中井家は元禄9年(1696)に京都東洞院二条南入瓦之町で質屋[1]を開いた家で、代々の当主が三井越後屋呉服店に仕えた。初代三郎兵衛氏は数え13歳で越後屋に入り、江戸本店で組頭まで昇進している。創業者は三代三郎兵衛氏、のちの中井三平氏である[2]。文政4年(1821)に二代目三郎兵衛氏の次男として京都に生まれ、同じく13歳で越後屋に仕えた。22歳の春、三井家の了解を得て店を辞し独立する。『かたばみ草』が伝える独立時の信念は『商売は儲けなければならない。しかし、暴利をむさぼってはかえって損をし、家を滅ぼすことになる。薄利でも誠実と勤勉をもってしなければならない』[引用元]であり、この考えから投機性のない紙商を選んだ。[3]
三平氏は大阪の紙商・堺屋孫兵衛のもとで3[4]年の修業を積んだのち京都へ戻る。弘化2年(1845)、25歳で京都柳馬場西入町に和紙専売の越三商店を開いた。開業時の資本金は百両である。[5]屋号は主家の三井・越後屋呉服店にちなみ、名義[6]も『越後屋三郎兵衛』を用いた。三井家は家憲で同族以外への暖簾分けをほとんど許さなかったが、初代からの積年の信用に加え、紙商と呉服業が競合しない点が働いて特例が認められた。ペリー来航の8年前にあたる。嘉永6年(1853)には三条通東洞院西入梅忠町[7]、現在の京都支店の所在地に新店を開いて業務を広げている。
越三商店を洋紙へ向けたのは四代三郎兵衛氏である。嘉永4年(1851)に河内の小原家に生まれ[8]、三平氏夫妻の養子として育った常吉氏が、この四代目にあたる。明治9年(1876)1月、27歳のとき[9]、京都府知事の槇村正直氏は梅津パピール・ファブリックの販路を開くため民間の紙商に協力を求め、中井三郎兵衛氏・大森治郎兵衛氏・石角伊助氏・神内庄助氏・大江長左衛門氏の5人に『京都府御用掛梅津製紙売捌人』の辞令を出した。公認の洋紙販売店がここで初めて生まれている。5人は製品を1,000貫ずつ持ち帰って各自の工夫で紙に仕立て、紙屋仲間の入札にかけた。最も好評だったのが三郎兵衛氏の仕立てた襖紙だった[10]。越三商店が中井商店へ改称したのも[11]、この年である。
洋紙は売れなかった。三郎兵衛氏は店員を指揮して京都・大阪・神戸の小売店に卸し、北陸から東海、中国地方まで手を伸ばしたが在庫は積み上がった。東京でも同じで、有恒社は3年間も倉庫に貯蔵[12]したという。市況が動いたのは明治9年、大蔵省紙幣寮が地券用紙の大量製造を全製紙会社[13]に請け負わせてからである。三郎兵衛氏は同業の大森治郎兵衛氏と親密になり、明治10年には京都松原麩屋町東入石不動之町に共同販売店[14]を開いた。前年に創立された大阪日報社からまとまった注文を受けたのもこのころで、新聞社との取引はここに始まる。1882年には王子製紙と製品販売の契約を結び[15]、近代製紙業の草創期からその販売を担う立場に就いた。
個人商店からの脱皮は、一度の洋行と一度の経営危機が決めた。明治33年(1900)、四代三郎兵衛氏はパリ万国博覧会[16]を機に長男の三之助氏を欧米へ送り、フランス・ドイツ・スウェーデン・イギリスの製紙業を視察させた。持ち帰った所感は、個人事業から会社組織への転換だった。折しも日清戦争後の反動不況で中井商店は資金繰りに窮しており、『渋沢栄一伝記資料』は『中井商店ハ、以前殆ド破産ノ状態ニ陥リ、漸ク第一銀行ノ救済ニ依リテ再興スルコトヲ得』[引用元]と記す。三郎兵衛氏は渋沢栄一氏の意見も聞いたうえで改組を決め、明治35年(1902)2月28日、資本金25万円[17]の合名会社中井商店を東京に本店を置いて発足させた。大正5年(1916)12月15日には資本金200万円[18]の株式会社中井商店へ改組し、三之助氏が初代取締役社長、三郎兵衛氏は監査役に退いている。
戦時経済は紙の流通を国家の管理下に置いた。1944年6月、中井商店は元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小した[19]。商社にとって元売の資格は取引の根幹であり、これを失うことは事業そのものの停止に近い。商権が戻ったのは敗戦の翌年である。中井商店は1946年10月21日から王子製紙の代行販売店[20]として活動を開始し、同月30日に紙統制会社が解散、11月に元売業務を含む本来の営業が再開された。当時の取引は消費者団体が発行する切符を現物の紙に換える作業で、品種別の割当がないため得意先の求める紙を揃えるのに苦労した。それでも中井商店は過去の実績比率を上回る成績を収め、口銭の過払い分8万869円を王子製紙へ返却している[21]。
財閥解体は資本関係を切り離した。王子製紙の持株比率が5割を超えていたため制限会社の指定を受けた販売店は、中井商店・大同洋紙店・川島洋紙店・富士洋紙店の4店である[22]。中井商店の払込資本金300万円に対する王子の投資額は190万7,000円[23]、比率にして64%だった。1947年3月、この株式は持株整理委員会へ譲渡され、4販売店は資本的に完全独立する[24]。GHQは販売店への投資を独占資本の二重投資として排除を指令したが、製造と販売の分業は明治以来の実態であるとして王子製紙が反論し、この論を撤回させた。1949年8月1日には王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙の3[25]社に分割され、販売店は専属から複数社を扱う立場に変わった。
