ユキグニファクトリー の歴史

更新: Author:

創業 1983年
創業者 大平喜信
創業地 新潟県南魚沼郡六日町
創業
1975年、大平喜信氏が新潟県六日町に大平もやし店を創業し、県内で売られていなかった太もやしを量産した。ところが機械メーカーが自動栽培装置を発売すると参入業者が殺到し、3年かけて工夫した栽培法は誰にでも使えるものへ変わって売上が急落する。1982年2月、隣町の農協の店頭で見た人工栽培のまいたけへ転じ、自宅に建てた工場でパート5人と栽培を始めた。翌1983年7月、新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した。市場へ直接卸すこと、独自の菌床栽培技術を持つこと、1つの販売先への比率を20%以下に抑えることの3つを設立の条件に置いた。1994年3月に新潟証券取引所へ上場し、2025年4月に商号をユキグニファクトリーへ改めている。
決断
値上げできる場面でも増産を選び、価格を下げ続けてきた。1987年3月に東京営業所を開設した時点で、量産により価格は他社より3割から4割安かった。それでも他社並みへ戻して利益幅を広げる道は取らず、さらに増産して単価を下げる。高級品では消費が広がらないという読みに加え、1985年前後にJT片倉工業、十条製紙の関連会社が相次いで参入したことへの防戦でもあった。1983年に高値で1kg5,000円だったまいたけは1994年に年平均1,000円へ下がり、参入した大手の大半が撤退している。ただし値下げを支えたのは連続した設備投資であり、自己資本比率が2%台まで低下した末に、2015年6月、ベインキャピタルによる株式公開買付けに賛同して東証二部の上場を廃止した。賛同によって株主構成そのものが入れ替わり、以後の立て直しは非公開のもとで進んだ。
現況
非公開化を挟んだ9年で、きのこ以外の事業がすべて消えた。2016年8月にもやしと生コンクリートの雪国バイオフーズをサラダコスモへ譲渡し、2017年4月には中国でまいたけを生産していた子会社を、2019年3月には米国の子会社2社を売却した。買い足したのは同じきのこだけで、2019年に本しめじの瑞穂農林とマッシュルームの三蔵農林、2023年12月にはオランダのOakfield Champignonsを取得した。2026年3月期の売上収益は378億円、営業利益は43億円で、報告セグメントは茸事業の一つしかない。多角化の只中にあった2005年3月期は売上高229億円に対し経常利益5億9,000万円で、営業利益率11.4%まで戻した現在との差が、9年で何を捨てたかを示している。
競合
独占していた品目へ相手が入り、相手の品目へこちらが入った。1995年の時点で雪国まいたけはまいたけの人工栽培の70%を占めていたが、2001年、ぶなしめじとエリンギで最大手のホクト赤字を織り込んだ値下げでまいたけへ参入する。雪国まいたけは相手の主力品目へ逆に参入し、2002年3月に五泉バイオセンターでぶなしめじ、同年5月に第4バイオセンターでエリンギの生産を始めた。まいたけで確立した菌床栽培の技術は、そのまま他の品目へも移せる。ただし量産して単価を下げる方法は相手も同じように使えた。相互参入は供給過剰による値崩れを招き、2003年9月中間期には両社そろって赤字となる。市場を広げるための値下げは、独占の外では互いの採算を細らせる手段へ変わった。
長期業績の推移 1994〜2026年
ユキグニファクトリー:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 1kg5,000円のまいたけを1,000円まで下げた量産化 (1983年〜)

創業ストーリー(1)

自動栽培装置に消えた太もやしと1982年のまいたけ転身

創業者の大平喜信氏は、六日町立五十沢中学校を卒業したのち地元の電機部品メーカーに勤めていた[1]。1974年、オイルショックのあおりで退職し、もやし作りへ転じた[2]。翌1975年には実家から12km離れた新潟県六日町へ移り、大平もやし店を開いた[3]。新潟県で売られていなかった太いもやしを量産するためで、きっかけは東京に住む親戚の勧めにある[4]。6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂を近所の親戚に頼る生活のなか、家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させ、エチレンガスでもやしの伸びを止めて太さを増す仕組みを3年かけて見つけ、太もやしは地元の人気商品となった[5]

