一流であっても製造の経験は疎く、結局肝心の製造技術がないために思わしい製品ができなかった」
    • [97]次に塩化カルシウム液・リンゲル液などに取り組むが量産段階で失敗が多く、「成分の単純な公定書医薬品であっても、戦前から続いた著名メーカー品は売れるが、当社のような未だ無名のメーカーのものはどうしても販売競争に負ける」状態だった
    • [98]そこで公定書外医薬品(新薬)へ方針転換した。社史は「一見無謀にも思える決定」と書きつつ、根拠に山内の胎盤製剤研究と「どのみち同じ困難が避けられないのであれば、新薬で苦労したいというのが研究者たちの本心でもあった」ことを挙げる
    • [99]1948年6月、滋養強壮剤「スメニン注コーワ」を発売。興和初の新薬で、研究所長・山内忠重が以前から研究していた胎盤製剤を製品化したもの
    • [100]スメニンは山内忠重の指導のもと、入社早々の加納宏一郎(後の興和副社長)らが合成した
    • [101]1948年6月のスメニン発売時、吉野金三郎が「むしろ薬品問屋を通じて販売すべき」と結論し、在京の薬品問屋を比較検討して株式会社中村瀧商店(東京都中央区日本橋本町3-5)を販売窓口に選んだ。それ以前は営業担当者1〜2名と工場幹部が薬局・病院を訪問する直販方式だった

1948年11月、わが国初の抗ヒスタミン剤『レスタミンコーワ注』を発売した[102]東京大学の落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏氏が同年に入社したことで開発は短期間で片づいたが[103]、売れ行きを押し上げた要因は、薬効の説明よりも紙面の作り方にあった。臨床治験にあたった東京大学病院皮膚科の川村太郎助教授が新聞記者の取材に応じ、その記事が1948年11月29日付の東京新聞第2面に載る際、取材に立ち会っていた吉野金三郎氏が同じ紙面に広告を手配した[104]。翌日、中村瀧商店の店頭にレスタミンを求める客が何百人と列をなし、同店は半日通常の業務ができなかった[105]。1949年12月、風邪薬『コルゲンコーワ』を発売[106]。勅使河原巍氏の発想により、風邪薬に抗ヒスタミン剤を配合した日本で最初の製品となった[107]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [102]1948年11月、抗ヒスタミン剤「レスタミンコーワ注」を発売。わが国初の抗ヒスタミン剤である
    • [103]東京大学・落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏が1948年に入社したことで研究が進捗し、短期間で開発に成功した
    • [104]臨床治験を行っていた東大病院皮膚科の川村太郎助教授を新聞記者が取材し、1948年11月29日付・東京新聞の第2面に「ぜんそくの治療法-東大で新発見」の記事が載った。取材に立ち会っていた吉野金三郎がすかさず広告掲載を手配し、同一紙面にレスタミンの広告が並んで掲載された
    • [105]掲載の翌日、中村瀧商店の前にレスタミンを求める何百人が列をなし、同店は半日通常業務ができなかった。品切れが続き工場は増産に追われた
    • [106]1949年12月、風邪薬「コルゲンコーワ」を発売した
    • [107]コルゲンコーワは風邪薬に日本で初めて抗ヒスタミン剤(レスタミン)を配合した製品で、勅使河原巍の発想に基づいて開発された。命名は山内忠重所長によりColdとAlergenからとられた

医薬品は繊維の穴を埋める収益源になり、1952年3月の第23期営業報告書で興服産業は、繊維業界の不況のなか他の製品の売上がその損失を補ったと総括した[108]。生産と研究の拠点も相次いで整え、1951年10月には興和紡績の矢田川工場に間借りしていた興和化学名古屋工場が、名古屋市北区金田町の旧・野々垣毛織の織布工場跡地へ新築移転を終えた[109]。東京研究所は上野の東京薬学専門学校女子部の一室で約4年を過ごしたのち、1953年10月12日、杉並区下高井戸に敷地3,400坪・研究棟延580坪の施設を構えた[110]。そして1954年7月、興服産業は資本金5,000万円の興和新薬を設立し、医薬品の販売を担わせた[111]。出資は興服産業が99%、興和紡績が1%、社長には三輪隆康氏が就いた[112]

