創業者の大平喜信氏は、六日町立五十沢中学校を卒業したのち地元の電機部品メーカーに勤めていた[1]。1974年、オイルショックのあおりで退職し、もやし作りへ転じた[2]。翌1975年には実家から12km離れた新潟県六日町へ移り、大平もやし店を開いた[3]。新潟県で売られていなかった太いもやしを量産するためで、きっかけは東京に住む親戚の勧めにある[4]。6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂を近所の親戚に頼る生活のなか、家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させ、エチレンガスでもやしの伸びを止めて太さを増す仕組みを3年かけて見つけ、太もやしは地元の人気商品となった[5]。
成功は1年半しか続かなかった。ある機械メーカーが太もやしの自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到し、大平もやし店の売上高は急降下した[6]。3年かけて工夫した栽培法は装置の発売で誰にでも使えるものに変わり、大平喜信社長は過当競争を避けて別の事業を探した[7]。1982年、配達に行った隣町の農協の店頭で人工栽培のまいたけが売られているのを見つけ、買って食べた[8]。天然のまいたけと味がほとんど変わらず、量産すれば商売になると考えた[9]。もやし店は倒産寸前に陥っており、中卒で独立した自分が実家に戻れば村で笑い物になるという思いが、まいたけへの転身を決めさせた[10]。
まいたけの生産に乗り出したのは1982年2月である[11]。まいたけ菌を開発した種菌メーカーから温度と湿度の管理データを受け取り、パート5人を雇い、自宅に建てた工場で栽培に着手した[12]。まいたけの栽培研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーが主に原木栽培で進めたものの成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んだった菌床栽培によって実を結んでいた[13]。人工栽培は、広葉樹のオガ粉と水とフスマを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる[14]。ただし一定量を作り続けるのは難しく、大平喜信社長は工場に泊まり込み、部屋を暗くして光量を変え、風を送り、湿度を下げる組み合わせを繰り返し試した[15]。1年後には日産80kgだった能力が350kgまで広がり、量産のめどが立った[16]。
1983年7月、大平喜信社長は新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した[17]。五十沢工場を新設し、まいたけの生産販売を始めた[18]。設立の条件として3つの原則を置いた[19]。農協から経済連、全農、青果市場、仲買を経る青果物の流通では中間マージンがかかって安く供給できないため、市場へ直接卸し、量販店へは自社から直接販売する経路を作った[20]。他社と同じ方法では追い越せないため、実験を重ねて独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した[21]。特定のスーパーへ大量に納入すると価格と出荷の主導権を販売先に握られるため、1つの販売先への比率を20%以下に抑えた[22]。この水準なら大手スーパーが仕入れを止めても打撃は限られると判断した[23]。
設立時の生産量は日産350kgで[24]、1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと毎年倍に増やした[25]。創業以来まいたけ菌を買い続けた種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏によれば、当時の栽培業者が同社に尋ねるのは決まって大量に作る方法だったが、大平喜信社長は量産もままならないうちから売り方まで構想していた[26]。量産だけにこだわって失速したもやしの経験が、売り先と価格を先に決める判断を生んだ[27]。1986年6月には本社を新築して南魚沼市余川へ移し、同年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田へ新設し、まいたけの生産に入った[28]。
1987年3月に東京営業所を開設し、大手スーパーへ売り込んだ[29]。埼玉県には配送センターも置いた[30]。量産によって価格が他社より3割から4割安く、売り込みは容易に進んだ[31]。価格を他社並みに上げて利益幅を広げる道は取らず、増産して価格を下げた[32]。高級品では消費が広がらないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた片倉工業や十条製紙の関連会社に対する防戦の意味があった[33]。1985年にはバイオブームに乗ってJTなどの大企業が相次いでまいたけ栽培へ進出した[34]。1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけの価格は、1994年には年平均で1kg1,000円まで下がった[35]。高い付加価値を見込んで参入した大手にとっては誤算となり、その大半が撤退した[36]。
1988年、ベンチャーキャピタルの日本合同ファイナンスで専務を務めた秋野正司氏が六日町を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を出資した[37]。秋野氏は、空気がきれいで土地も安い六日町の事業環境に大平喜信社長の熱意が加われば伸びると見込んだ[38]。売上高7億円の企業への投資としては異例の規模で、雪国まいたけはこれをきっかけに上場までに27億円を調達し、工場を相次いで新設した[39]。同じ時期、イトーヨーカ堂で青果を担当したチーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から続けてきた取引の拡大を決めた[40]。10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ配る経路ができ、契約の成立を機に他のスーパーや百貨店へも販路が広がった[41]。
