日本紙パルプ商事 の歴史

創業

1845年

創業者

中井三平

創業地

京都

直近売上高(2026/3)

6,068億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1876年に、和紙商だった中井商店が洋紙へ踏み込めたのか
A 洋紙は当初まったく売れない商材で、扱えば在庫を抱える側に回る。それでも参入できたのは、京都府が販路開拓の担い手を探しており、その要請に応じる形で参入コストを官が肩代わりしたからである。1876年1月、京都府知事の槇村正直氏は梅津パピール・ファブリックの製品を売り広げるため、中井三郎兵衛氏ら5人の紙商に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出した。準判任官の資格で月5円の手当てが付き、公認の洋紙販売店がここで生まれている。5人が製品を各自の工夫で仕立てて入札にかけた際、最も好評だったのが三郎兵衛氏の襖紙だった
Q なぜ1947年の財閥解体が、王子製紙との関係を切らずに独立をもたらしたのか
A 資本と取引は別々に処理されたからである。王子製紙の持株比率が5割を超えていた中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4販売店は制限会社に指定され、1947年3月、王子が持つ株式は持株整理委員会へ譲渡された。中井商店の払込資本金300万円に対する王子の投資額は190万7,000円、64%にあたる。GHQは販売店への投資を二重投資として排除を指令したが、製造と販売の分業は明治以来の実態であるとして王子製紙が反論し撤回させた。同じ年、王子は営業担当常務の西蔭担三氏を通じて塩山豊蔵氏を専務に送り込み、筆頭販売店としての再建を託している
Q なぜ1970年の合併で、125年続いた「中井」の名を捨てたのか
A 規模で勝る側が名を残せば、対等合併の建前が崩れて人心が一つにならないと判断したためである。前年にはメーカー側で王子・十條・本州の3社合併が公正取引委員会の壁により流産し、代理店側は資本自由化を前に自力で体質を強化する必要に迫られていた。中井の平田英一郎社長と富士洋紙店の広瀬祝二社長は1969年7月に覚書、10月に合併契約へ進む。広瀬祝二社長は「中井のほうが、規模や実力の点では優っていることは認めるが、両社の優劣を云々しても合併後にプラスは生じない」と述べ、どちらの社名も残さない新名称を求めた。1970年1月、日本紙パルプ商事が発足し、年商1,650億円で業界初の1,000億円企業となった

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1845年〜 京都で三井の暖簾を分けられた紙商から、王子系筆頭代理店へ

  1. 1845年 和紙商・越三商店を創業
  2. 1845年 洋紙の取扱いを開始
  3. 1876年 中井商店に商号変更
  4. 1882年 王子製紙と製品販売の契約を締結
  5. 1944年 元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小
  6. 1946年 王子製紙の代行販売店として10月21日より活動を開始。同月30日に紙統制会社が解散
  7. 1969年 富士洋紙店と対等合併契約に調印

中井三平の独立と、資本金百両で開いた越三商店

中井家は元禄9年(1696)に京都東洞院二条南入瓦之町で質屋を開いた家で、代々の当主が三井越後屋呉服店に仕えた。初代三郎兵衛氏は数え13歳で越後屋に入り、江戸本店で組頭まで昇進している。創業者は三代三郎兵衛氏、のちの中井三平氏である。文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、同じく13歳で越後屋に仕えた。22歳の春、三井家の了解を得て店を辞し独立する。『かたばみ草』が伝える独立時の信念は「商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない」であり、この考えから投機性のない紙商を選んだ。 [1][2][3]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [1]元禄9年(1696)中井家の祖先が京都東洞院二条南入瓦之町で質屋を開業
    • [2]三代三郎兵衛(のちの三平)は文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、13歳で三井越後屋呉服店に仕え、22歳で独立
    • [3]独立時の信念として『かたばみ草』が「商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない」を伝える

三平氏は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3年の修業を積んだのち京都へ戻る。弘化2年(1845)、25歳で京都柳馬場西入町に和紙専売の越三商店を開いた。開業時の資本金は百両である。屋号は主家の三井・越後屋呉服店にちなみ、名義も「越後屋三郎兵衛」を用いた。三井家は家憲で同族以外への暖簾分けをほとんど許さなかったが、初代からの積年の信用に加え、紙商と呉服業が競合しない点が働いて特例が認められた。ペリー来航の8年前にあたる。嘉永6年(1853)には三条通東洞院西入梅忠町、現在の京都支店の所在地に新店を開いて業務を広げている。 [4][5][6][7]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [4]三平は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3年修業した
    • [5]弘化2年(1845)に25歳で京都柳馬場西入町に越三商店を開店、開業時の資本金は百両
    • [6]屋号と名義は三井・越後屋呉服店にちなみ、三井家の暖簾内に列して開業した
    • [7]嘉永6年(1853)三条通東洞院西入梅忠町(現・京都支店所在地)に新店を開き業務を拡張
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [1]元禄9年(1696)中井家の祖先が京都東洞院二条南入瓦之町で質屋を開業
    • [2]三代三郎兵衛(のちの三平)は文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、13歳で三井越後屋呉服店に仕え、22歳で独立
    • [3]独立時の信念として『かたばみ草』が「商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない」を伝える
    • [4]三平は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3年修業した
    • [5]弘化2年(1845)に25歳で京都柳馬場西入町に越三商店を開店、開業時の資本金は百両
    • [6]屋号と名義は三井・越後屋呉服店にちなみ、三井家の暖簾内に列して開業した
    • [7]嘉永6年(1853)三条通東洞院西入梅忠町(現・京都支店所在地)に新店を開き業務を拡張

