ユキグニファクトリーホクトの主力であるぶなしめじ・エリンギへの参入と、第4・第5バイオセンターの新設
量産して価格を下げ市場を広げる創業以来の方法は、相手も同じ手を打てる品目で通じたか
- 概要
- 2002年、雪国まいたけが五泉バイオセンターでぶなしめじの生産を始め(3月)、南魚沼市津久野に第4バイオセンターを新設してエリンギの生産に入り(5月)、業界最大手ホクトの主力品目へ参入した経営判断。前年2001年にホクトが雪国まいたけの独壇場だったまいたけへ参入したことへの対抗で、大平喜信社長が主導した。
- 背景
- 雪国まいたけは1994年に全国で人工栽培されたまいたけ推計1万4,000トンのうち1万トンを生産し、量産して価格を下げ市場を広げる方法で独占的な地位を築いていた。一方、1995年の時点で大平社長は、1品目に頼る経営の限界と、増産を急げば数年で市場が飽和することを語っていた。
- 内容
- 既存のまいたけ量産で培った栽培ノウハウをぶなしめじとエリンギの商品化に転用し、五泉バイオセンターと第4バイオセンターで生産を始めた。2004年6月には南魚沼市山崎新田に第5バイオセンターを新設し、大平社長がホクトの最大工場の5倍の規模と述べたぶなしめじ工場を稼働させた。
- 含意
- 相互参入は証券アナリストに度を超した供給過剰と指摘される値崩れを招き、2003年9月中間期にホクトは上場以来初の赤字、雪国まいたけは9.1億円の赤字となった。連結売上高は2002年3月期の217億円から2004年3月期の234億円へ伸びたが、経常利益率は1995年3月期の約20%から5%前後へ下がった。
同じ方法を、同じ体力の相手に向けたとき
まいたけの店頭価格は、1995年の時点で100グラム約150円と10年前の半分まで下がっていた。値を下げて食べる人を増やし、下がった価格で後続の参入を退ける。雪国まいたけは創業から20年近くこの回し方を使ってきた。2002年のぶなしめじとエリンギへの参入も、同じ方法をもう一度当てた判断だとみられる。違っていたのは相手で、ホクトも大規模施設で通年生産する会社であり、値下げにも増産にも同じ手で応じられた。価格は下がっても市場は広がらなかった。
ただ、参入を見送っていれば無事だったとも言えない。大平社長は1995年の段階で、まいたけの悪い噂ひとつで経営が傾きかねず、市場が3万トンへ伸びても急ピッチの増産で数年後には飽和すると語っていた。1品目に頼る危うさは、ホクトの参入より先に自覚されていた。誤算があったとすれば、品目を増やした先に、自分と同じ設備型量産の会社が待っていた点にある。2005年3月期の経常利益5億9,000万円は、その代価とみることができる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
まいたけの人工栽培で全国の7割を占めた1990年代半ば
1994年に全国で人工栽培されたまいたけは推計1万4,000トンで、そのうち1万トンを雪国まいたけが生産した。1995年3月期の売上高は85億2,400万円、経常利益は17億200万円だった。店頭価格は100グラム約150円と10年前の半額まで下がっており、大平喜信氏はさらに100円を目指していた。値を下げて食べる人を増やし、増えた需要をまた量産で受ける回し方が、この時点で10年続いていた[1]。
この売り方は、まいたけを始める前から構想されていた。菌を供給していた森産業の森喜美男氏によれば、量産の方法だけを尋ねてくる栽培業者が並ぶなかで、大平氏だけは、農協を通さずスーパーへ直接売って価格を下げれば他社が参入しづらくなり、高級品として高く売れば市場規模は一定以上に広がらないと語っていた。太いもやしで量産だけにこだわり参入業者に囲まれた失敗が、その裏にあった[2]。
まいたけ1品目に頼る経営の限界という自覚
1995年の時点で、大平社長はこの方法の終わりも見ていた。まいたけについて悪い噂が出ればそれだけで経営が傾きかねないと社内で語られ、1品目に頼る経営には限界があった。市場規模が予想どおり3万トンへ伸びたとしても、急ピッチで生産量を増やせば数年で飽和する。次の展開についてうかつなことは言いたくないと口は重かったが、次の手を探していること自体は身内に伝わっていた[3]。
