船井電機輸出専業からの転換——製パン器とVTRによる国内市場参入

円高で韓国製が日本へ来るなら、こちらも国内で売れるか——26年目の方針転換

時期 1987年2月
意思決定者(推定) 船井哲良 社長
論点 販路と事業構成
概要
1987年2月に家庭用製パン器、3月にVTRを商品化し、1961年の設立以来続けてきた輸出専業を改めて国内市場へ参入した判断。1991年に国内売上比率30%という中期計画を掲げた。
背景
1985年のプラザ合意後の円高で、韓国をはじめNIES(新興工業経済群)製品が低価格を武器に日本市場へ入り始めた。船井哲良社長は、海外の店頭で韓国製品に価格と品質で勝っている以上、国内でも通じると読んだ。
内容
大手オーディオメーカーで30年国内営業を担った馬場永久氏を国内販売会社へ迎え、低価格を前面にVTRを投入した。据え置き型VTRでは1989年上半期に国内シェア7%を取ったとされ、「ジャパNIES」と呼ばれた。
含意
参入直後に現金問屋・通信販売業者へ製品を流して家電量販店から締め出され、国内売上高は下方修正された。1992年のテレビデオ「画2マン」で立て直したが、国内比率30%の計画は届かなかった。
筆者の見解

安さは、売り場の信用と一組でしか効かない

この判断が示したのは、価格競争力という強みが、そのままでは別の市場へ移らないという事実であった。海外の量販店と大口OEMを相手に磨いた「低価格・安定した品質・納期の正確さ」は、買い手が少数で、値段が単独で意味を持つ取引の作法に最適化されていた。日本の家電流通は系列と付き合いの長さで棚が決まる世界であり、そこへ安さだけを持ち込めば、安売り業者へ流した製品が量販店の信用を傷つける。参入2カ月で出荷を止め、5000店の販路を築き直すまでの数年は、その作法を学び直す時間であったとみることができる。

もっとも、国内参入がもたらしたものは売上比率だけで測れない。津山の開発陣を本社へ集め、価格を先に決めてから設計する体制を組んだことは、のちに北米で「フナイの方程式」と呼ばれる勝ち方の型をなぞっている。国内で得た手応えは、1990年代後半に北米で花開いた低価格量産の予行でもあった。それでも国内比率30%という当初の目標に届かなかった事実は残る。輸出専業の会社が国内で自前の顧客基盤を持てなかったことは、北米市場の変調が直接に経営を揺らす後年の構図と、どこかでつながっているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

国内で売らない会社

1961年の設立から四半世紀、船井電機は製品を国内でほとんど売らなかった。GEやフィリップスなどの米欧の大手電機メーカー、シアーズ・ローバックといった流通業者へのOEM供給が売上の大半を占め、日本国内では知名度が低く、東京・秋葉原の量販店でも取り扱いを断られる会社であった。低価格、安定した品質、納期の正確さという3点で取引を得る商売は、買い手が海外の大口顧客であることを前提にしていた[1]

その前提を揺らしたのが円高であった。1985年のプラザ合意後、1986年から進んだ円高を追い風に、韓国をはじめとするNIES(新興工業経済群)製品が低価格を武器に日本市場へ入り始めた。国内の家電メーカーの間では「船井電機脅威論」がささやかれる一方で、当の船井電機は海外の店頭で韓国勢と競り合ってきた側にあった。船井哲良社長は、円高になっても海外では韓国製品に価格と品質で勝っている以上、国内でも十分に太刀打ちできると読んだ[2]

量産の強さを国内で試す

手元には、値段で勝てるという確信があった。岡山県津山市と広島県福山市のVTR工場では、独自の生産方式FPS(フナイ・プロダクション・システム)によって、津山工場の1人1日あたりのVTR生産台数が1985年の16.7台から1989年には73.7台へ伸びていた。従業員数は1985年から約150人でほとんど変わっていない。工程ごとに不良品の検査個所を多く置いたうえでラインを最大速度で動かし、止まった箇所から問題を洗い出す手法が、低価格と安定した品質を同時に成り立たせていた[3]

もう一つ、国内で売る理由があった。ドル建て輸出に依存する損益は円高のたびに振れ、1971年のニクソンショック以来、船井電機はその不安定さと向き合ってきた。売上の一部でも円で立つ市場を持てば、為替の振れを内側で相殺できる。プラザ合意後の円高のなかで輸出専業から転じて国内市場へ入るという判断は、生産の海外移転と並ぶ、もう一方の為替対策でもあった[4]

決断

製パン器とVTRの2機種で始める

1987年2月、船井電機は家庭用製パン器を商品化し、翌3月にVTRを投入して国内市場へ乗り出した。国内向け製品は当初この2機種だけであった。販売の側には、大手オーディオメーカーで30年にわたり国内営業を担った馬場永久氏を国内販売会社の東京フナイに取締役営業本部長として迎えた。1991年には国内売上高の比率を30%まで高めるという中期経営計画も掲げ、輸出専業の会社を国内でも売れる会社に作り替える構想を対外的に示した[5][6]

