日本紙パルプ商事 の歴史

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創業 1845年
創業者 中井三平
創業地 京都
創業
1845年、中井三平氏が京都で和紙商の越三商店を創業した。日本で洋紙の生産が始まると同時に洋紙も扱い、1876年1月には京都府から梅津製紙の売捌人に任じられて中井商店へ改称する。1902年に合名会社へ改組すると同時に本店を東京へ移し、1916年12月に資本金200万円で株式会社中井商店を設立した。1944年6月に元売業務を紙統制会社へ接収されて営業は大幅に縮み、1946年11月の統制解除で商権が戻っている。1963年5月に中井株式会社へ商号を変更し、1970年1月に富士洋紙店を吸収合併して日本紙パルプ商事となった。2017年10月からはグループの呼称にOVOLを用いている。
決断
製紙メーカーの再編が止まった年に、紙の卸が先に集約した。1968年3月に王子製紙・十條製紙・本州製紙の3社が合併を申請したが、新聞用紙で6割・グラビア紙で8割に達するシェアを公正取引委員会が問題視し、同年9月に取り下げとなった。生産の集約が止まる一方、資本自由化を前に代理店の体質強化を求める声はむしろ強まる。1969年7月に中井と富士洋紙店が合併覚書へ調印し、1970年1月に対等合併で日本紙パルプ商事として新発足する。資本金15億円・半期売上406億円の中井と2億円・174億円の富士洋紙店という差がありながら比率は1対1に据え、社名も両社の名を残さなかった。年商合計1,650億円は紙流通で初の1,000億円企業にあたり、以後の卸売網整備・上場・海外拠点の設置はこの規模を前提に進んだ。
現況
売上の過半を占める海外卸売が、唯一の赤字部門になっている。2026年3月期の連結売上高は6,068億円、営業利益108億円、親会社株主に帰属する当期純利益47億円。海外卸売は3,381億円を売り上げて全体の55%を占めるが、約18億円の減損を計上してセグメント損失5億円に沈んだ。国内卸売は1,931億円で利益57億円、売上514億円にとどまる製紙加工が73億円と最も多くの利益を上げ、環境原材料200億円・不動産賃貸41億円が続く。2010年の米Gould Paper以降に買い集めた海外の卸売会社は、売上で国内を追い抜いた一方、拠点の減損がそのまま部門の損失に出た。
競合
メーカーの再編を待たずに集約した卸だけが、需要の反転に間に合った。1968年に公正取引委員会の前で止まった製紙3社の合併は、1996年に王子製紙と本州製紙の間でようやく実現した。国内の紙・板紙需要が頭打ちへ転じたのはその後で、メーカー各社は工場の統廃合に向かう。先に集約を済ませていた日本紙パルプ商事は、2003年8月にトーメンの紙パルプ事業の営業権を譲り受け、2010年4月に米Gould Paperを連結子会社化した。2017年に豪Ball & Doggett、2019年に英Premier Paperが続いた。代理店であり続ける限り扱える量はメーカーの生産に縛られるが、卸会社ごと買収すれば商圏が手に入る。この置き換えが、国内卸売828名に対し海外卸売2,282名という現在の人員配置を作った。
日本紙パルプ商事:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 京都で三井の暖簾を分けられた紙商から、王子系筆頭代理店へ (1845年〜)

中井三平の独立と、資本金百両で開いた越三商店

中井家は元禄9年(1696)に京都東洞院二条南入瓦之町で質屋[1]を開いた家で、代々の当主が三井越後屋呉服店に仕えた。初代三郎兵衛氏は数え13歳で越後屋に入り、江戸本店で組頭まで昇進している。創業者は三代三郎兵衛氏、のちの中井三平氏である[2]。文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、同じく13歳で越後屋に仕えた。22歳の春、三井家の了解を得て店を辞し独立する。『かたばみ草』が伝える独立時の信念は『商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない』[引用元]であり、この考えから投機性のない紙商を選んだ。[3]

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [1]元禄9年(1696)中井家の祖先が京都東洞院二条南入瓦之町で質屋を開業
    • [2]三代三郎兵衛(のちの三平)は文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、13歳で三井越後屋呉服店に仕え、22歳で独立
    • [3]独立時の信念として『かたばみ草』が「商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない」を伝える

