ホクトまいたけ市場への参入と、赤字を織り込んだ値下げの継続

単品依存を解くために入った市場で、水野正幸社長はなぜ利益を削ってでも安く売り続けたか

時期 2001年
意思決定者(推定) 水野正幸 ホクト産業 社長
論点 単品依存の解消と価格競争
概要
2001年、ホクト産業が雪国まいたけの独壇場であったまいたけの生産へ参入した経営判断。翌2002年に雪国まいたけが主力のブナシメジとエリンギへ逆に進出し、相互参入はきのこ戦争と呼ばれる値下げ競争に発展した。水野正幸社長は利益が落ちても安く売り続ける方針を公にした。
背景
売上高の6割弱をブナシメジが占め、1997年度は年間生産量1.8万トン・国内生産シェア26%で首位に立っていた。1998年から採算の悪化したエノキタケをすべてエリンギへ切り替えたものの、収益が少数の品目に集中する構図は変わらないままであった。
内容
1995年8月に開発していたまいたけの新品種を使い、ブナシメジとエリンギで組み上げた工場量産の仕組みをまいたけへ持ち込んだ。2003年7月7日の決算説明会では、財務と規模の面で優位にあるうちに値下げで競争相手を追い込む方針を示した。
含意
2003年9月中間決算でホクトは上場以来初めての赤字に転落し、雪国まいたけの赤字額も9.1億円へ拡大した。2003年10月の商号変更と2004年4月の化成品部門の分社化により、経営資源はきのこへ寄せられた。
筆者の見解

規模で押し切る読みと、その代償

売上高の6割弱を一つの品目に預けていた会社が、第三の柱として選んだのは、他社が一手に握る市場であった。まいたけへの参入は単品依存を解く手であると同時に、相手の値決めを崩す手でもあった。2003年7月に水野正幸社長が示した、財務と規模の面で優位にあるうちに値下げで押すという方針は、大量生産ほど効率の良い装置産業では規模の大きい側が耐えられるという読みに立っていたとみられる。

ただ、その読みは先に上場以来初めての赤字を招いた。雪国まいたけは最大工場の5倍の規模を持つぶなしめじ工場を2004年に立ち上げる計画を掲げており、規模の優位は固定されたものではなかった。値下げで作られた価格は、まいたけを高級食材から100円均一の客寄せ商品へ移す一方、2004年3月期の減益として自社にも残った。2004年4月に化成品部門を切り離した判断は、きのこ以外で稼ぐ余地を手放してでもこの市場で押し切る構えを固めたものといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

売上の6割弱を占めたブナシメジ

ホクト産業の成長を支えていたのは、売上高の6割弱を占めるブナシメジであった。1997年度の年間生産量は1.8万トン、国内生産シェアは26%に達し、長野県を中心とする農協傘下のきのこ農家を引き離して首位に立っていた。1998年秋には宮城の新工場が動き、生産量は年間約2.3万トン、シェアは30%以上へ広がる見通しにあった。水野正幸社長は、コスト面で追随できる競争相手はいないと述べていた[1]

一方で、収益が一つの品目に寄っている状態は、そのまま経営の弱みでもあった。ブナシメジの需要は当面拡大するとみられたものの、単品依存に加えて、いずれ需要が鈍化することは避けられないと同誌は指摘していた。きのこ生産は装置産業に近く、需要が止まれば建てた工場が固定費として残る。第二の柱をどこに置くかが、シェアを固めた次の課題になっていた[2]

エノキタケからエリンギへの切り替え

第二の柱として選ばれたのはエリンギであった。欧州原産のこのきのこは量産体制を確立した企業がまだなく、価格が高いうえ生産効率も良かった。ホクト産業は1998年から、採算の悪化していたエノキタケの生産をすべてエリンギへ切り替え、年産2,200トンで首位を固めにかかった。1999年2月にはエリンギの新品種ホクトPLE-2号を開発し、2000年代の主力に据える構えを取った[3][4]

ブナシメジとエリンギという2本の柱は、いずれも同社が工場量産で先行した品目であり、相場が崩れれば同時に痛む関係にあった。第二の柱を立てても、収益が少数の品目に集中する構図そのものは変わらないままであった。まいたけについては、1995年8月に新品種ホクトMY-75号とMY-95号を開発しながら、量産には踏み込まずに数年を置いていた[5]

