ホクト の歴史

更新:

創業 1964年
創業者 水野正幸
創業地 長野県長野市
創業
1964年7月、水野正幸氏が長野県長野市でデラップス商事を設立し、食品包装資材や容器を量販店と食品工場へ売り始めた。設立の前月にあたる同年6月の新潟地震できのこ栽培農家のガラスビンがほとんど割れ、包装材の成型技術を回して割れないポリプロピレン製の栽培ビンを他社に先駆けて開発する。1968年4月に本社工場を設けて量産に入り、コンテナやキャップまで扱いを広げて、きのこ資材の最大手になった。1969年11月に水野正幸氏が社長へ就任し、1972年2月に商号をホクト産業へ、2003年10月にホクトへ改めている。
決断・現況・競合について
決断
資材を売る相手だった農家の隣に、自ら工場を建てた。1971年から本社工場できのこの試験栽培を続けたのは、生産技術を農家へ渡して資材の売上を拡大するためだった。しかし農地の宅地化で野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減り、小規模な農家をあてにしていては売上が安定しない。1989年4月、水野正幸社長は資材の供給から自社での量産へ主軸を移し、長野の柳原と福岡の広川へ消費地向けのきのこセンターを置いた。1983年12月に設けたきのこ総合研究所で品種を自前で開発し、研究と生産と資材を一社に集めた構えが、日本たばこや新日鉄など十数社が参入して撤退した市場に残る条件を作った。
現況
セグメント利益の8割弱を、国内で育てるきのこが作っている。2026年3月期の連結売上高は859億円、営業利益70億円、純利益70億円である。内訳は国内きのこが売上560億円・利益72億円、化成品が136億円・4億円、海外きのこが82億円・11億円、加工品が80億円・5億円で、売上の4分の1を占める化成品と加工品は利益では1割ほどにしかならない。2013年8月に21億円で取得したレトルト食品のアーデンは加工品事業になったが、その利益は現在も国内きのこの14分の1にとどまる。
競合
値を決めるのは同業ではなく、その日の野菜相場である。ブナシメジとエリンギに寄った収益の構成を分散させるため、ホクトは2001年にまいたけへ参入して赤字を織り込んだ値下げを続け。同じ品目へは雪国まいたけのブナシメジとエリンギへの参入も入り、相互参入は値下げ合戦になった。もっとも2023年3月期の営業損失29億円を作ったのは競争ではない。天候に恵まれて果菜類の生育が順調となり野菜相場が安値へ振れたためで、電力費と包装費の上昇を売値へ移せなかった。相手の増産ではなく果菜類の豊作が赤字を招いたため、水野雅義社長が打った手は値下げでも増産でもなく、計画比1,700トンの減産だった。
長期業績の推移 1999〜2026年
ホクト:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 新潟地震が変えた包装資材の販売会社、きのこ資材のトップメーカーへ (1964年〜)

創業ストーリー(1)

新潟地震が生んだ割れないポリプロピレン製栽培ビン

1964年7月、長野県長野市大字箱清水にデラップス商事株式会社が設立され、一般包装資材の販売を始めた[1]。扱ったのは食品包装資材、容器、包装機械で、これを量販店と食品工場へ売った[2]水野正幸氏は設立と同時に専務取締役に就いた[3]。1968年には水野正幸氏が米国から持ち込んだ食品トレーの企画と開発に成功し、これを売り出した[4]。フィルムやラップなどの包装資材とあわせ、長野県と新潟県の量販店と食品工場を売り先にした[5]。得意先が食品業界であるため、この商いは景気の波を受けにくかった[6]。デラップス商事は包装材を製造販売するかたわら、きのこ栽培に使うガラスビンも手がけた[7]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1964年7月に長野県長野市大字箱清水においてデラップス商事株式会社を設立し一般包装資材の販売を開始した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [2]発足当初は食品包装資材、容器、包装機械などを量販店・食品工場に販売していた
    • [4]1968年に水野正幸がアメリカから持ち込んだ食品トレーの企画・開発に成功し販売を開始した
    • [5]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
    • [6]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくい
  • ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
    • [3]水野正幸は1964年7月のデラップス商事株式会社設立時に専務取締役に就任した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [7]1964年の創業後、食品用包装材を製造販売しながらキノコ栽培用のガラスビンを手がけた

