歴史概要 — 現在に至るあゆみ 主要な意思決定と帰結のまとめ
創業1930年、創業者の岩谷直治氏が大阪で酸素・カーバイド・溶接材料を売る個人商店を開いた。1941年、硬化油脂工場で副生する水素が使い切れずに大気へ放出されている事実を知り、もったいないと考えて、工場から余る水素を引き取って売る商いを始めた。原子水素溶接機の需要は出始めていたが、水素を流通させる担い手はまだ存在しなかった。資本も人脈も持たない地方出身の店主が現場で見つけた無駄が、岩谷の最初の水素事業になった。
決断1953年、岩谷直治氏は「マルヰプロパン」で日本初の家庭用LPガス全国販売に踏み込んだ。プロパンは工業用燃料という認識が一般的だった時代に、産業ガスの商社を消費財を売る会社へ書き換える賭けだった。キャラバン隊が各地の神社で湯沸かしの実演を行って販路を作り、特約店を通じて全国に流通網を組み上げた。1969年の卓上カセットこんろ、1980年の堺LPG輸入ターミナルと続け、原料の輸入から家庭の台所までを一社で握る供給体制を整えた。
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歴史詳細 - 3つの時代区分で読み解く
1930年〜1985年 創業者の岩谷直治氏が55年で築いた「捨てられる気体を売る」流通網
酸素・カーバイドの個人商店から法人化までの戦中戦後
1930年5月、創業者の岩谷直治氏は妻ソチとともに大阪市港区市岡浜通に岩谷直治商店を個人創業し、酸素・カーバイド・溶接材料の販売を始めた。岩谷直治氏は1903年に島根県大田市で農家の四男に生まれ、農業学校卒業後の1918年に神戸の楫野海陸運送店に奉公へ入り、商人としての修行を積んだ経歴をもつ。当時の関西は重工業の勃興期で、造船・鉄道車両・橋梁の現場では溶接技術が広がり始め、酸素ガスとカーバイドの安定供給はそのまま顧客の工程能力を左右した。岩谷直治商店は資本も人脈も持たない単身の個人企業として出発したが、納期遵守と現物の品質管理で得意先を増やし、創業から10年余で関西の工業ガス商社としての足場を固めた。
1941年、岩谷直治氏は事業の幅を一段広げる出会いを得た。当時の硬化油脂の製造工場では水素を副生していたが、自家使用ぶんを超えた水素は工程の都合上ほぼ全量が大気へ放出されていた。岩谷直治氏はその事実を「もったいない」と捉え、工場側から余剰水素を引き取って販売する事業を立ち上げた。原子水素溶接機の輸入が広がり始めた時期で、水素ガスの需要は出始めていたものの、流通の担い手はほぼ存在しなかった。捨てられる気体を集めて売るという発想は、酸素・カーバイド商の延長線上にあり、創業者の現場肌の発想がそのまま事業領域の拡張を駆動した。同年、岩谷直治氏は上海に金生洋行を設立して中国大陸での海運業にも参入したが、これは戦時統制下の臨時の事業で、本業の重心は大阪のガス事業に置かれ続けた。
1945年2月、岩谷直治氏は岩谷直治商店を改組して資本金198千円で岩谷産業株式会社を設立し、代表取締役社長に就任した。終戦の半年前という時期で、大阪本社は同年の空襲で焼失したが、岩谷直治氏は事業を継続した。戦後の混乱期を経て1949年に大阪証券取引所へ上場し、戦後の事業拡大に向けた資本調達の制度を整えた。創業から15年、個人商店から株式公開企業へと組織形態は塗り替わったが、創業者個人の判断で新規事業を立ち上げる経営スタイルは戦前から変わらず、以後40年にわたり岩谷直治氏が同社の意思決定の中心に居続けた。
マルヰプロパン ── かまどの煤からの解放と家庭用LPガス全国販売