売り方は値段一本であった。1987年に発売した録画専用VTRの店頭価格は2万5000円で、当時2万3000円ほどだった韓国製と正面から並んだ。据え置き型VTRは松下電器産業など大手5社が8割近いシェアを占める市場であったが、参入2年後の1989年上半期には国内で7%のシェアを取ったといわれた。NIES製品に競り勝つ低価格から「ジャパNIES」と呼ばれ、国内向けの品目も1990年初めにはVTR、大型テレビ、オーディオ、通信機器など40製品を超えた[7][8]

流通で犯した「致命的なミス」

つまずきは商品ではなく流通で起きた。参入直後、船井電機は極端な値引きを売り物にする現金問屋や通信販売業者へ自ら製品を卸した。国内営業を託された馬場永久取締役はこれを「致命的なミス」と呼んでいる。安売り品として店頭に出回った製品は、家電量販店にとって扱う利点も店の信用も損なうものであり、量販店から締め出されただけでなく、百貨店や大手スーパーからも取引を拒まれた。系列店を持たない輸出専業メーカーにとって、量販店は国内販売の命綱であった[9]

立て直しは早かった。参入から2カ月後には通信販売業者や現金問屋への出荷を全面的に止め、量販店の信頼回復に努めた。その結果、1990年初めには全国70カ所以上ある量販店のうち9割以上が船井製品を扱い、スーパーや百貨店も含めた取扱店は5000店を超えた。参入時にゼロだった営業拠点は20カ所となり、修理や部品供給のアフターサービス基地を兼ねた。ただ、販路を開いたことと売れることは別であり、量販店の一等地に棚を確保する段階では大手との差が残った[10][11]

結果

下方修正と、仮設プレハブへの本社移転

参入3年目に数字が止まった。1990年6月期の国内売上高は当初見込みの200億円から150億〜170億円へ下方修正され、国内比率30%を掲げた中期計画は事実上の見直しとなった。主力の据え置き型VTRでは、市場の需要が高音質のハイファイやS-VHSといった高級機へ移り、船井電機が得意とするノーマルタイプの比率は1988年の約45%から27〜28%まで下がった。大手のコストダウンも進み、値段の差そのものが縮んだ。1988年6月期に3.2%だった売上高経常利益率は、1989年6月期には1.0%まで落ち込んだ[12][13]

国内販売の管理も追いつかなかった。輸出向けOEM中心のメーカーとしての管理の甘さに人件費などのコスト増が重なり、1990年6月期には国内販売を担うフナイ販売が赤字に落ちた。同社は人員を100人前後減らし、営業所を6カ所閉じ、本社をJR新大阪駅前の一等地のビルから大阪府大東市の船井電機本社敷地内にある仮設プレハブへ移した。国内で売るという判断そのものは維持しながら、そのための組織はいったん削り込まれた[14]

「画2マン」が示した国内での勝ち方

立ち直りの糸口は、値段と商品企画をつなぎ直したところにあった。バブル好況期の1989年から岡山県・津山工場の開発技術スタッフを大阪本社へ集め、設計・マーケティング・購買を一体にして低価格品を開発する体制を組んだ。その成果が1992年発売のテレビデオ「画2マン」シリーズであり、14インチのカラーテレビと2ヘッドの据え置き型VTRを別々に買うより安い、実売5万円を切る値付けで量販店の売れ筋となった。小林三郎常務AV事業本部長は、1と1を足した値段が1.8になるように、価格に重点を置いて開発したと説明している[15]

数字も戻った。1992年6月期に3億円と赤字寸前まで落ちた経常利益は、1993年6月期には23億円と前期比8倍近くへ回復した。国内販売を担うフナイ販売の1993年6月期の売上高は147億円で前期比35%増、営業マンは常務を含めて48人、1人で約150店を回す体制であった。テレビデオでは松下電器産業を抑えて売れ行きトップに立ち、秋葉原の量販店の陳列棚でも一等地に並んだ。ただ、国内比率30%という当初の目標には届かず、1990年代後半の船井電機の主戦場は、ふたたび北米へ移っていった[16]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1990年3月12日号「船井電機 国内市場で発揮できない『強さ』」
  • 日経ビジネス 1994年2月14日号「船井電機 AV機器の海外生産先行 安さで国内シェア急上昇」
  • 日経ビジネス 1999年11月15日号「船井電機 プリンター絶好調、ROE40%の優良企業」
  • 週刊東洋経済 2002年12月14日号「特集 船井電機の選択 世界最強のAV家電 アジア勢に勝ち続ける理由」

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