  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [1]大平喜信氏は1963年3月に六日町立五十沢中学校を卒業し、地元の電機部品メーカーに勤務した
    • [3]1975年、もやし店を開くため実家から12km離れた六日町へ越し、大平もやし店を創業した
    • [4]新潟県では売られていなかった太いもやしを量産するためで、東京に住む親戚が勧めたのがきっかけだった
    • [5]6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂は近所の親戚に頼った。家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させエチレンガスを出し、もやしの太さを増す仕組みを3年かかって発見し、一時は地元の人気商品となった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [2]1974年にオイルショックのあおりで地元の電気会社を退職せざるをえなくなり、脱サラでもやし作りを始めた

成功は1年半しか続かなかった。ある機械メーカーが太もやしの自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到し、大平もやし店の売上高は急降下した[6]。3年かけて工夫した栽培法は装置の発売で誰にでも使えるものに変わり、大平喜信社長は過当競争を避けて別の事業を探した[7]。1982年、配達に行った隣町の農協の店頭で人工栽培のまいたけが売られているのを見つけ、買って食べた[8]。天然のまいたけと味がほとんど変わらず、量産すれば商売になると考えた[9]。もやし店は倒産寸前に陥っており、中卒で独立した自分が実家に戻れば村で笑い物になるという思いが、まいたけへの転身を決めさせた[10]

  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [6]太もやしの成功は1年半しか続かず、ある機械メーカーが自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到して売り上げが急降下した
    • [8]1982年、もやし店を経営していた大平氏が配達に行った農協で人工まいたけが売られているのを目にし、買って食べた
    • [10]当時もやし店は倒産寸前の状況に陥っており、中卒の自分が実家に戻れば村で笑い物になると考えた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [7]某機械メーカーが太もやしを栽培できる装置を完成させて売り出したため3年がかりの苦労が水の泡となり、過当競争になるとみて別の事業を手掛けなければならないと考えた
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [9]隣町の農協で買った人工まいたけを食べたところ天然ものと味がそれほど違わず、これはいけるとすぐに決断した

まいたけの生産に乗り出したのは1982年2月である[11]。まいたけ菌を開発した種菌メーカーから温度と湿度の管理データを受け取り、パート5人を雇い、自宅に建てた工場で栽培に着手した[12]。まいたけの栽培研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーが主に原木栽培で進めたものの成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んだった菌床栽培によって実を結んでいた[13]。人工栽培は、広葉樹のオガ粉と水とフスマを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる[14]。ただし一定量を作り続けるのは難しく、大平喜信社長は工場に泊まり込み、部屋を暗くして光量を変え、風を送り、湿度を下げる組み合わせを繰り返し試した[15]。1年後には日産80kgだった能力が350kgまで広がり、量産のめどが立った[16]