1952年、岩谷直治氏は富山県で開かれた高圧ガス協会の総会で、イタリアでは液化したガスをボンベに詰めて家庭で使っていることを知った。当時の日本の家庭の炊事はかまどに薪をくべるのが主流で、家事を担う主婦は煤と煙にまみれて働いていた。岩谷直治氏は液化石油ガスを家庭に届ければ主婦を煤煙から解放できると考え、1953年に「マルヰプロパン」のブランドで日本初の家庭用LPガス全国販売を開始した。当時のプロパンガスは工業用途の燃料という認識が一般的で、消費者向けの流通網を全国規模で組み立てる発想は業界には存在しなかった。50歳の経営者が、産業ガス商社から消費財メーカーへ事業の性格そのものを書き換える賭けに出た。
販路の構築は1955年に始まる「なにわ号」「やくも号」キャラバン隊が担った。神社の境内で湯を沸かすデモを行い、煤を出さずに短時間で湯が沸く実演で各地の主婦を集めた。家庭用ガスコンロとボンベ、ガス漏れ警報器をセットにした販売パッケージを地域ごとに整え、特約店を通じて全国に流通網を組み立てた。マルヰプロパンの普及で岩谷産業の主軸はB2BからB2Cへ移り、産業ガス商社の延長で水素を扱っていた会社は、家庭の台所まで届く全国流通網をもつエネルギー流通会社へ自社の事業領域を組み替えた。1964年10月10日の東京オリンピック開会式では聖火台の燃料にマルヰプロパンが採用され、皇居前の前夜祭でも集火台に使われた。家庭用エネルギーの代名詞として一般消費者に広く認知された出来事であり、岩谷直治氏は「プロパンの父」と呼ばれるまでに事業を育てた。
1969年、岩谷産業は日本初のホース不要の卓上カセットこんろ「イワタニホースノン・カセットフー」を発売した。岩谷直治氏が食卓での鍋料理時にホースが邪魔だという主婦の声を耳にし、ボンベを充填式から使い切り式に転換するという業界常識の書き換えに踏み込んだ製品だった。殺虫剤の缶を参考にカセット式ボンベを小型化し、家庭で安全に使える携帯コンロを設計した。マルヰプロパンの全国流通網のうえに、独自の家電商品が加わり、岩谷産業はLPガスの川下までを掌握する希少な事業者となった。カセットフーの累計出荷は半世紀で5,200万台を超え、現在も同社の代表商品として家庭で使われている。LPガスの卸売りを主力とする業界他社とは、川下流通とブランド資産の厚みで一線を画す位置に同社を据えた起点となった。
堺LPG輸入ターミナル ── 川上から川下までの一貫供給体制の到達点
1980年8月、岩谷産業は大阪府堺市に堺LPG輸入ターミナルを完成させ、自社で初の輸入基地を持つに至った。1953年のマルヰプロパン発売時から構想していた川上から川下までの一貫供給体制を、27年の年月を経て完成させた節目だった。同年5月にはサウジアラビアの国営石油会社ペトロミンとの輸入契約を交わし、翌1981年2月から中東からの直輸入を始めた。それまで国内商社経由でLPガスを調達していた構造から、産油国との直接交渉で原料を確保する構造へ切り替えた決断は、1979年の第二次オイルショック直後という事業環境を踏まえた選択でもあった。家庭用LPガス販売で築いた全国シェアを守るには、原料調達の安定性が前提条件であり、上流の輸入権を自社で握る以外に解はなかった。
1969年には大阪・東京の二本社制を採用し、首都圏でも事業基盤を強化、同年に名古屋証券取引所市場第一部に上場した。1985年12月には岩谷ガス工業・富士瓦斯工業・大阪水素工業の3社が岩谷ガス工業を存続会社として対等合併し、高圧ガス事業の岩谷瓦斯株式会社(現・連結子会社)を設立して工業ガス事業の集約を完了した。LPガスの家庭向け流通と工業ガスの製造販売を二本柱とする事業構造が、創業から55年を経てほぼ完成した。岩谷直治氏は同年12月に82歳で会長職へ移り、代表取締役社長は2代目の斎藤興二氏が継いだ。
創業者の岩谷直治氏が55年にわたり率いた個人主導の経営は、酸素・カーバイドの店主から始まり、捨てられる水素を売る発想、家庭用LPガスの全国流通網、カセットこんろの製品開発、産油国直輸入の上流統合まで、新規事業を毎度自身で立ち上げる連続だった。資本も人脈も持たない地方の商店が一代で全国規模のエネルギー流通会社まで成長した事例は戦後日本でも数少ない。後の経営陣に残されたのは、創業者個人の判断速度が会社全体の意思決定を駆動する組織文化と、産業ガス・LPガス・水素という3つの事業領域、そして地方発祥のままでは伸びしろが限られるという成長の天井だった。1985年は岩谷産業にとって、創業者経営から専門経営者経営への移行が始まった年に位置する。
