第2章 年〜年

興和:服部商店の分離と光学・医薬品部門の創設

1939年〜配給割当の実績算出が生んだカネカ服部商店

1939年8月17日、株式会社服部商店は大蔵・商工両大臣に宛てて会社設立認可申請書を提出した。申請書が挙げた分離の理由は、商工両部門を兼営した結果として機構が複雑になり経営の統率に不便が少なくない、という一文にとどまる。同年11月15日、名古屋市東区宮町の本店で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、資本金200万円の新会社が商業部門を引き継いだ。総発行4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残る2,000株は三輪常次郎氏ら役員と社員数名が個人で持った。分離を発意したのは服部商店ではなく、統制の実務を抱える商工省が会社を商と工に割るよう指導した。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [1]1939年8月17日、株式会社服部商店が大蔵・商工両大臣宛に「会社設立認可申請書」を提出した
    • [2]申請書は商工分離の理由を『(商工両部門を)兼営セル結果ハ其機構複雑化シ経営統率上不便少カラザル為メ‥』とだけ簡単に触れている
    • [3]1939年11月15日、服部商店本店(名古屋市東区宮町一丁目五番地)で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、同日設立された。資本の総額200万円、全額払込
    • [4]カネカ服部商店の総発行株数4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残り2,000株を三輪常次郎ら役員・社員数名が個人で引き受けた
    • [5]社史は分離の実態について「社内に伝えられるところと、当時の情勢から見て、そこに国の強力な指導があったことは間違いない」と断定し、商工省から会社分割の指導がなされたと明記している
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」
    • [6]「昭和十四年十一月商工省の指示により、商事部門を分離し、新しく設立した資本金二百万円のカネカ服部商店に同部門を継承させ、今日の興服産業の基を作つた」

商工省が分割を求めた背景には、配給統制の技術的な都合がある。1939年前後の2、3年で繊維の原材料と製品の配給統制は一段と細かくなり、生産者に対する原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構に対する製品の割当が、それぞれ別建ての統制へ組み込まれた。割当は会社ごとの従来の生産実績と取扱実績に基づいて決まるため、商と工を併せ持つ服部商店では実績を二つに切り分ける算定が煩雑になり、当局の判断次第でどちらの部門も不利益をこうむりかねなかった。割当を二本立てできれいに受けるには分けたほうが有利であり、服部商店の側にも行政の指導に応じる必然性が生じていた。工業部門は固定資産の比重が高く、存続させるほうが経理の処理として便利だったため、切り出す先には商業部門を選んだ。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [7]1939年前後の2〜3年は繊維原材料・製品の配給統制が一段と強化された時期で、生産者への原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構への製品の割当がそれぞれ別建ての細密な統制に組み込まれた
    • [8]配給割当は会社ごとの従来の生産・取扱い実績に基づいて決まるため、商工を併せ持つ服部商店では商と工に分けて実績を算出することが煩雑かつ不明確にならざるを得ず、「当局の判断次第では、商業部門にとっても工業部門にとっても、不利益をこうむる可能性が生じる」状態にあった
    • [9]社史は「当社サイドから見ても、行政の指導に応じる必然性はあったのである」と書いている
    • [10]申請書に『尚株式会社服部商店ガ商業部門ヲ分離シ工業部門ヲ存続セントスル理由ハ当社資産ノ構成ガ工業部門ヲ存続スルヲ便利トスル為メナリ』とあり、工業部門は固定資産中心で資産額が大きく動かすと経理処理が面倒だったため、軽いほうの商業部門を新会社に出した