  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [11]大平社長がまいたけ生産に乗り出したのは1982年2月である
    • [12]まいたけ菌を開発したキノコ菌メーカーから温度・湿度管理の技術データをもらい、パート5人を雇って生産を始めた。1982年に自宅に工場を建設した
    • [14]まいたけの人工栽培は広葉樹のオガ粉、水、フスマなどを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる
    • [16]1年後には日産80kgだった能力が350kgに拡大し、量産化のめどが立った
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [13]まいたけ栽培の研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーによって主に原木栽培で行われてきたが成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んに行われていた菌床栽培により成功した
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [15]工場に泊まり込み、連日部屋を暗くして光量を変えたり、風を送ったり、湿度を下げたりと生長が促進される環境づくりに明け暮れた
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [1]大平喜信氏は1963年3月に六日町立五十沢中学校を卒業し、地元の電機部品メーカーに勤務した
    • [3]1975年、もやし店を開くため実家から12km離れた六日町へ越し、大平もやし店を創業した
    • [4]新潟県では売られていなかった太いもやしを量産するためで、東京に住む親戚が勧めたのがきっかけだった
    • [5]6畳1間に親子4人が暮らし、トイレと風呂は近所の親戚に頼った。家屋の横の栽培室でストーブを不完全燃焼させエチレンガスを出し、もやしの太さを増す仕組みを3年かかって発見し、一時は地元の人気商品となった
    • [6]太もやしの成功は1年半しか続かず、ある機械メーカーが自動栽培装置を売り出すと参入業者が殺到して売り上げが急降下した
    • [8]1982年、もやし店を経営していた大平氏が配達に行った農協で人工まいたけが売られているのを目にし、買って食べた
    • [10]当時もやし店は倒産寸前の状況に陥っており、中卒の自分が実家に戻れば村で笑い物になると考えた
    • [15]工場に泊まり込み、連日部屋を暗くして光量を変えたり、風を送ったり、湿度を下げたりと生長が促進される環境づくりに明け暮れた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [2]1974年にオイルショックのあおりで地元の電気会社を退職せざるをえなくなり、脱サラでもやし作りを始めた
    • [7]某機械メーカーが太もやしを栽培できる装置を完成させて売り出したため3年がかりの苦労が水の泡となり、過当競争になるとみて別の事業を手掛けなければならないと考えた
    • [13]まいたけ栽培の研究は1955年ごろから試験研究機関や種菌メーカーによって主に原木栽培で行われてきたが成功せず、1970年代に入ってヒラタケやナメコで盛んに行われていた菌床栽培により成功した
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [9]隣町の農協で買った人工まいたけを食べたところ天然ものと味がそれほど違わず、これはいけるとすぐに決断した
    • [11]大平社長がまいたけ生産に乗り出したのは1982年2月である
    • [12]まいたけ菌を開発したキノコ菌メーカーから温度・湿度管理の技術データをもらい、パート5人を雇って生産を始めた。1982年に自宅に工場を建設した
    • [14]まいたけの人工栽培は広葉樹のオガ粉、水、フスマなどを混ぜた培地を殺菌し、そこにまいたけ菌を植え込む方式で、3カ月で出荷できる
    • [16]1年後には日産80kgだった能力が350kgに拡大し、量産化のめどが立った
創業ストーリー(2)

産地直送・独自技術・1社20%以下という3つの原則

1983年7月、大平喜信社長は新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した[17]。五十沢工場を新設し、まいたけの生産販売を始めた[18]。設立の条件として3つの原則を置いた[19]。農協から経済連、全農、青果市場、仲買を経る青果物の流通では中間マージンがかかって安く供給できないため、市場へ直接卸し、量販店へは自社から直接販売する経路を作った[20]。他社と同じ方法では追い越せないため、実験を重ねて独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した[21]。特定のスーパーへ大量に納入すると価格と出荷の主導権を販売先に握られるため、1つの販売先への比率を20%以下に抑えた[22]。この水準なら大手スーパーが仕入れを止めても打撃は限られると判断した[23]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [17]1983年7月、新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した
    • [20]農協→経済連→全農→青果市場→仲買→スーパー→消費者という従来の青果物ルートでは中間マージンもかかり消費者に安価で供給できないと考え、市場へ直接卸す方式のほか量販店へは直接販売することとした
    • [21]他社と同じ方法をとっていたのでは他社を追い越せないと考え、実験を繰り返して独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した
    • [22]ダイレクト取引で特定のスーパーなどに大量納入する偏りがあると価格・出荷面で販売先に主導権を握られるおそれがあるため、1販売先への割合を20%以下に抑えることにした
    • [23]1販売先20%以下であれば、大手スーパーなどが仕入れをストップしても大きな打撃を受けなくて済む
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1983年7月、株式会社雪国まいたけを設立し、五十沢工場新設によりまいたけの生産販売を開始した
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [19]会社設立にあたり大平社長は3つの経営原則を決めた。流通の中間段階を省いた産地直送型の販売ルートを作ること、独自技術の開発、大手取引先への依存度を1社20%以内に抑えることの3つである