1986年〜2012年 創業者退任後の30年で進めた事業ポートフォリオの整理と水素への先行投資
バブル崩壊後の構造改革と戸建住宅事業からの撤退
1985年12月の岩谷直治氏会長就任後、岩谷産業は2代目の斎藤興二氏(1985〜1998年)、3代目の楊井立夫氏(1998〜2000年)と短期間で社長を入れ替えながら、創業者経営から専門経営者経営への過渡期を迎えた。バブル崩壊後の平成不況が長引くなか、1966年に参入した戸建住宅事業をはじめ10件超の周辺事業が低収益のまま温存され、本業のエネルギー事業と希少資源事業の競争力が落ちる構造課題が浮上した。同社は1991年4月に各地域ブロック別のLPガス供給センターの統廃合を実施し、1993年10月にはマルヰプロパン発売40周年に合わせて新ブランド「Marui Gas(マルヰガス)」を導入したが、これらは流通効率の改善にとどまり、事業ポートフォリオ自体の見直しには着手していなかった。
2000年4月、4代目社長として牧野明次氏(当時58歳)が就任した。1965年入社の産業ガス出身で、1987年には18支店中17位だった名古屋支店長として支店業績を首位に押し上げ、1989年には米国のユニオン・カーバイド社(現リンデ社)へ出向して液化水素製造技術を研究した経歴をもつ。牧野社長は「量から質への転換」を経営の基本方針に掲げ、事業ポートフォリオの整理と人材組織の刷新に着手した。役員数を半減して若手への権限委譲を進め、本社機能をスリム化して人員を事業所へ再配置し、限られた陣容で最大限のパフォーマンスを発揮する体制を整えた。バブル崩壊後の平成不況と原油高、エネルギー分野の規制緩和という逆風が重なるなか、過去の遺産で太った組織を絞り直す改革だった。
2002年7月、牧野社長は取締役会で岩谷住宅産業をはじめとする子会社5社を清算し、戸建住宅事業から完全撤退する決議に踏み切った。1966年に岩谷産業が戸建住宅事業へ参入してから36年、1984年に岩谷住宅産業を子会社として独立させてから18年を経た事業の整理である。バブル期の住宅市場の拡大を取り込もうとした参入だったが、住宅市場の長期低迷で撤退の決断を引き延ばすほど傷が深くなる構図だった。同年代までに事業分野が重なる子会社の統廃合も並行して実施し、産業ガス事業とLPガス事業をコア事業と位置付け、経営資源を重点投下する構造を整えた。撤退と集中の決断は、創業者経営の遺産として残されていた周辺事業の整理を2002年から数年で完了させ、後の水素事業への先行投資の財務的な余地を生み出した。
水素ステーションとハイドロエッジへの先行投資
2002年2月、岩谷産業は国内初の「水素供給ステーション」を完成させ、実証試験を開始した。当時の燃料電池車1台の価格は1億円程度で、商用化どころか購入できる消費者がほぼ存在しない時期である。牧野社長は1989年の米国出向で液化水素製造技術を研究した経験をもち、水素エネルギー社会の実現は将来の必然と判断していた。創業者の岩谷直治氏が1941年に副生水素の販売から始めた水素事業を、創業60年余を経て燃料用途で次の段階へ進める一手だった。商用車も乗用車も買えない時期に水素ステーションの建設に踏み込んだ判断は、業界からは経済合理性を疑う声があったが、岩谷直治氏が掲げ続けた「水素の時代が来る」という創業者の信念を、後継経営者の牧野社長が引き継ぐ形での先行投資となった。