三平氏は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3[4]年の修業を積んだのち京都へ戻る。弘化2年(1845)、25歳で京都柳馬場西入町に和紙専売の越三商店を開いた。開業時の資本金は百両である。[5]屋号は主家の三井・越後屋呉服店にちなみ、名義[6]も『越後屋三郎兵衛』を用いた。三井家は家憲で同族以外への暖簾分けをほとんど許さなかったが、初代からの積年の信用に加え、紙商と呉服業が競合しない点が働いて特例が認められた。ペリー来航の8年前にあたる。嘉永6年(1853)には三条通東洞院西入梅忠町[7]、現在の京都支店の所在地に新店を開いて業務を広げている。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [4]三平は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3年修業した
    • [5]弘化2年(1845)に25歳で京都柳馬場西入町に越三商店を開店、開業時の資本金は百両
    • [6]屋号と名義は三井・越後屋呉服店にちなみ、三井家の暖簾内に列して開業した
    • [7]嘉永6年(1853)三条通東洞院西入梅忠町(現・京都支店所在地)に新店を開き業務を拡張
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [1]元禄9年(1696)中井家の祖先が京都東洞院二条南入瓦之町で質屋を開業
    • [2]三代三郎兵衛(のちの三平)は文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、13歳で三井越後屋呉服店に仕え、22歳で独立
    • [3]独立時の信念として『かたばみ草』が「商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない」を伝える
    • [4]三平は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3年修業した
    • [5]弘化2年(1845)に25歳で京都柳馬場西入町に越三商店を開店、開業時の資本金は百両
    • [6]屋号と名義は三井・越後屋呉服店にちなみ、三井家の暖簾内に列して開業した
    • [7]嘉永6年(1853)三条通東洞院西入梅忠町(現・京都支店所在地)に新店を開き業務を拡張

京都府御用掛としての洋紙と、売れない在庫の10年

越三商店を洋紙へ向けたのは四代三郎兵衛氏である。嘉永4年(1851)に河内の小原家に生まれ[8]、三平氏夫妻の養子として育った常吉氏が、この四代目にあたる。明治9年(1876)1月、27歳のとき[9]、京都府知事の槇村正直氏は梅津パピール・ファブリックの販路を開くため民間の紙商に協力を求め、中井三郎兵衛氏・大森治郎兵衛氏・石角伊助氏・神内庄助氏・大江長左衛門氏の5人に『京都府御用掛梅津製紙売捌人』の辞令を出した。公認の洋紙販売店がここで初めて生まれている。5人は製品を1,000貫ずつ持ち帰って各自の工夫で紙に仕立て、紙屋仲間の入札にかけた。最も好評だったのが三郎兵衛氏の仕立てた襖紙だった[10]。越三商店が中井商店へ改称したのも[11]、この年である。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [8]四代三郎兵衛は嘉永4年(1851)河内の小原家に生まれた常吉で、三平夫妻の養子として育った
    • [9]明治9年(1876)1月、京都府知事槇村正直が中井三郎兵衛ら5人の紙商に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出し、公認の洋紙販売店が誕生
    • [10]5人は製品1,000貫ずつを各自の工夫で仕立てて紙屋仲間の入札にかけ、三郎兵衛の襖紙が最も好評だった
  • 有価証券報告書
    • [11]明治9年(1876)に越三商店を中井商店へ改称

洋紙は売れなかった。三郎兵衛氏は店員を指揮して京都・大阪・神戸の小売店に卸し、北陸から東海、中国地方まで手を伸ばしたが在庫は積み上がった。東京でも同じで、有恒社は3年間も倉庫に貯蔵[12]したという。市況が動いたのは明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社[13]に請け負わせてからである。三郎兵衛氏は同業の大森治郎兵衛氏と親密になり、明治10年には京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店[14]を開いた。前年に創立された大阪日報社からまとまった注文を受けたのもこのころで、新聞社との取引はここに始まる。1882年には王子製紙と製品販売の契約を結び[15]、近代製紙業の草創期からその販売を担う立場に就いた。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [12]洋紙は売れず在庫が積み上がった。東京の有恒社も3年間倉庫に貯蔵した
    • [13]明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社に請け負わせ洋紙市況が好転
    • [14]明治10年に大森治郎兵衛と京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店を開き、大阪日報社との取引が新聞社取引の最初となった
    • [15]1882年 王子製紙と製品販売の契約を締結