設立の前月にあたる1964年6月に新潟地震が起き、きのこ栽培農家のビンはほとんどが破損した[8]。これを契機に、デラップス商事は割れないポリプロピレン製のきのこ栽培ビンを他社に先駆けて開発した[9]。包装材で培った成型技術をビンの生産へ回した[10]。受注が急増したため、1968年4月に本社工場を設置してポリプロピレンビンの製造を始めた[11]。同年6月には本社を長野県長野市南堀へ移し[12]、10月に長野県松本市へ松本営業所を置いた[13]。1970年6月には新潟県新潟市に新潟営業所を設けた[14]。ビンの生産に続けて、各種の栽培用資材の販売へ扱いを広げた[15]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [8]1964年6月に発生した新潟地震により、きのこ栽培農家のビンがほとんど破損した
    • [9]新潟地震を契機に割れないポリプロピレン製のきのこ栽培ビンを他社に先駆けて開発した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [10]包装材の成型技術を生かしてプラスチックビンを生産した
    • [15]プラスチックビンの生産から各種栽培用資材の販売へと手を広げた
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [11]1968年4月にきのこ栽培用のP.P.(ポリプロピレン)ビンの製造を開始した。受注の急増に伴い本社工場を設立した
    • [12]1968年6月に長野県長野市大字南堀に本社を移転した
    • [13]1968年10月に長野県松本市に松本営業所を設置した
    • [14]1970年6月に新潟県新潟市に新潟営業所を設置した

1969年11月、設立時に専務取締役だった水野正幸氏が代表取締役社長に就任した[16]。きのこの栽培は、空調のある部屋で温度と湿度を管理しながらビンに培地を詰めて育てる方法をとり、長野県にはこれを手がける農家が多かった[17]。デラップス商事はビンと並行して、独自の発想からコンテナやキャップなど栽培きのこの生産性と品質を上げる生産資材を農家へ送り出し、きのこの生産効率が高まった[18]。地元の長野をはじめ新潟、九州、北海道と、人工栽培ビンによる生産農家が年ごとに増え、デラップス商事はきのこ資材のトップメーカーになった[19]

  • ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
    • [16]水野正幸は1969年11月に当社代表取締役社長に就任した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [17]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸あり、キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度を管理しながらビンに入れて育てる
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [18]コンテナやキャップなど独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出したことにより、栽培きのこの生産効率が高まった
    • [19]地元長野をはじめ新潟、九州、北海道と人工栽培ビンによる生産農家が年ごとに増加し、きのこ資材のトップメーカーとして発展した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1964年7月に長野県長野市大字箱清水においてデラップス商事株式会社を設立し一般包装資材の販売を開始した
    • [11]1968年4月にきのこ栽培用のP.P.(ポリプロピレン)ビンの製造を開始した。受注の急増に伴い本社工場を設立した
    • [12]1968年6月に長野県長野市大字南堀に本社を移転した
    • [13]1968年10月に長野県松本市に松本営業所を設置した
    • [14]1970年6月に新潟県新潟市に新潟営業所を設置した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [2]発足当初は食品包装資材、容器、包装機械などを量販店・食品工場に販売していた
    • [4]1968年に水野正幸がアメリカから持ち込んだ食品トレーの企画・開発に成功し販売を開始した
    • [5]食品トレーはフィルムやラップなどの包装資材とともに長野県と新潟県の量販店・食品工場を対象として販売した
    • [6]包装資材部門は得意先が食品業界なので景気の波を受けにくい
    • [8]1964年6月に発生した新潟地震により、きのこ栽培農家のビンがほとんど破損した
    • [9]新潟地震を契機に割れないポリプロピレン製のきのこ栽培ビンを他社に先駆けて開発した
    • [18]コンテナやキャップなど独自の発想から栽培きのこの生産性・品質を向上させるための生産資材を農家に送り出したことにより、栽培きのこの生産効率が高まった
    • [19]地元長野をはじめ新潟、九州、北海道と人工栽培ビンによる生産農家が年ごとに増加し、きのこ資材のトップメーカーとして発展した
  • ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
    • [3]水野正幸は1964年7月のデラップス商事株式会社設立時に専務取締役に就任した
    • [16]水野正幸は1969年11月に当社代表取締役社長に就任した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [7]1964年の創業後、食品用包装材を製造販売しながらキノコ栽培用のガラスビンを手がけた
    • [10]包装材の成型技術を生かしてプラスチックビンを生産した
    • [15]プラスチックビンの生産から各種栽培用資材の販売へと手を広げた
    • [17]長野県にはキノコを栽培する農家が約4800戸あり、キノコは空調設備がある部屋で温度・湿度を管理しながらビンに入れて育てる
創業ストーリー(2)