京都府御用掛としての洋紙と、売れない在庫の10年

越三商店を洋紙へ向けたのは四代三郎兵衛氏である。嘉永4年(1851)に河内の小原家に生まれ、三平氏夫妻の養子として育った常吉氏が、この四代目にあたる。明治9年(1876)1月、27歳のとき、京都府知事の槇村正直氏は梅津パピール・ファブリックの販路を開くため民間の紙商に協力を求め、中井三郎兵衛氏・大森治郎兵衛氏・石角伊助氏・神内庄助氏・大江長左衛門氏の5人に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出した。公認の洋紙販売店がここで初めて生まれている。5人は製品を1,000貫ずつ持ち帰って各自の工夫で紙に仕立て、紙屋仲間の入札にかけた。最も好評だったのが三郎兵衛氏の仕立てた襖紙だった。越三商店が中井商店へ改称したのも、この年である。 [8][9][10][11]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [8]四代三郎兵衛は嘉永4年(1851)河内の小原家に生まれた常吉で、三平夫妻の養子として育った
    • [9]明治9年(1876)1月、京都府知事槇村正直が中井三郎兵衛ら5人の紙商に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出し、公認の洋紙販売店が誕生
    • [10]5人は製品1,000貫ずつを各自の工夫で仕立てて紙屋仲間の入札にかけ、三郎兵衛の襖紙が最も好評だった
  • 有価証券報告書
    • [11]明治9年(1876)に越三商店を中井商店へ改称

洋紙は売れなかった。三郎兵衛氏は店員を指揮して京都・大阪・神戸の小売店に卸し、北陸から東海、中国地方まで手を伸ばしたが在庫は積み上がった。東京でも同じで、有恒社は3年間も倉庫に貯蔵したという。市況が動いたのは明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社に請け負わせてからである。三郎兵衛氏は同業の大森治郎兵衛氏と親密になり、明治10年には京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店を開いた。前年に創立された大阪日報社からまとまった注文を受けたのもこのころで、新聞社との取引はここに始まる。1882年には王子製紙と製品販売の契約を結び、近代製紙業の草創期からその販売を担う立場に就いた。 [12][13][14][15]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [12]洋紙は売れず在庫が積み上がった。東京の有恒社も3年間倉庫に貯蔵した
    • [13]明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社に請け負わせ洋紙市況が好転
    • [14]明治10年に大森治郎兵衛と京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店を開き、大阪日報社との取引が新聞社取引の最初となった
    • [15]1882年 王子製紙と製品販売の契約を締結

個人商店からの脱皮は、一度の洋行と一度の経営危機が決めた。明治33年(1900)、四代三郎兵衛氏はパリ万国博覧会を機に長男の三之助氏を欧米へ送り、フランス・ドイツ・スウェーデン・イギリスの製紙業を視察させた。持ち帰った所感は、個人事業から会社組織への転換だった。折しも日清戦争後の反動不況で中井商店は資金繰りに窮しており、『渋沢栄一伝記資料』は「中井商店ハ、以前殆ド破産ノ状態ニ陥リ、漸ク第一銀行ノ救済ニ依リテ再興スルコトヲ得」と記す。三郎兵衛氏は渋沢栄一氏の意見も聞いたうえで改組を決め、明治35年(1902)2月28日、資本金25万円の合名会社中井商店を東京に本店を置いて発足させた。大正5年(1916)12月15日には資本金200万円の株式会社中井商店へ改組し、三之助氏が初代取締役社長、三郎兵衛氏は監査役に退いている。 [16][17][18][19]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [16]明治33年(1900)パリ万国博覧会を機に長男三之助を欧米へ派遣し製紙業を視察させた
    • [17]『渋沢栄一伝記資料』に「中井商店ハ、以前殆ド破産ノ状態ニ陥リ、漸ク第一銀行ノ救済ニ依リテ再興スルコトヲ得」とある
    • [18]明治35年(1902)2月28日 資本金25万円の合名会社中井商店が東京に本店を置いて発足
    • [19]大正5年(1916)12月15日 資本金200万円の株式会社中井商店に改組、社長は中井三之助、四代三郎兵衛は監査役
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [8]四代三郎兵衛は嘉永4年(1851)河内の小原家に生まれた常吉で、三平夫妻の養子として育った
    • [9]明治9年(1876)1月、京都府知事槇村正直が中井三郎兵衛ら5人の紙商に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出し、公認の洋紙販売店が誕生
    • [10]5人は製品1,000貫ずつを各自の工夫で仕立てて紙屋仲間の入札にかけ、三郎兵衛の襖紙が最も好評だった
    • [12]洋紙は売れず在庫が積み上がった。東京の有恒社も3年間倉庫に貯蔵した
    • [13]明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社に請け負わせ洋紙市況が好転
    • [14]明治10年に大森治郎兵衛と京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店を開き、大阪日報社との取引が新聞社取引の最初となった
    • [16]明治33年(1900)パリ万国博覧会を機に長男三之助を欧米へ派遣し製紙業を視察させた
    • [17]『渋沢栄一伝記資料』に「中井商店ハ、以前殆ド破産ノ状態ニ陥リ、漸ク第一銀行ノ救済ニ依リテ再興スルコトヲ得」とある
    • [18]明治35年(1902)2月28日 資本金25万円の合名会社中井商店が東京に本店を置いて発足
    • [19]大正5年(1916)12月15日 資本金200万円の株式会社中井商店に改組、社長は中井三之助、四代三郎兵衛は監査役
  • 有価証券報告書
    • [11]明治9年(1876)に越三商店を中井商店へ改称
    • [15]1882年 王子製紙と製品販売の契約を締結

