興和:綿布問屋服部兼三郎商店の創立と紡機3万錘の紡績業
1894年〜服部兼三郎商店の開業と、白木綿卸で営業税1位
服部兼三郎氏は1870年11月29日、名古屋近郊の丹羽郡北野村に堀尾伸右衛門氏の長男として生まれ、地元の赤童子学校を13歳で卒業したのち、家業の農業を手伝うかたわら村役場へ見習いに通った。1885年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛氏から奉公に誘われ、反対する両親を説得して名古屋へ出た。奉公先の"糸屋祖父江重兵衛"は、瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称された名古屋の四大繊維問屋に数えられる。丁稚から手代、番頭へと引き立てられ、入店4年後の1889年には主人の女婿に配された。その2年前の1887年には服部鐵次郎氏の養子に入って服部姓に改めており、徴兵を避けるための入籍だったとみられる。ただし酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを黙認できなくなった祖父江重兵衛氏は、1894年に服部兼三郎氏を離縁・解雇した。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
- [1]服部兼三郎は明治3年11月29日(旧暦)、名古屋近郊の丹羽郡北野村(現愛知県江南市北野)に堀尾伸右衛門の長男として生まれた
- [2]地元の赤童子学校を13歳で卒業後、家業の農業を助ける傍ら村役場へ見習い勤めに通った
- [3]明治18年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛から奉公の誘いを受け、不賛成の両親を説得して名古屋へ出た。兼三郎15歳の秋
- [4]「糸屋祖父江重兵衛」は瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称される名古屋の四大繊維問屋の一つだった
- [5]丁稚・手代・番頭と昇進し、入店4年後の明治22年に主人重兵衛の女婿に配された
- [6]明治20年に服部鐵次郎の養子となった。真相は徴兵を避けるための入籍とされる
- [7]酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを許せなくなった重兵衛は明治27年に兼三郎を離縁・解雇した
服部兼三郎氏が独立営業を開始したのは解雇と同じ1894年の12月25日、店を構えたのは名古屋市八百屋町で、開業資金には祖父江重兵衛商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた。扱ったのは鳴海・有松の絞と知多木綿の集荷で、使用人は2、3人、自ら店主兼番頭として県下を歩き回る規模にとどまったが、開業と同じ年の8月に始まった日清戦争が追い風になった。1895年4月の下関条約で日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得、綿糸輸出税は1894年、綿花輸入税は1896年に撤廃された。1897年には綿糸の輸出が輸入を上回り、服部兼三郎商店も八百屋町から下長者町へ店を移した。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
- [8]文献に「その年の十二月二十五日に、同市(名古屋市)内八百屋町で独立営業を始めた」とある。明治27年12月25日
- [9]開業時の資金には祖父江商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた
- [10]最初に手がけたのは鳴海・有松あたりの絞や知多木綿の集荷。使用人は2、3人で、自らは店主兼番頭として県下を歩き回った
- [11]明治27年8月に日清戦争が起こり、翌28年4月の日清講和条約(下関条約)の締結をもって終わった
- [12]明治28年4月の下関条約により日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得た
- [13]綿糸輸出税は明治27年、綿花輸入税は明治29年に撤廃された
- [14]明治30年、綿糸の輸出が輸入を上回った
- [15]八百屋町の店は下長者町へ移り、店構えもより本格的なものになった