1940年2月15日、二つの法人は同じ日に商号を入れ替え、午前9時の臨時株主総会で旧・服部商店が興亜紡績へ、続く10時の総会でカネカ服部商店が株式会社服部商店へと改めた。同日、興亜紡績は松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社を吸収合併し、資本総額は640万円から1,000万円へ増えた。両社の関係は一様ではなく、株式4万株のうち38,000株を興亜紡績が保有する95%出資でありながら、両社は互いを親会社とも子会社とも呼ばず、細胞分裂に比すべき分離独立と称した。形式のうえでは商事側が興亜紡績の子会社にあたる。その商事側は統制会社の代行業務へ業容を狭め、1943年8月に商号を興服産業へ改めたのち、同年11月の交易業整備で綿糸布の輸出業者が190社から19社へ絞られたなかに残った。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [11]1940年2月15日、3社合併を登記。同日9時に(旧)服部商店の臨時総会で商号を「興亜紡績株式会社」へ、続く10時にカネカ服部商店の臨時総会で商号を「株式会社服部商店」へ変更した
    • [12]1939年12月2日の臨時株主総会で松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社合併仮契約を承認し、資本総額を640万円から1,000万円に増額。1940年2月15日に合併を登記した
    • [13]社史は「服部商店とカネカ服部商店は、いずれを親会社または子会社とするものではなく、むしろ細胞分裂に比喩すべき意図と経緯を伴って、ここに分離独立したのであった」と規定する。株式は4万株中38,000株(95%)を(旧)服部商店=興亜紡績が保有した
    • [14]社史は脚注で「商事部門の服部商店も形式的には興亜紡の子会社であるから」と記している
    • [15]1943年11月8日の「交易業整備要綱」による第2次整備で綿糸布の輸出業者は190社から19社に絞られ、興服産業(服部商店の新商号)はこの19社に残った。商号変更は1943年8月
参考文献[1]-[15]
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
    • [1]1939年8月17日、株式会社服部商店が大蔵・商工両大臣宛に「会社設立認可申請書」を提出した
    • [2]申請書は商工分離の理由を『(商工両部門を)兼営セル結果ハ其機構複雑化シ経営統率上不便少カラザル為メ‥』とだけ簡単に触れている
    • [3]1939年11月15日、服部商店本店(名古屋市東区宮町一丁目五番地)で株式会社カネカ服部商店の創立総会が開かれ、同日設立された。資本の総額200万円、全額払込
    • [4]カネカ服部商店の総発行株数4万株のうち38,000株を服部商店が引き受け、残り2,000株を三輪常次郎ら役員・社員数名が個人で引き受けた
    • [5]社史は分離の実態について「社内に伝えられるところと、当時の情勢から見て、そこに国の強力な指導があったことは間違いない」と断定し、商工省から会社分割の指導がなされたと明記している
    • [7]1939年前後の2〜3年は繊維原材料・製品の配給統制が一段と強化された時期で、生産者への原綿・原糸の割当と、流通業者・配給機構への製品の割当がそれぞれ別建ての細密な統制に組み込まれた
    • [8]配給割当は会社ごとの従来の生産・取扱い実績に基づいて決まるため、商工を併せ持つ服部商店では商と工に分けて実績を算出することが煩雑かつ不明確にならざるを得ず、「当局の判断次第では、商業部門にとっても工業部門にとっても、不利益をこうむる可能性が生じる」状態にあった
    • [9]社史は「当社サイドから見ても、行政の指導に応じる必然性はあったのである」と書いている
    • [10]申請書に『尚株式会社服部商店ガ商業部門ヲ分離シ工業部門ヲ存続セントスル理由ハ当社資産ノ構成ガ工業部門ヲ存続スルヲ便利トスル為メナリ』とあり、工業部門は固定資産中心で資産額が大きく動かすと経理処理が面倒だったため、軽いほうの商業部門を新会社に出した
    • [11]1940年2月15日、3社合併を登記。同日9時に(旧)服部商店の臨時総会で商号を「興亜紡績株式会社」へ、続く10時にカネカ服部商店の臨時総会で商号を「株式会社服部商店」へ変更した
    • [12]1939年12月2日の臨時株主総会で松阪木綿・南海染工・矢田川染工所の3社合併仮契約を承認し、資本総額を640万円から1,000万円に増額。1940年2月15日に合併を登記した
    • [13]社史は「服部商店とカネカ服部商店は、いずれを親会社または子会社とするものではなく、むしろ細胞分裂に比喩すべき意図と経緯を伴って、ここに分離独立したのであった」と規定する。株式は4万株中38,000株(95%)を(旧)服部商店=興亜紡績が保有した
    • [14]社史は脚注で「商事部門の服部商店も形式的には興亜紡の子会社であるから」と記している
    • [15]1943年11月8日の「交易業整備要綱」による第2次整備で綿糸布の輸出業者は190社から19社に絞られ、興服産業(服部商店の新商号)はこの19社に残った。商号変更は1943年8月
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」
    • [6]「昭和十四年十一月商工省の指示により、商事部門を分離し、新しく設立した資本金二百万円のカネカ服部商店に同部門を継承させ、今日の興服産業の基を作つた」