統制下の商権喪失と、王子製紙からの資本独立

戦時経済は紙の流通を国家の管理下に置いた。1944年6月、中井商店は元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小した。商社にとって元売の資格は取引の根幹であり、これを失うことは事業そのものの停止に近い。商権が戻ったのは敗戦の翌年である。中井商店は1946年10月21日から王子製紙の代行販売店として活動を開始し、同月30日に紙統制会社が解散、11月に元売業務を含む本来の営業が再開された。当時の取引は消費者団体が発行する切符を現物の紙に換える作業で、品種別の割当がないため得意先の求める紙を揃えるのに苦労した。それでも中井商店は過去の実績比率を上回る成績を収め、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却している。 [20][21][22]

  • 有価証券報告書
    • [20]1944年6月 元売業務を紙統制会社に接収され業務が大幅に縮小
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [21]1946年10月21日から王子製紙の代行販売店として活動開始、同月30日に紙統制会社が解散
    • [22]切符の現物化で実績比率を上回り、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却した

財閥解体は資本関係を切り離した。王子製紙の持株比率が5割を超えていたため制限会社の指定を受けた販売店は、中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店である。中井商店の払込資本金300万円に対する王子の投資額は190万7,000円、比率にして64%だった。1947年3月、この株式は持株整理委員会へ譲渡され、4販売店は資本的に完全独立する。GHQは販売店への投資を独占資本の二重投資として排除を指令したが、製造と販売の分業は明治以来の実態であるとして王子製紙が反論し、この論を撤回させた。1949年8月1日には王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割され、販売店は専属から複数社を扱う立場に変わった。 [23][24][25][26]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [23]王子製紙の持株比率5割超で制限会社指定を受けた販売店は中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店
    • [24]中井商店の払込資本金300万円に対する王子製紙の投資額は190万7,000円(64%)
    • [25]1947年3月に王子製紙保有株が持株整理委員会へ譲渡され、4販売店が資本的に完全独立
    • [26]1949年8月1日 王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割された

経営陣も王子から入った。1947年7月31日、王子製紙営業担当常務の西蔭担三氏の要請を受けて塩山豊蔵氏が専務取締役に就任する。西蔭氏は「中井商店は、いずれは王子製紙より法的には分離されることになる。しかし精神的には不可分であり」と述べ、筆頭販売店としての再建を託した。塩山体制のもとで業績は安定し、1961年2月には不動産の保有・賃貸・管理を担う中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成する。同年5月、「商店」の名を廃して商号を中井株式会社に改めた。このとき9事業所・従業員約600名・年商約400億円の紙専門商社に育っている。1968年4月には北興産業を吸収合併し、北陸紙業から大阪地区の営業権を譲り受けた。 [27][28][29][30]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [27]1947年7月31日 王子製紙営業担当常務の西蔭担三の要請で塩山豊蔵が専務取締役に就任
    • [28]1961年2月に中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成
    • [29]商号変更時点で9事業所・従業員約600名・年商約400億円
  • 有価証券報告書
    • [30]1968年4月 北興産業を吸収合併し北陸紙業から大阪地区の営業権を譲受
  • 有価証券報告書
    • [20]1944年6月 元売業務を紙統制会社に接収され業務が大幅に縮小
    • [30]1968年4月 北興産業を吸収合併し北陸紙業から大阪地区の営業権を譲受
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [21]1946年10月21日から王子製紙の代行販売店として活動開始、同月30日に紙統制会社が解散
    • [22]切符の現物化で実績比率を上回り、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却した
    • [23]王子製紙の持株比率5割超で制限会社指定を受けた販売店は中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店
    • [24]中井商店の払込資本金300万円に対する王子製紙の投資額は190万7,000円(64%)
    • [25]1947年3月に王子製紙保有株が持株整理委員会へ譲渡され、4販売店が資本的に完全独立
    • [26]1949年8月1日 王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割された
    • [27]1947年7月31日 王子製紙営業担当常務の西蔭担三の要請で塩山豊蔵が専務取締役に就任
    • [28]1961年2月に中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成
    • [29]商号変更時点で9事業所・従業員約600名・年商約400億円

1970年〜 日本紙パルプ商事の発足と、紙流通最大手への到達

日本紙パルプ商事の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 1970年 中井と富士洋紙店の対等合併と、日本紙パルプ商事への商号変更 メーカーの合併が公正取引委員会に阻まれた翌年、なぜ代理店の側が先に集約したのか
  2. 1971年 全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立
  3. 1972年 東京証券取引所市場第二部に株式上場
  4. 1973年 全額出資によりデュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立
  5. 1974年 全額出資により米国にJapan Pulp & Paper(U.S.A.)Corp.を設立
  6. 1983年 全額出資により南港紙センターを設立
  7. 1985年 全額出資によりジェーピーホームサプライを設立

王子系3社合併の流産が呼び込んだ、代理店同士の対等合併

合併の引き金はメーカー側の失敗だった。1968年3月、王子・十條・本州の旧王子系3社は合併覚書に調印したが、新聞用紙で6割、グラビア紙で8割に達するシェアを公正取引委員会が問題視し、同年9月19日に3社は申請を自ら取り下げた。流通側はこれを見て動く。翌10月26日、中井・大同・富士・服部・万常・三幸・日亜の王子系7代理店が3社に対し「流通近代化に対する代理店筋の見解」を提出し、11月にはその具体案を出した。資本自由化を控え、資金調達力のある代理店が生まれなければ競争に耐えられないという危機感が、代理店同士の再編論を押し出した。 [31][32]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [31]1968年3月に王子・十條・本州の3社が合併覚書に調印し、同年9月19日に申請を自発的に取り下げた
    • [32]1968年10月26日 王子系7代理店が「流通近代化に対する代理店筋の見解」を提出、11月に具体案を提出

