大正製薬ホールディングス20mlアンプル剤から100mlドリンク剤への剤形変更と、リポビタンDの発売
薬の中身を変えるか、飲み方を変えるか——アンプルを瓶に替えた1962年3月の製品判断
- 概要
- 1962年3月、大正製薬が20ml入りアンプル剤「リポビタン液」を100ml入りのドリンク剤に改め、リポビタンDとして定価150円で発売した経営判断。発想は上原正吉社長自身のもので、社長は自著『商売は戦い』に着想の経緯を記している。
- 背景
- 内服アンプル剤で業績を伸ばす一方、味の濃さ・量の少なさ・開けにくさへの不満が使用者から寄せられていた。保健・栄養剤の使用動機を尋ねた同時代の調査では「健康上なんとなく」が最も多く、症状ではなく漠然とした期待で薬を買う層が広がっていた。
- 内容
- 先行商品の実績を踏まえて容量を100mlとし、アンプルから瓶へ替えたうえで、つまみを引くだけで開く新型キャップ(ポンキャップ)を採用した。味付けにはパインの風味を加え、医薬品でありながら冷やして飲む嗜好品に近い性格を持たせた。
- 含意
- 発売直後の店頭は1日1〜2本という低調な出足であったが、冷蔵ショーケースの無償提供と王貞治選手を立てた宣伝で売行きが変わった。1972年度の売上は1962年度比で12.75倍に達し、同社の利益構造を長く規定した。
効くかどうかではなく、飲みたくなるかどうか
変えたのは薬の中身ではなく、量と飲み口であった。薬に水を加えて量を多くすれば苦味は薄まる、という上原正吉社長の着想には、薬効を高める話が一つも出てこない。100mlという容量は先行のタウローゼCの実績から採り、開けやすさはポンキャップに、飲みやすさはパインの風味に委ねている。いずれも成分表の外側にある工夫である。効くかどうかではなく、進んで飲みたくなるかどうかを設計の基準に置いた点に、この判断の性格がうかがえる。
剤形を変えただけで売れたわけではない。発売直後の店頭では1日に1〜2本しか動かず、流れを変えたのは定価4万円の冷蔵ケースを無償で配る特売と、王貞治選手を立てた宣伝の物量であった。「ファイトを飲もう!」というキャッチフレーズは東京都の指示で書き換えられ、1965年には、効くとは一言も言っていないと広告の逃げ方を突く批評も出ている。製品の着想と、それを売り切る販売・宣伝の力は別のものであり、リポビタンDは両方が揃った例といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
内服アンプル剤で伸びていた大衆薬メーカー
リポビタンDが世に出る直前、大正製薬は内服アンプル剤で業績を伸ばしていた。1961年4月から1962年3月までの1年で、売上高は前年比144%、当期利益は同183%に達している。サモン液やパブロンアンプルの売上が業績を押し上げ、同社の営業報告書は、小売店の乱売が全国各地に波及した市況のなかで極めて順調な業績を収めたと記した。薬をアンプルで飲ませる売り方が、当時の主力であった[1][2]。
利益の使い道にも特徴があった。長く無配当政策をとり、利益のほとんどを工場と生産設備の刷新に投じていたため、自己資本に対する固定資産の比率はこの時期を通じて30〜40%台にとどまっている。日本銀行調査局の集計による医薬品製造業上位9社の平均は、1961年上期で85.01、1962年上期で85.06であった。配当に回さず内部に積み上げた自己資本が、増産に耐える財務の余裕を残していた[3][4]。
「健康上なんとなく」という使用動機
買い手の側でも、薬を求める理由が変わりつつあった。1962年、広告代理店の萬年社は東京279人・大阪275人を対象に「保健・栄養剤の利用状況に関する調査」を実施し、ビタミン剤・栄養強壮剤・肝臓薬・胃腸薬それぞれの使用動機を尋ねている。胃腸薬を除く各薬剤で最も多かった回答は「健康上なんとなく」であった。戦後の窮乏を脱した人々が、特定の症状のためではなく漠然とした期待から保健薬を買っていた[5]。
一方で、既存のアンプル剤には使い勝手の不満が寄せられていた。発売時のリーフレットが引くところでは、「アンプル剤は味が濃厚すぎてどうもあと口がよくない、殊にお酒の前後には甘ったるくて」という声、「20ccではものたりない、飲みごたえがない」という声、「アンプルをもっと簡単に切る方法ないものか」という声が並んでいる。味の濃さ、量の少なさ、開けにくさの三つが、そろって不満の的になっていた[6]。