1945年〜終戦10日後の決定と、制限会社指定による事業移管

1945年8月25日、興服産業社長の川崎音三氏が三輪常次郎氏を名古屋・宮町の本店に呼び、講和後の営業方針を打ち合わせた。決まったのは、陸軍衛生材料廠から人を得て製薬を始めることと、豊川海軍工廠から人を得て光学ガラス製品を手がけることの二つで、打ち合わせは小一時間で終わった。玉音放送から10日、マッカーサーの厚木降立の5日前、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1か月以上前にあたる。狙いは製品より人にあり、敗戦で職を失う軍の技術陣を招くことを、普段なら望めない俊英を大量に採用できる機会と見た。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [16]1945年8月25日、興服産業社長・川崎音三が宮町本店に三輪常次郎を呼び出し、「平和講和後ノ営業方針」を打ち合わせた
    • [17]三輪常次郎の日記に『製薬業ヲ初メル為メニ衛材ヨリ人ヲモラウコト。光学ガラス製品ノ為メ豊川ヨリ人ヲモラウコト。コノ二ツハ紡績、織布ト共ニテ進ムコトヲ研究スルコトニ打合セタ。』とある。「衛材」は陸軍衛生材料廠、「豊川」は豊川海軍工廠を指す
    • [18]「日記によればこのときの打ち合わせは小一時間で終わっている。新規事業の進出を検討する会議にしては、異例に短い時間である。即断即決といってもよい」
    • [19]この決定はマッカーサーの厚木降立の5日前であり、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1カ月以上前のことである
    • [20]川崎音三の提案の趣旨は「敗戦により職を失おうとしている技術陣を招き、彼らを核に光学と薬それぞれに新事業を興してはどうか」であり、「貴重な人材と技術の散逸を防ぐことになるし、当社にとっても、普段なら望めない俊英たちを大量採用する絶好の機会でもある」とされた

人集めは終戦の年のうちに動き、光学では川崎音三氏が旧知の豊川海軍工廠火工部長・戸塚武比古少将を頼って、紹介された前光学部長の出石寛二氏が入社を決めた。1945年12月初めに出石寛二氏ら9名が入社して12月14日には蒲郡の工場予定地へ赴いており、内訳は技術将校4名と技手5名、全員が同工廠光学部から移ってきた。医薬では、廠長の清水寅次中将が推薦した勅使河原巍氏が、研究所長の山内忠重氏と一緒ならという条件を出して自ら山内忠重氏を説得し、1946年1月、川崎音三氏との面会の場で二人そろって入社を決めた。両事業を抱えていたのはこの時点ではなお興和紡績で、1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿には光学の9名への給与支給が発令された。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [21]川崎音三が旧知の戸塚武比古少将(豊川海軍工廠 火工部長)を頼り、紹介された出石寛二大佐(前・光学部長)が「川崎の語る理念と将来展望に共感し、入社を決意」した
    • [22]1945年12月初め、出石寛二・成松明壽ほか総勢9名が入社。12月14日に9名が蒲郡の工場予定地に赴任し、これが興和光器製作所の実質的な設立となった
    • [23]入社した9名の内訳は技術将校4名、技手5名で、全員が豊川海軍工廠光学部の出身である
    • [24]川崎の依頼で陸軍衛生材料廠廠長・清水寅次中将が勅使河原巍を推薦し、勅使河原が「先輩の山内と一緒ならこれに応じてもよい」と条件を出して研究所長の山内忠重を自ら説得。2人揃って川崎音三に面会し、その場で入社が決定した(1946年1月)
    • [25]当初この事業は興和紡績の経営で始まった。1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿に出石・成松ら9名の給与支給が発令されており、社史はこれを「唯一の書面上の証拠」としている