設立時の生産量は日産350kgで[24]、1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと毎年倍に増やした[25]。創業以来まいたけ菌を買い続けた種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏によれば、当時の栽培業者が同社に尋ねるのは決まって大量に作る方法だったが、大平喜信社長は量産もままならないうちから売り方まで構想していた[26]。量産だけにこだわって失速したもやしの経験が、売り先と価格を先に決める判断を生んだ[27]。1986年6月には本社を新築して南魚沼市余川へ移し、同年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田へ新設し、まいたけの生産に入った[28]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [24]会社設立後、生産を本格化して当初は日産350kgから始めた
    • [25]日産は1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと倍々で増えた
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [26]創業以来まいたけ菌を購入している種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏は、多くの栽培業者が尋ねるのは決まって『どうすれば大量に作れるか』だったが、大平氏は量産もままならないうちから売り方まで構想を膨らませていたと述べた
    • [27]森喜美男氏は、量産だけにこだわってしまったもやしの失敗を教訓にしていたのだろうと指摘した
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [28]1986年6月に本社新築により新潟県南魚沼市余川89番地へ移転し、1986年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田に新設してまいたけの生産を開始した

1987年3月に東京営業所を開設し、大手スーパーへ売り込んだ[29]。埼玉県には配送センターも置いた[30]。量産によって価格が他社より3割から4割安く、売り込みは容易に進んだ[31]。価格を他社並みに上げて利益幅を広げる道は取らず、増産して価格を下げた[32]。高級品では消費が広がらないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた片倉工業や十条製紙の関連会社に対する防戦の意味があった[33]。1985年にはバイオブームに乗ってJTなどの大企業が相次いでまいたけ栽培へ進出した[34]。1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけの価格は、1994年には年平均で1kg1,000円まで下がった[35]。高い付加価値を見込んで参入した大手にとっては誤算となり、その大半が撤退した[36]

  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [29]1987年3月に東京営業所を開設した。1987年に東京都内に営業所をつくり、大手スーパーに売り込んだ
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [30]1987年、東京都内の営業所とあわせて埼玉県に配送センターも設置した
    • [31]大手スーパーへの売り込みは容易だった。量産化によって他社に比べ価格が3、4割安かったため
    • [32]価格を他社並みにして利益幅を増やすことは避け、逆に増産によって価格を下げた
    • [33]高級品では消費が拡大しないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた大手企業への防戦の意味もあった。参入してきたのは片倉工業や十条製紙(現・日本製紙)の関連会社などである
    • [35]1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけ価格は、1994年時点で年平均1kg1,000円にまで下がった
    • [36]多くの大手企業がバイオ技術を武器にキノコ業界に参入したが、その大半は撤退した。高付加価値を狙って参入した大手にとっては大きな誤算だった
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [34]1985年にはバイオブームに乗ってJTなど大企業が続々とまいたけ栽培事業に進出した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [17]1983年7月、新潟県六日町に株式会社雪国まいたけを設立した
    • [20]農協→経済連→全農→青果市場→仲買→スーパー→消費者という従来の青果物ルートでは中間マージンもかかり消費者に安価で供給できないと考え、市場へ直接卸す方式のほか量販店へは直接販売することとした
    • [21]他社と同じ方法をとっていたのでは他社を追い越せないと考え、実験を繰り返して独自の菌床栽培による大量生産技術を確立した
    • [22]ダイレクト取引で特定のスーパーなどに大量納入する偏りがあると価格・出荷面で販売先に主導権を握られるおそれがあるため、1販売先への割合を20%以下に抑えることにした
    • [23]1販売先20%以下であれば、大手スーパーなどが仕入れをストップしても大きな打撃を受けなくて済む
    • [24]会社設立後、生産を本格化して当初は日産350kgから始めた
    • [25]日産は1984年に700kg、1985年に1,400kg、1986年に3,000kg、1987年に6,000kgと倍々で増えた
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [18]1983年7月、株式会社雪国まいたけを設立し、五十沢工場新設によりまいたけの生産販売を開始した
    • [28]1986年6月に本社新築により新潟県南魚沼市余川89番地へ移転し、1986年10月に第1バイオセンターを南魚沼市水尾新田に新設してまいたけの生産を開始した
    • [29]1987年3月に東京営業所を開設した。1987年に東京都内に営業所をつくり、大手スーパーに売り込んだ
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [19]会社設立にあたり大平社長は3つの経営原則を決めた。流通の中間段階を省いた産地直送型の販売ルートを作ること、独自技術の開発、大手取引先への依存度を1社20%以内に抑えることの3つである
    • [30]1987年、東京都内の営業所とあわせて埼玉県に配送センターも設置した
    • [31]大手スーパーへの売り込みは容易だった。量産化によって他社に比べ価格が3、4割安かったため
    • [32]価格を他社並みにして利益幅を増やすことは避け、逆に増産によって価格を下げた
    • [33]高級品では消費が拡大しないという読みに加え、まいたけ栽培に乗り出してきた大手企業への防戦の意味もあった。参入してきたのは片倉工業や十条製紙(現・日本製紙)の関連会社などである
    • [35]1983年に高値で1kg5,000円、安値で1,500円だったまいたけ価格は、1994年時点で年平均1kg1,000円にまで下がった
    • [36]多くの大手企業がバイオ技術を武器にキノコ業界に参入したが、その大半は撤退した。高付加価値を狙って参入した大手にとっては大きな誤算だった
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [26]創業以来まいたけ菌を購入している種菌開発業者、森産業(群馬県桐生市)社長の森喜美男氏は、多くの栽培業者が尋ねるのは決まって『どうすれば大量に作れるか』だったが、大平氏は量産もままならないうちから売り方まで構想を膨らませていたと述べた
    • [27]森喜美男氏は、量産だけにこだわってしまったもやしの失敗を教訓にしていたのだろうと指摘した
    • [34]1985年にはバイオブームに乗ってJTなど大企業が続々とまいたけ栽培事業に進出した
創業ストーリー(3)