ホクト産業への商号変更と自社での試験栽培

1971年8月、試験的な栽培工場を開設した[20]。栽培は長野県の本社工場で試した[21]。翌1972年2月には北海道にナメコの栽培工場を新設した[22]。1972年2月、社名をホクト産業株式会社へ改めた[23]。1975年5月には長野県上田市に上田営業所を置いた[24]。1968年10月の松本、1970年6月の新潟に続く3か所目の営業所で、きのこ農家の多い地域に販売の拠点を並べた[25]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [20]1971年8月に試験的栽培工場を開設した
    • [22]1972年2月に北海道にナメコ栽培工場を新設した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [21]試験的なキノコの栽培は長野県の本社工場で開始した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1972年2月にホクト産業株式会社に商号変更した
    • [24]1975年5月に長野県上田市に上田営業所を設置した
    • [25]1968年10月に松本営業所、1970年6月に新潟営業所、1975年5月に上田営業所を設置した

1976年には『ホクトきのこの会』を設立した[26]。生産技術を農家へ渡して普及させ、栽培用資材の売り上げを伸ばす狙いの一環である[27]。ホクト産業は、きのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットのほか、果実用コンテナまでを農業資材として扱った[28]。きのこは種類ごとに栽培用の容器から違い、ブナシメジにはブナシメジに最も適したビンを、エノキタケとナメコにはそれぞれ別のビンを使う[29]。ビンの大きさと幅が変われば、収容する棚も変わる[30]。栽培者にとっては低コストと効率的な生産の実現も重い課題であり、ホクト産業は種類ごとに最適な資材を揃え、生産の指導にもあたった[31]

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [26]1976年に「ホクトきのこの会」を設立した
    • [27]「ホクトきのこの会」の設立も、生産技術を農家に提供し普及させて栽培用資材の売り上げ増に結びつけるという考えの一環だった
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [28]きのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットなどのほか果実用コンテナなどを取り扱う農業資材部門を持つ
    • [29]きのこは種類によって栽培用容器から異なり、ブナシメジ、エノキダケ、ナメコはそれぞれ違うビンを使用する
    • [30]ビンの大きさ、幅の広さが違えばそれを収容する棚も違ってくる
    • [31]栽培に必要な最適の資材を供給し、単に自社製品を販売するだけでなく、低コストと効率的生産の実現の面で指導的な役割を担っている
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [20]1971年8月に試験的栽培工場を開設した
    • [22]1972年2月に北海道にナメコ栽培工場を新設した
    • [28]きのこ生産用機器、栽培用ビン、コンテナ、収納棚、ユニットなどのほか果実用コンテナなどを取り扱う農業資材部門を持つ
    • [29]きのこは種類によって栽培用容器から異なり、ブナシメジ、エノキダケ、ナメコはそれぞれ違うビンを使用する
    • [30]ビンの大きさ、幅の広さが違えばそれを収容する棚も違ってくる
    • [31]栽培に必要な最適の資材を供給し、単に自社製品を販売するだけでなく、低コストと効率的生産の実現の面で指導的な役割を担っている
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [21]試験的なキノコの栽培は長野県の本社工場で開始した
    • [26]1976年に「ホクトきのこの会」を設立した
    • [27]「ホクトきのこの会」の設立も、生産技術を農家に提供し普及させて栽培用資材の売り上げ増に結びつけるという考えの一環だった
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1972年2月にホクト産業株式会社に商号変更した
    • [24]1975年5月に長野県上田市に上田営業所を設置した
    • [25]1968年10月に松本営業所、1970年6月に新潟営業所、1975年5月に上田営業所を設置した
創業ストーリー(3)

きのこ総合研究所と純白エノキタケのホクトM-50

1983年12月、長野県長野市にきのこ総合研究所を設置した[32]。民間のきのこ企業が研究所を構えたのは、これが最初である[33]。バイオテクノロジーの技術を使い、新品種の開発、品種の改良、生産技術の確立にあたった[34]。研究所の設置も、『ホクトきのこの会』と同じく、開発した生産技術を農家へ普及させて資材の売り上げにつなげる考えの延長にあった[35]。菌糸の段階で優秀かどうかを判断するスクリーニング技術も、この研究所で確立した[36]。野生のきのこを採ってきて栽培し、優れたものかどうかを見分けるには通常3年から4年かかるところを、半年ほどに縮めた[37]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1983年12月に長野県長野市にきのこ総合研究所を設置した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [33]1983年12月に設置したきのこ総合研究所は、民間きのこ企業では最初のものだった
    • [34]きのこ総合研究所でバイオテクノロジーの技術を活用し、新品種の開発、品種の改良、生産技術の確立に努めた
    • [36]菌糸の段階で優秀なものであるかどうかを判断できるスクリーニング技術を有している
    • [37]野生のきのこを取ってきて栽培し優れたものになるかどうかを見分けるのには通常3〜4年かかるが、独自技術により半年ぐらいで見分けられる
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [35]1983年に本社近くに「きのこ総合研究所」を設置したのも、生産技術を農家に提供し普及させて栽培用資材の売り上げ増に結びつけるという考えの一環だった