1945年10月23日、興亜紡績は第67期定時株主総会で商号を興和紡績へ改め、"亜細亜を興す"から"平和を興す"へ転じた。ところがその1か月半後の12月8日、興和紡績が制限会社に指定された。財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が保有していたため、その子会社の扱いを受けた。光学機器と医薬品をともに持つ今日の興和の形は、二度の移管から生まれた。発端は制限会社令で、定款の重大な変更に大蔵大臣の認可が必要になり、光学と医薬を興和紡績で手がける計画が成り立たなくなった。光学部門は1946年春頃までに興服産業へ移されたが、移管を記した書類が残っていないため、日付までは特定できない。医薬については、1947年6月のGHQの査察で、制限会社の興和紡績が矢田川工場で薬品の製造と染色業を併せて営むのは認められないとされ、6月30日付で約414万円の対価を得て興服産業へ譲り渡された。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [26]1945年10月8日の取締役会、10月23日の第67期定時株主総会で興亜紡績から興和紡績株式会社への商号変更が可決された。社史は「いうまでもなく『亜細亜を興す』から『平和を興す』への転換である」と書いている
    • [27]1945年12月8日、興和紡績が制限会社に指定された。制限会社令(1945年11月24日公布の勅令第657号)により1945年12月から1946年7月に約1,200社が指定された
    • [28]興和紡績は財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が所有していたため子会社と見なされ、制限会社に指定された
    • [29]光学部門の興服産業への移管と医薬部門の有償譲渡により、興服産業(1960年5月に興和株式会社へ商号変更)が光学と医薬の両製造部門を抱えることになった
    • [30]制限会社令は事業譲渡・解散・資本金変更・定款の重大変更・利益処分を大蔵大臣認可下に置くもので、社史は「なかでも定款変更の制限に関しては、今日の興和グループの態様にまで影響を及ぼした重大な方向転換を余儀なくされた。すなわち、医薬、光学分野への進出を断念しなければならなかったのである」と書いている
    • [31]制限会社に指定されていなかった興服産業が光学部門を担当することになった。社史は「直接証拠となる書類が残っておらず、詳しい日付は不明」「おそらく二十一年の春には既に興服産業の管轄となっていたものと推測」と書いている
    • [32]1947年6月、矢田川工場にGHQの査察が入り「制限会社に該当する興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されない」と判断された。1947年6月30日付の譲渡契約で興和紡績の薬品製造事業の全部が興服産業に有償譲渡され、対価は建設期間中の設備費・人件費・資材費・諸費用を合わせ約414万円だった
参考文献[16]-[32]
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [16]1945年8月25日、興服産業社長・川崎音三が宮町本店に三輪常次郎を呼び出し、「平和講和後ノ営業方針」を打ち合わせた
    • [17]三輪常次郎の日記に『製薬業ヲ初メル為メニ衛材ヨリ人ヲモラウコト。光学ガラス製品ノ為メ豊川ヨリ人ヲモラウコト。コノ二ツハ紡績、織布ト共ニテ進ムコトヲ研究スルコトニ打合セタ。』とある。「衛材」は陸軍衛生材料廠、「豊川」は豊川海軍工廠を指す
    • [18]「日記によればこのときの打ち合わせは小一時間で終わっている。新規事業の進出を検討する会議にしては、異例に短い時間である。即断即決といってもよい」
    • [19]この決定はマッカーサーの厚木降立の5日前であり、東海地区に米軍先遣隊163人が名古屋入りする9月30日より1カ月以上前のことである
    • [20]川崎音三の提案の趣旨は「敗戦により職を失おうとしている技術陣を招き、彼らを核に光学と薬それぞれに新事業を興してはどうか」であり、「貴重な人材と技術の散逸を防ぐことになるし、当社にとっても、普段なら望めない俊英たちを大量採用する絶好の機会でもある」とされた
    • [21]川崎音三が旧知の戸塚武比古少将(豊川海軍工廠 火工部長)を頼り、紹介された出石寛二大佐(前・光学部長)が「川崎の語る理念と将来展望に共感し、入社を決意」した
    • [22]1945年12月初め、出石寛二・成松明壽ほか総勢9名が入社。12月14日に9名が蒲郡の工場予定地に赴任し、これが興和光器製作所の実質的な設立となった
    • [23]入社した9名の内訳は技術将校4名、技手5名で、全員が豊川海軍工廠光学部の出身である
    • [24]川崎の依頼で陸軍衛生材料廠廠長・清水寅次中将が勅使河原巍を推薦し、勅使河原が「先輩の山内と一緒ならこれに応じてもよい」と条件を出して研究所長の山内忠重を自ら説得。2人揃って川崎音三に面会し、その場で入社が決定した(1946年1月)
    • [25]当初この事業は興和紡績の経営で始まった。1945年12月20日付の興和紡績の辞令原簿に出石・成松ら9名の給与支給が発令されており、社史はこれを「唯一の書面上の証拠」としている
    • [26]1945年10月8日の取締役会、10月23日の第67期定時株主総会で興亜紡績から興和紡績株式会社への商号変更が可決された。社史は「いうまでもなく『亜細亜を興す』から『平和を興す』への転換である」と書いている
    • [27]1945年12月8日、興和紡績が制限会社に指定された。制限会社令(1945年11月24日公布の勅令第657号)により1945年12月から1946年7月に約1,200社が指定された
    • [28]興和紡績は財閥でも十大紡でもなかったが、戦時中の工場軍需転用に際して株式の6割を中島飛行機が所有していたため子会社と見なされ、制限会社に指定された
    • [29]光学部門の興服産業への移管と医薬部門の有償譲渡により、興服産業(1960年5月に興和株式会社へ商号変更)が光学と医薬の両製造部門を抱えることになった
    • [30]制限会社令は事業譲渡・解散・資本金変更・定款の重大変更・利益処分を大蔵大臣認可下に置くもので、社史は「なかでも定款変更の制限に関しては、今日の興和グループの態様にまで影響を及ぼした重大な方向転換を余儀なくされた。すなわち、医薬、光学分野への進出を断念しなければならなかったのである」と書いている
    • [31]制限会社に指定されていなかった興服産業が光学部門を担当することになった。社史は「直接証拠となる書類が残っておらず、詳しい日付は不明」「おそらく二十一年の春には既に興服産業の管轄となっていたものと推測」と書いている
    • [32]1947年6月、矢田川工場にGHQの査察が入り「制限会社に該当する興和紡績の矢田川工場が染色業と薬品製造業を兼営することは許されない」と判断された。1947年6月30日付の譲渡契約で興和紡績の薬品製造事業の全部が興服産業に有償譲渡され、対価は建設期間中の設備費・人件費・資材費・諸費用を合わせ約414万円だった