生産能力は1988年10月に日産9トン、1989年9月に12トン、1990年9月に22トンへ引き上げた[42]。むやみに増やしたのではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増設の計画を組んだ[43]。生産設備では、1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐へ新設し、まいたけの生産を始めた[44]。1990年4月には大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を再び手掛けた[45]。1992年8月には新本社と本社パッケージセンターへ新築移転した[46]。総工費23億円の12階建てで、着工したのは売上高が20億円しかなかった1989年である[47]。
1994年3月11日、雪国まいたけは新潟証券取引所の地域産業育成部へ株式を上場した[48]。コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、キノコ専業としても上場第1号となった[49]。1993年には生産能力を日産22トンから33トンへ1.5倍に増強し、全国のまいたけ年間生産量1万トンの70%を供給した[50]。売上高は設立時の年商1億円から1993年3月期の約46億円へ伸び、1994年3月期は売上高64億円、経常利益8億3,800万円を見込んだ[51]。大平喜信社長は上場後も、1kgあたり平均1,000円の維持を目安に生産量を調整する方針を示した[52]。
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|---|---|---|---|---|
| 1983〜1994年1kg5,000円のまいたけを1,000円まで下げた量産化 | 太もやしの過当競争を経たまいたけ量産への参入と雪国まいたけの設立 1983年7月、創業者の大平喜信氏が、産地直送の販売経路・独自の菌床栽培技術・1社への販売比率20%以下という3つの条件を先に満たしたうえで新潟県六日町に雪国まいたけを設立し、まいたけの量産に入った経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大平喜信 | 第1バイオセンターを新設、まいたけの生産を開始 | ★ | ||
| 大平喜信 | 納豆工場を本社隣接地に新設、納豆の製造販売を開始 | ★ | ||
| 大平喜信 | 大平もやし店の営業権を譲受、もやしの生産販売を開始 | ★★ | ||
| 大平喜信 | 株式額面変更のため新法人が旧法人を吸収合併 | ★ | ||
| 大平喜信 | 新潟証券取引所の地域産業育成部に株式を上場 | ★ | ||
| 1995〜2004年生コンクリートまで広げた多角化と、9.1億円の中間赤字 | 大平喜信 | まいたけ水煮の自社生産による販売を開始 | ★ | |
| 大平喜信 | 健康維持食品「MDフラクション」の製造販売を開始 | ★★ | ||
| 大平喜信 | トータクの株式取得により加工食品の製造販売に参入 | ★ | ||
| 大平喜信 | 新潟証券取引所と東京証券取引所の合併に伴い市場第二部に上場 | ★ | ||
| 大平喜信 | 子会社を設立、海外事業に参入 | ★ | ||
| 大平喜信 | 平成興業を設立、生コンクリートの製造販売を開始 | ★ | ||
| 大平喜信 | ホクトの主力であるぶなしめじ・エリンギへの参入と、第4・第5バイオセンターの新設 2002年、雪国まいたけが五泉バイオセンターでぶなしめじの生産を始め(3月)、南魚沼市津久野に第4バイオセンターを新設してエリンギの生産に入り(5月)、業界最大手ホクトの主力品目へ参入した経営判断。前年2001年にホクトが雪国まいたけの独壇場だったまいたけへ参入したことへの対抗で、大平喜信社長が主導した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 大平喜信 | 第4バイオセンターを新設、エリンギの生産を開始 | ★ | ||
| 2005〜2015年自己資本比率2%台への低下と、ベインキャピタルによる非公開化 | 大平喜信 | 上海雪国高榕生物技術を設立、えのき茸の生産を開始 | ★ | |
| 大平喜信 | 「雪国やさい革命」シリーズのカット野菜の製造販売を開始 | ★ | ||
| 大平喜信 | 滋賀パッケージセンターを新設、もやしとカット野菜の出荷を開始 | ★ | ||
| 星名光男 | 創業者の大平喜信氏が代表取締役を辞任 | ★★★ | ||
| 鈴木克郎 | ベインキャピタルによる株式公開買付けへの賛同と、東証二部からの上場廃止 2015年2月23日、雪国まいたけの取締役会が米投資ファンドのベインキャピタルによる1株245円・最大約95億円の株式公開買付けに賛同し、同年6月に東京証券取引所第二部の上場を廃止した経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 鈴木克郎 | BCJ-22を存続会社とする合併により雪国まいたけに商号変更 | ★ | ||
| 2016〜2026年もやしと中国生産を手放しオランダへ出たユキグニファクトリー | 足利厳 | 雪国バイオフーズの株式をサラダコスモに譲渡 | ★★ | |
| 足利厳 | 中国のきのこ生産子会社の株式を譲渡 | ★★ | ||
| 足利厳 | 神明がベインキャピタルから株式49%を取得 | ★★★ | ||
| 足利厳 | タカラバイオから瑞穂農林ときのこセンター金武を取得 | ★★ | ||
| 足利厳 | 三蔵農林の全株式を取得、マッシュルーム事業に参入 | ★ | ||
| 足利厳 | カット野菜と納豆の製造出荷を終了 | ★★ | ||
| 足利厳 | 雪国まいたけホールディングスを存続会社とする合併 | ★ | ||
| 足利厳 | 東京証券取引所市場第一部に株式を上場 | ★★ | ||
| 湯澤尚史 | 東京証券取引所の市場再編に伴いプライム市場に移行 | ★ | ||
| 湯澤尚史 | きのこ生産会社Oakfield Champignonsの全株式を取得 | ★★ | ||
| 湯澤尚史 | 「キノコのお肉」シリーズの製造販売を開始 | ★ | ||
| 湯澤尚史 | ユキグニファクトリーに商号変更 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(ユキグニファクトリー)