1986年4月、エノキタケの新品種ホクトM-50を開発した[38]。純白色の実用品種としては第1号にあたる[39]。従来のエノキタケは淡いクリーム色から黄色に着色し、光が当たるとさらに色が濃くなったが、この品種は明るい場所でも茎の根元から傘の頭まで白いまま育ち、暗い栽培室が要らなくなった[40]。1987年にはサラダ用の純白エノキタケ、ホクトM-70を開発した[41]。肉厚で日持ちのよいヒラタケ、ホクトY-3もこの時期に開発している[42]。バイオテクノロジーの技術がなければ、きのこの菌は老化して活力を失い、収量が落ちて形も崩れる[43]。ホクト産業は活力のある菌を自前で開発し、その維持管理まで自社で行った[44]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1986年4月にえのきたけ新品種ホクトM-50を開発した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [39]1986年4月に開発したホクトM-50は純白色の実用品種の第1号だった
    • [40]従来のエノキタケは淡いクリーム色から黄色に着色し光が当たるとさらに色が濃くなったが、ホクトM-50は明るい場所でも茎の根元から傘の頭まで真っ白なまま育ち、暗い栽培室が不要になった
    • [41]1987年に開発したホクトM-70はサラダ用の純白エノキタケである
    • [43]バイオテクノロジーの技術がなければきのこの菌は老化し、活力がなくなって収量がダウンし形も悪くなる
    • [44]自前で活力のある菌を開発し、維持管理もできることが強みである
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [42]肉厚で日持ちのよいヒラタケ「ホクトY-3」を開発した
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [32]1983年12月に長野県長野市にきのこ総合研究所を設置した
    • [38]1986年4月にえのきたけ新品種ホクトM-50を開発した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [33]1983年12月に設置したきのこ総合研究所は、民間きのこ企業では最初のものだった
    • [34]きのこ総合研究所でバイオテクノロジーの技術を活用し、新品種の開発、品種の改良、生産技術の確立に努めた
    • [36]菌糸の段階で優秀なものであるかどうかを判断できるスクリーニング技術を有している
    • [37]野生のきのこを取ってきて栽培し優れたものになるかどうかを見分けるのには通常3〜4年かかるが、独自技術により半年ぐらいで見分けられる
    • [39]1986年4月に開発したホクトM-50は純白色の実用品種の第1号だった
    • [40]従来のエノキタケは淡いクリーム色から黄色に着色し光が当たるとさらに色が濃くなったが、ホクトM-50は明るい場所でも茎の根元から傘の頭まで真っ白なまま育ち、暗い栽培室が不要になった
    • [41]1987年に開発したホクトM-70はサラダ用の純白エノキタケである
    • [43]バイオテクノロジーの技術がなければきのこの菌は老化し、活力がなくなって収量がダウンし形も悪くなる
    • [44]自前で活力のある菌を開発し、維持管理もできることが強みである
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [35]1983年に本社近くに「きのこ総合研究所」を設置したのも、生産技術を農家に提供し普及させて栽培用資材の売り上げ増に結びつけるという考えの一環だった
    • [42]肉厚で日持ちのよいヒラタケ「ホクトY-3」を開発した
創業ストーリー(4)

福岡・新潟・富山へ広げたきのこセンター網

ホクト産業が1971年から本社工場できのこの試験栽培を続けたのは、開発した生産技術を農家へ渡し、栽培用資材の売上増へ結びつけるためだった[45]。しかし農家の小規模な栽培をあてにしていては資材の売上を安定して伸ばせず、全国で農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減っていた[46]。農業の人手不足も一段と深刻さを増した[47]。きのこは温度と湿度を管理した栽培室でビンに詰めて育てるため、天候と無関係に大量生産できる[48]水野正幸社長は、農家の経営安定を助けられる将来性の高い事業になると判断し、きのこの量産に踏み切った[49]水野正幸社長は1990年に米国のきのこ工場を8度にわたって視察した[50]