日産33トンへの増設と1994年3月の新潟証券取引所上場

1988年、ベンチャーキャピタルの日本合同ファイナンスで専務を務めた秋野正司氏が六日町を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を出資した[37]。秋野氏は、空気がきれいで土地も安い六日町の事業環境に大平喜信社長の熱意が加われば伸びると見込んだ[38]。売上高7億円の企業への投資としては異例の規模で、雪国まいたけはこれをきっかけに上場までに27億円を調達し、工場を相次いで新設した[39]。同じ時期、イトーヨーカ堂で青果を担当したチーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から続けてきた取引の拡大を決めた[40]。10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ配る経路ができ、契約の成立を機に他のスーパーや百貨店へも販路が広がった[41]

  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [37]1988年、大手ベンチャーキャピタル日本合同ファイナンス専務の秋野正司氏が大平氏を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を投資した
    • [38]秋野正司氏は「六日町は空気もきれいで土地も安い。整った事業環境に大平さんの熱意が加われば、大化けするのではと勘が働いた」と述べた
    • [39]売上高7億円の企業に対する2億円の投資は異例の額で、これをきっかけに雪国まいたけは上場までに27億円を調達し、続々と工場を新設した
    • [40]イトーヨーカ堂食品事業部ニューMD青果担当チーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から始めた取引を本格的に拡張することにした
    • [41]10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ送った。イトーヨーカ堂との契約成立は他のスーパーや百貨店にも販路を広げるきっかけとなった

生産能力は1988年10月に日産9トン、1989年9月に12トン、1990年9月に22トンへ引き上げた[42]。むやみに増やしたのではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増設の計画を組んだ[43]。生産設備では、1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐へ新設し、まいたけの生産を始めた[44]。1990年4月には大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を再び手掛けた[45]。1992年8月には新本社と本社パッケージセンターへ新築移転した[46]。総工費23億円の12階建てで、着工したのは売上高が20億円しかなかった1989年である[47]