独立まもない時期に、服部兼三郎氏は名古屋へ出てきた豊田佐吉氏と知り合った。1896年に完成した木製小幅動力織機を自らの賃織機屋へ大量に入れ、まだ無名だった豊田佐吉氏の発明資金を融資し続けた。1901年7月7日に下長者町の店が火事で全焼したのを機に、20日後の同月27日には宮町一丁目の新店舗へ移転を終え、この宮町本店が以後およそ半世紀にわたる拠点になった。1899年に13歳で入店した三輪常次郎氏は、1906年から1912年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張し、大連から営口・奉天・鉄嶺まで単身で大尺布を売り歩いた。1910年度の"名古屋商工案内"に載る服部兼三郎商店の営業税額は1,046円25銭で、白木綿卸の第1位、繊維商全体でも10位以内に入った。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
- [16]明治27年に糸繰返機を発明した豊田佐吉が名古屋へ進出し、そこで服部兼三郎と知り合った。兼三郎より3つ年上
- [17]明治29年に豊田佐吉が完成させた木製小幅動力織機を兼三郎は自分の抱える賃織機屋に大量導入し、佐吉の発明資金を惜しげもなく融資し続けた
- [18]明治34年7月7日、下長者町の店が火事で全焼。同月27日に宮町一丁目(現錦三丁目十番)の新店舗へ移転を完了した
- [19]宮町旧本店はその後約半世紀にわたり活動の拠点となった
- [20]三輪常次郎は明治19年5月9日生まれ。明治32年に13歳で名古屋市立第三小学校を卒業すると同時に奉公に上がり、明治39年から45年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張・駐在し、大連・営口・奉天・鉄嶺で大尺布を商った
- [21]名古屋商業会議所刊「名古屋商工案内」明治43年度版で、服部兼三郎商店は業種「白木綿卸」・営業税1,046円25銭。白木綿卸で第1位、繊維商全体でも8位でベスト10入り
参考文献[1]-[21]
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
- [1]服部兼三郎は明治3年11月29日(旧暦)、名古屋近郊の丹羽郡北野村(現愛知県江南市北野)に堀尾伸右衛門の長男として生まれた
- [2]地元の赤童子学校を13歳で卒業後、家業の農業を助ける傍ら村役場へ見習い勤めに通った
- [3]明治18年8月、叔父にあたる祖父江重兵衛から奉公の誘いを受け、不賛成の両親を説得して名古屋へ出た。兼三郎15歳の秋
- [4]「糸屋祖父江重兵衛」は瀧兵右衛門・瀧定助・春日井丈右衛門と並び称される名古屋の四大繊維問屋の一つだった
- [5]丁稚・手代・番頭と昇進し、入店4年後の明治22年に主人重兵衛の女婿に配された
- [6]明治20年に服部鐵次郎の養子となった。真相は徴兵を避けるための入籍とされる
- [7]酒と芸者遊びが絶えず、他の店員の手前これを許せなくなった重兵衛は明治27年に兼三郎を離縁・解雇した
- [8]文献に「その年の十二月二十五日に、同市(名古屋市)内八百屋町で独立営業を始めた」とある。明治27年12月25日
- [9]開業時の資金には祖父江商店に在勤中の積立金1,200余円を充てた
- [10]最初に手がけたのは鳴海・有松あたりの絞や知多木綿の集荷。使用人は2、3人で、自らは店主兼番頭として県下を歩き回った
- [11]明治27年8月に日清戦争が起こり、翌28年4月の日清講和条約(下関条約)の締結をもって終わった
- [12]明治28年4月の下関条約により日本は朝鮮・清国市場の権益と2億両の賠償金を得た
- [13]綿糸輸出税は明治27年、綿花輸入税は明治29年に撤廃された
- [14]明治30年、綿糸の輸出が輸入を上回った
- [15]八百屋町の店は下長者町へ移り、店構えもより本格的なものになった
- [16]明治27年に糸繰返機を発明した豊田佐吉が名古屋へ進出し、そこで服部兼三郎と知り合った。兼三郎より3つ年上
- [17]明治29年に豊田佐吉が完成させた木製小幅動力織機を兼三郎は自分の抱える賃織機屋に大量導入し、佐吉の発明資金を惜しげもなく融資し続けた
- [18]明治34年7月7日、下長者町の店が火事で全焼。同月27日に宮町一丁目(現錦三丁目十番)の新店舗へ移転を完了した
- [19]宮町旧本店はその後約半世紀にわたり活動の拠点となった
- [20]三輪常次郎は明治19年5月9日生まれ。明治32年に13歳で名古屋市立第三小学校を卒業すると同時に奉公に上がり、明治39年から45年にかけて朝鮮・台湾・満州・上海・香港へ出張・駐在し、大連・営口・奉天・鉄嶺で大尺布を商った