決断
大型アンプル剤という着想
剤形を変える発想は、上原正吉社長自身のものであった。上原社長は自著『商売は戦い』に、薬は苦くまずいものと考えられていた当時にあって大正製薬のアンプル剤は味がよいとほめられていた、と書いている。そのうえで、薬に水を加えて量を多くすれば苦味やまずさはいっそう薄まり、さらに味をつけて冷やせば今のアンプルよりうまいものになると考えた、と経緯を記した。アイデアが浮かんだときは売れると思ったが、今日のように売れるとは思わなかった、とも述べている[7]。
この着想に基づき、従来20ml入りのアンプル剤であったリポビタン液を100ml入りのドリンク剤に改めたのがリポビタンDで、発売は1962年3月であった。強肝疲労回復液として、グルクロノラクトン、パントテノール、イノシトール、ビタミンK4、カフェイン、クエン酸、蜂蜜を配合している。薬効成分の刷新ではなく、飲む量と飲み口を変えることに判断が向いていた[8]。
100mlの瓶、ポンキャップ、パインの風味
100mlという容量は、思いつきで決まったわけではない。1961年7月に発売されたタウローゼCのような先行商品がすでに100mlで市場に出ており、その実績を踏まえた数字であった。ただし100mlをアンプルに収めることはできず、瓶への切り替えが必要になった。アンプルはヤスリでこすって口を開けるものであったが、リポビタンDの瓶には、つまみを引くだけで開く新型キャップ(ポンキャップ)が採用された[9]。
味付けにはパインの風味を加えた。当時のパインには高級感があり、飲みやすさに加えて嗜好品としての性格が製品に備わった。定価は150円に置かれている。同じ頃のもりそばが40円、ビールの大瓶が115円、理髪料金が160円であったことに照らせば、気軽に買える値段ではない。医薬品でありながら冷やして飲むものへ寄せ、そのぶんの価格を求める設計であった[10][11]。
結果
冷蔵ショーケースと王貞治選手
発売直後の売行きは期待を下回った。薬局・薬店の多くはドリンク剤という新しい製品の扱いに慣れておらず、1日に1〜2本というのが標準的な売上であった。そこで同社は1962年4月から「ストッカー付特売」を始める。定価4万円の冷蔵ショーケースを、リポビタンD4,000本を一括購入した店へ無料で提供するもので、庫内には250本が収まった。中身の見える冷蔵ケースが店頭に並び、1964年冬の全国紙の調査では、ドリンク剤を飲む人のおよそ60%がリポビタンDと答えるまでになった[12][13][14]。
1963年3月には、量産で原価が下がったとして再販価格を150円から3分の2の100円へ引き下げた。宣伝では前年11月に、一本足打法を披露した直後の巨人軍・王貞治選手と、翌年以降のタレント契約を結んでいる。発売時のキャッチフレーズ「ファイトを飲もう!」は1962年末に東京都から表現変更の指示を受け、翌年から「ファイトで行こう!」に改めた。1965年には、効くとは一言も言っていないと広告の逃げ方を突く批評も現れている[15][16][17][18]。
会社の利益構造を書き換えた一品
売上の構成も入れ替わった。1963年3月期の品目別実績では、パブロン15.4%、サモン14.6%に次いでリポビタンが10.0%を占め、上位5〜6品目で全売上高の約半分に達している。1968年3月期には売上高196億円・利益24億円を計上し、伸びている製品の筆頭にリポビタンDが挙げられた。発売から6年で、一つの製品が売上の上位に定着した[19][20]。
伸びはその後も続いた。1962年度を100とすると、リポビタンDと1965年5月発売のリポビタンDスーパーを合わせた売上は、10年後の1972年度に1,275、すなわち12.75倍となった。同じ期間に会社の売上高は1963年度の171億円から1972年度の331億円へ約2倍に拡大しており、社史はこの時期の躍進を支えたのが両製品の急成長であったと記している[21][22]。
- 大正製薬 大正製薬80年史(大正製薬, 1993)
- 大正製薬 大正製薬80年史(大正製薬, 1993)所収、上原正吉『商売は戦い』(1964)
- 証券 1963年10月号「新規上場会社紹介(第二部・化学工業)大正製薬株式会社」
- 企業の歴史 : 明治百年(1968)「大正薬」
- 現代の眼 1965年「上原正吉・日本最高所得者の人間感覚」(柳田邦夫)