個人商店からの脱皮は、一度の洋行と一度の経営危機が決めた。明治33年(1900)、四代三郎兵衛氏はパリ万国博覧会[16]を機に長男の三之助氏を欧米へ送り、フランス・ドイツ・スウェーデン・イギリスの製紙業を視察させた。持ち帰った所感は、個人事業から会社組織への転換だった。折しも日清戦争後の反動不況で中井商店は資金繰りに窮しており、『渋沢栄一伝記資料』は『中井商店ハ、以前殆ド破産ノ状態ニ陥リ、漸ク第一銀行ノ救済ニ依リテ再興スルコトヲ得』[引用元]と記す。三郎兵衛氏は渋沢栄一氏の意見も聞いたうえで改組を決め、明治35年(1902)2月28日、資本金25万円[17]の合名会社中井商店を東京に本店を置いて発足させた。大正5年(1916)12月15日には資本金200万円[18]の株式会社中井商店へ改組し、三之助氏が初代取締役社長、三郎兵衛氏は監査役に退いている。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [16]明治33年(1900)パリ万国博覧会を機に長男三之助を欧米へ派遣し製紙業を視察させた
    • [17]明治35年(1902)2月28日 資本金25万円の合名会社中井商店が東京に本店を置いて発足
    • [18]大正5年(1916)12月15日 資本金200万円の株式会社中井商店に改組、社長は中井三之助、四代三郎兵衛は監査役
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [8]四代三郎兵衛は嘉永4年(1851)河内の小原家に生まれた常吉で、三平夫妻の養子として育った
    • [9]明治9年(1876)1月、京都府知事槇村正直が中井三郎兵衛ら5人の紙商に「京都府御用掛梅津製紙売捌人」の辞令を出し、公認の洋紙販売店が誕生
    • [10]5人は製品1,000貫ずつを各自の工夫で仕立てて紙屋仲間の入札にかけ、三郎兵衛の襖紙が最も好評だった
    • [12]洋紙は売れず在庫が積み上がった。東京の有恒社も3年間倉庫に貯蔵した
    • [13]明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社に請け負わせ洋紙市況が好転
    • [14]明治10年に大森治郎兵衛と京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店を開き、大阪日報社との取引が新聞社取引の最初となった
    • [16]明治33年(1900)パリ万国博覧会を機に長男三之助を欧米へ派遣し製紙業を視察させた
    • [17]明治35年(1902)2月28日 資本金25万円の合名会社中井商店が東京に本店を置いて発足
    • [18]大正5年(1916)12月15日 資本金200万円の株式会社中井商店に改組、社長は中井三之助、四代三郎兵衛は監査役
  • 有価証券報告書
    • [11]明治9年(1876)に越三商店を中井商店へ改称
    • [15]1882年 王子製紙と製品販売の契約を締結

統制下の商権喪失と、王子製紙からの資本独立

戦時経済は紙の流通を国家の管理下に置いた。1944年6月、中井商店は元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小した[19]。商社にとって元売の資格は取引の根幹であり、これを失うことは事業そのものの停止に近い。商権が戻ったのは敗戦の翌年である。中井商店は1946年10月21日から王子製紙の代行販売店[20]として活動を開始し、同月30日に紙統制会社が解散、11月に元売業務を含む本来の営業が再開された。当時の取引は消費者団体が発行する切符を現物の紙に換える作業で、品種別の割当がないため得意先の求める紙を揃えるのに苦労した。それでも中井商店は過去の実績比率を上回る成績を収め、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却している[21]

  • 有価証券報告書
    • [19]1944年6月 元売業務を紙統制会社に接収され業務が大幅に縮小
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [20]1946年10月21日から王子製紙の代行販売店として活動開始、同月30日に紙統制会社が解散
    • [21]切符の現物化で実績比率を上回り、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却した

財閥解体は資本関係を切り離した。王子製紙の持株比率が5割を超えていたため制限会社の指定を受けた販売店は、中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店である[22]。中井商店の払込資本金300万円に対する王子の投資額は190万7,000円[23]、比率にして64%だった。1947年3月、この株式は持株整理委員会へ譲渡され、4販売店は資本的に完全独立する[24]。GHQは販売店への投資を独占資本の二重投資として排除を指令したが、製造と販売の分業は明治以来の実態であるとして王子製紙が反論し、この論を撤回させた。1949年8月1日には王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3[25]社に分割され、販売店は専属から複数社を扱う立場に変わった。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [22]王子製紙の持株比率5割超で制限会社指定を受けた販売店は中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店
    • [23]中井商店の払込資本金300万円に対する王子製紙の投資額は190万7,000円(64%)
    • [24]1947年3月に王子製紙保有株が持株整理委員会へ譲渡され、4販売店が資本的に完全独立
    • [25]1949年8月1日 王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割された

経営陣も王子から入った。1947年7月31日、王子製紙営業担当常務の西蔭担三氏の要請を受けて塩山豊蔵氏が専務取締役に就任する[26]。西蔭氏は『中井商店は、いずれは王子製紙より法的には分離されることになる。しかし精神的には不可分であり』[引用元]と述べ、筆頭販売店としての再建を託した。塩山体制のもとで業績は安定し、1961年2月には不動産の保有・賃貸・管理を担う中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成する[27]。同年5月、『商店』の名を廃して商号を中井株式会社に改めた。このとき9事業所・従業員約600名・年商約400億円[28]の紙専門商社に育っている。1968年4月には北興産業を吸収合併し、北陸紙業[29]から大阪地区の営業権を譲り受けた。