中井の平田英一郎社長は富士洋紙店との合併に前向きだった。社史は理由として、富士洋紙店が業界に多い同族経営を採らず民主的な経営を続けていた点を挙げる。富士の広瀬祝二社長も1954年の3店合併(富士洋紙店・川島洋紙店・山栄洋紙店)以来、累積赤字の返済と代理店の体質強化に取り組んできた人物だった。1969年7月1日、両社は対等の立場を基調とする合併覚書に調印し、同年10月3日、綱町三井倶楽部で合併契約書に調印する。合併比率は1対1、対等合併である。当時の規模は中井が資本金15億円・従業員750名・半期売上406億円、富士が2億円・410名・174億円で、両社に差はあった。 [33][34][35][36]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [33]中井の平田英一郎社長が富士洋紙店との合併に前向きだった理由は、富士が同族経営を採らず民主的な経営を続けていたこと
    • [34]富士洋紙店の広瀬祝二社長は1954年の富士洋紙店・川島洋紙店・山栄洋紙店の3店合併で新生富士洋紙店の社長に就任していた
    • [35]1969年7月1日に合併覚書、同年10月3日に綱町三井倶楽部で合併契約書に調印、合併比率は1対1の対等合併
    • [36]合併時点の規模は中井が資本金15億円・従業員750名・半期売上406億円、富士洋紙店が2億円・410名・174億円

最後まで揉めたのが新会社の名称である。広瀬祝二社長は「中井のほうが、規模や実力の点では優っていることは認めるが、両社の優劣を云々しても合併後にプラスは生じない」と述べ、どちらの社名も残さない新名称を求めた。平田英一郎社長にも異論はなかった。1970年1月1日、125年続いた中井と85年続いた富士の名は消え、日本紙パルプ商事株式会社が発足する。会長に塩山豊蔵氏、社長に平田英一郎氏、相談役に広瀬祝二氏が就いた。資本金17億円・従業員1,128名で、規模・売上高・従業員数のいずれも紙流通業界第1位となる。平田英一郎社長は年頭あいさつで、年商合計1,650億円は業界初の1,000億円企業にあたると述べ、洋紙19%・板紙16%、委託新聞は全国の約3分の1という取扱シェアを示した。翌1971年には全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設けている。 [37][38][39][40][41][42]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [37]広瀬祝二社長が「中井のほうが、規模や実力の点では優っていることは認めるが、両社の優劣を云々しても合併後にプラスは生じない」と述べ新名称を求めた
    • [38]1970年1月1日 中井(創業125年)と富士洋紙店(85年)が合併し日本紙パルプ商事株式会社が発足、会長塩山豊蔵・社長平田英一郎・相談役広瀬祝二
    • [40]平田英一郎社長が1970年1月の年頭あいさつで、年商合計1,650億円は業界初の1,000億円企業にあたると説明
    • [41]取扱シェアは洋紙19%、板紙16%、委託新聞は全国の約3分の1
  • 有価証券報告書
    • [39]新発足時の資本金17億円、従業員は社史が1,160名、有価証券報告書が1,128名と記録
    • [42]1971年 全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [31]1968年3月に王子・十條・本州の3社が合併覚書に調印し、同年9月19日に申請を自発的に取り下げた
    • [32]1968年10月26日 王子系7代理店が「流通近代化に対する代理店筋の見解」を提出、11月に具体案を提出
    • [33]中井の平田英一郎社長が富士洋紙店との合併に前向きだった理由は、富士が同族経営を採らず民主的な経営を続けていたこと
    • [34]富士洋紙店の広瀬祝二社長は1954年の富士洋紙店・川島洋紙店・山栄洋紙店の3店合併で新生富士洋紙店の社長に就任していた
    • [35]1969年7月1日に合併覚書、同年10月3日に綱町三井倶楽部で合併契約書に調印、合併比率は1対1の対等合併
    • [36]合併時点の規模は中井が資本金15億円・従業員750名・半期売上406億円、富士洋紙店が2億円・410名・174億円
    • [37]広瀬祝二社長が「中井のほうが、規模や実力の点では優っていることは認めるが、両社の優劣を云々しても合併後にプラスは生じない」と述べ新名称を求めた
    • [38]1970年1月1日 中井(創業125年)と富士洋紙店(85年)が合併し日本紙パルプ商事株式会社が発足、会長塩山豊蔵・社長平田英一郎・相談役広瀬祝二
    • [40]平田英一郎社長が1970年1月の年頭あいさつで、年商合計1,650億円は業界初の1,000億円企業にあたると説明
    • [41]取扱シェアは洋紙19%、板紙16%、委託新聞は全国の約3分の1
  • 有価証券報告書
    • [39]新発足時の資本金17億円、従業員は社史が1,160名、有価証券報告書が1,128名と記録
    • [42]1971年 全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立

欧米・アジアへの拠点設置と、紙以外への最初の分岐

上場の翌年から海外拠点の設立が続く。1973年4月に全額出資でデュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立し、1974年2月に香港のJapan Pulp & Paper Co.,(H.K.)Ltd.、同年4月に米国のJapan Pulp & Paper(U.S.A.)Corp.を設けた。1970年にはジャカルタ、1981年には北京にも事務所を置いている。ただしこの時期の海外拠点は輸出入の窓口であり、現地で紙を仕入れて現地で売る事業体ではない。渡辺昭彦社長は後年、2010年以前の海外事業について「現地の拠点は日本の出先機関のような位置付けでした」と振り返っている。 [43][44][45][46]

  • 有価証券報告書
    • [43]1973年4月 デュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立
    • [44]1974年2月 香港、同年4月 米国に全額出資の現地法人を設立
    • [45]1970年 ジャカルタ事務所、1981年 北京事務所を開設
    • [46]渡辺昭彦社長の発言「現地の拠点は日本の出先機関のような位置付けでした」