2004年、岩谷産業は関西電力・堺LNGの3社合弁で株式会社ハイドロエッジを設立し、岩谷産業50%・関西電力39.8%・堺LNG10.2%の出資比率で資本金4億9,000万円を投じた。2006年4月、堺市西区築港新町で国内初の商業用液化水素製造プラントが稼働を開始し、3,000L/h×3系列・年産6,000万立方メートルの体制を整えた。LNG冷熱を利用して液化水素を効率的に製造する世界最大級の規模で、JAXAの種子島宇宙センター発射のロケット燃料、半導体・化学産業の高純度水素、後の燃料電池車向けの水素ステーション原料という3つの用途を同時に支える供給基地となった。1986年のH-Iロケット試験機が液化水素エンジンを採用してから20年、宇宙開発と産業用途の両面で液化水素の国内需要が拡大していた時期に、商用規模での製造拠点を国内に持つ稀少な事業者として岩谷産業の位置が決まった。
牧野社長は2012年6月に代表取締役会長兼CEOへ移り、5代目社長として野村雅男氏が就任した。牧野会長は2021年12月のテレビ東京カンブリア宮殿で「創業者の岩谷直治が1941年から水素を扱い、『水素の時代が来る』と唱え続けた」と振り返り、創業者の遺志を継いで水素エネルギー社会の実現に経営資源を集中する方針を継続した。ハイドロエッジ稼働後の2009年には千葉県市原市、2013年には山口県周南市に液化水素製造プラントを建設し、国内3拠点で年産1億2,000万立方メートルの供給体制を整えた。創業者退任後の30年で岩谷産業は、創業者の遺産を整理しつつ水素事業に経営資源を集中する構造へ変わり、産業ガス・LPガス・水素という3本柱のうち、水素を将来の主力事業候補へ位置付け直した。
LP直輸入と工業ガス事業の集約 ── コア2事業の収益体質強化
牧野社長の改革で経営資源を集中させたLPガス事業と産業ガス事業の収益体質は、2000年代後半から2010年代前半にかけて改善が進んだ。LPガス事業では1980年の堺LPG輸入ターミナル開設以来の上流統合を強化し、サウジアラビア・北米からの直輸入比率を高めることで原料調達の安定性を確保した。1979年1月に設立した大阪イワタニガス(現・西日本イワタニガス)は西日本のLPガス販売子会社として地域事業者の統合受け皿となり、1959年設立のセントラル石油瓦斯と合わせて家庭用LPガスの全国販売網を維持した。1985年に3社合併で設立した岩谷瓦斯は工業ガス事業の中核子会社として、酸素・窒素・アルゴン・水素などの製造販売を担い、半導体・自動車・鉄鋼などの製造業向けの安定供給基盤を担った。
2010年7月、岩谷産業は本店を大阪市中央区本町3丁目6番4号に移転し、2013年4月には兵庫県尼崎市に新たな技術拠点として中央研究所を完成させた。中央研究所は水素・LPガス・産業ガスの3事業を横断するR&D機能をもち、後の水素ステーション関連設備や水素脆化試験設備、液化水素技術の開発拠点として用いられた。創業の地である関西を本拠地とする二本社制を継続しながら、東京本社との分担で首都圏営業基盤を維持し、地域分散と機能集約のバランスを取った組織再編が進んだ。2000年代の構造改革と研究開発投資が同時並行で進んだ結果、岩谷産業は地方発祥の中堅商社から、水素と希少資源を扱う技術型エネルギー商社へと自己定義を書き換えていった。
連結売上高はFY11(2012年3月期)の6,612億円から、FY13(2014年3月期)の7,039億円、FY18(2019年3月期)の7,151億円へ推移し、経常利益はFY11の195億円からFY13の193億円、FY18の300億円へと改善が進んだ。1985年から2012年までの30年で岩谷産業は、創業者の遺産だった戸建住宅・周辺事業を整理し、産業ガス・LPガス・水素という3本柱の収益体質を整えた。だが2010年代前半の時点で水素事業の単独売上は産業ガス・機械事業全体の中でも一部にとどまり、商用化に至るのはまだ先の段階だった。創業者から牧野社長への経営の継承と、水素への先行投資を維持する財務体質の確保が、続く2010年代の商用水素ステーション展開の前提を整えた。