  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [42]1988年10月に日産9トン、1989年9月に同12トン、1990年9月に同22トンと相次いで工場を増設して生産能力を高めた
    • [43]むやみに増産したわけではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増産計画を立てた
    • [47]六日町の本社ビルは総工費23億円の12階建てで、売上高が20億円しかなかった1989年に着工し、1992年に完成した
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐に新設し、まいたけの生産を開始した
    • [45]1990年4月に大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を開始した
    • [46]1992年8月に新本社及び本社パッケージセンターを新築移転した

1994年3月11日、雪国まいたけは新潟証券取引所の地域産業育成部へ株式を上場した[48]。コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、キノコ専業としても上場第1号となった[49]。1993年には生産能力を日産22トンから33トンへ1.5倍に増強し、全国のまいたけ年間生産量1万トンの70%を供給した[50]。売上高は設立時の年商1億円から1993年3月期の約46億円へ伸び、1994年3月期は売上高64億円、経常利益8億3,800万円を見込んだ[51]大平喜信社長は上場後も、1kgあたり平均1,000円の維持を目安に生産量を調整する方針を示した[52]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [48]1994年3月11日に株式を新潟証券取引所へ上場した。1994年3月、当社株式を新潟証券取引所の地域産業育成部へ上場
    • [50]1993年に生産能力を従来の日産22トンから同33トンへ1.5倍に増強した。全国シェアは70%前後に達している
    • [51]売上高は会社設立時の年商1億円から1993年3月期には約46億円となり、1994年3月期は売上高64億円、営業利益12億1,000万円、経常利益8億3,800万円、当期純利益4億1,200万円を見込む
    • [52]1kg当たり平均1,000円ぐらいの価格の維持を目安として生産を調整してきたと述べた
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [49]コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、全国的にもキノコ専業として上場第1号になった
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号
    • [37]1988年、大手ベンチャーキャピタル日本合同ファイナンス専務の秋野正司氏が大平氏を訪ね、出会いから3カ月後に2億円を投資した
    • [38]秋野正司氏は「六日町は空気もきれいで土地も安い。整った事業環境に大平さんの熱意が加われば、大化けするのではと勘が働いた」と述べた
    • [39]売上高7億円の企業に対する2億円の投資は異例の額で、これをきっかけに雪国まいたけは上場までに27億円を調達し、続々と工場を新設した
    • [40]イトーヨーカ堂食品事業部ニューMD青果担当チーフバイヤーの杉岡一郎氏が、1984年から始めた取引を本格的に拡張することにした
    • [41]10トントラック3台で埼玉県の集中配送センターへ運び、そこから全国の店舗へ送った。イトーヨーカ堂との契約成立は他のスーパーや百貨店にも販路を広げるきっかけとなった
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
    • [42]1988年10月に日産9トン、1989年9月に同12トン、1990年9月に同22トンと相次いで工場を増設して生産能力を高めた
    • [43]むやみに増産したわけではなく、市場の需要予測を立て、供給不足で価格が高騰しないように増産計画を立てた
    • [47]六日町の本社ビルは総工費23億円の12階建てで、売上高が20億円しかなかった1989年に着工し、1992年に完成した
    • [49]コシヒカリの産地である魚沼地方の企業では初の上場であり、全国的にもキノコ専業として上場第1号になった
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1989年9月に第2バイオセンターを南魚沼市浦佐に新設し、まいたけの生産を開始した
    • [45]1990年4月に大平もやし店の営業権を譲り受け、もやしの生産販売を開始した
    • [46]1992年8月に新本社及び本社パッケージセンターを新築移転した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
    • [48]1994年3月11日に株式を新潟証券取引所へ上場した。1994年3月、当社株式を新潟証券取引所の地域産業育成部へ上場
    • [50]1993年に生産能力を従来の日産22トンから同33トンへ1.5倍に増強した。全国シェアは70%前後に達している
    • [51]売上高は会社設立時の年商1億円から1993年3月期には約46億円となり、1994年3月期は売上高64億円、営業利益12億1,000万円、経常利益8億3,800万円、当期純利益4億1,200万円を見込む
    • [52]1kg当たり平均1,000円ぐらいの価格の維持を目安として生産を調整してきたと述べた