国内では紙の売買以外の事業が並び始める。1973年10月に古紙再資源化を担う紙パ資源を設立し、1975年5月には東京JPビルディングが完成して不動産部門の中核となった。1979年4月にジェーピー情報センター、1983年6月に南港紙センター、1985年5月にジェーピーホームサプライを、いずれも全額出資で設けている。古紙、不動産、情報システム、物流という後年の事業区分の原型が、1970年代から1980年代半ばにかけて出そろった。紙の卸売という本業の周囲に、回収と保管と情報処理の機能を自前で持つ構えである。 [47][48][49]

  • 有価証券報告書
    • [47]1973年10月 古紙再資源化事業を行う紙パ資源を設立
    • [48]1975年5月 東京JPビルディング完成、不動産部門の中核となる
    • [49]1979年4月 ジェーピー情報センター、1983年6月 南港紙センター、1985年5月 ジェーピーホームサプライを全額出資で設立
  • 有価証券報告書
    • [43]1973年4月 デュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立
    • [44]1974年2月 香港、同年4月 米国に全額出資の現地法人を設立
    • [47]1973年10月 古紙再資源化事業を行う紙パ資源を設立
    • [48]1975年5月 東京JPビルディング完成、不動産部門の中核となる
    • [49]1979年4月 ジェーピー情報センター、1983年6月 南港紙センター、1985年5月 ジェーピーホームサプライを全額出資で設立
    • [45]1970年 ジャカルタ事務所、1981年 北京事務所を開設
    • [46]渡辺昭彦社長の発言「現地の拠点は日本の出先機関のような位置付けでした」

紙パ再編のただ中で確かめられた、流通最大手という位置

1990年代後半、製紙業界は合併の波に洗われた。1998年11月、週刊東洋経済は丸紅の紙パルプ戦略を特集し、そのなかで日本紙パルプ商事を「紙パ流通最大手」と記し、年商を4,552億円と伝えている。同誌は日本紙パルプ商事が王子製紙・日本製紙両社のメイン代理店であり、発祥をたどれば王子系であると指摘した。丸紅は丸紅紙業と湊屋紙商事を核に年商1,000億円級の販売会社へ資本参加し、これに拮抗する流通ファミリーの構築を狙っていた。メーカーの再編が代理店の序列を揺らし、流通側の陣取りが同時に進んだ時期にあたる。 [50][51][52]

  • 週刊東洋経済 1998/11/14
    • [50]1998年時点で紙パ流通最大手・年商4,552億円と報じられた
    • [51]王子製紙・日本製紙両社のメイン代理店であり発祥は王子系
    • [52]丸紅は丸紅紙業・湊屋紙商事を核とする流通再編を構想していた

同じ時期、古紙の扱いは国境をまたぎ始める。1998年に米国のSafeshredをグループ会社化し、海外での古紙再資源化事業に本格的に参入した。国内では2002年に全事業所でISO14001の拡大認証を取得し、FSC森林認証のCoC認証も同年に得ている。上海には日奔紙張紙漿電材(上海)有限公司を設けた。環境認証の取得は取引先の調達基準に応えるための実務であり、古紙の回収から再生紙の販売までを一つの企業グループで説明できる構えを整える作業でもあった。1973年に設立した紙パ資源から数えて、古紙の事業は四半世紀を経て海外へ出た。 [53][54]

    • [53]1998年 米国Safeshredをグループ会社化し海外の古紙再資源化事業に本格参入
    • [54]2002年 国内全事業所でISO14001の拡大認証、FSC森林認証のCoC認証を取得、上海に日奔紙張紙漿電材(上海)有限公司を設立
  • 週刊東洋経済 1998/11/14
    • [50]1998年時点で紙パ流通最大手・年商4,552億円と報じられた
    • [51]王子製紙・日本製紙両社のメイン代理店であり発祥は王子系
    • [52]丸紅は丸紅紙業・湊屋紙商事を核とする流通再編を構想していた
    • [53]1998年 米国Safeshredをグループ会社化し海外の古紙再資源化事業に本格参入
    • [54]2002年 国内全事業所でISO14001の拡大認証、FSC森林認証のCoC認証を取得、上海に日奔紙張紙漿電材(上海)有限公司を設立

2003年〜 国内需要の反転と、譲受・買収・発電への多角化

日本紙パルプ商事の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2003年 トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲り受ける
  2. 2004年 川辺バイオマス発電を設立、バイオマス発電を事業化
  3. 2007年 エコポート九州を設立
  4. 2009年 連結子会社エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲り受ける
  5. 2010年 米国大手紙商Gould Paper Corporation・その子会社を子会社化
  6. 2013年 エコパワーJPを設立、太陽光発電事業に参入。(2015年に太陽光発電所が操業開始)

トーメン紙パルプ事業の譲受と、代理店統合を求める圧力

2003年8月、日本紙パルプ商事はトーメンから紙パルプ事業の営業権を譲り受けた。総合商社が非中核事業を切り離すなかで、専業商社が受け皿になった取引である。同年には大豊製紙とOriental Asahi JP Carton Boxをグループ会社に加え、紙の製造と加工にも足場を作った。売上高は2004年3月期に4,287億円、2005年3月期に4,455億円、2006年3月期に4,545億円へ伸びている。ただし2005年3月期は純損失39億円を計上しており、規模の拡大がそのまま利益に結びついたわけではない。 [55][56]

  • 有価証券報告書
    • [55]2003年8月 トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲受
    • [56]2003年 大豊製紙・Oriental Asahi JP Carton Boxをグループ会社化

流通側の位置づけが業界再編の条件になる場面もあった。2005年、三菱製紙と中越パルプ工業の合併は正式合意の直前で破談する。週刊東洋経済によれば、中越パルプ側は三菱製紙の販売子会社である三菱製紙販売を、主力代理店で業界最大手の日本紙パルプ商事に合併させるよう求めたが、三菱製紙側が「それでは『第3勢力』の意味合いが薄れる」と抵抗した。同誌は中越パルプの筆頭株主が王子製紙で保有比率9%、日本紙パルプ商事の筆頭株主も王子製紙で同11%だと記している。代理店の帰属がメーカーの合併そのものを止めるほどの重みを持っていた。 [57][58][59]