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [45]ホクト産業は1972年に本社工場できのこ栽培を試験的に開始し、開発した生産技術を農家に提供・普及させれば栽培用資材の売上増に結びつくと考えていた
    • [46]農家の小規模な栽培をあてにしていては栽培用資材の売上を安定的に伸ばせず、全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減少していた
    • [47]農業の人手不足が一段と深刻化していた
    • [48]きのこは空調設備のある部屋で温度・湿度を管理しビンに入れて育てるため、天候と無関係に大量生産が可能である
    • [49]水野正幸社長は「農家の経営安定の手助けをすることができ、将来性の高い事業になる」と判断してきのこの量産に踏み切った
    • [50]水野正幸社長は1990年に米国を8度訪問し、各地のきのこ工場を視察した

1989年4月に長野県長野市へ柳原きのこセンターを設置してエノキタケの生産を始め、翌5月には福岡県八女郡広川町へ広川きのこセンターを置いた[51]。広川は事業化が順調に進んだため、1990年6月に第二工場を増設した[52]。同年4月には有限会社更埴キノコセンターからきのこ栽培部門を譲り受け、長野県千曲市に更埴きのこセンターを設けた[53]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1989年4月に長野県長野市へ柳原きのこセンター(エノキタケ)を設置し、1989年5月に福岡県八女郡広川町へ広川きのこセンターを設置した
    • [53]1990年4月に有限会社更埴キノコセンターよりきのこ栽培部門を譲り受け、長野県千曲市に更埴きのこセンターを設置した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [52]広川きのこセンターは順調に事業化できたため、1990年6月に第二工場を増設した

1991年4月に新潟県北蒲原郡紫雲寺町へ新潟きのこセンターを、6月に富山県婦負郡八尾町へ富山きのこセンターを設置し、いずれもブナシメジを主力に据えた[54]。新潟の工場は敷地約2万平方メートルの国内最大級で、全工場がフル稼働すれば年間7,000トンを生産できる[55]。1993年4月には福岡県八女市へ八女きのこセンターを設置した[56]。変則決算だった1990年9月期と1991年3月期を年度換算した売上高85億8,400万円のうち、きのこは2割弱の16億円を占めた[57]水野正幸社長は1992年3月期にこれを前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで伸ばす見通しを示した[58]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [54]1991年4月に新潟県北蒲原郡紫雲寺町へ新潟きのこセンターを、1991年6月に富山県婦負郡八尾町へ富山きのこセンターを設置した。いずれもブナシメジが中心である
    • [56]1993年4月に福岡県八女市へ八女きのこセンターを設置した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [55]新潟の工場は敷地が約2万平方メートルの国内最大級のキノコ工場で、全工場がフル稼働すれば年間7,000トンの生産能力を持つ
    • [57]変則決算の1990年9月期と1991年3月期を年度換算した売上高85億8,400万円のうち、2割弱の16億円をキノコで稼いだ
    • [58]水野正幸社長は1992年3月期のキノコ売上高を前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで増加する見通しと語った
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [45]ホクト産業は1972年に本社工場できのこ栽培を試験的に開始し、開発した生産技術を農家に提供・普及させれば栽培用資材の売上増に結びつくと考えていた
    • [46]農家の小規模な栽培をあてにしていては栽培用資材の売上を安定的に伸ばせず、全国的に農地の宅地化が進んで野菜の作付面積は60万ヘクタール割れ寸前まで減少していた
    • [47]農業の人手不足が一段と深刻化していた
    • [48]きのこは空調設備のある部屋で温度・湿度を管理しビンに入れて育てるため、天候と無関係に大量生産が可能である
    • [49]水野正幸社長は「農家の経営安定の手助けをすることができ、将来性の高い事業になる」と判断してきのこの量産に踏み切った
    • [50]水野正幸社長は1990年に米国を8度訪問し、各地のきのこ工場を視察した
    • [55]新潟の工場は敷地が約2万平方メートルの国内最大級のキノコ工場で、全工場がフル稼働すれば年間7,000トンの生産能力を持つ
    • [57]変則決算の1990年9月期と1991年3月期を年度換算した売上高85億8,400万円のうち、2割弱の16億円をキノコで稼いだ
    • [58]水野正幸社長は1992年3月期のキノコ売上高を前期比2.5倍の40億円、売上高全体の4割まで増加する見通しと語った
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [51]1989年4月に長野県長野市へ柳原きのこセンター(エノキタケ)を設置し、1989年5月に福岡県八女郡広川町へ広川きのこセンターを設置した
    • [53]1990年4月に有限会社更埴キノコセンターよりきのこ栽培部門を譲り受け、長野県千曲市に更埴きのこセンターを設置した
    • [54]1991年4月に新潟県北蒲原郡紫雲寺町へ新潟きのこセンターを、1991年6月に富山県婦負郡八尾町へ富山きのこセンターを設置した。いずれもブナシメジが中心である
    • [56]1993年4月に福岡県八女市へ八女きのこセンターを設置した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [52]広川きのこセンターは順調に事業化できたため、1990年6月に第二工場を増設した
創業ストーリー(5)