1948年〜レスタミンとコルゲンを生んだ新薬への転換

新設の医薬部門は、まず日本薬局方に載る注射薬を選んで塩酸プロカインほか5種類に着手したものの、山内忠重氏ら幹部は研究者として一流でも製造の経験に乏しく、思わしい製品ができなかった。続いて取り組んだ塩化カルシウム液やリンゲル液も量産段階で失敗が重なり、成分の単純な公定書医薬品では戦前から続く著名メーカー品に販売で劣った。そこで公定書外医薬品、すなわち新薬へ転じ、山内忠重氏が以前から続けていた胎盤製剤の研究を足がかりに、1948年6月、滋養強壮剤"スメニン注コーワ"を発売した。合成にあたったのは入社まもない加納宏一郎氏で、販売は直販をやめ、吉野金三郎氏の判断で東京の薬品問屋・株式会社中村瀧商店を通す方式に切り替えた。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [33]医薬部門は「新参会社であるから、能力的にも販売力の面でも、初めからいわゆる新薬に挑戦することは不可能」として日本薬局方医薬品の注射薬(塩酸プロカインほか5種類)に着手したが、「山内ら幹部は皆研究者としては一流であっても製造の経験は疎く、結局肝心の製造技術がないために思わしい製品ができなかった」
    • [34]次に塩化カルシウム液・リンゲル液などに取り組むが量産段階で失敗が多く、「成分の単純な公定書医薬品であっても、戦前から続いた著名メーカー品は売れるが、当社のような未だ無名のメーカーのものはどうしても販売競争に負ける」状態だった
    • [35]そこで公定書外医薬品(新薬)へ方針転換した。社史は「一見無謀にも思える決定」と書きつつ、根拠に山内の胎盤製剤研究と「どのみち同じ困難が避けられないのであれば、新薬で苦労したいというのが研究者たちの本心でもあった」ことを挙げる
    • [36]1948年6月、滋養強壮剤「スメニン注コーワ」を発売。興和初の新薬で、研究所長・山内忠重が以前から研究していた胎盤製剤を製品化したもの
    • [37]スメニンは山内忠重の指導のもと、入社早々の加納宏一郎(後の興和副社長)らが合成した
    • [38]1948年6月のスメニン発売時、吉野金三郎が「むしろ薬品問屋を通じて販売すべき」と結論し、在京の薬品問屋を比較検討して株式会社中村瀧商店(東京都中央区日本橋本町3-5)を販売窓口に選んだ。それ以前は営業担当者1〜2名と工場幹部が薬局・病院を訪問する直販方式だった