  • 週刊東洋経済 2005/5/28
    • [57]2005年 三菱製紙と中越パルプ工業の合併が破談
    • [58]中越パルプ側が三菱製紙販売を日本紙パルプ商事に合併させるよう要請し三菱製紙側が抵抗した
    • [59]中越パルプの筆頭株主は王子製紙で保有比率9%、日本紙パルプ商事の筆頭株主も王子製紙で11%
  • 有価証券報告書
    • [55]2003年8月 トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲受
    • [56]2003年 大豊製紙・Oriental Asahi JP Carton Boxをグループ会社化
  • 週刊東洋経済 2005/5/28
    • [57]2005年 三菱製紙と中越パルプ工業の合併が破談
    • [58]中越パルプ側が三菱製紙販売を日本紙パルプ商事に合併させるよう要請し三菱製紙側が抵抗した
    • [59]中越パルプの筆頭株主は王子製紙で保有比率9%、日本紙パルプ商事の筆頭株主も王子製紙で11%

発電・リサイクル・家庭紙 ── 紙の外側に置いた投資

2004年7月、川辺バイオマス発電を設立してバイオマス発電を事業化した。2007年10月には総合リサイクル事業のエコポート九州を設け、2009年4月には連結子会社のエコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲り受けている。2011年4月、再生家庭紙製造で大手のコアレックスホールディングスとその子会社を連結子会社に加えた。古紙を集めて再生紙を作り、残りを燃やして電気を売るという流れが、この一連の投資でつながる。紙の卸売業者が、原料の側と発電の側に事業を伸ばしていった。いずれも紙の販売数量に左右されにくい収益源にあたる。 [60][61][62]

  • 有価証券報告書
    • [60]2004年7月 川辺バイオマス発電を設立しバイオマス発電を事業化
    • [61]2007年10月 エコポート九州を設立、2009年4月 エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲受
    • [62]2011年4月 コアレックスホールディングス及びその子会社を連結子会社化

投資の背景には国内需要の反転がある。渡辺昭彦社長は「国内の紙・板紙需要は右肩上がりで拡大してきましたが、2008年のリーマンショック前後を境に、人口減少や社会のデジタル化など構造的な要因によって縮小傾向に転じました」と述べ、対応として「10年頃から事業の多角化を進め」たと説明している。売上高は2009年3月期の4,758億円から2010年3月期に4,176億円へ落ち込み、その後も5,000億円前後で伸び悩んだ。2013年1月にはエコパワーJPを設立して太陽光発電に参入し、2014年7月に野田バイオパワーJPを子会社化している。 [63][64]

    • [63]渡辺昭彦社長が国内紙需要の構造的縮小と2010年頃からの多角化を説明
  • 有価証券報告書
    • [64]2013年1月 エコパワーJPを設立し太陽光発電に参入、2014年7月 野田バイオパワーJPを子会社化
  • 有価証券報告書
    • [60]2004年7月 川辺バイオマス発電を設立しバイオマス発電を事業化
    • [61]2007年10月 エコポート九州を設立、2009年4月 エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲受
    • [62]2011年4月 コアレックスホールディングス及びその子会社を連結子会社化
    • [64]2013年1月 エコパワーJPを設立し太陽光発電に参入、2014年7月 野田バイオパワーJPを子会社化
    • [63]渡辺昭彦社長が国内紙需要の構造的縮小と2010年頃からの多角化を説明

米国Gould Paper買収がつくった、海外卸売という第二の柱

2010年4月、米国子会社のJapan Pulp & Paper (U.S.A.) Corp.を通じて米国大手紙商のGould Paper Corporationとその子会社を連結子会社化した。取得は株式の51%から始まり、2015年に100%へ引き上げている。輸出入の窓口だった海外拠点に、現地で仕入れて現地で売る事業体が加わった。2012年6月にはインドの紙卸売会社KCT Trading Private Limitedにも出資している。国内の需要が縮む一方で、紙を必要とする市場は海外に残っていた。その市場に現地企業ごと入る方法を、この2件で確かめた。 [65][66][67]

  • 有価証券報告書
    • [65]2010年4月 米国大手紙商Gould Paper Corporation及びその子会社を連結子会社化
    • [67]2012年6月 インドの紙卸売会社KCT Trading Private Limitedに出資
    • [66]Gould Paperは2010年に株式51%を取得し2015年に100%取得

2016年3月期のセグメント別売上高は、国内卸売が2,983億円、海外卸売が1,567億円だった。海外は国内の半分程度で、なお本業の主戦場は国内にある。同期の製紙及び加工は222億円、資源及び環境は267億円で、2000年代から積み上げた多角化事業の規模は、卸売の1割にも届いていない。不動産賃貸の売上は25億円だった。連結売上高5,066億円、経常利益69億円、連結従業員3,110名、単体従業員730名。売上の8割超を紙の卸売が占める構成のまま、次の10年で海外と国内の比率が入れ替わる。

  • 有価証券報告書
    • [65]2010年4月 米国大手紙商Gould Paper Corporation及びその子会社を連結子会社化
    • [67]2012年6月 インドの紙卸売会社KCT Trading Private Limitedに出資
    • [66]Gould Paperは2010年に株式51%を取得し2015年に100%取得

2017年〜 OVOLへの改称と、海外卸売が国内を追い抜いた10年

日本紙パルプ商事の業績推移:連結

売上高(億円)純利益率(%)
  1. 2017年 大手古紙商社である福田三商を子会社化
  2. 2017年 Ball & Doggett Group Pty Ltdとその子会社を子会社化
  3. 2017年 グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始
  4. 2021年 「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」・「中期経営計画2023」を策定
  5. 2024年 Inapa France S.A.S.とその子会社を子会社化
  6. 2024年 OVOL Papier Deutschland GmbHを設立
  7. 2024年 Inapa Deutschlandの事業を譲り受け