- [21]名古屋商業会議所刊「名古屋商工案内」明治43年度版で、服部兼三郎商店は業種「白木綿卸」・営業税1,046円25銭。白木綿卸で第1位、繊維商全体でも8位でベスト10入り
1912年〜株式会社服部商店の設立と、桜田工場を直営とした決定
1912年10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会が開かれた。資本の総額は100万円、払込資本金50万円で、本店を名古屋市東区宮町一丁目に、支店を大阪市東区南久宝寺町に置いた。株主161名のうち服部兼三郎氏が8,000株、三輪常次郎氏が1,250株を持ち、ほかの取締役6名は社外の人で持株は各100株から300株にとどまった。11月1日の業務開始に先立つ第1回取締役会は服部兼三郎氏を専務に選んでおり、この"専務"は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称として使われた。創立総会の2日前には、大阪の綿布問屋・平林甚助商店の商権と資産・負債を引き受ける契約を、仲介した三井物産大阪支店を交えて結び、その累積欠損は服部兼三郎氏が暖簾代として負担した。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [22]1912年(大正元)10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会。午前11時開会、午後1時半閉会
- [23]資本の総額100万円・払込資本金50万円。本店は名古屋市東区宮町一丁目十一番地、支店は大阪市東区南久宝寺町二丁目六十六番地
- [24]株主161名(創立総会出席32名)。兼三郎8,000株、三輪常次郎1,250株が第2位。取締役7名のうち兼三郎以外は全員社外の人で持株は各100〜300株
- [25]創立総会後の第1回取締役会で兼三郎を専務に選任、業務開始日を11月1日と決定した
- [26]「専務」は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称だった
- [27]1912年10月23日、服部=平林、服部=三井物産の二契約を締結。持ち込んだのは平林の取引先・三井物産大阪支店(支店長 藤野龜之助)
- [28]平林の累積損を兼三郎が「暖簾代」として負担する代わりに商権・資産・負債を引き継ぐ条件だった
改組と同じ1912年、株式会社服部商店は名古屋市中区松原二丁目に服部サイジング工場を開設し、三重紡績の糸の糊付を糊付機3台・従業員約50名で請け負った。紡績ほど資本を食わず、紡績と織布の中間にあたる工程を選んだうえで、1914年3月には名古屋市南区熱田東町に桜田工場を新設し、糊付機4台・織機308台で織布を始めた。その桜田工場を別会社にして自分たちに経営させてほしいと工場長の豊田平吉氏ら3名が願い出たとき、三輪常次郎氏は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を3月15日に提出した。服部兼三郎氏は折れ、桜田工場は直営に決まった。同じ年の8月、第一次大戦の勃発で明治銀行ほか名古屋の3行に取り付けが起き、和歌山の取引先の倒産で売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した。9月12日、服部兼三郎氏は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [29]最初の工場は1912年(大正元)操業の服部サイジング工場。名古屋市中区松原二丁目、従業員約50名、糊付機3台。三重紡績(後の東洋紡績)の糸の糊付を請け負い、工場長は豊田佐吉の次弟・豊田平吉
- [30]サイジングから入ったのは、紡績ほど資本を食わず、工程上「紡績」と「織布」の中間にあたりノウハウ習得の場になるためだった
- [31]桜田工場は1914年3月設立、名古屋市南区熱田東町。当初 糊付機4台・織機308台。開設時の名称は「服部商店ウヰーヴヰング工場」
- [32]工場長の豊田平吉が糊付部長・山田利吉、織布部長・村瀬巌と共に桜田工場の別会社化を願い出たのに対し、三輪常次郎は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を1914年3月15日に提出して反対した
- [33]兼三郎は折れ、桜田工場は直営となった
