ユキグニファクトリー太もやしの過当競争を経たまいたけ量産への参入と雪国まいたけの設立
栽培に成功してもすぐには会社を作らなかった──太もやしで失った3年が決めた3つの条件
- 概要
- 1983年7月、創業者の大平喜信氏が、産地直送の販売経路・独自の菌床栽培技術・1社への販売比率20%以下という3つの条件を先に満たしたうえで新潟県六日町に雪国まいたけを設立し、まいたけの量産に入った経営判断。
- 背景
- 3年かけて確立した太もやしの栽培法は、機械メーカーの自動栽培装置の発売で誰にでも使えるものへ変わり、参入業者が殺到して大平もやし店の売上高は急降下した。まいたけは需要の季節差・相場変動・機械化の難しさから企業化できないとされていた。
- 内容
- 農協から青果市場を経る流通を通さず市場へ直接卸し量販店へ自社で販売すること、独自の菌床栽培による大量生産技術を持つこと、1つの販売先への比率を20%以下に抑えることを設立の条件とし、量産で下がった原価を利益幅ではなく値下げに回した。
- 含意
- 1kg5,000円だったまいたけ価格は1994年に年平均1,000円まで下がり、高付加価値を見込んで参入した片倉工業・十条製紙の関連会社やJTなどの大手は大半が撤退した。全国生産量の70%前後を握り、1994年3月に新潟証券取引所へ上場した。
技術ではなく、技術が真似された後を先に決めた
太もやしの栽培法を3年かけて見つけた大平社長から優位を奪ったのは、競合の努力ではなく機械メーカーの自動栽培装置であった。技術は装置に載った時点で誰のものでもなくなる。まいたけで会社設立の前に3条件を置いたのは、この経験があったからだとみられる。独自の菌床栽培技術は3条件の1つにすぎず、残る産地直送の経路と1社20%以下の販売先構成は、技術が模倣された後も残る条件であった。
もっとも、3条件だけで大手を退けたとみるのは足りない。値下げを支えたのは日産350kgから33トンへの増産であり、それは健康志向でまいたけの需要が実際に伸びたから成り立った。前提が変われば、1kg1,000円の維持は参入を防ぐ条件ではなく、自らの利幅を削る制約に転じる。上場後も大平社長が生産調整で1,000円を守り続ける方針を示していたことは、その裏返しといえる。価格で参入を抑えた会社は、その価格から離れにくくなる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
太もやしに費やした3年と、装置の発売で終わった1年半
創業者の大平喜信氏は、1974年のオイルショックで地元の電機部品メーカーを退職し、翌1975年に実家から12km離れた新潟県六日町へ移って大平もやし店を開いた。新潟県で売られていなかった太いもやしを量産するためで、東京に住む親戚の勧めがきっかけであった。6畳1間に親子4人で暮らしながら、家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させ、エチレンガスでもやしの伸びを止めて太さを増す仕組みを3年かけて見つけた。太もやしは地元の人気商品となった[1]。
人気は1年半しか続かなかった。ある機械メーカーが太もやしの自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到し、大平もやし店の売上高は急降下した。3年かけて工夫した栽培法が、装置の発売で誰にでも使えるものへ変わった。大平社長は再び過当競争になると見て別の事業を探し、1982年、配達に行った農協の店頭で人工栽培のまいたけを買って食べた。天然のものと味がほとんど変わらず、量産すれば売れると考えた[2]。
企業化はできないとされた3つの理由
まいたけは、当時の業界で企業化できないとされていた。理由は3つある。夏場に消費が落ちて秋から急増するため需要期と不需要期の格差が大きく、生産計画を立てにくいこと。農産物であるため相場に左右されること。袋を使う栽培のため機械化しにくく、手間がかかること。加えて湿度と温度の厳密な管理が要り、農産物の割に初期投資が膨らむという事情もあった[3]。
そのため生産は農家の副業としての少量栽培が大半で、企業化した例も規模は限られていた。バイオ技術を持ち込んで参入した大手企業の多くはすでに撤退している。大平社長は1982年2月、まいたけ菌を開発した種菌メーカーから温度と湿度の管理データを受け取り、パート5人を雇って自宅に建てた工場で栽培に着手した。工場に泊まり込んで条件を変える試行を重ね、1年後には日産80kgだった能力を350kgまで広げた[4]。