決断

他社の独壇場への参入と、相互参入

2001年、ホクト産業はまいたけの生産へ参入した。まいたけは雪国まいたけの独壇場で、同社がほぼ一手に市場を握っていた。ホクト産業には1995年に開発したまいたけの品種があり、ブナシメジとエリンギで組み上げた工場量産の仕組みをそのまま持ち込める見込みがあった。ブナシメジ・エリンギに続く第三の柱を、他社が押さえている市場に求めた[6]

参入は一方通行では終わらなかった。翌2002年、雪国まいたけがホクトの牙城であるブナシメジとエリンギへ進出し、両社が互いの主力を攻め合う関係になった。この相互参入を機に始まった競争はきのこ戦争と呼ばれ、証券アナリストから度を超した供給過剰と指摘されるほどの値崩れを招いた。かつて高級食材とされたまいたけは、食品スーパーで100円均一の客寄せ商品に回った[7]

利益を落としても安く売り続ける方針

2003年7月7日の決算説明会で、水野正幸社長は値下げを続ける方針を公にした。利益が落ちても中長期的に勝ち残るために安く売る、財務や規模の面で優位にあるうちに競争相手をたたく、という趣旨であった。値崩れを需給の一時的な乱れとして静観するのではなく、自ら価格を下げ切って体力の差を損益に出す道が選ばれた。ホクト産業は1994年11月に株式を店頭登録し、1999年11月に東京証券取引所市場第一部へ上場しており、増産を続ける資金の面では余裕を持っていた[8][9]

雪国まいたけの大平喜信社長は、この方針に反発した。相手は2003年が勝負だと思っているようだが、ホクトの最大工場の5倍の規模を持つ自社のぶなしめじ工場が完成する2004年から翌年にかけてが本当の戦いになる、というのが大平社長の見立てであった。両社とも増産と値下げを止める気配を見せず、投資家は2社の株式から距離を置きつつあった[10]

結果

上場以来初の赤字と、止まった伸び

2003年10月24日、ホクトと雪国まいたけは9月中間決算の修正見通しを同時に発表した。業界最大手のホクトは上場以来初めての赤字に転落した。東証一部への上場から4年目のことであった。雪国まいたけも当初4億円と見込んでいた赤字額が9.1億円へ拡大し、値下げ競争は両社の損益を同時に削った。勝ち残るための値下げは、まず自社の中間損益に跳ね返った[11][12]

通期の数字にも競争の跡が残った。単体売上高は2002年3月期の293億円から2003年3月期に359億円へ伸びたものの、2004年3月期は356億円と前期を下回った。経常利益は2003年3月期の68億円から2004年3月期には59億円へ減り、まいたけを加えて広げた品目構成は、この時点では利益の増加に結びつかなかった[13]

きのこへ寄せた資源と、次の代への交代

競争の最中に、ホクト産業は事業の柱をきのこへ絞った。2003年10月、商号をホクト株式会社へ変更し、2004年4月には化成品部門を分社化してホクト産業株式会社を設立した。創業以来の栽培ビンなどを扱う資材の事業を別会社へ移し、本体は生産と販売をきのこへ集める体制になった。連結の売上高は2005年3月期が375億円、2006年3月期が381億円、経常利益は60億円から51億円へ落ちた[14][15]

2006年7月、水野正幸社長は代表取締役会長兼CEOへ移り、長男の水野雅義氏が社長に就いた。水野雅義氏は1990年の入社後、九州支店長ときのこ生産本部長、きのこ販売本部長を経ており、生産と販売の現場を通ってきた人物であった。まいたけへの参入から5年で、値下げによる競争を主導した経営者が第一線を退いた。水野正幸氏は1969年11月の社長就任から37年にわたって経営の先頭に立っていた[16]

出典・参考
  • 週刊東洋経済 1998年4月4日号
  • 週刊東洋経済 2003年11月8日号
  • ホクト 有価証券報告書【沿革】
  • ホクト 有価証券報告書【主要な経営指標等の推移】
  • ホクト 有価証券報告書【役員の状況】

この決断を下した社長 水野正幸

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