- [34]1914年8月19日に北浜銀行支払停止、20日には服部商店のメインバンク明治銀行はじめ在名3行に取り付け。和歌山の取引先が倒産して売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した
- [35]1914年9月12日、兼三郎は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた
1914年の失敗を経て、株式会社服部商店は大戦景気のもとで生産部門を積み増した。1916年5月に嘉久正商店から小牧工場を買収し、1917年3月12日の臨時株主総会で紡績業を営むため定款第二条を変更し、同年4月には初の紡績兼営となる熱田工場を完成させた。1918年5月の古知野工場、1919年10月の横浜工場、1920年4月の福井紡織株式会社の合併による福井工場を加え、1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台を数えた。一方の服部兼三郎氏は1919年から綿糸の定期相場と仲間間の先物取引に再び着手し、1920年3月からの暴落で行き詰まった。6月3日、自宅の庭で自死。享年51、対外的には"病没"と発表された。1920年9月期は留保100万円を充ててなお当期損失339万0,873円を計上し、うち約6割を東京での綿糸定期買付による相場損が占めた。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [36]1915年後半からの大戦景気に乗り、前年の教訓もあって生産部門を集中的に拡充した
- [37]小牧工場は1916年5月、嘉久正商店より買収。広幅織機112台・小幅織機68台
- [38]1917年3月12日の臨時株主総会で、紡績業を営むため定款第二条を変更した
- [39]熱田工場は1917年4月完成、服部商店初の紡績兼営工場。当初は織機72台で出発し豊田式612台に置換、中古紡機4,000錘を導入
- [40]古知野工場1918年5月(丹羽郡古知野町北野)、横浜工場1919年10月(栗原紡織より買収)、福井工場は1920年4月20日の臨時株主総会で福井紡織㈱の吸収合併を承認。1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台
- [41]兼三郎は大戦景気の盛り上がりで再び「先物買い」「現物売り」の定期相場に臨み、証拠金の要らない仲間間の先物取引にも強気で取り組んだ。1920年3月15日の東京株式市場大暴落、4月7日の増田ビルブローカー銀行支払停止で行き詰まった
- [42]1920年6月3日、服部兼三郎は自宅の庭で首をつって死去した
- [43]享年51(満49)。死は「病没」と発表され、真相を知るのはごく内輪の幹部・知人に限られた
- [44]1920年9月期は実際の損失439万余円、内部留保100万円を補填して当期損失金339万0,873円。内訳は東京における綿糸定期買付分274万余円、綿糸値下がりほか営業上の損失165万円で、損失の約6割が相場の損
参考文献[22]-[44]
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [22]1912年(大正元)10月25日、名古屋市中区門前町の愛知県商品陳列館で株式会社服部商店の創立総会。午前11時開会、午後1時半閉会
- [23]資本の総額100万円・払込資本金50万円。本店は名古屋市東区宮町一丁目十一番地、支店は大阪市東区南久宝寺町二丁目六十六番地
- [24]株主161名(創立総会出席32名)。兼三郎8,000株、三輪常次郎1,250株が第2位。取締役7名のうち兼三郎以外は全員社外の人で持株は各100〜300株
- [25]創立総会後の第1回取締役会で兼三郎を専務に選任、業務開始日を11月1日と決定した
- [26]「専務」は1929年に社長制が敷かれるまで最高責任者を指す呼称だった
- [27]1912年10月23日、服部=平林、服部=三井物産の二契約を締結。持ち込んだのは平林の取引先・三井物産大阪支店(支店長 藤野龜之助)
- [28]平林の累積損を兼三郎が「暖簾代」として負担する代わりに商権・資産・負債を引き継ぐ条件だった
- [29]最初の工場は1912年(大正元)操業の服部サイジング工場。名古屋市中区松原二丁目、従業員約50名、糊付機3台。三重紡績(後の東洋紡績)の糸の糊付を請け負い、工場長は豊田佐吉の次弟・豊田平吉