  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [26]1947年7月31日 王子製紙営業担当常務の西蔭担三の要請で塩山豊蔵が専務取締役に就任
    • [27]1961年2月に中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成
    • [28]商号変更時点で9事業所・従業員約600名・年商約400億円
  • 有価証券報告書
    • [29]1968年4月 北興産業を吸収合併し北陸紙業から大阪地区の営業権を譲受
  • 有価証券報告書
    • [19]1944年6月 元売業務を紙統制会社に接収され業務が大幅に縮小
    • [29]1968年4月 北興産業を吸収合併し北陸紙業から大阪地区の営業権を譲受
  • 百三十年史(日本紙パルプ商事, 1975)
    • [20]1946年10月21日から王子製紙の代行販売店として活動開始、同月30日に紙統制会社が解散
    • [21]切符の現物化で実績比率を上回り、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却した
    • [22]王子製紙の持株比率5割超で制限会社指定を受けた販売店は中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店
    • [23]中井商店の払込資本金300万円に対する王子製紙の投資額は190万7,000円(64%)
    • [24]1947年3月に王子製紙保有株が持株整理委員会へ譲渡され、4販売店が資本的に完全独立
    • [25]1949年8月1日 王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3社に分割された
    • [26]1947年7月31日 王子製紙営業担当常務の西蔭担三の要請で塩山豊蔵が専務取締役に就任
    • [27]1961年2月に中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成
    • [28]商号変更時点で9事業所・従業員約600名・年商約400億円

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日本紙パルプ商事の沿革1845〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1845〜1969年京都で三井の暖簾を分けられた紙商から、王子系筆頭代理店へ和紙商・越三商店を創業
洋紙の取扱いを開始
中井商店に商号変更
梅津パピール・ファブリックの洋紙販売を開始
王子製紙と製品販売の契約を締結★★
合名会社中井商店に改組
現中井商店を設立
元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小★★
王子製紙の代行販売店として10月21日より活動を開始。同月30日に紙統制会社が解散★★
王子製紙が保有する中井商店株式が持株整理委員会に譲渡
香港事務所を開設
中井本社を設立
商号を中井に変更
北興産業を吸収合併
北陸紙業から大阪地区の営業権を譲り受け
富士洋紙店と対等合併契約に調印★★
1970〜2002年日本紙パルプ商事の発足と、紙流通最大手への到達中井と富士洋紙店の対等合併と、日本紙パルプ商事への商号変更

1969年7月1日、中井株式会社と株式会社富士洋紙店が合併覚書に調印し、同年10月3日に合併契約を締結した。1970年1月1日、両社は1対1の対等合併で新発足し、商号を日本紙パルプ商事株式会社に改めた。資本金17億円・従業員1,160名で、規模・売上高・従業員数のいずれも紙流通業界第1位となった。

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★★★
全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立
東京証券取引所市場第二部に株式上場
全額出資によりデュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立
全額出資により米国にJapan Pulp & Paper(U.S.A.)Corp.を設立
全額出資により南港紙センターを設立
全額出資によりジェーピーホームサプライを設立
Safeshredをグループ会社化
海外での古紙再資源化事業に参入
国内全事業所においてISO14001の拡大認証、FSC森林認証のCoC認証を取得
2003〜2016年国内需要の反転と、譲受・買収・発電への多角化松谷克トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲り受ける★★
松谷克川辺バイオマス発電を設立、バイオマス発電を事業化
松谷克エコポート九州を設立
松谷克連結子会社エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲り受ける
松谷克米国大手紙商Gould Paper Corporation・その子会社を子会社化★★
野口憲三エコパワーJPを設立、太陽光発電事業に参入。(2015年に太陽光発電所が操業開始)
2017〜2026年OVOLへの改称と、海外卸売が国内を追い抜いた10年渡辺昭彦大手古紙商社である福田三商を子会社化
渡辺昭彦Ball & Doggett Group Pty Ltdとその子会社を子会社化★★
渡辺昭彦グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始
渡辺昭彦「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」・「中期経営計画2023」を策定
渡辺昭彦OVOL Papier Deutschland GmbHを設立
渡辺昭彦Inapa Deutschlandの事業を譲り受け
渡辺昭彦Inapa France S.A.S.とその子会社を子会社化★★
出典・参考

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