オセアニア・東南アジア・英国での現地紙商の連続取得

2017年は買収が続いた年である。4月に大手古紙商社の福田三商を連結子会社化し、7月にはオセアニア地域の大手紙卸売会社Ball & Doggett Group Pty Ltdとその子会社を連結子会社に加えた。後者はオーストラリアでBJ Ballブランドの輸入卸売を手がけるPagePack(AU)と、同国の紙卸売大手K.W. Doggettを統合した会社で、買収額は70億円弱と報じられた。2018年12月にはSpicers Paper(Singapore)とSpicers Paper(Malaysia)、2019年7月には英国の大手紙卸売会社RADMS Paper Limited(現Premier Paper Holdings Limited)とその子会社を、それぞれ連結子会社化している。 [68][69][70]

  • 有価証券報告書
    • [68]2017年4月 福田三商を連結子会社化、2017年7月 Ball & Doggett Group Pty Ltd及びその子会社を連結子会社化
    • [70]2018年12月 Spicers Paper(Singapore)・Spicers Paper(Malaysia)を、2019年7月 英RADMS Paper Limited及びその子会社を連結子会社化
    • [69]Ball & Doggettの買収額は70億円弱と報じられた

買収で増えた各国の事業会社を一つの名で束ねる作業も並行した。2017年10月、グループブランド「OVOL(オヴォール)」の使用を始めている。買収先の社名はOVOL Singapore、OVOL Malaysia、OVOL Fibre Solution Indiaのように順次書き換えられ、日本紙パルプ商事という商号を持たない海外子会社が同じブランドを共有する形になった。国内では2018年6月にオフィス・ホテル・商業店舗からなる複合施設OVOL日本橋ビルが竣工し、2019年には OVOL京都駅前ビルも完成している。創業の地と本店の地に、新しいブランド名を冠した建物が立った。 [71][72]

  • 有価証券報告書
    • [71]2017年10月 グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始
    • [72]2018年6月 OVOL日本橋ビル竣工、2019年 OVOL京都駅前ビル竣工
  • 有価証券報告書
    • [68]2017年4月 福田三商を連結子会社化、2017年7月 Ball & Doggett Group Pty Ltd及びその子会社を連結子会社化
    • [70]2018年12月 Spicers Paper(Singapore)・Spicers Paper(Malaysia)を、2019年7月 英RADMS Paper Limited及びその子会社を連結子会社化
    • [71]2017年10月 グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始
    • [69]Ball & Doggettの買収額は70億円弱と報じられた
    • [72]2018年6月 OVOL日本橋ビル竣工、2019年 OVOL京都駅前ビル竣工

長期ビジョン2030が掲げたグローカル戦略

2021年5月、「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」と「中期経営計画2023」を策定した。長期ビジョンは2030年のあるべき姿として、世界最強の紙流通企業グループ、持続可能な社会と地球環境に一層貢献する企業グループ、紙業界の枠を超えたエクセレントカンパニーの3つを掲げている。中期経営計画2023は連結経常利益150億円を最終年度目標に置いた。新型コロナウイルスの影響で新中計の始動を1年延期した経緯があり、初年度の2022年3月期は経常利益151億円と、前中計期間の最高であった108億円を上回った。 [73][74][75]

  • 有価証券報告書
    • [73]2021年5月 「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」及び「中期経営計画2023」を策定
    • [74]長期ビジョン2030の3つのあるべき姿
  • 2022年3月期 決算説明資料
    • [75]中期経営計画2023の最終年度目標は連結経常利益150億円、初年度2022年3月期の経常利益151億円が前中計期間の最高108億円を上回った

渡辺昭彦社長は世界最強という言葉について、売上規模ではなくグローカル戦略で優位に立つ意味だと説明している。買収した各国の会社を現地の経営に委ねながら、仕入れではグループの規模を使う。英国のグループ会社が扱う紙・板紙をオーストラリアやニュージーランドへ回すといった運用がその例にあたる。業績は2023年3月期に経常利益212億円、当期純利益253億円へ伸びた。純利益が経常利益を上回るのは、東京都中央区の固定資産を一部譲渡した特別利益による。2022年4月には東証の市場区分見直しでプライム市場へ移行している。 [76][77][78]

    • [76]渡辺昭彦社長が「世界最強」を売上規模ではなくグローカル戦略での優位と説明
  • 2023年3月期 決算説明資料
    • [77]2023年3月期の純利益は東京都中央区の固定資産の一部譲渡を含む
  • 有価証券報告書
    • [78]2022年4月 東証の市場区分見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行
  • 有価証券報告書
    • [73]2021年5月 「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」及び「中期経営計画2023」を策定
    • [78]2022年4月 東証の市場区分見直しにより市場第一部からプライム市場へ移行
    • [74]長期ビジョン2030の3つのあるべき姿
    • [76]渡辺昭彦社長が「世界最強」を売上規模ではなくグローカル戦略での優位と説明
  • 2022年3月期 決算説明資料
    • [75]中期経営計画2023の最終年度目標は連結経常利益150億円、初年度2022年3月期の経常利益151億円が前中計期間の最高108億円を上回った
  • 2023年3月期 決算説明資料
    • [77]2023年3月期の純利益は東京都中央区の固定資産の一部譲渡を含む