探した先は、当初きのこの外側であった。1990年4月に大平もやし店の営業権を譲り受けてもやしへ入り、1996年5月にまいたけ水煮の自社生産、1997年4月にはまいたけエキスを凝縮した健康維持食品「MDフラクション」を始めた。1998年3月にトータクを株式取得して加工食品の製造販売へ進み、2001年9月には子会社平成興業を設立して生コンクリートの製造販売にまで手を伸ばした。きのこの品目そのものを増やす選択は、この間まだ取られていない[4]。
決断
ホクトのまいたけ参入と、ぶなしめじ・エリンギへの逆進出
均衡を崩したのは相手側であった。2001年、業界最大手のホクトが、雪国まいたけの独壇場だったまいたけへ参入する。雪国まいたけはこれに対抗し、2002年3月に五泉バイオセンターでぶなしめじの生産を始め、同年5月には南魚沼市津久野へ第4バイオセンターを新設してエリンギの生産に入った。ぶなしめじとエリンギは、いずれもホクトが押さえていた品目である[5][6]。
選んだ手は、創業以来のものと変わらなかった。バイオセンターを建てて量産し、価格を下げて食べる人を増やし、下がった価格で後続の参入を退ける。まいたけの人工栽培で確立した生産と品質管理のノウハウは、そのままぶなしめじとエリンギの商品化へ転用された。ただし新たに相対したホクトも、大規模施設で通年生産する会社であり、値下げにも増産にも同じ手で応じられた[7][8]。
規模で押し切るという構え
2003年7月7日の決算説明会で、ホクトの水野正幸社長は、利益が落ちても中長期的に勝ち残るために安く売ると述べ、財務や規模の面で優位にあるうちにライバルをたたくと公言した。値下げを一時の販促ではなく相手の体力を削る手段に据えた発言である。雪国まいたけが仕掛けた品目で、価格を下げ続ける意図が相手側から先に言葉になった[9]。
大平社長はこれに反発し、相手は2003年が勝負だと思っているようだが、ホクトの最大工場の5倍の規模を持つ雪国まいたけのぶなしめじ工場が完成する2004年から翌年にかけてが本当の戦いだと応じた。宣言は設備で裏づけられ、2004年6月、南魚沼市山崎新田に第5バイオセンターを新設してぶなしめじの生産を始めた。値下げ競争から降りるのではなく、規模を積み増す側で受けた[10][11]。
結果
度を超した供給過剰と、そろっての中間赤字
相互参入から2年で、市場は証券アナリストに度を超した供給過剰と指摘されるほど崩れた。かつて高級食材だったまいたけは、2003年には都内の食品スーパーから100円均一など客寄せの商品と呼ばれるまで値を落とす。2003年10月24日、ホクトと雪国まいたけは9月中間決算の修正見通しを同時に発表した。ホクトは上場以来初めての赤字に転落し、雪国まいたけは当初4億円と見込んでいた赤字額が9.1億円へ拡大した[12]。
通期でみれば、この年は赤字ではない。連結売上高は2002年3月期の217億円から2003年3月期に218億円、2004年3月期に234億円へ伸び、経常利益も9億円、12億円、11億円を確保した。伸びたのは品目を増やした分の売上であって、経常利益率は1995年3月期の約20%から5%前後まで下がっている。増収と減益が同時に進んだ3期であった[13]。
品目は3つになり、利益率は戻らなかった
2005年3月期には、増収も止まった。連結売上高は229億1,300万円と前期から減り、経常利益は5億9,000万円、親会社株主に帰属する当期純利益は2億8,000万円へ落ちた。純利益は2004年3月期の6億7,000万円から1年で半分以下に減った。第5バイオセンターを建ててぶなしめじの規模を積み増した翌期の数字が、これであった[14]。
それでも雪国まいたけはぶなしめじとエリンギから退かなかった。両品目はまいたけと並ぶ生産品目として残り、有価証券報告書の事業の内容にも並記されている。週刊東洋経済は2003年11月の時点で、この戦いが当分終わる気配はないとし、安売りを歓迎する消費者と、潮が引くように去りつつある投資家を並べて記した。品目を増やす判断は、買う側と持つ側に別々の答えを返した[15][16]。
- 週刊東洋経済 2003年11月8日号
- 日経ビジネス 1995年7月24日号
- 雪国まいたけ 有価証券報告書【沿革】
- ユキグニファクトリー 有価証券報告書【事業の内容】
- 雪国まいたけ 有価証券報告書(連結)