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

沿革年表 1983〜2025年

ユキグニファクトリーの沿革1983〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1983〜1994年1kg5,000円のまいたけを1,000円まで下げた量産化太もやしの過当競争を経たまいたけ量産への参入と雪国まいたけの設立

1983年7月、創業者の大平喜信氏が、産地直送の販売経路・独自の菌床栽培技術・1社への販売比率20%以下という3つの条件を先に満たしたうえで新潟県六日町に雪国まいたけを設立し、まいたけの量産に入った経営判断。

詳細を読む
★★★
大平喜信第1バイオセンターを新設、まいたけの生産を開始
大平喜信納豆工場を本社隣接地に新設、納豆の製造販売を開始
大平喜信大平もやし店の営業権を譲受、もやしの生産販売を開始★★
大平喜信株式額面変更のため新法人が旧法人を吸収合併
大平喜信新潟証券取引所の地域産業育成部に株式を上場
1995〜2004年生コンクリートまで広げた多角化と、9.1億円の中間赤字大平喜信まいたけ水煮の自社生産による販売を開始
大平喜信健康維持食品「MDフラクション」の製造販売を開始★★
大平喜信トータクの株式取得により加工食品の製造販売に参入
大平喜信新潟証券取引所と東京証券取引所の合併に伴い市場第二部に上場
大平喜信子会社を設立、海外事業に参入
大平喜信平成興業を設立、生コンクリートの製造販売を開始
大平喜信ホクトの主力であるぶなしめじ・エリンギへの参入と、第4・第5バイオセンターの新設

2002年、雪国まいたけが五泉バイオセンターでぶなしめじの生産を始め(3月)、南魚沼市津久野に第4バイオセンターを新設してエリンギの生産に入り(5月)、業界最大手ホクトの主力品目へ参入した経営判断。前年2001年にホクトが雪国まいたけの独壇場だったまいたけへ参入したことへの対抗で、大平喜信社長が主導した。

詳細を読む
★★★
大平喜信第4バイオセンターを新設、エリンギの生産を開始
2005〜2015年自己資本比率2%台への低下と、ベインキャピタルによる非公開化大平喜信上海雪国高榕生物技術を設立、えのき茸の生産を開始
大平喜信「雪国やさい革命」シリーズのカット野菜の製造販売を開始
大平喜信滋賀パッケージセンターを新設、もやしとカット野菜の出荷を開始
星名光男創業者の大平喜信氏が代表取締役を辞任★★★
鈴木克郎ベインキャピタルによる株式公開買付けへの賛同と、東証二部からの上場廃止

2015年2月23日、雪国まいたけの取締役会が米投資ファンドのベインキャピタルによる1株245円・最大約95億円の株式公開買付けに賛同し、同年6月に東京証券取引所第二部の上場を廃止した経営判断。

詳細を読む
★★★
鈴木克郎BCJ-22を存続会社とする合併により雪国まいたけに商号変更
2016〜2026年もやしと中国生産を手放しオランダへ出たユキグニファクトリー足利厳雪国バイオフーズの株式をサラダコスモに譲渡★★
足利厳中国のきのこ生産子会社の株式を譲渡★★
足利厳神明がベインキャピタルから株式49%を取得★★★
足利厳タカラバイオから瑞穂農林ときのこセンター金武を取得★★
足利厳三蔵農林の全株式を取得、マッシュルーム事業に参入
足利厳カット野菜と納豆の製造出荷を終了★★
足利厳雪国まいたけホールディングスを存続会社とする合併
足利厳東京証券取引所市場第一部に株式を上場★★
湯澤尚史東京証券取引所の市場再編に伴いプライム市場に移行
湯澤尚史きのこ生産会社Oakfield Champignonsの全株式を取得★★
湯澤尚史「キノコのお肉」シリーズの製造販売を開始
湯澤尚史ユキグニファクトリーに商号変更★★
出典・参考 4件
出典・参考
  • 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
  • 証券アナリストジャーナル 1994年4月号(大平喜信・講演)
  • 日経ビジネス 1994年5月23日号
  • 日経ビジネス 1995年7月24日号

免責事項およびポリシー