- [30]サイジングから入ったのは、紡績ほど資本を食わず、工程上「紡績」と「織布」の中間にあたりノウハウ習得の場になるためだった
- [31]桜田工場は1914年3月設立、名古屋市南区熱田東町。当初 糊付機4台・織機308台。開設時の名称は「服部商店ウヰーヴヰング工場」
- [32]工場長の豊田平吉が糊付部長・山田利吉、織布部長・村瀬巌と共に桜田工場の別会社化を願い出たのに対し、三輪常次郎は直営を主張し、棟方武次・跡部鐵七・小澤齊一と連名の誓約書を1914年3月15日に提出して反対した
- [33]兼三郎は折れ、桜田工場は直営となった
- [34]1914年8月19日に北浜銀行支払停止、20日には服部商店のメインバンク明治銀行はじめ在名3行に取り付け。和歌山の取引先が倒産して売掛が焦げつき、強気に張った綿糸相場が9月から暴落した
- [35]1914年9月12日、兼三郎は熱田の海岸で投身自殺を図り、通りかかった船に救われた
- [36]1915年後半からの大戦景気に乗り、前年の教訓もあって生産部門を集中的に拡充した
- [37]小牧工場は1916年5月、嘉久正商店より買収。広幅織機112台・小幅織機68台
- [38]1917年3月12日の臨時株主総会で、紡績業を営むため定款第二条を変更した
- [39]熱田工場は1917年4月完成、服部商店初の紡績兼営工場。当初は織機72台で出発し豊田式612台に置換、中古紡機4,000錘を導入
- [40]古知野工場1918年5月(丹羽郡古知野町北野)、横浜工場1919年10月(栗原紡織より買収)、福井工場は1920年4月20日の臨時株主総会で福井紡織㈱の吸収合併を承認。1920年時点で7工場・紡機32,184錘・織機2,462台
- [41]兼三郎は大戦景気の盛り上がりで再び「先物買い」「現物売り」の定期相場に臨み、証拠金の要らない仲間間の先物取引にも強気で取り組んだ。1920年3月15日の東京株式市場大暴落、4月7日の増田ビルブローカー銀行支払停止で行き詰まった
- [42]1920年6月3日、服部兼三郎は自宅の庭で首をつって死去した
- [43]享年51(満49)。死は「病没」と発表され、真相を知るのはごく内輪の幹部・知人に限られた
- [44]1920年9月期は実際の損失439万余円、内部留保100万円を補填して当期損失金339万0,873円。内訳は東京における綿糸定期買付分274万余円、綿糸値下がりほか営業上の損失165万円で、損失の約6割が相場の損
1920年〜無担保融資124万4,450円から始まった再建
1920年6月4日の緊急重役会で、取締役の三輪常次郎氏が服部兼三郎氏の遺言に従って専務に互選され、6月18日には日本銀行・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を集めて財務の実態を示した。手持商品・有価証券・不動産を時価の5割から7割で評価し、債権債務を決済してなお正味資産は1,000万円を超えると説き、再建策の承認を得た。承認の中身は既往の貸付金を引き上げないという消極的なものにとどまったため、三輪常次郎専務は明治銀行の生駒重彦常務に無担保の追加融資を求め、124万4,450円を引き出した。6月中には、専務就任の決意と財務の実態、当面は守成と整理に徹する方針を記したB6判30数ページの小冊子"店員諸君に告ぐ"を印刷し、全社員へ配った。自身は子供の貯金まで会社債務の担保に差し出し、日清紡績株300株の運用で生計を立てて報酬を辞退した。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [45]1920年6月4日の緊急重役会で社葬執行を決め、取締役三輪常次郎を専務に互選した。兼三郎の遺言に従ったもの
- [46]6月18日、日銀・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を招いて数字を示し、再建策の承認を得た
- [47]常次郎の説明では、手持商品・有価証券・不動産を時価の5〜7掛で評価し債権債務を決済してなお正味資産は優に1,000万円あった
- [48]銀行団の承認は「既往の貸付金を引き上げない」という消極的な内容にとどまったため、常次郎は明治銀行の生駒重彦常務に無担保での追加融資を求め、救済融資が決定した。1920年9月期BSの無担保借入金124万4,450円がこれにあたる
- [49]常次郎は自らの所信をB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』に印刷し、1920年6月中に全社員へ配った。専務就任の決意、財務の実態、当面は守成・整理に徹する方針などを説いた