欧州大陸への拡張と、中計2026が突き当たった採算

2024年5月、2025年3月期から2027年3月期を対象とする「OVOL中期経営計画2026」を策定した。同年11月には欧州大陸での拡張に踏み込む。ドイツにOVOL Papier Deutschland GmbHなど3社を設立してInapa Deutschland GmbHほか3社の事業を譲り受け、フランスではInapa France S.A.S.(現OVOL France, S.A.S.)とその100%子会社を連結子会社化した。譲り受けたドイツ事業の直近売上高は891億円、Inapa Franceの取得価額は43億7,400万円である。英国とドイツ・フランスを結ぶ販売網が、この一連の取引でつながった。 [79][80][81]

  • 有価証券報告書
    • [79]2024年5月 「OVOL中期経営計画2026」(2025年3月期〜2027年3月期)を策定
    • [80]2024年11月 ドイツ3社の事業譲受とフランスInapa France S.A.S.及びその子会社の連結子会社化
    • [81]譲受対象のドイツ事業の直近売上高891億円、Inapa Franceの取得価額43億7,400万円

買収の効果は売上に表れた。2026年3月期の連結売上高は6,068億円と過去最高を更新し、セグメント別では海外卸売が3,381億円、国内卸売が1,931億円となった。10年前の2016年3月期は国内2,983億円・海外1,567億円だったから、比率は完全に反転している。一方で利益は伸びていない。同期の経常利益は109億円、当期純利益は47億円にとどまった。木質バイオマス発電事業の採算悪化、持分法適用関連会社の固定資産減損に伴う投資損失、構造改善費用とのれん減損損失の計上が重なったためである。会社は中期経営計画2026の最終年度計画について達成が困難との見通しを示した。 [82][83]

  • 2026年3月期 決算説明資料
    • [82]減益要因は木質バイオマス発電の採算悪化・持分法適用関連会社の固定資産減損・構造改善費用およびのれん減損損失
    • [83]中期経営計画2026の最終年度計画の達成は困難との見通し

2025年、日本紙パルプ商事は創業180周年を迎えた。統合報告書2025はこの節目を掲げ、長期ビジョン2030の実現と中期経営計画2026の達成に向けた道筋を示している。2026年3月31日時点の資本金は166億4,892万円、連結従業員数は4,705名、単体は753名である。京都の和紙商が扱った商材の国内需要は縮み続け、2026年3月期には売上の過半を海外の卸売が担った。紙を売る会社であり続けながら、売る場所と、紙以外の稼ぎ方を組み替えてきた180年の帰結が、この構成比に表れている。次の課題は、広げた版図から利益を取り出すことにある。 [84][85]

  • 日本紙パルプ商事グループ統合報告書2025
    • [84]2025年に創業180周年を迎え、統合報告書2025がこの節目を掲げた
    • [85]2026年3月31日現在の資本金166億4,892万円、連結従業員4,705名・単体753名
  • 有価証券報告書
    • [79]2024年5月 「OVOL中期経営計画2026」(2025年3月期〜2027年3月期)を策定
    • [80]2024年11月 ドイツ3社の事業譲受とフランスInapa France S.A.S.及びその子会社の連結子会社化
    • [81]譲受対象のドイツ事業の直近売上高891億円、Inapa Franceの取得価額43億7,400万円
  • 2026年3月期 決算説明資料
    • [82]減益要因は木質バイオマス発電の採算悪化・持分法適用関連会社の固定資産減損・構造改善費用およびのれん減損損失
    • [83]中期経営計画2026の最終年度計画の達成は困難との見通し
  • 日本紙パルプ商事グループ統合報告書2025
    • [84]2025年に創業180周年を迎え、統合報告書2025がこの節目を掲げた
    • [85]2026年3月31日現在の資本金166億4,892万円、連結従業員4,705名・単体753名

日本紙パルプ商事の沿革1845〜2024年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
和紙商・越三商店を創業
洋紙の取扱いを開始
中井商店に商号変更
梅津パピール・ファブリックの洋紙販売を開始
王子製紙と製品販売の契約を締結★★
合名会社中井商店に改組
現中井商店を設立
元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小★★
王子製紙の代行販売店として10月21日より活動を開始。同月30日に紙統制会社が解散★★
王子製紙が保有する中井商店株式が持株整理委員会に譲渡
香港事務所を開設
中井本社を設立
商号を中井に変更
北興産業を吸収合併
北陸紙業から大阪地区の営業権を譲り受け
富士洋紙店と対等合併契約に調印★★
中井と富士洋紙店の対等合併と、日本紙パルプ商事への商号変更メーカーの合併が公正取引委員会に阻まれた翌年、なぜ代理店の側が先に集約したのか 詳細を読む★★★
全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立
東京証券取引所市場第二部に株式上場
全額出資によりデュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立
全額出資により米国にJapan Pulp & Paper(U.S.A.)Corp.を設立
全額出資により南港紙センターを設立
全額出資によりジェーピーホームサプライを設立
Safeshredをグループ会社化
海外での古紙再資源化事業に参入
国内全事業所においてISO14001の拡大認証、FSC森林認証のCoC認証を取得
トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲り受ける★★
川辺バイオマス発電を設立、バイオマス発電を事業化
松谷克エコポート九州を設立
野口憲三連結子会社エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲り受ける
野口憲三米国大手紙商Gould Paper Corporation・その子会社を子会社化★★
野口憲三エコパワーJPを設立、太陽光発電事業に参入。(2015年に太陽光発電所が操業開始)
渡辺昭彦大手古紙商社である福田三商を子会社化
渡辺昭彦Ball & Doggett Group Pty Ltdとその子会社を子会社化★★
渡辺昭彦グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始
渡辺昭彦「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」・「中期経営計画2023」を策定
渡辺昭彦OVOL Papier Deutschland GmbHを設立
渡辺昭彦Inapa Deutschlandの事業を譲り受け
渡辺昭彦Inapa France S.A.S.とその子会社を子会社化★★
出典・参考

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