2013年〜2026年 「水素のイワタニ」を商用化レースで形にする段階
国内初の商用水素ステーション開所と燃料電池車市場の立ち上がり
2014年7月、岩谷産業は兵庫県尼崎市に「イワタニ水素ステーション尼崎」を開所し、国内初の商用水素ステーションとして稼働させた。2002年の実証用水素ステーションから12年、燃料電池車の市販開始を翌2015年に控えた時期で、トヨタMIRAIの初代モデルが発売される前年に商用インフラを先回りして整える戦略だった。2011年1月、自動車メーカー3社と岩谷産業を含むエネルギー企業10社の計13社が「2015年の燃料電池自動車の一般発売開始と水素ステーション100ヶ所の先行整備」に関する共同声明を発表していた経緯を踏まえ、岩谷産業はその先頭で整備を進めた。同年2014年4月には日本水素ステーションネットワーク合同会社(JHyM)の設立に主要メンバーとして参画し、業界横断で水素ステーション網の整備を進める枠組みを整えた。
商用水素ステーションの展開は2026年4月時点で国内52カ所・米国10カ所まで広がり、岩谷産業は商用水素サプライチェーンの最大事業者として国内の水素モビリティ市場を支える位置を占めた。2020年には福島水素エネルギー研究フィールド(FH2R)が稼働し、最大毎時2,000Nm³の水素製造能力をもつ実証拠点として、水素バリューチェーン推進協議会(JH2A、加盟526社)と並んで業界の制度設計を主導する立場へ進んだ。2014年から10年余を経た2024年時点で乗用車の燃料電池車の普及台数は当初想定より少ない水準にとどまったが、商用車向けでは東京都の都バスFC化、福島県との共同FCトラック実証が進み、岩谷産業自身もFCトラック5台を保有してLPガス・産業ガスのシリンダー配送に投入している。乗用車主導の普及シナリオから商用車・トラック主導へ重心が移行した。
2022年4月、岩谷産業はトキコシステムソリューションズ(旧日立オートモティブシステムズの子会社、ポラリス・キャピタル・グループから取得)を約200億円弱で完全子会社化した。トキコシステムソリューションズは燃料電池車向け水素ディスペンサーの開発・製造・販売で国内有数の企業であり、買収によって岩谷産業は水素ステーションの設備供給から運営までを垂直統合する体制を整えた。創業者の岩谷直治氏が1941年に副生水素の販売から始めた事業は、創業81年を経て水素ディスペンサーメーカーまで取り込む形でサプライチェーンの川上から川下までを内製化する段階に達した。FY22(2023年3月期)の同社連結売上高は9,063億円・経常利益470億円と過去最高を更新し、水素事業の先行投資を維持する財務体質を支える数字となった。
コスモエネルギーHDとの資本業務提携と豪州撤退の代償
2024年3月、岩谷産業はコスモエネルギーホールディングスの株式を1,053億円で追加取得し、議決権の20.07%を保有する筆頭株主となり、コスモエネルギーHDを持分法適用関連会社化した。同年4月23日、両社は資本業務提携を締結し、提携推進委員会を発足してLPガス・産業ガス・水素・マテリアル分野での協業協議を開始した。コスモエネルギーHDの石油精製・小売拠点ネットワークと、岩谷産業の水素・LPガス・産業ガス事業を組み合わせることで、化石燃料から水素・再生可能エネルギーへの移行を共同で進める狙いだった。既に2023年2月設立の岩谷コスモ水素ステーション合同会社、同年11月設立のコスモ岩谷水素エンジニアリング合同会社で水素事業の協業基盤は構築済みで、追加株式取得は協業の制度的な裏付けを強化する一手となった。