きのこ総合研究所の拡張とホクトM-50の訴訟

品種改良を進めるため、ホクト産業はきのこ総合研究所を年々広げ、用地代を除いた総投資額は6億5,000万円に達した[59]。1991年3月には、日本のきのこ栽培研究で五指に入るといわれた農学博士の山中勝次氏を奈良県林業試験場から招き、所長に据えた[60]。ホクト産業は菌糸の段階で優劣を判定するスクリーニング技術を持ち、新品種の開発の速さにつなげた[61]。研究開発も生産も種苗の販売も自前でまかない、活力のある菌を自社で開発して維持管理した[62]

  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [59]きのこ総合研究所を年々拡張しており、用地代を除いた総投資額は6億5,000万円にのぼる
    • [60]1991年3月に奈良県林業試験場から農学博士の山中勝次氏を招き、きのこ総合研究所長に就任させた
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [61]菌糸の段階で優劣を判定するスクリーニング技術により新品種の開発を速めた
    • [62]ホクト産業は各種きのこ類の研究開発も生産も種苗の販売もすべて自前で行い、活力のある菌を自社で開発して維持管理している

1986年4月に開発したエノキタケ『ホクトM-50』は、光が当たっても茎の根元から傘まで白いままの純白系品種で、暗い栽培室を不要にした[63]。開発にあたり、ホクト産業は長野県経済連の要請で種菌を県下の農家や農協へ無償で提供した[64]。その直後、ある農協が純白系のエノキタケが突然変異で発生したと発表して独自に育て始め、この品種は全国へ広がった[65]。話し合いは折り合わず、ホクト産業は1991年8月にその農協を相手取り、生産・販売差し止めの仮処分を長野地裁へ申請した[66]水野正幸社長は、この結果を残念とし、新品種育成者の権利を守るという種苗法の精神が生産者の間に浸透していないと述べ(日経ビジネス 1991年11月11日号)、この一件を機に新品種は必ず種苗登録することにした[67]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1986年4月にえのきたけ新品種ホクトM-50を開発した
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [64]ホクトM-50の開発にあたり、ホクト産業は長野県経済連の要請で種菌を県下の農家や農協に無償提供した
    • [65]直後にある農協が純白系のエノキタケが突然変異で発生したと発表して独自に育て始め、この品種は全国に広がった
    • [66]話し合いで折り合いがつかず、1991年8月にその農協を相手取り生産・販売差し止めの仮処分を長野地裁に申請した
    • [67]水野正幸社長は「こういう結果になって残念。新品種育成者の権利保護という種苗法の精神が、生産者の間に浸透していない」と述べ、この一件を機に新品種は必ず種苗登録するようにした