1948年11月、わが国初の抗ヒスタミン剤"レスタミンコーワ注"を発売した。東京大学の落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏氏が同年に入社したことで開発は短期間で片づいたが、売れ行きを押し上げた要因は、薬効の説明よりも紙面の作り方にあった。臨床治験にあたった東京大学病院皮膚科の川村太郎助教授が新聞記者の取材に応じ、その記事が1948年11月29日付の東京新聞第2面に載る際、取材に立ち会っていた吉野金三郎氏が同じ紙面に広告を手配した。翌日、中村瀧商店の店頭にレスタミンを求める客が何百人と列をなし、同店は半日通常の業務ができなかった。1949年12月、風邪薬"コルゲンコーワ"を発売。勅使河原巍氏の発想により、風邪薬に抗ヒスタミン剤を配合した日本で最初の製品となった。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [39]1948年11月、抗ヒスタミン剤「レスタミンコーワ注」を発売。わが国初の抗ヒスタミン剤である
    • [40]東京大学・落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏が1948年に入社したことで研究が進捗し、短期間で開発に成功した
    • [41]臨床治験を行っていた東大病院皮膚科の川村太郎助教授を新聞記者が取材し、1948年11月29日付・東京新聞の第2面に「ぜんそくの治療法-東大で新発見」の記事が載った。取材に立ち会っていた吉野金三郎がすかさず広告掲載を手配し、同一紙面にレスタミンの広告が並んで掲載された
    • [42]掲載の翌日、中村瀧商店の前にレスタミンを求める何百人が列をなし、同店は半日通常業務ができなかった。品切れが続き工場は増産に追われた
    • [43]1949年12月、風邪薬「コルゲンコーワ」を発売した
    • [44]コルゲンコーワは風邪薬に日本で初めて抗ヒスタミン剤(レスタミン)を配合した製品で、勅使河原巍の発想に基づいて開発された。命名は山内忠重所長によりColdとAlergenからとられた

医薬品は繊維の穴を埋める収益源になり、1952年3月までの第23期には、繊維業界の不況のなか他の製品の売上がその損失を補った。生産と研究の拠点も相次いで整え、1951年10月には興和紡績の矢田川工場に間借りしていた興和化学名古屋工場が、名古屋市北区金田町の旧・野々垣毛織の織布工場跡地へ新築移転を終えた。東京研究所は上野の東京薬学専門学校女子部の一室で約4年を過ごしたのち、1953年10月12日、杉並区下高井戸に敷地3,400坪・研究棟延580坪の施設を構えた。そして1954年7月、興服産業は資本金5,000万円の興和新薬を設立し、医薬品の販売を担わせた。出資は興服産業が99%、興和紡績が1%、社長には三輪隆康氏が就任した。