- [50]常次郎は自分の財産を子供の貯金まで会社債務の担保に投げ出し、生計は日清紡株300株の運用だけでまかなって会社からの報酬を一切辞退した
1920年9月29日の第16期定時株主総会で、株式会社服部商店は社外取締役4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新たに取締役に選んだ。既に役員の三輪常次郎専務と長谷川直麿氏を加え、全役員が生え抜きの実務派となり、同日の重役会では支配人に山田亮三氏が就任した。続いて三輪常次郎専務は責任の所在を部署ごとに切り分ける独立採算制を敷き、予算超過分を部署と個人へ還元する制度と引き換えに、社員が個人で相場を張る"手張り"を禁じた。1921年3月31日の第17期定時株主総会では定款第二条を全面改定し、営業目的を繊維工業とその附帯事業、繊維工産品の売買・委託売買・加工、関連事業への投資の3項に分けた。1923年9月1日の関東大震災では横浜工場が全壊して死者16名・重傷5名を出し、東京出張所も全焼したため、借地で拡張の余地もない横浜工場は震災を機に廃止し、修理できる機械を熱田工場へ移した。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [51]1920年9月29日の第16期定時株主総会で社外4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新取締役に選んだ
- [52]既に役員だった常次郎・長谷川直麿と合わせ全重役が社内生え抜きの実務派となった。同日の重役会で常次郎の支配人を解き山田亮三を支配人に選任した
- [53]責任所在の明確化として事業部制に近い仕組みを作り、独立採算制とリンクさせて予算超過分を部署・個人に還元する制度を体系化。同時に社員の「手張り」(個人での相場張り)を禁止した
- [54]1921年3月31日の第17期定時株主総会で定款第二条を全面改定し、目的を①繊維工業並ニ其附帯事業 ②繊維工産品ノ売買及委託売買並ニ加工 ③同種又ハ類似若ハ関連スル事業ニ対シテノ投資 の3項に分けた
- [55]1923年9月1日の関東大震災で横浜工場は建物が全壊し死者16名・重傷5名。東京出張所は店舗・倉庫とも全焼して在庫を全て失った
- [56]横浜工場は借地で拡張余地もないため震災を機に廃止し、修理可能な機械は熱田工場へ移した
1927年の金融恐慌のさなか、三輪常次郎専務は原綿の大量買いつけに出た。紡績業者として大日本紡績聯合会に属しながら綿布問屋として機業界と組む株式会社服部商店は、自社の織布部門と傘下機業の操業を確保するため紡聯の操短にたびたび反対しており、原綿の確保はその方針を裏づけた。ストリクト・ミッドリング1ピクルは年初の44円見当から6月58円、9月74円へ上がり、三輪常次郎専務はこの利益で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した。株式会社服部商店の同年の年売上高は1億円で、本邦綿布総輸出額の4分の1を占め、1928年11月に設立された日本輸出綿織物工業組合聯合会では三輪常次郎専務が初代理事長に就任し、1938年4月まで約10年間その職にあった。もっとも1937年9月の輸出入品等臨時措置法から1938年6月の商工省令3本まで統制は矢継ぎ早に降り、輸出品と特免品を除く綿製品の製造が全面的に禁じられた。
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [57]1927年(昭和2)の金融恐慌に際し、常次郎が打った手は原綿の大量買いつけだった
- [58]服部商店は紡績メーカーとして紡聯に加入しつつ繊維商社として機業界と命運を共にする立場にあり、生産した綿糸を自社織布部門と傘下織布業者で消化できる見込みがあったため紡聯の操短にしばしば反対した。1927年も操短に反対しており、原綿買いは自社織布部門と取引先機業の操業を確保するための措置でもあった
- [59]原棉相場はストリクト・ミッドリング1ピクルが年初44円見当、3月に47円前後、6月58円、9月74円へ上がった
- [60]常次郎はこの利で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した
- [61]名古屋市の記録は1927年の服部商店について年売上高1億円、本邦綿布総輸出額の四分の一を占めると記す