新品種の開発は続き、1990年10月にブナシメジ『ホクト5号菌』、1991年11月には栽培サイクルを縮めて苦味のない『ホクト6号菌』、1992年8月にヒラタケ『ホクトY-5』を開発した[68]。1993年6月のブナシメジ『ホクト8号菌』は傘の黒褐色が薄くて丸みがあり生産日数も短く、同年8月の『ホクト7号菌』は傘のそろいと弾力に優れた[69]。1995年8月にはマイタケ『ホクトMY-75号』と『ホクトMY-95号』を開発した[70]。ブナシメジで農林水産省に種苗登録された6品種のうち4つがホクト産業の菌であり、エノキタケでは年間およそ500億円分が栽培され、うち約8割をホクト産業の菌が占めた[71]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [68]1990年10月にぶなしめじ新品種ホクト5号菌、1992年8月にひらたけ新品種ホクトY-5を開発した
    • [70]1995年8月にまいたけ新品種ホクトMY-75号、MY-95号を開発した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [69]1993年6月に開発したブナシメジ「ホクト8号菌」は傘の色の黒褐色が薄く丸みがあり生産日数も短縮し、同年8月に開発した「ホクト7号菌」は傘のそろいがよく苦味がなく弾力性があった
    • [71]ブナシメジで農水省に種苗登録している6品種のうち4つがホクト産業の菌であり、ホクトM-50は年間500億円ほど栽培されそのうち約8割が同社の菌を使ったものだった
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
    • [59]きのこ総合研究所を年々拡張しており、用地代を除いた総投資額は6億5,000万円にのぼる
    • [60]1991年3月に奈良県林業試験場から農学博士の山中勝次氏を招き、きのこ総合研究所長に就任させた
    • [64]ホクトM-50の開発にあたり、ホクト産業は長野県経済連の要請で種菌を県下の農家や農協に無償提供した
    • [65]直後にある農協が純白系のエノキタケが突然変異で発生したと発表して独自に育て始め、この品種は全国に広がった
    • [66]話し合いで折り合いがつかず、1991年8月にその農協を相手取り生産・販売差し止めの仮処分を長野地裁に申請した
    • [67]水野正幸社長は「こういう結果になって残念。新品種育成者の権利保護という種苗法の精神が、生産者の間に浸透していない」と述べ、この一件を機に新品種は必ず種苗登録するようにした
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [61]菌糸の段階で優劣を判定するスクリーニング技術により新品種の開発を速めた
    • [62]ホクト産業は各種きのこ類の研究開発も生産も種苗の販売もすべて自前で行い、活力のある菌を自社で開発して維持管理している
    • [69]1993年6月に開発したブナシメジ「ホクト8号菌」は傘の色の黒褐色が薄く丸みがあり生産日数も短縮し、同年8月に開発した「ホクト7号菌」は傘のそろいがよく苦味がなく弾力性があった
    • [71]ブナシメジで農水省に種苗登録している6品種のうち4つがホクト産業の菌であり、ホクトM-50は年間500億円ほど栽培されそのうち約8割が同社の菌を使ったものだった
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [63]1986年4月にえのきたけ新品種ホクトM-50を開発した
    • [68]1990年10月にぶなしめじ新品種ホクト5号菌、1992年8月にひらたけ新品種ホクトY-5を開発した
    • [70]1995年8月にまいたけ新品種ホクトMY-75号、MY-95号を開発した
創業ストーリー(6)

株式公開とエリンギ年産2,200トンへの切り替え

1994年3月期にエノキタケ、ブナシメジ、ナメコなどを8,178トン生産し、全国一の生産量を記録した[72]。1994年5月には新潟きのこセンターの第二工場が完成し、生産能力は日産35トンに達した[73]。設備と人員を増やす資金を集め、知名度を上げるため、ホクト産業は1994年11月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、同月22日に店頭公開した[74]。きのこ市場にはかつて日本たばこや新日鉄など十数社が参入したが、いずれも撤退していた[75]。きのこは生き物で1年365日の管理を要するため、大手の参入は今後も難しいと水野正幸社長はみていた[76]

  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [72]1994年3月期にエノキタケ、ブナシメジ、ナメコ等を8,178トン生産し、全国一の生産量を記録した
    • [73]1994年5月に新潟きのこセンター第二工場の建設が完了し、生産能力は日産35トンに達した
    • [74]1994年11月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、11月22日に株式を店頭公開した
    • [75]かつて日本たばこや新日鉄などの大企業が十数社ほどきのこ市場に参入したが、いずれも撤退した
    • [76]水野正幸社長は、きのこは生き物で1年365日管理しなければならないため大手の参入は今後もなかなか難しいとみていた

消費地への工場設置は続き、1995年4月に北海道苫小牧市へ苫小牧きのこ研究開発センター、1996年5月に福岡県八女郡黒木町へ黒木きのこセンター、1997年5月に香川県大川郡大内町へ香川きのこセンターを設置した[77]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1995年4月に北海道苫小牧市へ苫小牧きのこ研究開発センター、1996年5月に福岡県八女郡黒木町へ黒木きのこセンター、1997年5月に香川県大川郡大内町へ香川きのこセンターを設置した

1999年2月にエリンギ新品種『ホクトPLE-2号』を開発し、4月には宮城県古川市へ宮城きのこセンターを設置した[78]。売上高は1995年3月期の113億5,700万円から1999年3月期には223億1,200万円へ増え、同期の経常利益は39億2,300万円、当期純利益は18億7,400万円に達した[79]。同年11月29日、ホクト産業は東京証券取引所市場第一部へ上場した[80]