  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [45]興服産業 第23期営業報告書(1952年3月)に『其の他の製品も相当の売上げを見せ、纖維業界不況の折柄その損失を補ひ綜合経営の妙味を発揮し、当社事業の安定性に重きを加えた次第であります。』とある
    • [46]興和紡績 矢田川工場内の間借りが手狭になり、名古屋市北区金田町1-45の「野々垣毛織」織布工場跡地を1951年初頭に買収。2月地鎮祭、10月に新工場完成。名称は「名古屋工場」を引き継ぎ、矢田川の旧工場は閉鎖した
    • [47]東京研究所は1949年4月から1953年6月までの約4年間、上野の東京薬学専門学校女子部の一室を借りていた。東京都杉並区下高井戸3-399に3,400坪の敷地を購入し、鉄筋コンクリート3階建・延580坪の研究棟を建設して1953年10月12日に開所式を行った
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
    • [48]1954年7月、興服産業は資本金5,000万円で興和新薬株式会社を設立し、医薬品の販売を担わせた
    • [49]興和新薬の出資比率は興服産業99%、興和紡績1%で、社長には三輪隆康が就任した
参考文献[33]-[49]
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
    • [33]医薬部門は「新参会社であるから、能力的にも販売力の面でも、初めからいわゆる新薬に挑戦することは不可能」として日本薬局方医薬品の注射薬(塩酸プロカインほか5種類)に着手したが、「山内ら幹部は皆研究者としては一流であっても製造の経験は疎く、結局肝心の製造技術がないために思わしい製品ができなかった」
    • [34]次に塩化カルシウム液・リンゲル液などに取り組むが量産段階で失敗が多く、「成分の単純な公定書医薬品であっても、戦前から続いた著名メーカー品は売れるが、当社のような未だ無名のメーカーのものはどうしても販売競争に負ける」状態だった
    • [35]そこで公定書外医薬品(新薬)へ方針転換した。社史は「一見無謀にも思える決定」と書きつつ、根拠に山内の胎盤製剤研究と「どのみち同じ困難が避けられないのであれば、新薬で苦労したいというのが研究者たちの本心でもあった」ことを挙げる
    • [36]1948年6月、滋養強壮剤「スメニン注コーワ」を発売。興和初の新薬で、研究所長・山内忠重が以前から研究していた胎盤製剤を製品化したもの
    • [37]スメニンは山内忠重の指導のもと、入社早々の加納宏一郎(後の興和副社長)らが合成した
    • [38]1948年6月のスメニン発売時、吉野金三郎が「むしろ薬品問屋を通じて販売すべき」と結論し、在京の薬品問屋を比較検討して株式会社中村瀧商店(東京都中央区日本橋本町3-5)を販売窓口に選んだ。それ以前は営業担当者1〜2名と工場幹部が薬局・病院を訪問する直販方式だった
    • [39]1948年11月、抗ヒスタミン剤「レスタミンコーワ注」を発売。わが国初の抗ヒスタミン剤である
    • [40]東京大学・落合英二教授の指導に加え、同教授のもとで抗ヒスタミン研究をしていた太田道敏が1948年に入社したことで研究が進捗し、短期間で開発に成功した
    • [41]臨床治験を行っていた東大病院皮膚科の川村太郎助教授を新聞記者が取材し、1948年11月29日付・東京新聞の第2面に「ぜんそくの治療法-東大で新発見」の記事が載った。取材に立ち会っていた吉野金三郎がすかさず広告掲載を手配し、同一紙面にレスタミンの広告が並んで掲載された
    • [42]掲載の翌日、中村瀧商店の前にレスタミンを求める何百人が列をなし、同店は半日通常業務ができなかった。品切れが続き工場は増産に追われた
    • [43]1949年12月、風邪薬「コルゲンコーワ」を発売した
    • [44]コルゲンコーワは風邪薬に日本で初めて抗ヒスタミン剤(レスタミン)を配合した製品で、勅使河原巍の発想に基づいて開発された。命名は山内忠重所長によりColdとAlergenからとられた
    • [45]興服産業 第23期営業報告書(1952年3月)に『其の他の製品も相当の売上げを見せ、纖維業界不況の折柄その損失を補ひ綜合経営の妙味を発揮し、当社事業の安定性に重きを加えた次第であります。』とある
    • [46]興和紡績 矢田川工場内の間借りが手狭になり、名古屋市北区金田町1-45の「野々垣毛織」織布工場跡地を1951年初頭に買収。2月地鎮祭、10月に新工場完成。名称は「名古屋工場」を引き継ぎ、矢田川の旧工場は閉鎖した
    • [47]東京研究所は1949年4月から1953年6月までの約4年間、上野の東京薬学専門学校女子部の一室を借りていた。東京都杉並区下高井戸3-399に3,400坪の敷地を購入し、鉄筋コンクリート3階建・延580坪の研究棟を建設して1953年10月12日に開所式を行った
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
    • [48]1954年7月、興服産業は資本金5,000万円で興和新薬株式会社を設立し、医薬品の販売を担わせた
    • [49]興和新薬の出資比率は興服産業99%、興和紡績1%で、社長には三輪隆康が就任した

出典・参考

4件
出典・参考
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)三章「戦時下の雌伏」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)四章「新たな事業展開」
  • 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)五章「複合企業コーワ」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 01_綿糸紡績「興和紡績」

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