5年間の中期経営計画「PLAN27」(2024〜2027年度)では、2027年度の経営数値目標として営業利益650億円、水素事業の売上高2,000億円(2030年度、内訳はガス1,200億円・関連設備800億円)、水素事業への投資1,780億円(増収470億円・営業増益40億円)を掲げた。豪州で計画していた褐炭由来水素プロジェクトとクイーンズランド州の電力公社スタンウェルと丸紅と共同のCQ-H2グリーン水素プロジェクトを軸に、海外からの水素サプライチェーン構築を進めていたが、2024年10月のクイーンズランド州議会選挙で政権交代が起き、新政権が追加出資を取りやめた結果、2025年3月にCQ-H2プロジェクトから岩谷産業は撤退を決定し、FY24(2025年3月期)に豪州水素関連プロジェクトからの撤退損および米国水素ステーション関連設備の減損損失を計上した。
2020年4月に就任した7代目社長の間島寛氏は、水素事業を中期経営計画の中核に据え、三大都市圏への水素輸入基地構築、2030年までの投資の重要性、水素販売9000万㎥という目標を繰り返し発信した。豪州水素プロジェクトの撤退はサプライチェーン構築の戦略上の挫折だが、間島社長はFY24決算説明会で「ブルー水素・グリーン水素の両方で複数の海外候補地を比較検討する」と方針修正を示し、撤退の損失計上と並行して新たな調達先の検討を継続した。創業者の岩谷直治氏が遺した「水素の時代が来る」という信念を、3代目の経営者が引き継いで形にする局面で、最初のサプライチェーン候補が頓挫したかたちだった。
水素以外の3事業が支える先行投資の体力
2025年3月期(FY24)の岩谷産業の連結売上高は8,830億円・営業利益462億円・経常利益615億円となり、4事業セグメントのうち総合エネルギー事業3,788億円(連結売上の43%、外部売上ベース)、産業ガス・機械事業2,714億円(同31%)、マテリアル事業2,016億円(同23%)が主力を構成した。1953年のマルヰプロパン発売から70年余を経た総合エネルギー事業は、家庭用・業務用・工業用LPガスの全国流通網を維持しつつ、近年はM&Aによる事業承継で直売顧客数を拡大している。LPガス事業者の減少と液石法改正による業界再編が進むなか、岩谷産業は全国規模のM&A受け皿として規模拡大を進める方針で、FY23(2024年3月期)には1万世帯のLPガス直売顧客を新規に獲得した。
産業ガス・機械事業は2,714億円の売上のうち、水素事業と他の特殊ガス・エアセパレートガスが内訳を構成し、水素はガス自体に加えて水素ディスペンサー・水素ステーション設備の販売も含む。マテリアル事業は2,016億円で、PET樹脂・バイオマス燃料・二次電池材料・ミネラルサンド・レアアース・セラミックス原料などEV・半導体・脱炭素関連の素材商社機能を担う。マテリアル事業の営業利益は5年前の50億円程度から100億円超へ倍増しており、希少資源と新素材の取扱拡大が収益を押し上げた。総合エネルギーとマテリアルの2事業が安定収益を生み、産業ガス・機械事業内の水素事業への先行投資を支える構造が定着した。多角化のおかげで水素事業の収益化が遅れても全社業績への影響が限定される構造である。
ヘリウム事業の海外市況軟化、トランプ関税の影響、二次電池材料の需要低迷など、2024年度には個別事業の逆風が散発したが、2024年4月に締結したコスモエネルギーHDとの資本業務提携で、炭酸ガス調達の強化、マテリアル分野での電子材料の海外共同販売、水素ステーション網の合同展開という3方面の協業が動き出した。創業95年を経た岩谷産業は、創業者の岩谷直治氏が1930年代から1980年代に築いた「捨てられる気体を売る」発想と全国流通網を骨格に、牧野会長が継承した水素エネルギー社会への先行投資を継続しながら、3代目以降の経営者が異業種連携と海外水素サプライチェーンの構築という次の段階に入った。「水素のイワタニ」と業界で呼ばれる立ち位置を、商用化の遅れと撤退損失を抱えながらも維持できるかが、創業100年に向けた経営の焦点となる。