- [62]1928年11月に名古屋で日本輸出綿織物工業組合聯合会(綿工聯)が設立され、三輪常次郎が初代理事長に就任。1938年4月に辞任するまで約10年間理事長を務めた
- [63]1937年9月10日に輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法が公布即日施行。1938年6月28〜29日に「綿製品ノ製造制限ニ関スル件」ほか商工省令3本が公布施行され、輸出品と特免品を除き綿製品の製造が一切禁止された(俗称「禁綿令」)
参考文献[45]-[63]
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」
- [45]1920年6月4日の緊急重役会で社葬執行を決め、取締役三輪常次郎を専務に互選した。兼三郎の遺言に従ったもの
- [46]6月18日、日銀・三井・三菱・住友・明治・名古屋・愛知など主要取引銀行の代表を招いて数字を示し、再建策の承認を得た
- [47]常次郎の説明では、手持商品・有価証券・不動産を時価の5〜7掛で評価し債権債務を決済してなお正味資産は優に1,000万円あった
- [48]銀行団の承認は「既往の貸付金を引き上げない」という消極的な内容にとどまったため、常次郎は明治銀行の生駒重彦常務に無担保での追加融資を求め、救済融資が決定した。1920年9月期BSの無担保借入金124万4,450円がこれにあたる
- [49]常次郎は自らの所信をB6判30数ページの小冊子『店員諸君に告ぐ』に印刷し、1920年6月中に全社員へ配った。専務就任の決意、財務の実態、当面は守成・整理に徹する方針などを説いた
- [50]常次郎は自分の財産を子供の貯金まで会社債務の担保に投げ出し、生計は日清紡株300株の運用だけでまかなって会社からの報酬を一切辞退した
- [51]1920年9月29日の第16期定時株主総会で社外4名を更迭し、跡部鐵七・小澤齊一・棟方武次を新取締役に選んだ
- [52]既に役員だった常次郎・長谷川直麿と合わせ全重役が社内生え抜きの実務派となった。同日の重役会で常次郎の支配人を解き山田亮三を支配人に選任した
- [53]責任所在の明確化として事業部制に近い仕組みを作り、独立採算制とリンクさせて予算超過分を部署・個人に還元する制度を体系化。同時に社員の「手張り」(個人での相場張り)を禁止した
- [54]1921年3月31日の第17期定時株主総会で定款第二条を全面改定し、目的を①繊維工業並ニ其附帯事業 ②繊維工産品ノ売買及委託売買並ニ加工 ③同種又ハ類似若ハ関連スル事業ニ対シテノ投資 の3項に分けた
- [55]1923年9月1日の関東大震災で横浜工場は建物が全壊し死者16名・重傷5名。東京出張所は店舗・倉庫とも全焼して在庫を全て失った
- [56]横浜工場は借地で拡張余地もないため震災を機に廃止し、修理可能な機械は熱田工場へ移した
- [57]1927年(昭和2)の金融恐慌に際し、常次郎が打った手は原綿の大量買いつけだった
- [58]服部商店は紡績メーカーとして紡聯に加入しつつ繊維商社として機業界と命運を共にする立場にあり、生産した綿糸を自社織布部門と傘下織布業者で消化できる見込みがあったため紡聯の操短にしばしば反対した。1927年も操短に反対しており、原綿買いは自社織布部門と取引先機業の操業を確保するための措置でもあった
- [59]原棉相場はストリクト・ミッドリング1ピクルが年初44円見当、3月に47円前後、6月58円、9月74円へ上がった
- [60]常次郎はこの利で明治銀行の旧債を一挙に全額返済した
- [61]名古屋市の記録は1927年の服部商店について年売上高1億円、本邦綿布総輸出額の四分の一を占めると記す
- [62]1928年11月に名古屋で日本輸出綿織物工業組合聯合会(綿工聯)が設立され、三輪常次郎が初代理事長に就任。1938年4月に辞任するまで約10年間理事長を務めた
- [63]1937年9月10日に輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法が公布即日施行。1938年6月28〜29日に「綿製品ノ製造制限ニ関スル件」ほか商工省令3本が公布施行され、輸出品と特免品を除き綿製品の製造が一切禁止された(俗称「禁綿令」)
出典・参考
2件
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)一章「草創の時代」
- 興和百年史(興和紡績・興和、1994年)二章「繊維の一大企業へ」