決断
会社を作る前に置いた3つの条件
量産のめどが立っても、大平社長はすぐには会社を作らなかった。3つの条件を先に満たすと決めていた。農協から経済連、全農、青果市場、仲買を経る青果物の経路では中間マージンがかかって安く供給できないため、市場へ直接卸し、量販店へは自社から直接売ること。実験を重ねて独自の菌床栽培による大量生産技術を確立すること。1つの販売先への比率を20%以下に抑えること。この3つである[5]。
20%という上限は、特定のスーパーへ大量に納入すれば価格と出荷の主導権を販売先に握られるという判断から置いた。この水準なら大手スーパーが仕入れを止めても打撃は限られる。創業以来まいたけ菌を売ってきた森産業社長の森喜美男氏によれば、当時の栽培業者が尋ねるのは決まって大量に作る方法だったが、大平社長は量産もままならないうちから売り方まで構想していた[6]。
利幅を取らず、増産して価格を下げる
3つの条件が揃った1983年7月、大平社長は新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した。五十沢工場を新設し、日産350kgでまいたけの生産販売を始めた。ここで採った価格政策は、量産で下がった原価を利益幅に振り向けないというものであった。価格を他社並みに保てば利幅は厚くなるが、大平社長は逆に増産して価格を下げた[7]。
値下げには2つの狙いがあった。高級品のままでは消費が広がらないという読みと、まいたけ栽培へ乗り出してきた大手企業への防戦である。増産は無秩序ではなく、供給不足で価格が高騰しないよう市場の需要予測を立てて増設の計画を組んだ。1987年3月には東京営業所を開き、埼玉県に配送センターを置いて大手スーパーへ売り込んだ。量産によって価格が他社より3割から4割安く、売り込みは容易に進んだ[8]。
結果
1kg5,000円から1,000円へ下げた10年と大手の撤退
生産量は設立翌年の1984年に日産700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと毎年倍に増え、1990年には日産2万2,000kgに達した。1988年10月に日産9トン、1989年9月に12トン、1990年9月に22トンと工場の増設を重ねた結果である。1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけの価格は、1994年には年平均で1kg1,000円まで下がった[9]。
高い付加価値を見込んで参入した大手にとって、この値下がりは誤算となった。片倉工業や十条製紙の関連会社が乗り出し、1985年にはバイオブームに乗ってJTなどの大企業も相次いで進出したが、その大半が撤退している。企業化を阻むとされた3つの条件を先に越えたことが、そのまま他社の参入を抑える働きをした。全国のまいたけ年間生産量1万トンのうち70%を雪国まいたけが供給した[10]。
新潟証券取引所への上場と1kg1,000円を保つ生産調整
売上高は設立時の年商1億円から1993年3月期に約46億円へ伸び、1994年3月期は64億円、経常利益8億3,800万円を見込んだ。1994年3月11日、雪国まいたけは新潟証券取引所の地域産業育成部へ株式を上場した。コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、キノコ専業としても上場第1号となった。従業員は450人を数えた[11]。
上場後も大平社長は、1kgあたり平均1,000円の価格維持を目安に生産量を調整する方針を示した。この水準で推移すれば他社の参入は難しいという見立てで、供給不足によって1,000円を上回る見通しの年度は積極的に増産する計画を立てた。1992年4月には大阪営業所を設けて関西市場の開拓に入り、1993年には生産能力を日産22トンから33トンへ1.5倍に増強した[12]。
- 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
- 日経ビジネス 1994年5月23日号
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】