  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [78]1999年2月にエリンギ新品種ホクトPLE-2号を開発し、1999年4月に宮城県古川市へ宮城きのこセンターを設置した
  • 証券 2000年52(1)(610)
    • [79]単体売上高は1995年3月期113億5,700万円、1999年3月期223億1,200万円、1999年3月期の経常利益39億2,300万円、当期純利益18億7,400万円
    • [80]1999年11月29日に東京証券取引所市場第一部へ上場した
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
    • [72]1994年3月期にエノキタケ、ブナシメジ、ナメコ等を8,178トン生産し、全国一の生産量を記録した
    • [73]1994年5月に新潟きのこセンター第二工場の建設が完了し、生産能力は日産35トンに達した
    • [74]1994年11月に日本証券業協会へ株式を店頭登録し、11月22日に株式を店頭公開した
    • [75]かつて日本たばこや新日鉄などの大企業が十数社ほどきのこ市場に参入したが、いずれも撤退した
    • [76]水野正幸社長は、きのこは生き物で1年365日管理しなければならないため大手の参入は今後もなかなか難しいとみていた
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
    • [77]1995年4月に北海道苫小牧市へ苫小牧きのこ研究開発センター、1996年5月に福岡県八女郡黒木町へ黒木きのこセンター、1997年5月に香川県大川郡大内町へ香川きのこセンターを設置した
    • [78]1999年2月にエリンギ新品種ホクトPLE-2号を開発し、1999年4月に宮城県古川市へ宮城きのこセンターを設置した
  • 証券 2000年52(1)(610)
    • [79]単体売上高は1995年3月期113億5,700万円、1999年3月期223億1,200万円、1999年3月期の経常利益39億2,300万円、当期純利益18億7,400万円
    • [80]1999年11月29日に東京証券取引所市場第一部へ上場した

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沿革年表 1964〜2024年

ホクトの沿革1964〜2024年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1964〜1988年新潟地震が変えた包装資材の販売会社、きのこ資材のトップメーカーへデラップス商事を設立
きのこ栽培用ポリプロピレンビンの製造を開始★★★
本社を移転
水野正幸ホクト産業に商号変更
水野正幸きのこ総合研究所を設置★★
水野正幸えのきたけ新品種ホクトM-50を開発★★
1989〜1999年農家への資材供給からブナシメジ生産量全国一へ水野正幸きのこ栽培資材の供給から自社量産への転換と、消費地への生産センター開設

1989年、きのこ栽培用の資材を農家へ売ってきたホクト産業が、長野市の柳原きのこセンターと福岡県広川町の広川きのこセンターを相次いで開き、水野正幸社長の判断で自らきのこを量産する側へ回った経営判断。

詳細を読む
★★★
水野正幸更埴キノコセンターからきのこ栽培部門を譲受★★
水野正幸ぶなしめじ新品種ホクト5号菌を開発★★★
水野正幸ひらたけ新品種ホクトY-5を開発★★
水野正幸日本証券業協会に株式を店頭登録
水野正幸まいたけ新品種ホクトMY-75号・MY-95号を開発★★
水野正幸エリンギ新品種ホクトPLE-2号を開発★★★
水野正幸東京証券取引所市場第一部に上場
2000〜2012年まいたけ参入が招いた初の赤字とカリフォルニアでの生産水野正幸まいたけ市場への参入と、赤字を織り込んだ値下げの継続

2001年、ホクト産業が雪国まいたけの独壇場であったまいたけの生産へ参入した経営判断。翌2002年に雪国まいたけが主力のブナシメジとエリンギへ逆に進出し、相互参入はきのこ戦争と呼ばれる値下げ競争に発展した。水野正幸社長は利益が落ちても安く売り続ける方針を公にした。

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★★★
水野正幸ブナピー新品種ホクト白1号菌を開発★★
水野正幸ホクトに商号変更
水野正幸化成品部門を分社化しホクト産業を設立★★
水野正幸ホクトメディカルを設立
水野雅義HOKTO KINOKO COMPANYを設立★★
水野雅義台灣北斗生技股份有限公司を設立★★
水野雅義HOKTO MALAYSIA SDN.BHD.を設立
2013〜2026年アーデン買収とサプリメント参入、創業以来初の通期赤字水野雅義アーデンを完全子会社化★★
水野雅義きのこセンターを設置
水野雅義サン・メディカとMushroom Wisdom,Inc.を完全子会社化★★
水野雅義プライム市場に移行
水野雅義PT HOKTO INDONESIA MATERIALSを設立
水野雅義柳原きのこセンターを閉鎖★★
出典・参考 5件
出典・参考
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
  • ホクト 有価証券報告書【役員の状況】
  • 日経ビジネス 1991年11月11日号
  • 証券アナリストジャーナル 1994年12月号(水野正幸・寄稿)
  • 証券 2000年52(1)(610)

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