経営陣も王子から入った。1947年7月31日、王子製紙営業担当常務の西蔭担三氏の要請を受けて塩山豊蔵氏が専務取締役に就任する[26]。西蔭氏は『中井商店は、いずれは王子製紙より法的には分離されることになる。しかし精神的には不可分であり』[引用元]と述べ、筆頭販売店としての再建を託した。塩山体制のもとで業績は安定し、1961年2月には不動産の保有・賃貸・管理を担う中井本社を設立、1963年4月に総工費約6億9,000万円・地下2階地上7階の中井ビルが完成する[27]。同年5月、『商店』の名を廃して商号を中井株式会社に改めた。このとき9事業所・従業員約600名・年商約400億円[28]の紙専門商社に育っている。1968年4月には北興産業を吸収合併し、北陸紙業[29]から大阪地区の営業権を譲り受けた。
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|---|---|---|---|---|
| 1845〜1969年京都で三井の暖簾を分けられた紙商から、王子系筆頭代理店へ | 和紙商・越三商店を創業 | ★ | ||
| 洋紙の取扱いを開始 | ★ | |||
| 中井商店に商号変更 | ★ | |||
| 梅津パピール・ファブリックの洋紙販売を開始 | ★ | |||
| 王子製紙と製品販売の契約を締結 | ★★ | |||
| 合名会社中井商店に改組 | ★ | |||
| 現中井商店を設立 | ★ | |||
| 元売業務を紙統制会社に接収され、業務は大幅に縮小 | ★★ | |||
| 王子製紙の代行販売店として10月21日より活動を開始。同月30日に紙統制会社が解散 | ★★ | |||
| 王子製紙が保有する中井商店株式が持株整理委員会に譲渡 | ★ | |||
| 香港事務所を開設 | ★ | |||
| 中井本社を設立 | ★ | |||
| 商号を中井に変更 | ★ | |||
| 北興産業を吸収合併 | ★ | |||
| 北陸紙業から大阪地区の営業権を譲り受け | ★ | |||
| 富士洋紙店と対等合併契約に調印 | ★★ | |||
| 1970〜2002年日本紙パルプ商事の発足と、紙流通最大手への到達 | 中井と富士洋紙店の対等合併と、日本紙パルプ商事への商号変更 1969年7月1日、中井株式会社と株式会社富士洋紙店が合併覚書に調印し、同年10月3日に合併契約を締結した。1970年1月1日、両社は1対1の対等合併で新発足し、商号を日本紙パルプ商事株式会社に改めた。資本金17億円・従業員1,160名で、規模・売上高・従業員数のいずれも紙流通業界第1位となった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 全国7地区の卸売ネットワーク「JP会」を設立 | ★ | |||
| 東京証券取引所市場第二部に株式上場 | ★ | |||
| 全額出資によりデュッセルドルフにJapan Pulp & Paper GmbHを設立 | ★ | |||
| 全額出資により米国にJapan Pulp & Paper(U.S.A.)Corp.を設立 | ★ | |||
| 全額出資により南港紙センターを設立 | ★ | |||
| 全額出資によりジェーピーホームサプライを設立 | ★ | |||
| Safeshredをグループ会社化 | ★ | |||
| 海外での古紙再資源化事業に参入 | ★ | |||
| 国内全事業所においてISO14001の拡大認証、FSC森林認証のCoC認証を取得 | ★ | |||
| 2003〜2016年国内需要の反転と、譲受・買収・発電への多角化 | 松谷克 | トーメンより紙パルプ事業の営業権を譲り受ける | ★★ | |
| 松谷克 | 川辺バイオマス発電を設立、バイオマス発電を事業化 | ★ | ||
| 松谷克 | エコポート九州を設立 | ★ | ||
| 松谷克 | 連結子会社エコペーパーJPがトキワの製紙事業を譲り受ける | ★ | ||
| 松谷克 | 米国大手紙商Gould Paper Corporation・その子会社を子会社化 | ★★ | ||
| 野口憲三 | エコパワーJPを設立、太陽光発電事業に参入。(2015年に太陽光発電所が操業開始) | ★ | ||
| 2017〜2026年OVOLへの改称と、海外卸売が国内を追い抜いた10年 | 渡辺昭彦 | 大手古紙商社である福田三商を子会社化 | ★ | |
| 渡辺昭彦 | Ball & Doggett Group Pty Ltdとその子会社を子会社化 | ★★ | ||
| 渡辺昭彦 | グループブランド「OVOL(オヴォール)」を使用開始 | ★ | ||
| 渡辺昭彦 | 「OVOL長期ビジョン2030 “Paper, and beyond”」・「中期経営計画2023」を策定 | ★ | ||
| 渡辺昭彦 | OVOL Papier Deutschland GmbHを設立 | ★ | ||
| 渡辺昭彦 | Inapa Deutschlandの事業を譲り受け | ★ | ||
| 渡辺昭彦 | Inapa France S.A.S.とその子会社を子会社化 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日本紙パルプ商事)