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [108]興服産業 第23期営業報告書(1952年3月)に『其の他の製品も相当の売上げを見せ、纖維業界不況の折柄その損失を補ひ綜合経営の妙味を発揮し、当社事業の安定性に重きを加えた次第であります。』とある
    • [109]興和紡績 矢田川工場内の間借りが手狭になり、名古屋市北区金田町1-45の「野々垣毛織」織布工場跡地を1951年初頭に買収。2月地鎮祭、10月に新工場完成。名称は「名古屋工場」を引き継ぎ、矢田川の旧工場は閉鎖した
    • [110]東京研究所は1949年4月から1953年6月までの約4年間、上野の東京薬学専門学校女子部の一室を借りていた。東京都杉並区下高井戸3-399に3,400坪の敷地を購入し、鉄筋コンクリート3階建・延580坪の研究棟を建設して1953年10月12日に開所式を行った
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
    • [111]1954年7月、興服産業は資本金5,000万円で興和新薬株式会社を設立し、医薬品の販売を担わせた
    • [112]興和新薬の出資比率は興服産業99%、興和紡績1%で、社長には三輪隆康が就任した
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [96]医薬部門は「新参会社であるから、能力的にも販売力の面でも、初めからいわゆる新薬に挑戦することは不可能」として日本薬局方医薬品の注射薬(塩酸プロカインほか5種類)に着手したが、「山内ら幹部は皆研究者としては一流であっても製造の経験は疎く、結局肝心の製造技術がないために思わしい製品ができなかった」
    • [97]次に塩化カルシウム液・リンゲル液などに取り組むが量産段階で失敗が多く、「成分の単純な公定書医薬品であっても、戦前から続いた著名メーカー品は売れるが、当社のような未だ無名のメーカーのものはどうしても販売競争に負ける」状態だった
    • [98]そこで公定書外医薬品(新薬)へ方針転換した。社史は「一見無謀にも思える決定」と書きつつ、根拠に山内の胎盤製剤研究と「どのみち同じ困難が避けられないのであれば、新薬で苦労したいというのが研究者たちの本心でもあった」ことを挙げる
    • [99]1948年6月、滋養強壮剤「スメニン注コーワ」を発売。興和初の新薬で、研究所長・山内忠重が以前から研究していた胎盤製剤を製品化したもの
    • [100]スメニンは山内忠重の指導のもと、入社早々の加納宏一郎(後の興和副社長)らが合成した
    • [101]1948年6月のスメニン発売時、吉野金三郎が「むしろ薬品問屋を通じて販売すべき」と結論し、在京の薬品問屋を比較検討して株式会社中村瀧商店(東京都中央区日本橋本町3-5)を販売窓口に選んだ。それ以前は営業担当者1〜2名と工場幹部が薬局・病院を訪問する直販方式だった
    • [102]1948年11月、抗ヒスタミン剤「レスタミンコーワ注」を発売。わが国初の抗ヒスタミン剤である
    • [103]東京大学・落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏が1948年に入社したことで研究が進捗し、短期間で開発に成功した
    • [104]臨床治験を行っていた東大病院皮膚科の川村太郎助教授を新聞記者が取材し、1948年11月29日付・東京新聞の第2面に「ぜんそくの治療法-東大で新発見」の記事が載った。取材に立ち会っていた吉野金三郎がすかさず広告掲載を手配し、同一紙面にレスタミンの広告が並んで掲載された
    • [105]掲載の翌日、中村瀧商店の前にレスタミンを求める何百人が列をなし、同店は半日通常業務ができなかった。品切れが続き工場は増産に追われた
    • [106]1949年12月、風邪薬「コルゲンコーワ」を発売した
    • [107]コルゲンコーワは風邪薬に日本で初めて抗ヒスタミン剤(レスタミン)を配合した製品で、勅使河原巍の発想に基づいて開発された。命名は山内忠重所長によりColdとAlergenからとられた
    • [108]興服産業 第23期営業報告書(1952年3月)に『其の他の製品も相当の売上げを見せ、纖維業界不況の折柄その損失を補ひ綜合経営の妙味を発揮し、当社事業の安定性に重きを加えた次第であります。』とある
    • [109]興和紡績 矢田川工場内の間借りが手狭になり、名古屋市北区金田町1-45の「野々垣毛織」織布工場跡地を1951年初頭に買収。2月地鎮祭、10月に新工場完成。名称は「名古屋工場」を引き継ぎ、矢田川の旧工場は閉鎖した
    • [110]東京研究所は1949年4月から1953年6月までの約4年間、上野の東京薬学専門学校女子部の一室を借りていた。東京都杉並区下高井戸3-399に3,400坪の敷地を購入し、鉄筋コンクリート3階建・延580坪の研究棟を建設して1953年10月12日に開所式を行った
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
    • [111]1954年7月、興服産業は資本金5,000万円で興和新薬株式会社を設立し、医薬品の販売を担わせた
    • [112]興和新薬の出資比率は興服産業99%、興和紡績1%で、社長には三輪隆康が就任した

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歴史年表 1894〜2021年

興和の沿革1894〜2021年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1894〜1938年綿布問屋が紡機3万錘を持ち、番頭が創業者を継ぐまで名古屋市中区に綿布問屋の服部兼三郎商店を創立★★★
服部商店の設立による法人化★★
桜田工場の新設による織布業の開始★★
古知野工場の新設による紡績業の開始
1939〜1954年商工省が割った服部商店と、GHQが動かした光学と医薬商事部門と紡績部門を分離してカネカ服部商店を設立★★
服部商店に商号変更
興服産業に商号変更
蒲郡工場の新設による光学部門の創設★★
名古屋工場の新設による医薬品部門の創設★★★
名古屋市中区錦に本店を移転
興和新薬を設立★★
1955〜1974年商号を興和に統一し、非繊維売上を6.7%から33.4%へ東京都板橋区に電機機器部門を創設★★
調布工場の新設による電機機器の製造開始
興和に商号変更★★
東京都東村山市に東京研究所を創設★★
静岡県富士市に富士工場を新設
シンガポールに Kowa Trading Company (S) Pte. Ltd. を設立
1975〜2026年研究開発費の99.4%を医薬に投じる、非上場の複合企業光研の株式取得による子会社化★★
浜松工場の新設による医療機器の製造開始★★
三輪芳弘名古屋観光ホテルを株式公開買付により子会社化★★
三輪芳弘日研化学の株式取得による子会社化★★★
三輪芳弘興和創薬から真岡工場を譲受
三輪芳弘ProEthic Pharmaceutical の買収による米国での自社販売体制の確立★★★
三輪芳弘丸栄を第三者割当増資の引受により子会社化★★
三輪芳弘興和紡績のヘルスケアー・精密機器・不動産事業の一部を吸収分割で承継★★
三輪芳弘ナゴヤキャッスルの株式取得による子会社化
三輪芳弘興和白元古河ファクトリーの株式取得による子会社化
三輪芳弘江守商事の株式取得による子会社化★★
三輪芳弘興和新薬および興和創薬を吸収合併★★
三輪芳弘ワタベウェディングを第三者割当増資の引受により子会社化★★
出典・参考 6件
出典・参考
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」

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